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月水御書(方便寿量読誦事)第七章 修行の要諦を教える

        月水御書(方便寿量読誦事)

        第七章 修行の要諦を教える

本文(一二〇二㌻一五行~一二〇三㌻終)
 但(ただ)し日本国は神国なり。此(こ)の国の習として、仏菩薩の垂迹(すいじゃく)不思議に経論にあひに(相似)ぬ事も多く侍(はべ)るに、是(これ)をそむけば現に当罰あり。委細(いさい)に経論を勘(かんが)へ見るに、仏法の中に随方毘尼(ずいほうびに)と申す戒(かい)の法門は是に当れり。此の戒の心は、いた(甚)う事か(欠)けざる事をば、少少仏教にたがふとも其(そ)の国の風俗に違(たが)うべからざるよし、仏一つの戒を説き給へり。此の由を知ざる智者(ちしゃ)共、神は鬼神なれば敬(うやま)ふべからずなんど申す強義(あらぎ)を申して、多くの檀那(だんな)を損ずる事ありと見えて候なり。若(も)し然(しか)らば此の国の明神、多分は此の月水をいませ給へり。生(しょう)を此の国にうけん人人は大に忌(い)み給うべきか。
 但し女人の日(ひび)の所作(しょさ)は苦しかるべからずと覚え候か。元より法華経を信ぜざる様なる人人が、経をいかにしても云いうとめんと思うが、さすがにただちに経を捨てよとは云いえずして、身の不浄なんどにつけて、法華経を遠ざからしめんと思う程に、又不浄の時、此れを行ずれば経を愚(おろ)かにしまいらするなんどおどして罪を得させ候なり。此の事をば一切御心得候て、月水の御時は七日までも其の気(け)の有らん程は、御経をばよませ給はずして、暗(そら)に南無妙法蓮華経と唱(とな)えさせ給い候へ。礼拝(らいはい)をも経にむかはせ給はずして拝せさせ給うべし。又不慮(ふりょ)に臨終なんどの近づき候はんには、魚鳥なんどを服せさせ給うても候へ、よみぬべくば経をもよみ、及び南無妙法蓮華経とも唱えさせ給い候べし。又月水なんどは申すに及び候はず。
 又南無一乗妙典と唱えさせ給う事、是れ同じ事には侍れども、天親(てんじん)菩薩・天台大師等の唱えさせ給い候しが如く、只(ただ)南無妙法蓮華経と唱えさせ給うべきか。是れ子細(しさい)ありてかくの如くは申し候なり。穴賢(あなかしこ)穴賢。
  文永元年甲子(きのえね)四月十七日     日 蓮 花 押
    大学三郎殿御内御報

通解
 ただし日本国は神国である。この国の習慣として、仏・菩薩の垂迹としての神は不思議なもので、経論に合致しないことも多いけれども、これに背けば現に罰を受けるのである。委細に経論を考えてみると、仏法の中の随随方毘尼(ずいほうびに)という戒(かい)の法門がこれにあたる。この戒の心は、甚だしく欠陥のないことなら、少々仏教に違(たが)うことがあっても、その国の風俗に背かないのがよいと、仏は一つの戒を説かれたのである。このいわれを知らない智者達は、神は鬼神であるから敬うべきではないなどという強硬な意見を出して、多くの檀那の信仰心を損なうことがあるようである。もし隨方毘尼の戒に従えば、この国の神々は、多くはこの月水を忌(い)まれるゆえに、生をこの国に受けた人々は、心して忌むべきであろうか。
 ただし女人の毎日のつとめには、差し支えないと思われる。もとより法華経を信じないような人々が、法華経をなんとかして嫌わせようと思うが、さすがに、ただちに経を捨てよとはいえないので、身の不浄(ふじょう)などにかこつけて、法華経から遠ざからせようと思うゆえに、また不浄の時に、これを行ずれば経を粗末にすることになるなどと脅(おど)して、法華経を捨てるという罪を得させようとするものである。
 このことを一切心得られて、月水の時は七日ほどもその気配のある時は、経を読まれずに、暗(そら)でただ南無妙法蓮華経と唱えておいでなさい。礼拝も経に向かわずに拝むようになさるがよい。また思いがけずに臨終(りんじゅう)などが近づいたような時は、鳥や魚を食しておられる時でも読むことができるならば経もよみ、そして南無妙法蓮華経とも唱えられるがよい。また月水などは申すまでもない。
 また南無一乗妙典と唱えられること、これは同じことではあるが、天親(てんじん)菩薩・天台大師などが唱えられたように、ただ南無妙法蓮華経と唱えられるべきであろう。これは子細(しさい)があって、このように申すのである。穴賢(あなかしこ)穴賢。
  文永元年甲子(きのえね)四月十七日     日 蓮 花 押
    大学三郎殿御内御報

(註)次の文は、別の解釈もある。
「……経論にあ(相)ひに(似)ぬ事も多く侍(はべ)るに……」
(別釈)
 ……経論に合致していることも多くあり……

語訳
随方毘尼(ずいほうびに)
 本文に述べられているように、少々は仏教に背くことであっても、仏教の本義にたがわないかぎり、各地域の風俗・習慣や時代の風習に従ってもよいということ。随方は随方随時ともいい、時代や地域の風習に随うこと。毘尼は梵語でヴィナヤ(Vinaya)といい、戒律のこと。五分律巻二十二には「復(また)諸比丘に告げたまえり、『是れ我が所制なりと雖(いえど)も、而(しか)も余方に於て以て清浄と為さざらんには皆応(まさ)に用うべからず。我が所制に非(あら)ずとも雖も、而も余方に於て必ず応に行ずべからんには皆行ぜざるを得ず』」とある。

檀那(だんな)
 梵語ダーナ(Dāna)の音写。布施(ふせ)の意。転じて施主、または施者の意で、とくに在家の信者をいう。

天親(てんじん)菩薩
 世親(せしん)菩薩ともいう。生没年不明。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、婆藪槃豆(ばすばんず)と音訳する。四、五世紀ごろの西北インドの僧。天親の唱題については、法華論に「正覚海と淨法と無為の僧とを頂礼(ちょうらい)す」とあり、法華経の三宝に頂礼(帰命と同義)する義を述べている。すなわち、妙法が円極の法であることを示すとともに、妙法に南無する義が明らかであるゆえに、ここで天親菩薩も唱題したと仰せられたものか。あるいはまた、天親菩薩は南岳大師の伝写の誤りとの説もある。(天台大師作とされるが)南岳大師の作とも伝えられる法華三昧懺儀(せんぎ)の中に「南無妙法蓮華経」と数回述べている。

天台大師
 智者大師の別称。諱(いみな)は智顗(ちぎ)。天台が唱題したことについては、法華三昧懺儀(せんぎ)の中に「一心奉請南無妙法蓮華経」「一心奉請南無大乗妙法蓮華経」等とある。また、修禅寺相伝私注には、天台の毎日行法の日記の「読誦し奉る、一切経の惣要(そうよう)毎日一万反」の文を引用し、玄師の伝に「一切経の惣要とは妙法蓮華経の五字なり」という口伝を挙げている。

講義
 日本国は神国なり。此(こ)の国の習として、仏菩薩の垂迹(すいじゃく)不思議に経論にあ(相)ひに(似)ぬ事も多く侍(はべ)るに、是(これ)をそむけば現に当罰あり 

 日本には古来の神道があり、神々を尊崇する習慣がある。ここでは一応それを用いながら論をすすめておられる。また、神国であるというのは、日本は山紫水明、気候や収穫に恵まれた国であり、諸天善神に守護された福運ある国であるとの意味も含まれていよう。
 仏法においては、土着のものの考え方を排斥してみずからの思想を一方的に押しつけるということはしない。根本的な哲理を基礎に据えれば、あとはその国、時代の風習を包み込みながら流布していくのである。神に対する考え方もそうである。日本において例えば八幡宮に祭られる八幡大明神は応神天皇であるが、仏法が日本に定着するにつれ、この神が仏法における諸天善神と結びつけられる。そして八幡大菩薩と呼称されるのである。このゆえに、大聖人は諫暁八幡抄には大隅の正八幡宮の石の文「昔し霊鷲山(りょうじゅせん)に在つて妙法華経を説き今正宮の中に在て大菩薩と示現す」(五八八㌻)を引いて本地は釈迦仏、垂迹は八幡大菩薩と述べられているのである。仏法を弘めるにあたって、この古来の神を中心にした習俗等が経論に説くところと少し食い違っても、ひとまずこれらの風習に従うべきことを教えられているのである。
「是(これ)をそむけば現に当罰あり」とは、枝葉末節にこだわって伝統的風習に背くことが、自身のためにも仏法流布のためにもマイナスとなったのであろう。もちろん「当罰」があることを強調されているのではなく、日本という風土を考えなければならないことを教えられていると拝すべきである。
 なお「経論にあひにぬ」の文は「経論に合致している」と逆の意味に解釈することもできるが、いずれにしても伝統的風習を考慮すべきであるという大綱は変わらない。

 隨方毘尼について

 隨方毘尼とは、隨方が隨方隨時、すなわち時代や地域の風習に随うことであり、毘尼とは戒律のことであるから、仏法の本義にたがわなければ、その国・社会あるいは時代の状況を考え、それに応じた実践をすべきであるという考え方をさすのである。この戒のなかに、仏法がいかに時代・社会を重んじて仏法流布を考えたかが分かる。
 仏法においては、一切法の根源を知るのが本意であり、これに基づいて文明を支えていくことに意味があるのであって、枝葉のことに至るまで一切、仏法が支配しなければならないというような偏狭な考えはもっていない。中世キリスト教において、その思想からすれば天動説でなければならないとして、コペルニクスやガリレオ等の地動説に教会からの圧力が加えられたのは有名であるが、仏法においては、そうした偏狭な考え方はない。むしろ、それぞれの国土の考え方に応じた弘め方をし、風習等を取り入れた面があるのは、われわれのよく知るところである。
 一切の根源さえ把握していれば、あとの枝葉は、それぞれの時代・社会の状況に応じて自在に取捨選択できるのである。その意味では仏法はすこぶる寛容な思想であるということができよう。また、このように仏法が偏狭でなかったところに、三千年を経る今日においても、みずみずしさを失わないゆえんがあるのではなかろうか。
 この原理からするならば、われわれ仏法を持つ者は、仏法の根本義においては、いささかも妥協することなく、峻厳な態度をもって、法華折伏・破権門理の姿勢を貫いていかなければならないが、それ以外のことにおいては、つねに柔軟な姿勢で取り組んでいくことを忘れてはなるまい。
 仏法の本義からいえば、月水時であろうとなかろうと、一切違いはないのであり、仏道修行においてなんら差があるはずはない。このことを大聖人は最初にはっきりと述べておられる。しかし、それを押し通すと、日本の精神的風土に受け入れられがたい面があり、拒絶反応を起こすことも考えられる。したがってそうした状況を考慮されて、化儀の面においては妥協され、しかも根本的には、いついかなるところにおいても唱題を根本とすべきことを諄々と教えられているのであり、大聖人の配慮が察せられる箇所である

出典 日蓮大聖人御書講義 第二十五巻(編著者 御書講義録刊行会 発行所 聖教新聞社)

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