御義口伝 普賢経五箇の大事 第四 一切業障海皆従妄想生若欲懺悔者端坐思実相衆罪如霜露慧日能消除の事

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        御義口伝 普賢経五箇の大事 

第四 一切業障海皆従妄想生若欲懺悔者端坐思実相衆罪如霜露慧日能消除の事

本文(七八六㌻)
 第四一切業障海(いっさいごうしょうかい)皆従妄想生(かいじゅうもうそうしょう)若欲懺悔者(にゃくよくさんげしゃ)端坐思実相(たんざしじっそう)衆罪如霜露(しゅざいにょそうろ)慧日能消除(えにちのうしょうじょ)の事
 御義口伝に云く衆罪とは六根に於て業障(ごうしょう)降(ふ)り下る事は霜露(そうろ)の如し、然(しか)りと雖(いえど)も慧日を以て能(よ)く消除すと云えり、慧日とは末法当今・日蓮所弘(しょぐ)の南無妙法蓮華経なり、慧日とは仏に約し法に約するなり、釈尊をば慧日大聖尊(えにちだいしょうそん)と申すなり法華経を又如日天子能除諸闇(うにょにってんしのうじょしょあん)と説かれたり、末法の導師を如日月光明(にょにちがつこうみょう)等と説かれたり。

語訳
一切業障海(いっさいごうしょうかい)皆従妄想生(かいじゅうもうそうしょう)若欲懺悔者(にゃくよくさんげしゃ)端坐思実相(たんざしじっそう)衆罪如霜露(しゅざいにょそうろ)慧日能消除(えにちのうしょうじょ)
 普賢経に「一切の業障海(ごうしょうかい)は 皆(み)な妄想従(よ)り生ず 若(も)し懺悔(さんげ)せんと欲せば 端坐して実相を思え 衆罪は霜露(そうろ)の如く 慧日(えにち)は能(よ)く消除す」(『妙法蓮華経並開結』七二三㌻ 創価学会刊)とある。

六根に於て業障(ごうしょう)降(ふ)り下る事
 いまの経文の前に眼・耳・鼻・舌・身・意の各六根について、そのおのおのの所作により無量無数の業障の起こることが述べられ、ただ大乗経を誦(じゅ)することによって、それを消滅できると説かれている。この業障は、六根の所作といっても、究竟すれば一念の妄想であり、元品の無明である。ゆえに、実相すなわち御本尊を信ずることによって、元品の無明は即法性とあらわれ、無数の業障は、太陽の光に照らされた霜露のように、たちまちに消滅してしまうのである。

慧日
 仏の智慧があまねく一切衆生を照らし救っていくことを、太陽にたとえていったのである。

慧日大聖尊(えにちだいしょうそん)
 方便品第二に「慧日大聖尊は 久(ひさ)しくして乃(いま)し是(こ)の法を説きたまう」(法華経・一一三㌻)とある。

又如日天子能除諸闇(うにょにってんしのうじょしょあん)
 薬王品第二十三にあり、十喩の中の一つ日光喩の文。「又(ま)た日天子(にってんし)は能(よ)く諸(もろもろ)の闇を除くが如く、此(こ)の経も亦復(ま)た是(かく)の如く、能く一切不善の闇を破す」(法華経・五九四㌻)とある。

如日月光明(にょにちがつこうみょう)等と説かれたり
 神力品第二十一に「日月(にちがつ)の光明(こうみょう)の 能(よ)く諸(もろもろ)の幽冥(ゆみょう)を除くが如く 斯(こ)の人は世間に行(ぎょう)じて 能(よ)く衆生の闇を滅し 無量の菩薩をして 畢竟(ひっきょう)して一乗に住(じゅう)せしめん」(法華経・五七五㌻)とある。「斯の人」とは外用(げゆう)の辺では地涌の菩薩の上首、上行菩薩であるが、内証の辺は久遠元初自受用報身如来であり、末法御本仏日蓮大聖人をさしている。

通解
 普賢経に「一切の業障海(ごうしょうかい)は 皆(み)な妄想従(よ)り生ず 若(も)し懺悔(さんげ)せんと欲せば 端坐して実相を思え 衆罪は霜露(そうろ)の如く 慧日(えにち)は能(よ)く消除す」とある。この文について、御義口伝には、次のごとく仰せである。
 衆罪とは、われわれの眼・耳・鼻・舌・身・意の六根の所作によって生ずる業障は無数であり、あたかも霜や露が降るように、生命にふりかかってくる。しかしながら、太陽が昇って照り輝けば、たちまち霜や露は消えてしまうように、正しい仏法によって一切の業障は霜露のごとく消えていくのである。
 ここでいう慧日とは、末法今時において、日蓮大聖人が弘めるところの三大秘法の南無妙法蓮華経である。
 この慧日は、人と法とに約することができる。人、すなわち仏に約した場合は、釈尊のことを慧日大聖尊というのがそれである。法に約した場合には、法華経であり、法華経を薬王品第二十三で「又(ま)た日天子(にってんし)は能(よ)く諸(もろもろ)の闇を除くが如く」と、闇を除く太陽と説かれている。
 再往、末法においては、末法の導師を、神力品第二十一に「日月(にちがつ)の光明(こうみょう)の 能(よ)く諸(もろもろ)の幽冥(ゆみょう)を除くが如く 斯(こ)の人は世間に行(ぎょう)じて 能(よ)く衆生の闇を滅し 無量の菩薩をして 畢竟(ひっきょう)して一乗に住(じゅう)せしめん」と説かれている。

講義
 日蓮大聖人こそ末法御出現の仏様であり、大聖人所持の秘法である三大秘法の御本尊に祈るならば、一切の罪障はことごとく消滅するとの御文である。
 諌暁八幡抄にいわく、
「天竺国(てんじくこく)をば月氏国(がっしこく)と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国(ふそうこく)をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出(い)づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相(ずいそう)なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝(まさ)れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり」(五八八㌻)云云と。
 いま、大聖人は、総じて仏および法華経を慧日に譬えることを述べられているのであるが、別しては、インド応誕の釈尊および法華経二十八品は月であり、末法の大白法たる三大秘法の南無妙法蓮華経、そして日蓮大聖人こそ、真実の慧日であることを知らなければならない。
「慧日とは末法当今・日蓮所弘(しょぐ)の南無妙法蓮華経なり」は法であり「末法の導師を如日月光明(にょにちがつこうみょう)等と説かれたり」は人である。人法一箇を明示されているのである。
 この人と法について一言するならば、開いて論ずれば事の一念三千の御本尊は人即法であり、日蓮大聖人は法即人であられる。合して論ずれば、三大秘法の御本尊それ自体、人法一箇の御当体なのである。すなわち、御本尊の中央におしたための、南無妙法蓮華経とは法であり、その下の日蓮とは人である。ゆえに、御本尊は、生身(しょうしん)の日蓮大聖人御自身であられる。
 このように深く信心をとって、日夜御本尊を拝し、御給仕申し上げるのが、われわれの信仰の根本精神でなくてはならない「端坐して」とは威儀を正すことであり、御本尊即日蓮大聖人と観ずるならば、自然に心身共に引き締まり、襟を正し、端坐せざるを得ない。その信心の心が大切なのである。
 
 懺悔について

 現代人の多くは、懺悔(さんげ)とはキリスト教独自のものであり、聖職者に自らの罪を告発することであるかのように錯覚しているようである。だが、それは、キリスト教のペニテンス(penitence)を訳するのに、仏教の懺悔という言葉をあてはめたのにすぎない。真実の懺悔は、この「端坐して実相を思う」ことであり、仏教の本来の考え方なのである。
 キリスト教の懺悔とは、たんに自分の罪悪を人に話すことによって、心に鬱積(うっせき)しているものを吐き出し、気持ちを楽にしようというだけのことといえよう。聖職者だからといって、与えて論じても、神でもなければ仏でもない、凡人ではないか。そのような人に告白したからといって、罪が消えるわけではない。またもし、聖職者を通じて神に告白するのだというなら、神に直接告げればよいことである。もしキリスト教の神が全智全能の神であるならば、聖職者を仲介にしなければ、人々の声を聞くことができないという道理はありえまい。
 仏法の懺悔は「端坐して実相を思う」ことであり、その実相とは、大宇宙の本源の生命であり、御本仏の御生命であり、かつ、わが生命に厳然として存在する仏界の生命である。この信心の一念によって、あたかも、太陽の光に照らされて霜や露が消えゆくように、一切の罪業は、ことごとく消滅するのである。
 自ら自覚している一つ二つの罪だけではない。一切の罪が、自然に、消えるとの仰せである。なぜなら、われわれは、その生命活動をしている過程において、自分では気づかぬうちに、無数の罪業を犯しているにちがいない。たとえば、蚊やアリを殺したりすることも、厳密にいえば下殺(げさつ)という殺生の罪になるのである。
 だが、そうしたことを、一つ一つ気にして、そのたびに懺悔していたのでは、ノイローゼになってしまう。もし、一つ一つ告白し、許しを乞わなければ、その罪が消滅しないのだとすれば、人間は永久に救われないことになってしまうであろう。
 しかるに「衆罪は霜露(そうろ)の如く 慧日(えにち)は能(よ)く消除す」とは、御本尊に題目を唱えることによって、自然に一切の罪業を消滅し、根本的に生命を浄化していくことができると申されているのである。この一事を考えても、御本尊を受持し得たことは、実に、ありがたいことといわねばならない。
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