FC2ブログ
07 -<< 2018-08 -  12345678910111213141516171819202122232425262728293031  >>09 -
 

行敏訴状御会通・第五章 念仏無間への論難に答える

            行敏訴状御会通

        第五章 念仏無間への論難に答える

本文(一八〇㌻一五行~一八一㌻五行)
 又云く念仏は無間の業と云云法華経第一に云く我れ則ち慳貪(けんどん)に堕せん此の事為(さだめて)不可なり云云、第二に云く其の人命終(みょうじゅう)して阿鼻獄に入らん云云、大覚世尊但(ただ)観経念仏等の四十余年の経経を説て法華経を演説したまわずんば三悪道を脱(のが)れ難し云云、何(いか)に況(いわん)や末代の凡夫一生の間但自らも念仏の一行に留り他人をも進めずんば豈無間に堕せざらんや、例せば民と子との王と親とに随わざるが如し。
 何に況や道綽(どうしゃく)・善導・法然上人等・念仏等を修行する輩・法華経の名字を挙げて念仏に対当して勝劣難易等を論じ未有一人得者(みういちにんとくしゃ)・十即十生・百即百生・千中無一等と謂(い)うは無間の大火を招かざらんや。 

通解
 また、訴状には「(日蓮は)念仏は無間地獄の業である(と言っている)」とある。
 これについていえば、法華経第一の巻・方便品第二には「(もし真実の法を説かなかったならば)自分は慳貪(けんどん)の罪に堕ちるであろう。このことは定めて不可である」と説かれている。法華経第二の巻・譬喩品第三には「(もし人が信じないで誹謗するならば)その人は命を終えてから阿鼻地獄に堕ちるであろう」と説かれている。
 大覚世尊がただ観経、念仏等の四十余年の経々だけを説いて、法華経を説法しなければ、地獄・餓鬼・畜生の三悪道を脱れることは難しいということである。ましてや末代の凡夫が、一生の間ただ自らは念仏の一行を固く守って、他人には念仏を勧めなかったとしても(この人は既に仏意に反しているから)、無間地獄に堕ちることは必定であろう。例えば、民が王に従わず、子が親に従わないようなものである。
 ましてや道綽・善導・法然上人等は念仏等を修行する輩であるが、法華経を名指しで、念仏と相対して勝劣、難易等を論じ、道綽のように「(聖道門を修行しても)未だ一人も成仏を得た者はない」と説き、善導のように「(雑行・雑修を捨てて念仏を称えれば)十人が十人、百人が百人とも極楽浄土へ往生するが、(法華経などの経教を修行しても)極楽往生できる者は千人の中に一人もいない」と説いているのは、無間地獄の大火を招かないわけがない。

語訳
念仏
 ここでは念仏宗(浄土宗)のこと。阿弥陀仏の本願を信じ、その名号(みょうごう)を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期する宗派。中国では浄土教として廬山(ろざん)の慧遠(えおん)流・道綽善導流・慈愍(じみん)流の三派があり、南北朝時代の曇鸞(どんらん)、唐代の道綽(どうしゃく)、善導(ぜんどう)によって独立大成した。日本では平安時代末期に法然が浄土の三部経(阿弥陀経、無量寿経、観無量寿経)と浄土論(世親著。往生論ともいう)の三経一論に依り、善導の教判を受け、専修念仏義を立てて開宗した。

観経
 観無量寿経のこと。一巻。中国・劉宋(りゅうそう)代の畺良耶舎(きょうりょうやしゃ)訳。内容は、悪子・阿闍世のいる濁悪世を嘆き、極楽浄土を願う韋提希夫人(いだいけぶにん)に対し、釈尊は神通力によって諸の浄土を示し、そこに生ずるための三種の浄業を説き、特に阿弥陀仏とその浄土の荘厳の相を十六種に分けて説いた。

未有一人得者(みういちにんとくしゃ)
 道綽の安楽集巻上の文。「未だ一人も得る者有らず」と読み下す。まだ一人も成仏した者がいない、との意。本書では悪世末法において、真実に利益のある教えは、聖道門(しょうどうもん)・浄土門のうち、ただ浄土門のみであり、他の一切の教えでは、いまだ一人として得道した者はないと説く。

十即十生
 善導の往生礼讃偈に「十は即ち十ながら生じ、百は即ち百ながら生ず」とある。念仏以外の雑行・雑修を捨てて、念仏を称えれば、十人が十人、百人が百人とも極楽浄土に往生できると述べたもの。

千中無一
 善導の「往生礼讃偈」に五種の正行以外の法華経・その他の経教の修行によって極楽往生できる者は千人の中に一人もいないとある。

講義
 この論難は、先の行敏初度の難状では「念仏は無間地獄の業為(たり)と是三」(一七九㌻)にあたる。すなわち、大聖人が「念仏は無間地獄の業である」と言われていることへの彼らの論難である。
 これに対しては、仏ですら劣った法を説けば罪に堕すると自ら述べていること、法華経を誹謗すれば無間地獄に堕ちると明言していることを、経を引いて示され、法華経を誹謗している念仏修行の者が無間地獄に堕ちるのは理の当然であると説かれている。
 最初に挙げられているのは法華経方便品第二に「自ら無上道 大乗平等の法を証して 若(も)し小乗を以て 乃至一人(いちにん)をも化(け)せば 我れは則ち慳貪に堕せん 此(こ)の事(じ)は不可と為す」(『妙法蓮華経並開結』一三〇㌻ 創価学会刊)とある文である。
 ここでいう「小乗」とは「無上道、大乗平等の法」に対するものであるから、法華経以前の爾前の諸経の意であり、また「慳貪」とはものを惜しみ、むさぼる意である。つまり、成仏の法である勝れた法華経をもって衆生を教化することを惜しんで、劣る爾前の方便権教で、一人でも教化することがあれば、慳貪の罪に堕ちるということである。これは全く誤りであり、仏がこのような化導をすることは、絶対にありえない、との意である。
 次に法華経第二の巻・譬喩品第三の文を挙げられている。「経を読誦し書持すること 有らん者を見て 軽賤憎嫉(きょうせんぞうしつ)して 結恨(けっこん)を懐(いだ)かん 此の人の罪報を 汝今復(ま)た聴け 其の人は命終(みょうじゅう)して 阿鼻獄に入(い)らん」(同・一九九㌻)とある。「阿鼻獄」とは無間地獄である。
「大覚世尊但(ただ)観経念仏等の四十余年の経経を説て法華経を演説したまわずんば三悪道を脱(のが)れ難し」の御文は、最初の方便品の文を受けて述べられたものである。釈尊であっても、ただ観経や念仏等の「四十余年未顕真実」の経々だけを説いて、真実の法華経を説き明かさなかったならば、もの惜しみの慳貪の罪によって地獄、餓鬼、畜生等の三悪道をまぬかれがたいのである。
 法華文句巻四下には慳貪は餓鬼道に堕ちる因であると説いているが、それを含めて「三悪道」と言われているのであろう。またこの文は、仏は自らの悟った無上道、大乗平等の法を説かないでいることだけで、慳貪の罪に堕するのであるから、ましてや、大乗平等の法である法華経を誹謗すれば無間地獄に堕ちるのは当然のことである。
 ゆえに、この二つの罪を犯している念仏の徒は「末代の凡夫一生の間但自らも念仏の一行に留り他人をも進めずんば豈無間に堕せざらんや」と仰せのように、無間地獄に堕ちることは間違いないのである。
 しかも、浄土念仏の祖である中国の道綽、善導、また日本の法然等は、浄土往生のために称名念仏を専ら修行する輩である。彼らは法華経を名指しで、念仏と相対して勝劣、難易を論断しているのである。
 これについては既に第二章で示したが、ここで大聖人が「未有一人得者・十即十生・百即百生・千中無一」と言われていることについて述べておくと、最初の「未有一人得者」は道綽の安楽集巻上の文である。「釈尊滅後悪世の末法において、真実に利益のある教えは、聖道・浄土二門のうち、ただ浄土の一門のみがそれにかなうものであり、他の一切の教えでは、未だ一人として得道した者はいない(未有一人得者)」(取意)と。
 また次の「十即十生・百即百生・千中無一」は善導の往生礼讃偈の文である。「正行・雑行のうち雑行・雑修を捨てて、正行の称名念仏を修行すれば、十人が十人、百人が百人とも極楽浄土へ往生(十即十生・百即百生)するが、正行以外の雑行の他の経教を修行しても、成仏できる者は千人の中に一人もいない(千中無一)」(取意)と。
 これは、爾前権教である阿弥陀経等を依経とする念仏と比較相対して法華経を劣るとし、また実践が困難な難行道であって、末法の衆生には相応しないと断じているのである。法華経を説かないだけでも重罪であるのに、法華経を誹謗し、それを衆生に弘めたのであるから、法華経譬喩品第三の文のごとく、無間地獄に堕ち、「展転(てんでん)して 無数劫(むしゅこう)に至らん」(同・一九九㌻)ことは間違いないのである。

コメント



 編集・削除ができます。
 管理者にだけ表示を許可する
 
 

プロフィール

墨田ツリー

Author:墨田ツリー

 
 
 

最新トラックバック

 
 

カテゴリ

 

検索フォーム

 
 
 

ブロとも申請フォーム

 

QRコード

QR