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行敏訴状御会通・第二章 諸宗を非とする根拠を示す

           行敏訴状御会通

       第二章 諸宗を非とする根拠を示す

本文(一八〇㌻四行~一八〇㌻七行)
 彼の状に云く右八万四千の教乃至一を是として諸を非とする理豈(あ)に然(しか)る可(べ)けんや云云、道綽禅師云く当今末法は是れ五濁悪世なり唯浄土の一門のみ有つて路に通入す可し云云、善導和尚云く千中無一云云、法然上人云く捨閉閣抛(しゃへいかくほう)云云、念阿上人等の云く一を是とし諸を非とす謗法なり云云、本師三人の聖人の御義に相違す豈に逆路伽耶陀(ぎゃくろがやだ)の者に非ずや、将又(はたまた)忍性良観聖人彼等の立義(りゅうぎ)に与力して此を正義と存せらるるか。

通解
 かの訴状には「釈尊は八万四千の教法を説いているが、そのなかで一教を是として諸教を非とする道理はない」とある。
 これについていえば、浄土宗の道綽禅師は安楽集に「当今末法は五濁悪世であり、ただ浄土の一門のみが往生する道に入ることができる」と言っている。善導和尚は往生礼讃偈に「(念仏以外の経教を修する者は)千人の中で一人も往生成仏しない」と言っている。法然上人は選択集に「捨閉閣抛(法華経等の雑を捨て、定散の門を閉じ、聖道門を閣(さしお)き、諸雑行を抛(なげう)ち)」と言っている。
 ところが、念阿上人等が「一教を是として、他の諸教を非とするのは謗法だ」と言っているのは、浄土宗の本師三人の聖人の御義に相違しており、師敵対の者ではないか。また、忍性良観聖人も彼等の立てた義に助勢し、これを正義としているのか。

語訳
道綽(どうしゃく)
(五六二年~六四五年)。中国の隋・唐代の僧。中国浄土教の祖師の一人。并州汶水(へいしゅうぶんすい)(山西省太原)の人。姓は衛氏。十四歳で出家し涅槃経を学ぶが、玄中寺で曇鸞(どんらん)の碑文を見て感じ浄土教に帰依した。曇鸞の教説を承けて、釈尊の一大聖教を聖道門・浄土門に分け、法華経を含む聖道門を「未有一人得者」の教えであるとして排斥し、浄土門以外の諸教を捨てて浄土門に帰すべきことを説いている。弟子に善導などがいる。著書に「安楽集」二巻等がある。

善導(ぜんどう)
(六一三年~六八一年)。中国・初唐の僧。中国浄土教善導流の大成者。姓は朱氏。泗州(ししゅう)(安徽省)(一説に山東省・臨淄(りんし))の人。若くして密州の明勝(めいしょう)法師について出家。初め三論宗を学び、法華経・維摩経を誦したが,経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土往生を志した。貞観年中に石壁山の玄中寺(山西省)に赴いて道綽について浄土教を学び、師の没後、長安の光明寺等で称名念仏の弘通に努めた。正雑二行を立て、雑行の者は「千中無一」と下し、正行の者は「十即十生」と唱えた。著書に「観経疏」(観無量寿経疏)四巻、「往生礼讃偈」一巻などがある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。

逆路伽耶陀(ぎゃくろがやだ)
 梵語ヴァーマローカーヤタ(Vāmalokayāta)の音写・縛摩路伽耶陀(ばまろかやだ)の訳。「路伽耶陀」とはインド思想において、霊魂や輪廻などを認めず、宗教行為の意義を否定し、唯物論・快楽至上主義の説を奉ずる学派のこと。漢訳仏典では、世情の趣くままに教を立てる外道の意で〝順世派〟と呼んだ。「逆」は「普通と違う、ひどい」の意の梵語を訳したもので、「逆路伽耶陀」はローカーヤタの中でも極端な立場を取る者たちをいう。法華経安楽行品第十四に「菩薩摩訶薩は、……路伽耶陀(ろかやだ)・逆路伽耶陀(ぎゃくろかやだ)の者に親近(しんごん)せざれ」(『妙法蓮華経並開結』四二三㌻ 創価学会刊)とある。「逆路伽耶陀」は後代、師の心に添わず、反逆の罪を犯す者のたとえとされ、本抄でも〝師敵対〟の意で用いられている。

講義
 この御文からは、良観らが訴状のなかで大聖人を非難している各条項に対して、大聖人が逐次答え、反詰されていくのである。
 最初に取り上げられた彼らの論難は「仏の教えは、八万四千という膨大なものであるのに、そのなかで一教だけを是とし、諸教をすべて非であるとするのは、間違っている」というものである。
 要するに、仏は衆生の機根にしたがって法を説き、利益したのであるから、仏の説いた教えならば、一教として悪いものはなく、したがって、念仏も、真言も、禅も、律も、一つとして非なるものはない、それであるのに一つだけ正しく、他は間違っているとする日蓮の主張は、仏の心に背くものではないか、と非難しているのである。
 これに対して、大聖人は、彼らが師とたのむ浄土宗の祖自身が、一を是とし諸を非としているではないかと、動かしがたい事実を挙げて痛烈に反詰される。
 まず、中国・浄土教の祖師の一人である道綽の言葉を引かれる。道綽は安楽集に「いま末法は、五濁の悪世であり、この時には、ただ弥陀念仏の浄土門のみが仏の路に通入する門である(往生成仏ができる)」と述べている。
 道綽は、一切経を聖道・浄土の二門に分け、聖道門の経教を「未だ一人として成仏得道する者無し(未有一人得者)」と誹謗しているのである。
 また、道綽の弟子である善導も、その著・往生礼讃偈のなかで仏法の修行を正行と雑行の二行に分け、称名念仏以外の雑行は「千中無一」すなわち千人の中で一人も往生成仏しないと述べているのである。更に、日本・浄土宗の開祖・法然はこれら中国・浄土教の祖師を更に広げて、法華経を含む一切経を誹謗した。その著・選択集に、浄土以外の、法華経を含む一切の教えに対して「捨てよ、閉じよ、閣(さしお)け、抛(なげう)て(捨閉閣抛)」(取意)と誹謗しているのである。
 中国・日本における浄土教の祖師たちの主張は、いずれも、「一(浄土教)を是」とし、「諸(浄土教以外の諸教)を非」としている。
 そして今、訴人である念阿弥陀仏(良忠)・道阿弥陀仏らに対して、鋭く矛盾点を突いていかれる。念阿良忠ら念仏の徒にとって、道綽・善導・法然は根本の師として仰ぐべき始祖たちである。
 もし「一を是とし諸を非とするのは謗法」であるというのならば、彼らの本師である道綽・善導・法然等三人もその教義も「謗法」であるということになる。したがって、良忠らは自らの師の説を否定する「逆路伽耶陀(ぎゃくろがやだ)の者」、すなわち師敵対、反逆の者になるではないか、との指摘である。
 大聖人はまた、念阿らとは宗旨を異にする「律宗」の極楽寺良観に対しては、良観も念阿らの立義に同調して、これを正法正義とするのか、と詰問されている。

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