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行敏訴状御会通・第一章 訴人を明記し訴状の目的を示す

           行敏訴状御会通

      第一章 訴人を明記し訴状の目的を示す

本文(御書全集一八〇㌻初~一八〇㌻三行)
 当世日本第一の持戒の僧・良観聖人並びに法然上人の孫弟子念阿弥陀仏・道阿弥陀仏等の諸聖人等日蓮を訴訟する状に云く早く日蓮を召し決せられて邪見を摧破(さいは)し正義を興隆せんと欲する事云云、日蓮云く邪見を摧破し正義を興隆せば一眼の亀の浮木(うきぎ)の穴に入るならん、幸甚(こうじん)幸甚。

通解
 当世日本第一の持戒の僧・良観聖人、並びに法然上人の孫弟子である念阿弥陀仏、道阿弥陀仏等の諸聖人等が、日蓮を訴訟した状に「早く日蓮を召し決せられて、邪見を摧(くじ)き、仏教の正義を興隆したい」とある。
 日蓮はいう。「邪見を摧いて、正義を興隆するならば、一眼の亀が浮木の穴に入るようなものであり、幸甚である」と。

語訳
良観
(一二一七年~一三〇三年)。鎌倉時代の真言律宗の僧。良観は字(あざな)、諱(いみな)を忍性(にんしょう)という。建保五年(一二一七年)、大和国(奈良県)に生まれた。十歳で信貴山(しぎさん)にのぼり、修行。二十四歳で奈良西大寺の叡尊(えいそん)の弟子となり、具足戒を受けた。後に関東に下り、鎌倉で律宗を弘めた。北条時頼は光泉寺を創建して良観を開山とし、長時は極楽寺に良観を招いて開山とした。以来、鎌倉の人々の信頼を得、大きな力をもち、更に粗衣粗食と慈善事業によって聖人の名をほしいままにした。文永八年(一二七一年)に、大聖人と祈雨を競って敗れた後、大聖人を讒言(ざんげん)して死罪にしようと画策し、竜の口の法難、佐渡流罪を引き起こすなど、終始大聖人に敵対し、大聖人門下にも種々の迫害を加えた。

法然
(一一三三年~一二一二年)。平安時代末期の僧。日本浄土宗の開祖。諱(いみな)は源空。美作(みまさか)(岡山県北部)の人。幼名は勢至丸。九歳で菩提寺の観覚の弟子となり、十五歳で比叡山に登り功徳院の皇円に師事した。十八歳で黒谷の叡空に学び、二十四歳の時に京都、奈良に出て諸宗を学んだ。再び黒谷に帰って経蔵に入り、大蔵経を閲覧した。承安五年(一一七五年)四十三歳の時、善導の「観経散善義」及び源信の「往生要集」を見るに及んで専修念仏に帰し、浄土宗を開創した。その後、各地に居を改めつつ教勢を拡大。建永二年(一二〇七年)に門下の僧が官女を出家させた一件が後鳥羽上皇の怒りにふれ、念仏を禁じられて土佐(実際は讃岐)に流された。同年十二月に赦があり、しばらく摂津国(大阪府)の勝尾寺に住した後、建暦元年(一二一一年)に京都に帰り、大谷の禅房(知恩院)に住して翌年、八十歳で没した。著書に「選択集(せんちゃくしゅう)」二巻をはじめ、「浄土三部経釈」三巻、「往生要集釈」一巻等がある。

念阿弥陀仏
(一一九九年~一二八七年)。鎌倉時代の浄土宗の僧・良忠(りょうちゅう)のこと。阿弥号は然阿弥陀仏(ねんあみだぶつ)。然阿と略称する。法然の孫弟子にあたり、日蓮大聖人の時代には鎌倉の念仏者の中心となっていた。文永八年(一二七一年)六月、極楽寺良観が祈雨に失敗した後に、大聖人は行敏(ぎょうびん)から提訴されたが、この訴えに対して大聖人が出された反駁書「行敏訴状御会通」(一八〇㌻)では、良観や道阿弥陀仏とともに然阿弥陀仏がこの訴状に関わっていることが明らかにされている。また「開目抄」(二二九㌻)でも、良観とともに偽書を作成して幕府へ提出する謀略ぶりを暴露されるとともに、三類の強敵の第三・僭聖増上慢の一人として挙げられている。
〈追記〉
 日本浄土宗は開祖・法然の死後、①聖光房弁長の鎮西流、②善慧房証空の西山流、③皆空房隆寛の長楽寺流、④覚明房長西の九品寺流、⑤成覚房幸西の一念義〔幸西派〕に分派した(浄土の五流という)。一念義を唱えた幸西を外すと浄土四流という。③長楽寺流、④九品寺流、⑤幸西派の三派は後に消滅し、①鎮西流が主流となって、②西山流とともに現在に至る。然阿弥陀仏(良忠)は鎮西流の祖・聖光房弁長の門流を継いだ。鎮西流の総本山は知恩院(京都市東山区)で、大本山の一つに芝の増上寺(東京都港区)がある。

道阿弥陀仏
 生没年不詳。鎌倉中期の浄土宗の僧・道教房念空(ねんくう)のこと。道阿弥陀仏、道阿・道教とも略称される。鎌倉の新善光寺の別当。鎌倉の念仏者の中心人物。諸行本願義(称名念仏以外の諸行も阿弥陀仏の本願にかなうという法義)を主張した覚明房長西(ちょうさい)(九品寺流の祖)の弟子で、法然の孫弟子にあたる。日蓮大聖人は直接対面して法論をされたことがあり、その時、一言二言で退けられている。以来、大聖人への迫害を画策し、文永八年(一二七一年)の竜の口の法難の直前には、極楽寺良観や然阿良忠らとともに、行敏(ぎょうびん)を使って大聖人を不当に告訴している。四信五品抄(三四二㌻)によれば、盲目になった。

一眼の亀
 優曇華(うどんげ)の譬えと同じく、衆生が正法に巡(めぐ)り会い、さらにそれを受持することのいかに難しいかを譬えたものである。松野殿後家尼御前御返事(盲亀浮木抄・一三九一㌻)に詳しい。大要を述べると次のとおりである。大海のなか、八万由旬の底に一眼の亀がいた。この亀は手足も無く、ひれも無い。腹の熱さは鉄が焼けるようであり、背中の甲羅の寒さはまるで雪山のようであった。ところで赤栴檀という木があり、この栴檀の木は亀の熱い腹を冷やす力がある。この亀が昼夜朝暮(ちょうぼ)に願っていることは「なんとか栴檀の木にのぼって腹を木の穴に入れて冷やし、甲羅を天の日にあてて暖めたいものだ」ということであった。ところが、この亀は千年に一度しか水面に出られない。大海は広く亀は小さい。浮木はまれである。たとえほかの浮木に会えても栴檀に会うことは難しい。また栴檀に会えても亀の腹にちょうど合うような、穴のあいた赤栴檀には会い難い。穴が大きすぎて、亀がその穴に入り込んでしまえば、甲羅を暖めることができない。またそこから抜け出ることができなくなる。また穴が小さくて腹を穴に入れることができなければ、波に洗い落とされて大海に沈んでしまう。たとえ適当な栴檀の浮木にたまたま行き会えても、一眼のために浮木が西に流れていけば、東と見え、東に流れていけば西とみえる。南北も同じで、南を北と見、北を南と見てしまう。無量無辺劫かかっても、一眼の亀が浮木に会うことは難しいのである。このように、浮木の穴を妙法に譬えられて、衆生が妙法に会い難きことを述べられている。

講義
 本抄は、先の「行敏初度の難状」と「聖人御返事」の往復文書で、日蓮大聖人から私的な問答対決ではなく、公の場においてせよと促され、行敏が幕府に提出した「訴状」に対して、大聖人が回答された「陳状」もしくはその草案である。
 ここでは、最初の難状に挙げていた条項、更に訴状の時に加えられたと考えられる条項も取り上げられ、それらに会通(経論に照合して、事の筋道を立て明らかにする)を加え、その誤りを抉(えぐ)り出し破折するという回答になっている。
 大聖人は、先の行敏からの七月八日付の「初度の難状」に対して、七月十三日付で、私的な問答は無意味であるとして斥(しりぞ)け、幕府へ上奏し、公にしたうえで法難の是非・善悪を糾明しようと、返書を送られた。
 したがって、本抄には御執筆の年月日が明記されていないが、文永八年(一二七一年)七月十三日以後、行敏が訴状を幕府へ上申し、幕府から大聖人に訴状が回され、陳状を提出するよう下命があってから著されたということになる。おそらく、七月中に書かれたものと考えられる。
 当時、訴状の慣例によれば、陳状というのは、原告、すなわち訴えた人の訴状を、幕府は被告人、すなわち訴えられた人に回して提出させた、いわば答弁書である。
 高祖年譜、年譜攷異(ねんぷこうい)によれば、行敏が幕府へ上申したのが七月二十二日で、大聖人が回答を執筆されたのは、それから何日か過ぎた後のことであるとしている。
 なお、本抄の御真筆は、もと身延に所蔵されていたということであるが、今は焼失したか、存在しない。したがって、本抄の末尾が「所謂守護経に云く・涅槃経に云く」と中途半端な形で終わっていることについても、詳細は分からない。あるいは現存する本抄が正式な陳状の草案であって、そのため略した形になっているのかもしれない。
 さて本文に入り、冒頭に「当世日本第一の持戒の僧・良観聖人並びに法然上人の孫弟子念阿弥陀仏・道阿弥陀仏等の諸聖人等日蓮を訴訟する状に云く」と、大聖人を訴えた人々の名を明記されている。不思議なことに、本抄は内容的には先の行敏御返事を受けたものでありながら、「行敏」の名が一か所も出てこない。しかも、その内容は「行敏」を全く無視して相手にしておられないかのようである。行敏が訴状の署名人となってはいたが、実質的には良観等の三人が訴人であったからであろう。それは、幕府が訴状を大聖人に渡して、陳状の提出を求める時に明らかにしたからなのか、あるいは幕府とは別に、知らせた人がいたのかは分からない。いろいろと考えられるが、いずれにせよ、「祈雨」のことで大聖人から散々に打ちのめされていた極楽寺良観等は、公の場に出ることについては極端に臆病になっていたであろう。行敏を使って私(わたくし)の法論をもくろみ、大聖人から公場で明らかにすべきであると一蹴されて、再び行敏の名で訴状を出したが、大聖人は公場で対決するには、行敏ごときでなく、良観らが相手であることをはっきりと明言された。それで行敏の名を記さず、直接、良観、念阿、道阿の訴状であると書かれているのではなかろうか。その後、大聖人と彼らとの公場対決がなかったことは、はっきりしているところである。良観らは、行敏を表に立てて問注を企(たくら)んだのであるが、大聖人から相手は良観らであることを明言されて、訴状は出したものの、あわてて公場対決の実現を避ける画策をしたということも十分考えられる。
 さて、御会通の内容を要約すると、次のようにまとめられる。
 まず、彼らが訴状に取り上げた条項は、第一に、大聖人所立の教法についての非難である。
 一、八万四千の教法は一法のみを是とし、諸法を非とする道理はない。にもかかわらず日蓮は、法華一部に執着して、法華以前の諸経は妄語であると諸大乗教を誹謗している。
 二、念仏修行を無間地獄の業である、と誹謗している。
 三、禅宗を天魔波旬の所説である、と誹謗している。
 四、大・小乗教の戒律を世間を誑惑する法である、と誹謗している。
 第二に、大聖人及び門下の行為についての非難である。
 一、諸寺が本尊としている阿弥陀・観音等の仏像を焼却・投棄している。
 二、凶悪の徒を集め、武器等を用意している。
 以上の条項であるが、大聖人の回答は、釈明するなどという次元のものではもとよりない。第一の、教法に関しての論難については、すべて仏説に基づいて彼らの主張の矛盾点を突き、歴史的事実を示し、かえって難詰する筆勢になっている。また第二の、大聖人一門の行為に関する非難についても、具体的に誰が、どこで、何をしたか、事実の確証を示さなければ、すべて良観等の大妄語であると反論され、逆に彼らの極悪を経論に基づいて論難されている。
 最後に、インド・中国・日本の三国にわたって、権力者たちの仏法破壊の歴史的事実を挙げ、仏記に照らして「此等の悪人は仏法の怨敵には非ず」と示され、本当の仏敵は「三明六通の羅漢の如き僧侶等」、すなわち生き仏のように振る舞っている高僧である、と指摘されている。以上が要旨である。
 まず、冒頭の御文は、日蓮大聖人を訴えた者が実質的に良観及び念阿弥陀仏らであることを明記し、次に訴状で「日蓮を召し邪見を摧破し正義を興隆したい」とあることについて、まさにそれこそ日蓮も望むところであると述べられている。
 大聖人を訴えた者として良観並びに念阿弥陀仏、道阿弥陀仏の三人の名が挙げられているが、この三人は、当時の鎌倉幕府の権力を後ろ盾として権勢を誇っていた、鎌倉仏教界の中心者たちである。
 したがって、彼らの邪見を摧き正義を興隆することこそ、立正安国論上呈以来、大聖人が望んでおられたことが実現できることになるのである。
 ゆえに、良観らの訴状で述べているのと同じ言葉を用いて「邪見を摧破し正義を興隆せば一眼の亀の浮木の穴に入るならん」と仰せられているのである。

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