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問注得意抄・第一章 問注の実現を喜ばれる

             問注得意抄

        第一章 問注の実現を喜ばれる

本文(御書全集一七八㌻初~一七八㌻四行)
    土木入道殿            日   蓮
 今日召し合せ御問注の由承り候、各各御所念の如くならば三千年に一度花さき菓(このみ)なる優曇華(うどんげ)に値(あ)えるの身か、西王母の薗(その)の桃・九千年に三度之を得たる東方朔(とうほうさく)が心か一期(いちご)の幸何事か之に如(し)かん、御成敗の甲乙は且(しば)らく之を置く前(さき)立つて欝念(うつねん)を開発せんか。

通解
    土木入道殿            日   蓮
 今日召し合わせて、法義取り調べの御問注があると承った。おのおのの念願されたごとくであれば、三千年に一度花が咲き菓(このみ)がなるという優曇華(うどんげ)に値(あ)える身であろうか。
 九千年に三度しか実がならない西王母の園の桃を、東方朔が九千年に三度得たというのと同じ心でもあろうか。
 一生のうちで、これほどの幸いは、またとないであろう。
 御成敗の甲乙(勝敗の結果)はしばらくこれを置くが、貴殿としては、まずもって日頃の鬱念(うつねん)を開かれるべきであろう。

語訳
土木入道
(一二一六年~一二九九年)。富木常忍(ときじょうにん)のこと。俗名は常忍(つねのぶ)という。下総国葛飾郡八幡荘若宮(現在の千葉県市川市若宮)に住み、千葉氏に仕えていた武士。かなりの学識があり、大聖人より観心本尊抄、法華取要抄、四信五品抄等数十編にのぼる御書をいただいている。本領は因幡国(いなばのくに)(現在の鳥取県東部)富城郷(ときごう)にあった。建長六年(一二五四年)ごろ大聖人に帰依したとされ、よく外護の任に励み、門下の中核として活躍した。大聖人御入滅後、出家して常修院日常と改め、自邸の法華堂を法華寺と改称して開山となり、中山門流の祖となった。

優曇華(うどんげ)
 優曇花とも書く。梵語ウドンバラ(Udumbara)の音写・優曇波羅(うどんばら)の略。霊瑞(れいずい)と訳す。インドの想像上の植物。法華文句巻四上等に、三千年に一度開花するという希有(けう)な花で、この花が咲くと金輪王(こんりんおう)が出現し、また、金輪王が現れる時にはこの花が咲く、と説かれている。法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値(あ)いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華(うどんばらけ)の如く」(『妙法蓮華経並開結』六五七㌻ 創価学会刊)とあり、この花を譬喩として、仏の出世に値(あ)い難いことを説いている。

西王母の薗(その)の桃
 西王母は中国の伝説上の女神の名。西方に住む祖母の意で、中国西方の高山に住む女神とされた。女子で仙人となったものは、みなこの西王母に従ったという。山海経には豹尾で虎歯の半人半獣、崑崙山(こんろんさん)に住み三羽の青鳥が食物を運んだという。穆天子伝には周の穆王(ぼくおう)が西に巡狩して西王母に会い、三年間逗留して帰国したとあり、このとき西王母は人の姿で描かれている。のち神仙思想により仙女化し、崑崙(こんろん)の圃(ほ)、閬風(ろうふう)の苑(その)にいるといわれ、この園にある桃の木は三千年に一度実るという。遇(あ)い難いもののたとえとして引かれたことば。

東方朔(とうほうさく)
 中国・前漢代の文学者。山東省の人。武帝に仕え、機知に富む文章と言葉で帝の寵愛を受け、常侍郎、太中大夫、給事中と進官したが酒に酔って失敗し、官を下げられた。後世、仙人的存在とされ、三千年に一度実るという西王母の桃を盗食し、長寿をほしいままにしたと伝えられる。
〈追記〉
 漢代すでに東方朔にまつわる神仙伝説が発展し、「漢武故事」には西王母が植えた三千年に一度しかならない桃の実を三つも盗んだとある。日本では平安時代末期に成立した「唐物語(からものがたり)」に、東方朔は仙宮において罪を犯し、しばし人界に下されたとある。また能の演目「東方朔」では仙人として登場する。

講義
 本抄は、文永六年(一二六九年)五月九日、日蓮大聖人四十八歳の御時、富木常忍はじめ三人に宛てて鎌倉においてしたためられた御手紙であるとされている。御真筆は中山法華経寺に現存する。
 ただし後述作の年次については、御真筆には「五月九日」とあるだけで、明らかではない。これが古来、文永六年の御述作とされるのは、本抄が、文永六年に著され同じ中山法華経寺に存していた「法門申さるべき様の事」のなかに含められていて、その後、別の御抄と判明したのが、年次のみは同じものとして伝えられたことによる。
 別々の書であると分かった以上、本抄が文永六年の御述作であるという確かな根拠はなく、他に文永八年(一二七一年)、文永三年(一二六六年)とする説もあるが、いずれも確証がなく、ここでは文永六年とする説に従っておく。
 本抄が誰に与えられたかについては、御真筆の初めのほうには「土木入道殿」とあり、文末には「三人御中」とある。したがって、富木常忍はじめ三人に与えられていることは明らかである。
 あとの二人については、大田乗明と四条金吾であるとする説と大田乗明、曾谷教信とする説があるが確かなことは分からない。
 ただ、大田乗明も問注所の役人で、本抄では、彼らが「同輩」との裁判になっていると言われているので、そうすると、問注所の役人同士が争っていることとなり、かなり特殊な事情であったといえよう。古来の説も推測にすぎず、ここでは他の二人については明確ではないということにしておきたい。
 本抄の内容は、五月九日の当日、富木常忍ら三人が問注所へ行くこととなり、それを大聖人に御報告申し上げ、大聖人がそれに対して細々(こまごま)と心構えを教えられている御手紙である。
 最初に、この問注はまことに富木常忍らにとって、千載一遇の機会であり、これほどの喜びはないであろうと仰せられている。
 次に、出仕に際しての心構えについて細かい注意を述べられ、大聖人がこうした注意をあえてするのは、仏経と行者と檀那とが合致してこそ事を成すことができるからである、と述べられている。

 今日召し合せ御問注の由……前(さき)立つて欝念(うつねん)を開発せんか

「今日(五月九日)」、原告・被告双方を召し合わせて問注することになったと聞かれ、富木常忍らの念願からいえば、これはまさに三千年に一度花が咲き実がなるという優曇華(うどんげ)にあったようなものであり、また、同じく三千年に一度なる西王母の園の桃を九千年に三度にわたって得たという東方朔のごとくであると喜ばれている。問注の成敗がどう出るかは別として、まずは、鬱念をひらくべきであると励まされている御文である。
 しかし、冒頭の「今日召し合せ御問注の由」とは、随分急な話である。富木常忍が早くに五月九日に問注があることの御報告をしていたのを、大聖人がその当日になって返答の御手紙をしたためられるなどということは考えられないから、当日朝か、早くとも前日の夕方以降の報告であったろう。
 問注は裁判であるから、急に起こるわけではない。先に訴えが行われていたのを、原告・被告の双方を「召し合せ」ることが急に決まったのであろう。
 そのことを富木常忍らが大聖人に急いで御報告申し上げ、それに対して、大聖人はさっそくに御手紙をしたためられて、御指南されたのである。あるいは富木常忍らが問注のため鎌倉へきた際に報告し、それに対し、急ぎ御指南されたのであろう。
 問注の内容、また富木常忍らが、原告であったのか、被告であったのかということであるが、本抄ではそれについて言及されていないので不明である。優曇華等の譬喩を引かれて、問注についてこれほどの喜びはないと言われ、また「鬱念を開発」せよと励まされているからといって、富木常忍らが訴えたほうであるとは限らない。
 大聖人が問注について優曇華の譬喩を引かれていること、また文末に「仏経と行者と檀那と三事相応して一事を成さんが為に愚言を出す処なり」と、仏法上の意義を込めて励まされていることから考えると、所領等の世間上の訴えではないであろうと推察され、富木常忍らの折伏に基づく仏法上の争いではないかと思われる。とすると、富木常忍らのほうから訴えるということは考えられないから、彼らの「同輩」から、何らかの苦情、訴えが出され、それに対して、富木常忍らも公の場で正邪を決したいと訴えていたのかもしれない。
 そうすれば、本文中の「訴陳の状」は、敵方が訴状を出し、常忍らがそれに対して陳状を出したことになる。法門上の対決にもかかわらず、法論上の教示がなされていないのは、当日のことで内容面に触れる時間的余裕がないこと、また、そうしたことは日頃から教えてあることであるから、対決に臨む姿勢のみを教えられているものと考えられる。
 大聖人門下にとっては、法門に関する訴えであれば、かえって公に正邪を明らかにする場を得られることになり、これこそ望むところであり、積年のゆえなき誹謗中傷への「欝念(うつねん)」を晴らす絶好の機会であると喜ぶべきことなのである。そのゆえに、優曇華等の譬喩を通して喜ばれているのである。
 また、文永六年の御述作であるとの前提に立てば、前年の蒙古の国書到来に寄せて十一通の御状を出され、公場対決を呼び掛けられた大聖人からすれば、たとえ門下の争いであっても、公場対決の機会を得られることは、一つの突破口となることも考えられるからである。
 ただ、この問注の結果については、その後の御手紙を拝しても、触れられてはいない。また「御成敗の甲乙は且らく之を置く」と仰せられているのは、大聖人にとって、富木常忍らが、たとえ問注において、自らの正当性を述べ、「同輩」の非を明らかにしたとしても、平左衛門尉らに少なからず影響を受けていると考えられる問注所の役人は、誤った先入観をもっているであろうから、富木常忍らに好意的な裁定をすると考えるのは楽観に過ぎ、また原告の彼らも自らの非をそのまま認めることはないだろうと、予見されていたのではないかと思われる。
 正論を素直に認めるほど、権力者は純粋ではない。それは前年の大聖人の十一通御書に対する、平左衛門尉や極楽寺良観らの対応をみて、大聖人が彼らの本質をよくご存じだからである。そうであっても、富木常忍らにとっては、積年の鬱屈を晴らすべき機械であるから、精一杯、戦ってくるようにとの、温かい励ましの御言葉なのである。

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