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多宝寺への御状

            多宝寺への御状

本文(御書全集一七六㌻)
 日蓮・故最明寺殿に奉りたるの書・立正安国論御披見候か未萠(みぼう)を知つて之を勘(かんが)え申す処なり、既に去(いぬ)る正月蒙古国の簡牒到来す何ぞ驚かざらんや、此の事不審千万なり縦(たと)い日蓮は悪(にく)しと雖(いえど)も勘うる所の相当るに於ては何ぞ用いざらんや、早く一所に集りて御評議有る可し。
 若(も)し日蓮が申す事を御用い無くんば今世には国を亡し後世は必ず無間大城に堕す可し、此の旨方方へ之を申せしめしなり敢て日蓮が私曲に非ず委しく御報に預(あずか)る可く候、言は心を尽さず書は言を尽さず併(しかし)ながら省略せしめ候、恐恐謹言。
  文永五年十月十一日         日 蓮  花 押
   謹上 多宝寺侍司御中

通解
 日蓮が故最明寺殿(北条時頼)へ奉った書・立正安国論を御覧になったであろうか。未来の出来事を予知して、これを勘えたのである。
 既に去る正月、蒙古国から牒状が到来した。これに目が覚めないとはどうしたことか。このことは不審千万である。たとえ日蓮が憎いからといっても、勘えたところの事が的中したならば、どうしてこの事を用いないのか。早く一所に集まって、評議されるべきである。
 もし日蓮が申す事を用いなければ、今世には国を亡ぼし、後世は必ず無間大城に堕ちるであろう。
 この旨を方々へ申し上げた。あえて日蓮が私曲で申すのではない。委細に御返事に預かりたい。言葉は心を尽くさないし、書面は言葉を尽くせないから、ここで省略する。恐恐謹言。
  文永五年十月十一日         日 蓮  花 押
   謹上 多宝寺侍司御中

語訳
最明寺殿
(一二二七年~一二六三年)。北条時頼のこと。最明寺で出家し法名を道崇と称したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれる。鎌倉幕府第五代執権。時氏の子。母は安達景盛の娘(松下禅尼)。初め五郎と称し、のち左近将監(さこんのしょうげん)・相模守に任じられた。宋僧道隆について禅法を受け建長寺を建立。出家の前日執権職を重時の子長時に委(ゆだ)ね、最明寺を山内に造りそこに住んだが依然として幕政にたずさわっていた。日蓮大聖人は、文応元年(一二六〇年)七月十六日に、宿屋入道を通じて、立正安国論を最明寺時頼に上書し、為政者の自覚をうながし、治国の者が邪宗に迷い正法を失うならば、必ず国の滅びる大難があると、大集(だいしつ)経、仁王(にんのう)経、金光明経、薬師経等に照らされて訴えられた。しかし時頼は反省せず、かえって弘長元年(一二六一年)五月十二日に、長時により大聖人は伊豆に流罪される。同三年に赦(ゆる)されたが、聖人御難事に「故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍(とが)なかりけるを人のざんげん(讒言)と知りて許ししなり」(一一九〇㌻)とあるように、時頼の意図であったことがわかる。

多宝寺
 日蓮大聖人の御在世当時、鎌倉の泉ケ谷にあった寺で、現存しない。詳細は不明だが、大聖人が極楽寺良観(忍性)と祈雨の対決をした際、良観が「多宝寺の弟子等・数百人呼び集めて力を尽し」(一一五八㌻)祈ったことから、極楽寺の管理下にあったようである。北条重時の子・業時によって、弘長二年(一二六二年)に創建されたともいう。

講義
 本書状は文永五年(一二六八年)十月十一日、日蓮大聖人が四十七歳の御時、鎌倉・松葉ケ谷でしたためられ、多宝寺へ送られた書である。
 多宝寺は大聖人御在世当時、鎌倉にあった寺であるが、現存していない。開山や開祖、落成年次、宗旨なども不明である。弘長二年(一二六二年)北条業時が創建し、良観が招かれて五年間、在住したともされている。
 頼基陳状に、極楽寺良観の祈雨について述べられるなかで、「多宝寺の弟子等・数百人呼び集めて力を尽し祈りたるに・七日の内に露ばかりも雨降らず」(一一五八㌻)と記されており、当時の多宝寺は良観の管下にあったようである。
 この御状の内容は、初めに、日蓮大聖人が文応元年(一二六〇年)七月、故北条時頼(最明寺殿)に上呈した立正安国論を披見したかどうかを問われ、その安国論は九年前、「未萠(みぼう)」すなわち、事の未だあらわれないうちに、他国侵逼難を予知して著した書であると、御自身が〝兼知未萠〟の聖人であることをほのめかされている。
 その予言通り、今年(文永五年)の正月、蒙古国の「簡牒(公式文書)」が到来したのであり、この厳とした事実を前にしては「何ぞ驚からざんや」と、どうして目覚めないのかと述べられている。
 そして幕府当局や識者たちが黙殺し、無視していることは「不審千万なり」、すなわち甚だ理解しがたいことだと述べられている。
「縦(たと)い日蓮は悪(にく)しと雖(いえど)も」とは、大聖人を憎いと思う個人的感情は別にして、との意である。
 重要なことは「勘うる所の相当る」、つまり予言が的中したという事実が眼前にある以上、日蓮大聖人の言葉、諌暁を用いるべきであると仰せられている。
 未曾有の国難を前に、国の前途を憂える人であるなら、個人的感情はどうあれ、謙虚な心で教えを請うべきであろう、との意である。
 そして、早く一所に集まって評議すべきであると促され、もし大聖人の諌言を用いない時は、今世には国を滅ぼし、後世では無間地獄へ堕ちること必定であると断じられている。
 最後に、同じ趣旨の書状を時宗など幕府要人、諸宗諸山の高僧へ送付したが、いずれも「敢て日蓮が私曲に非ず」、つまり身勝手な私見で言っていることでなく、すべて経文に基づいた諌言であるとされ、はっきりした返事を待ちたいと、公場での対決を要求されている。
「言は心を尽さず書は言を尽さず」との御文は、建長寺道隆への御状(一七三㌻)にもみられるが、言葉は心を尽くすことができず、また文章も言葉を尽くせないから、ここで省略すると、本書を締めくくられている。
 末尾にある「多宝寺侍司御中」の「侍司(じし)」は「侍史」とも書き、傍に侍する人の意。また相手に手紙を直接差し上げることをはばかるという謙虚の意をあらわす。

出典『日蓮大聖人御書講義』第四巻下(編著者 御書講義録刊行会 発行所 聖教新聞社)

                    多宝寺への御状 ―了―

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