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大仏殿別当への御状

          大仏殿別当への御状

本文(御書全集一七四㌻初~一七五㌻終)
 去(いぬ)る正月十八日西戎(さいじゅう)大蒙古国より牒状到来し候い畢(おわ)んぬ、其の状に云く大蒙古国皇帝・日本国王に書を上(たてまつ)る大道の行わるる其の義邈(ばく)たり信を構え睦(むつみ)を修す其の理(ことわり)何ぞ異ならん乃至至元三年丙寅(ひのえとら)正月日と。
 右此の状の如くんば返牒に依つて日本国を襲う可きの由分明なり、日蓮兼ねて勘え申せし立正安国論に少しも相違せず急(すみや)かに退治を加え給え、然れば日蓮を放(おい)て之を叶う可からず、早く我慢を倒して日蓮に帰すべし、今生空しく過ぎなば後悔何ぞ追わん委(くわ)しく之を記すこと能わず、此の趣方方へ申せしめ候、一処に聚集して御調伏有る可く候か。
  文永五年十月十一日         日 蓮  花 押
   謹上 大仏殿別当御房

通解
 去る正月十八日、西戎大蒙古国から牒状が到来した。その状に「大蒙古国の皇帝から日本国王に書を送る。国として行われている大道の義は甚だ漠然として明白でないが、信を構え親睦をはかるということは道理として異なっていない。乃至、至元三年丙寅正月日」とある。
 右のこの状によると、返書の次第によっては、日本国を襲撃してくることが分明である。日蓮が兼ねて勘え申した立正安国論の予言と少しも相違していない。急いで退治を加えるべきである。そうであれば、日蓮をおいて他にいないであろう。早く今までの我慢を折って、日蓮に帰伏するべきである。今生を空しく過ごすならば後悔しても及ばない。詳しいことは記さない。
 この趣を方々へ申し上げたから、一所に集まって蒙古調伏について評議されるべきであろう。
  文永五年十月十一日         日 蓮  花 押
   謹上 大仏殿別当御房

語訳
大仏殿
 神奈川県鎌倉市長谷にある高徳院をいう。大異山清浄泉寺(しょうじょうせんじ)と号し、俗に長谷の大仏と呼ばれた。日蓮大聖人御在世当時、大仏殿は鎌倉七大寺の一つとして威勢を振るっていた。当時の別当職が誰であったかは不明。後に荒廃し、江戸時代の正徳二年(一七一二年)に祐天により浄土宗寺院として再建された。
〈追記〉
 高徳院は開基(創立者)・開山(初代住職)ともに不詳。初期は真言宗、のちに臨済宗、江戸時代に江戸増上寺の祐天による再興以降は浄土宗に属し、高徳院と号した。大仏は高徳院の本尊で、正式名称は「銅造阿弥陀如来坐像」。源頼朝の侍女・稲多野局(いなだのつぼね)が頼朝の志を継ぎ、大仏造立を発起したと伝えられる。『吾妻鏡』には、暦仁元年(一二三八年)、深沢の地(現・大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進により「大仏堂」の建立が始められ、五年後の寛元元年(一二四三年)に開眼供養が行われたと記される。このときの大仏は銅造ではなく木造であった。また『吾妻鏡』には、建長四年(一二五二年)から「深沢里」にて「金銅八丈の釈迦如来像」の造立が開始されたとの記事があるが、「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈するのが定説となっている。根拠としては、本像が結ぶ印相(印契(いんげい)ともいう)にある。両手のひらを上に向けて重ねて、親指同士が触れ合う形を定印(じょういん)といい、釈迦如来坐像に多く見られる形である。長谷の大仏もこの印を結んでいるように見えるが、詳しくは、両方の人差し指を立てて親指と輪をつくる阿弥陀定印という形となっている。
 それでは、何ゆえ幕府の正式な記録文書(『吾妻鏡』)と実際の形が異なるのか。発願者は、おそらく『吾妻鏡』の記すとおり「釈迦如来」像を意図していたのであろう。しかし、製作者側ではその意志は汲まれず、「阿弥陀如来」像が造立された――その間の事情は不明である。釈迦如来像と阿弥陀如来像はよく似ており、印相に詳しくない人には気付かれなかったと思われる。
 御書に「百済国の聖明皇・金銅の釈迦仏を渡し奉る、今日本国の上下万人・一同に阿弥陀仏と申す此れなり」(一五一六㌻)、また「今の代に世間第一の不思議は、善光寺の阿弥陀如来という誑惑(おうわく)これなり」(一一六七㌻)と。欽明天皇の十三年に聖明王から献上された像は、『日本書紀』に「釋迦佛」とはっきりと記されている。古来よりこうした〝まやかし〟は、念仏者の常套手段である。長谷の大仏の場合、発願者の意図に反し、〝釈迦如来像に似せた阿弥陀如来像〟が製作されたと推測するのは、故無き事ではない。すなわち『吾妻鏡』は「誤記」などではない、大仏はその印相にかかわらず、本来は釈迦如来像であった、と信じ得るのである。
「かまくらや みほとけなれど釈迦牟尼は 美男におはす夏木立かな」(『恋衣』収録)。世間ではこの歌の「釈迦牟尼」は「阿弥陀」の誤りであると〝訳知り顔〟に言うが、与謝野晶子は慧眼であった、真実を詠んだと思い当たるのである。以下、歌人の吉野秀雄の言葉である。
(前略)晶子自身後年このあやまりを指摘されてか、「仏なれども大仏は」と改作した短冊も現に残ってはいるが、これでは歌として三文の価値もない。原作のままでいいんだ、と。この点をも少しいふと、第一、『新編鎌倉志』でも、『鎌倉攬勝考』でも、『新編相模風土記』でも何でもいいから、大仏の条に引かれた古文献を見るがいい。同じ大仏がルシャナとも、アミダとも、シャカとも唱へられ「吾妻鏡」の建長四年八月の大仏鋳造の記事だってアミダとはなく、「釈迦如来像」とあるのだ。人差し指をまげるかまげないかの定印の区別など、まちがへたって年若かった晶子の恥ともいへず、一般大衆には何のかかはりもありはしない(吉野秀雄全集3 筑摩書房)。
 本質を知る人は、さすがに穿ったものである。印相の小細工など、何の問題にもならない。大事なのは、真実を見る眼である、と。

講義
 本書状は文永五年(一二六八年)十月十一日、日蓮大聖人が四十七歳の御時、蒙古国から牒状(国書)が到来したのを機に、鎌倉・松葉ケ谷でしたためられ大仏殿別当に送られた書である。「十一通御書」の一つ。
 大仏殿は暦仁元年(一二三八年)に着工し、寛元元年(一二四三年)に建立された。初めは木彫りの阿弥陀の大仏だったが、建長四年(一二五二年)金銅の阿弥陀の大仏に作り変えられた。後年、天災等の被害を受け、現在は露座の大仏だけが残っている。
 大聖人御在世当時は浄土宗に属し(※)、鎌倉七大寺の一つとして勢威を振るっていた。当時の別当職(住職)がだれであったかは不明である。
(※注記 語訳に示したとおり、大仏殿が浄土宗に属したのは江戸時代に入って百年も経ってからである)
 本書状の内容は、同年閏(うるう)正月十八日に到来した蒙古国からの牒状の文言を挙げ、日本側の返事次第では、蒙古国が攻めてくるのは間違いないとされ、この国難が立正安国論の予言通りであることを指摘されている。したがって、これを退治するのは日蓮以外にないとされ、速やかに日蓮に帰伏しなければ、必ずや後悔することになるであろうと諌められている。

 蒙古国から到来した牒状の内容

 初めに、文永五年(一二六八年)閏正月十八日に、蒙古国フビライ汗から牒状が到来した事実を挙げ、牒状の内容の一部(取意)を示されている。全文は次の通りである。
「上天の眷命(けんめい)せる大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉ず。朕惟(ちんおも)うに、古(いにしえ)より小国の君も境土相接すれば尚努めて講信修睦(こうしんしゅうぼく)す。況んや我が祖宗は天の明命を受けて区夏(くか)を奄有(えんゆう)す。遐(はる)かなる方の異域にして威を畏(おそ)れ徳に懐(な)つく者は悉く数うべからず。
 朕即位の初、高麗の無辜(むこ)の民、久しく鋒鏑(ほうてき)に瘁(つか)るるを以って即ち兵を罷(や)ましめ、その彊域(きょういき)を還し、その旄倪(ぼうげい)を反(かえ)す。高麗の君臣は、感戴(かんたい)して来朝せり。義は君臣と雖(いえど)も、歓は父子の若(ごと)し。
 計るに王の君臣もまたすでに之を知らん。高麗は朕の東藩なり。日本は高麗に密邇(みつじ)し、開国以来また時に中国に通ずるも、朕が躬(み)に至って一乗の使もって和好を通ずることなし。尚王の国これを知ること未だ審(つまびら)かならざるを恐る。故に特に使を遣わし、書を持たしめ朕が志を布告す。
 冀(ねがわ)くば今より以往、通問して好(よしみ)を結び、以って相親睦せんことを。且(かつ)、聖人は四海を以って家となす。相通好せざるは豈一家の理ならんや。兵を用うるに至る、それ孰(いずく)んぞ好むところならん。王それ之を図れ。不宣」
(追記注 区夏を奄有す〔区は区域。夏は華夏。夏は大の義。大中華を覆って所有したとの意〕、鋒鏑に瘁るる〔鋒はほこさき。鏑はやじり。瘁は疲れるの意〕、彊域(きょういき)は境目、領域。旄倪(ぼうげい)は老人(旄)と小児(倪))
 蒙古が既に広大な版図を有し、高麗等も朝貢してきているのに日本が使いもよこさないのは何事かと述べ、「好を結び、相親睦したい」というのである。一見、友好を求めているようであるが、蒙古皇帝の威に服してこいとの尊大さが文面に明らかである。
 とくに末尾の「兵を用うるに至る、それ孰(いずく)んぞ好むところならん。王それ之を図れ」という一節は、明らかに威嚇である。本書状で大聖人が、我が国の返書の次第によっては、日本を襲撃してくることは明白であると言われているのは、この一節をふまえられたと考えられる。
 そして、このことは既に九年前の文応元年(一二六〇年)に立正安国論を故北条時頼に提出し、今のように邪法・悪法をはびこらせていくならば、必ず他国から侵略される(他国侵逼難)であろうと警告されたが、まさにその予言が少しも違わず的中したのであると仰せられている。
 それゆえにこそ「急(すみや)かに退治を加え給え、然れば日蓮を放(おい)て之を叶う可からず」と、国難を救う方術を知るのは日蓮大聖人御一人を置いて、どこにもいないと断言されているのである。
 蒙古調伏については、他にも安国論御勘由来に「日蓮復(また)之を対治するの方之を知る」(三五㌻)、また宿屋入道への御状に「日本国の中には日蓮一人当に彼の西戎を調伏するの人たる可し」(一六九㌻)の記述がみられる。
 したがって、「早く我慢を倒して日蓮に帰すべし、今生空しく過ぎなば後悔何ぞ追わん」と、大仏殿別当に対し、捨邪帰正を促す一方、聞き流して空しく過ごせば後悔しきれない悪果を招くであろうと諭されている。
「我慢」とは七慢の一つで、我をおごって誇り、他を軽んじて従わない、という意味である。
 最後に、同様の書状を方々へ送ってあるので、一所に集まって「御調伏有る可く候か」と、本書を結ばれている。「御調伏有る可く候か」とは蒙古調伏の方術についての評議を望まれた文意にも拝されるが、御本意は前文に「日蓮を放(おい)て之を叶う可からず」と仰せられているように、大聖人に帰伏すべきか否かについて、その前段階として公場対決について、「一処に聚集」するよう要請されたと解するのが、他の御状との関連からいっても妥当のように拝される。

出典『日蓮大聖人御書講義』第四巻下(編著者 御書講義録刊行会 発行所 聖教新聞社)

                  大仏殿別当への御状 ―了―

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