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極楽寺良観への御状・第一章 経文通りの僭聖増上慢と断ず

           極楽寺良観への御状

       第一章 経文通りの僭聖増上慢と断ず

本文(御書全集一七四㌻初~一七四㌻六行)
 西戎(さいじゅう)大蒙古国簡牒(かんちょう)の事に就(つい)て鎌倉殿其の外へ書状を進ぜしめ候、日蓮去(いぬ)る文応元年の比(ころ)勘え申せし立正安国論の如く毫末(ごうまつ)計(ばか)りも之に相違せず候、此の事如何、長老忍性(にんしょう)速かに嘲哢(ちょうろう)の心を翻えし早く日蓮房に帰せしめ給え、若(も)し然らずんば人間を軽賤(きょうせん)する者・白衣の与(ため)に法を説くの失(とが)脱れ難きか、依法不依人とは如来の金言なり。
 良観聖人の住処を法華経に説て云く「或は阿練若(あれんにゃ)に有り納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在り」と、阿練若は無事と翻(ほん)ず争(いかで)か日蓮を讒奏(ざんそう)するの条住処と相違せり併(しかし)ながら三学に似たる矯賊(きょうぞく)の聖人なり、僣聖増上慢にして今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり、聊(いささ)かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し。

通解
 西方の戎(えびす)大蒙古国から牒状が来たことについて、鎌倉殿(執権)、その外へ書状を申し送った。日蓮が去る文応元年の頃、勘え進言した立正安国論の通り少しも相違なく符合したのである。
 このことをあなたはいかに考えるか。長老忍性よ、速やかに嘲弄の心を翻し、早く日蓮房に帰伏されるがよい。
 もし然らずんば、法華経勧持品第十三に説かれた「人間を軽しめ卑しむ者……白衣(俗人)のために法を説く」との失(とが)を免れることはできないであろう。「法に依って人に依らざれ」とは如来の金言である。
 良観聖人の住処を法華経勧持品第十三には「或は阿練若(あれんにゃ)に有って、法衣を身にまとい、人里離れた所に住む」とある。
 阿練若とは「無事」という意味である。日蓮を讒訴するなどは、この住処と相違していようか。すべての点からいって、あなたは戒定慧の三学を修行するに似た矯賊(きょうぞく)(世の人々をいつわる賊)の聖人である。まさしく僣聖増上慢であり、今世においては国賊であり、来世は地獄に堕ちることは必定である。いささかでもこれまでの非を後悔するならば日蓮に帰伏すべきである。

語訳
忍性(にんしょう)
(一二一七年~一三〇三年)。鎌倉時代の律宗の僧。字(あざな)は良観(りょうかん)、忍性は諱(いみな)。日蓮大聖人御誕生の五年前(建保五年)、大和国に生まれた。十七歳の時東大寺で受戒して出家し、のちに奈良西大寺の真言律宗の祖・叡尊(えいそん)の弟子となった。叡尊は、律宗を再興し二百五十戒、五百戒等の戒律を守ることをすすめ、それに真言の祈禱と弥陀の名号を称(とな)えることを加えるという諸宗混交の教義を作って一派をたてた。良観はのちに、関東に下り鎌倉に入る。文応元年(一二六〇年)には北条時頼の連署であった重時(しげとき)が鎌倉の西南の景勝の地に極楽寺を創設し、自ら極楽寺入道重時と称した。重時が尊敬していた法然の教えは、日蓮大聖人によって徹底的に破折され選択集の邪義も明らかにされたので、彼はなにかに取り付かれたように大聖人の迫害に狂奔した。松葉が谷の草庵焼き打ち、伊豆流罪の黒幕であった。良観がとりいったのはこの重時である。文永四年(一二六七年)には重時の子業時(なりとき)が良観を招いて極楽寺の開山とした。良観五十一歳の時であり、以後三十七年間にわたってここに住んだ。彼は幕府に巧妙にとり入って、自らの身の安泰をはかるとともに、日蓮大聖人に敵対する迫害の元凶となった。また良観は、粗衣粗食に甘んじ、慈善事業を行ない、二百五十戒を堅く持った聖者であるかのように振舞ったが、それはあくまでも見せかけであり、売名行為であった。本抄に仰せのとおり、実に良観こそ法華経勧持品第十三に予言された三類の強敵中の第三僭聖増上慢であり、仏と共に出現し、仏のような姿で世人を幻惑して、内心には怨嫉をもち仏法を破壊しようとする、第六天の魔王の働きを示すものであった。

講義
 本書状は文永五年(一二六八年)十月十一日、日蓮大聖人が四十七歳の御時、鎌倉・松葉ケ谷でしたため律宗の極楽寺良観(一二一七年~一三〇三年)に送られた書である。
 良観は字(あざな)で諱(いみな)を忍性(にんしょう)といい、大和国(現在の奈良県)磯城郡(しきぐん)の出身。十歳で信貴山(しぎさん)に登って修行し、二十四歳の時、律宗の叡尊(えいぞん)(一二〇一年~一二九〇年)に師事して受戒、南都の戒律復興に尽力した。建長四年(一二五二年)に関東へ下り、弘長元年(一二六一年)に鎌倉へ入って律宗を弘めた。
 文永四年(一二六七年)北条長時の弟・業時(なりとき)に招かれて極楽寺開山となり、三十七年間にわたってここに住んだ。最盛期には、支院四十九、施薬院、福田院、療病院、癩病舎、薬湯室、馬病室などがあったという。
 良観は外見上、戒律を持(たも)って、癩病患者や乞食を集めて薬や食を施し、井戸を掘り、川に橋を渡し、道路を造ったりした。また飢饉には貧民に粥を施すなど社会事業に努め、鎌倉の人々の信望を集めた。
 反面、こうした慈善事業の陰で、関米や通行税を取って人々を苦しめ、私腹を肥やしていた。そして、日蓮大聖人に対しては激しく憎んで権力者を動かし迫害を加えた。
 本書状にみられるように仏法の正邪について公場での対決を大聖人から迫られたが応じようとせず、更に、文永八年(一二七一年)、幕府の依頼で祈雨を行うことになった際、大聖人から勝負を挑まれ、これに応じて必死に祈ったが敗れた。
 大聖人はその直後、良観に対して「たやすい雨を降らすことさえできない者が、どうして難しい往生成仏ができようか。今こそ日蓮を恨む邪見を捨てて、約束どおり日蓮の弟子になりなさい。雨を降らす方法と仏に成る道を教えよう」と破折された。
 良観は祈雨に敗れた悔しさから、怨念と敵対心を弥増(いやま)し、幕府有力者やその夫人、未亡人などへ讒言して大聖人を亡き者にしようと謀った。
 こうして同年九月十日、幕府は大聖人を呼び出して取り調べを行い、九月十二日に逮捕、その深夜、竜の口で斬首しようとしたのである。
 しかし、これは夜空に突如現れた光り物のために思いとどまり、結局、佐渡へ流罪に処したのであった。この背景には良観の策謀があったのである。
 この良観の悪行に対し、大聖人は後年著された頼基陳状で「抑(そもそも)生草(いきぐさ)をだに伐(き)るべからずと、六斎日夜の説法に給われながら、法華正法を弘むる僧を断罪に行わるべき旨申し立てらるるは、自語相違に候はずや如何(いかん)。此の僧豈(あに)天魔の入れる僧に候はずや」(一一五七㌻)と、痛烈に指弾されている。
 良観上人は生き草でさえも切ってはならないと、戒を厳守しているふりをしながら、法華経を弘める僧を斬首せよなどと言っているのは自語相違ではないか、良観こそ天魔の入った僧である、との意である。
 更に良観は、流罪地の佐渡でも武蔵守宣時(のぶとき)を動かして私の御教書(公文書)を下させ大聖人を苦しめている。また、大聖人が執権・時宗の決断で佐渡流罪を赦免になり、身延に入山されてからは、大聖人門下に魔手を伸ばし、池上兄弟、四条金吾などへの迫害を引き起こしている。まさに法華経勧持品第十三に説かれる僭聖増上慢そのままの振る舞いであった。
 本書状の内容は、立正安国論の予言がその通り的中したことを挙げ、日蓮に帰伏しなければ法華経勧持品に説かれる僭聖増上慢にあたることを指摘。現世は国賊、来世は堕地獄必定であると破折されて、いささかでも先非を悔いる心があれば日蓮に帰伏すべきであると迫られている。本書状は「十一通御書」のなかでも、とりわけ語気に厳しさが拝される。良観が鎌倉に入ったのは弘長元年で、大聖人の伊豆流罪には関係がなかったようであるが、幕府要人に強く結びついて名聞名利を貪っている本質を大聖人は鋭く見破っておられたゆえであろう。

 経説通りの第三の敵人

 初めに蒙古から「簡牒」(公式文書)が到来したことについて、執権・北条時宗はじめ幕府要人、諸宗諸寺の長老に書状を送ったことを告げられている。
 次いで、九年前の文応元年(一二六〇年)に勘(かんが)え、上呈した立正安国論の他国侵逼難の予言が少しも違わず符号したことを指摘され、「此の事如何」と詰問されている。大聖人が未萠を知る聖人であることを率直に認めたらどうかとの意が込められている。
「西戎」は蒙古の異名で、当時の漢民族が西方の異民族を称して用いた言葉である。この中国の伝統にならって蒙古に関してこの呼称をつけられたと拝される。
「長老忍性速かに嘲哢(ちょうろう)の心を翻えし早く日蓮房に帰せしめ給え」との御文は、「長老」と「嘲哢」が音が同じであることから、良観の慢心を揶揄(やゆ)されたものである。「嘲哢」はあざける、という意で、大聖人への「嘲哢の心」を改めて潔く帰伏せよと迫られているのである。
 同様の良観に対する揶揄は王舎城事(一一三七㌻)にもみられる。文永十二年(一二七五年)三月、良観が住んでいた極楽寺から出火。広大な伽藍が焼け、その飛び火で鎌倉御所も焼失した。大聖人はその時、「良観房」をもじって「両火房」と揶揄されている。幕府権力に取り入り、自らの名聞名利を貪ることに懸命な良観の姿は、大聖人の眼からすれば滑稽至極であり、揶揄の対象だったのであろう。
 本書状で日蓮大聖人は、更に、もし良観房が大聖人に帰伏しなければ、法華経に説かれた三類の強敵の第三・僭聖増上慢の〝失(とが)〟を免れることができないと指摘されている。
「人間を軽賎する者、白衣の与(ため)に法を説く」との文は、法華経勧持品第十三で僭聖増上慢について説かれた部分である。
 詳しくは同品に「自ら真(しん)の道(どう)を行(ぎょう)ずと謂(おも)いて 人間を軽賤(きょうせん)する者有らん 利養に貪著(とんじゃく)するが故に 白衣(びゃくえ)の与(た)めに法を説いて 世の恭敬(くぎょう)する所と為(な)ること 六通の羅漢の如くならん」(『妙法蓮華経並開結』四一八㌻ 創価学会刊)とある。
 すなわち、自分だけが真の道を行じていると慢心し、人間を軽しめ、賤しめる僧が、利養に対する貪著から、財力をもった在俗の人々のために法を説いて、世間からは六通の羅漢、つまり常人と異なる優れた洞察力、理解力などをもった聖者のように崇められる、との意である。
「白衣」とは俗人、在家の人をいう。釈尊在世のインドでは、修行僧が壊色(えじき)といわれる色のついた衣を着たのに対し、在俗の人は鮮白(せんびゃく)な衣を着たことから、転じて俗人を「白衣」と称した。
 更に「依法不依人とは如来の金言なり」と仰せられているのは、仏法者たるものはあくまでも仏説(法)を根本として判断し振る舞うべきであると、勧持品の文に我が身を照らしてみよと促されているのである。
 また、勧持品第十三には僭聖増上慢の住処について「或(あるい)は阿練若(あれんにゃ)に 納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在(あ)って」(同・四一八㌻)と説かれている。「阿練若」は無事、寂静処(じゃくじょうしょ)、無諍声(むじょうしょう)などと訳す。つまり、人里離れた山林・原野を意味し、閑静で比丘が修行するのに好適な場所をいう。「納衣」とは僧が身につける粗末な法衣のことである。良観が広壮な極楽寺に住し、外面はいかにも戒律を守って粗衣粗食に甘んじているかのような格好をしていることを、この文の通りではないかと指摘されているのである。
 この勧持品の文を受けて「争(いかで)か日蓮を讒奏するの条住処と相違せり」と追及されている。
 これは「相違せり」と読み下しになっているが、「争か」は反語の文に使われるもので、正しくは「争か……相違せん」と読まれるべきである。良観が大聖人を讒奏したことがなぜ「阿練若」すなわち「無事」と合致するかといえば、本来ならば良観は自ら公の場に出てきて、堂々と正邪を争うべきであるのに、自分は陰に隠れて権力者を動かそうとするのが「讒奏」だからである。
 そして「併(しかし)ながら三学に似たる矯賊(きょうぞく)の聖人なり」と、良観の姿はどこから見ても、そのまま「戒定慧三学を修めている聖人に似せかけた矯賊」であるとの御指摘である。「矯賊」の「矯」とは「いつわる」の意で、外面は善人、聖人のように見せかけながら、実際には悪事を行っている賊ということである。
 ゆえに、良観はまぎれもなく僭聖増上慢であり、その果報は「今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり」と警告され、少しでも先非を悔いる良心があるならば、日蓮に帰伏せよと迫られている。

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