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建長寺道隆への御状・第二章 諸宗による蒙古調伏は不可能

           建長寺道隆への御状

       第二章 諸宗による蒙古調伏は不可能

本文(一七三㌻六行~一七三㌻終)
 諸寺諸山の祈禱威力滅する故か将又(はたまた)悪法の故なるか鎌倉中の上下万人・道隆聖人をば仏の如く之を仰ぎ良観聖人をば羅漢の如く之れを尊む、其の外寿福寺・多宝寺・浄光明寺・長楽寺・大仏殿の長老等は「我慢の心充満し、未だ得ざるを得たりと謂(おも)う」の増上慢の大悪人なり、何ぞ蒙古国の大兵を調伏せしむ可けんや、剰(あまつさ)え日本国中の上下万人悉(ことごと)く生取(いけどり)と成る可く今世には国を亡し後世には必ず無間に堕せん、日蓮が申す事を御用い無くんば後悔之れ有る可し此の趣(おもむき)鎌倉殿・宿屋入道殿・平の左衛門の尉殿等へ之を進状せしめ候、一処に寄り集りて御評議有る可く候、敢て日蓮が私曲の義に非ず只経論の文に任す処なり、具(つぶさ)には紙面に載せ難し併(しかし)ながら対決の時を期す、書は言を尽さず言は心を尽さず、恐恐謹言。
  文永五年戊辰十月十一日       日 蓮  花 押
   進上 建長寺道隆聖人侍者御中

通解
 諸寺諸山の祈禱の威力がなくなったゆえであろうか、それとも悪法が弘まったゆえであろうか。鎌倉中の上下万人は、道隆聖人を仏のように仰ぎ、良観聖人を羅漢のように尊んでいる。
 その外、寿福寺・多宝寺・浄光明寺・長楽寺・大仏殿の長老等は「我慢の心が充満して、未だ悟りを得ないのに得たと謂(おも)っている」増上慢の大悪人である。どうしてこれらの人たちが蒙古国の大兵を調伏することができるだろうか。
 調伏できないどころか、日本国中の上下万人は、ことごとく生け取りとなって、今世では国を亡ぼし、後世には必ず無間地獄に堕ちるであろう。
 日蓮が申すことを用いなければ、必ず後悔するであろう。この趣を鎌倉殿、宿屋入道殿、平左衛門尉殿などへ申し上げたから、一所に寄り集まって御評議されたい。これは敢(あ)えて日蓮が勝手に言っているのではない。ただ経論の文に説かれているところを根拠にしているのである。
 詳しいことは、書面に載せられないから、公場対決の時を期したい。書面では言を尽くせず、言葉は心(思うこと)を尽くせない。恐恐謹言。
  文永五年戊辰十月十一日       日 蓮  花 押
   進上 建長寺道隆聖人侍者御中

語訳
道隆(どうりゅう)
(一二一三年~一二七八年)。鎌倉時代の臨済宗の僧。中国西蜀涪江(ふうこう)の人。姓は冉(ぜん)氏。諱(いみな)は蘭渓。十三歳で出家し、陽山の無明慧性に禅を学んだ。三十三歳の時、日本渡航をこころざし、寛元四年(一二四六年)、紹仁とともに九州大宰府に着いた。はじめ筑前円覚寺、ついで京都の泉涌寺(せんにゅうじ)に留まり、のちに北条時頼(一二二七年~一二六三年)の帰依を受け、時頼が建長五年(一二五三年)建長寺を建立すると、迎えられて開山となった。その後門下に告げ口されて前後二回にわたり甲斐に配せられた。二度目に赦されて鎌倉へ帰ったがまもなく病を起こし弘安元年(一二七八年)七月二十四日没した。道隆は良観と共に日蓮大聖人に敵対した張本人であり、北条執権を動かし、平左衛門尉と謀って迫害・弾圧のかぎりを尽くした。日蓮大聖人は、文永五年(一二六八年)十月、立正安国論に予言した他国侵逼難が、蒙古からの牒状(ちょうじょう)到来で的中した旨を、十一通の書状に認(したた)めて北条時宗をはじめ、時の権力者を諫暁されたのであった。このとき、道隆にも書状を送り、法の正邪を決すべく公場対決を迫られたのである。しかし、道隆はこれに応ぜず、卑劣にも幕府に働きかけて、文永八年(一二七一年)九月、竜の口の法難となったのである。道隆については、一般に高僧とみられているが、実際は堕落僧であったことは、筑前在住時代に官位を金で買おうとして失敗し世人の嘲笑をかったことや、二度の告げ口が自分の門下から出たことから考えても明らかである。

良観
(一二一七年~一三〇三年)。鎌倉時代の真言律宗の僧。良観は法号で、名を忍性(にんしょう)という。建保五年(一二一七年)、大和国(奈良県)に生まれた。十歳で信貴山(しぎさん)にのぼり、修行。二十四歳で奈良西大寺の叡尊(えいそん)の弟子となり、具足戒を受けた。のちに関東に下り、鎌倉で律宗を弘めた。北条時頼は光泉寺を創建して良観を開山とし、長時は極楽寺に良観を招いて開山とした。以来、鎌倉の人々の信頼を得、大きな力をもち、更に粗衣粗食と慈善事業によって聖人の名をほしいままにした。文永八年(一二七一年)に、大聖人と祈雨を競って敗れた後、大聖人を讒言(ざんげん)して死罪にしようと画策し、竜の口の法難、佐渡流罪を引き起こすなど、終始大聖人に敵対し、大聖人門下にも種々の迫害を加えた。

建長寺
 神奈川県鎌倉市にある臨済宗建長寺派の本山。鎌倉五山の首位。巨福山(こふくざん)と号す。建長元年(一二四九年)第五代執権・北条時頼が建立を発願し、宋僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を開山として同五年(一二五三年)に完成した。仏殿は丈六の地蔵を本尊とし、脇士に千体の小地蔵を置く。道隆の死後、宋僧・無学祖元(むがくそげん)もまた来朝してここに住んだ。

講義
 蒙古の来牒という他国侵逼難を招来したのは諸宗の謗法のゆえであるから、諸宗による蒙古の調伏は不可能であると断じ、道隆、良観、五大寺の長老は世間からはどんなに崇められていても増上慢の大悪人であるから蒙古調伏の祈りが叶うわけがないと断じられ、逆に今世には国を滅ぼし死後は無間地獄に堕ちるであろうと厳しく破折されて法の勝劣を公場で決することを求めて結ばれている。

 諸寺諸山の祈禱威力滅する故か将又悪法の故なるか

 蒙古から牒状が到来したことから、当時、諸寺諸山で蒙古調伏の祈禱が行われていた。これに対して大聖人は、四宗の諸寺諸山の祈禱の威力が滅失したゆえであろうか、それとも四宗の悪法が国に充満したゆえであろうか、世間から崇められている道隆・良観らの増上慢の僧がいかに祈っても、蒙古調伏などできるわけがないし、むしろ亡国を招くであろうと仰せられているのである。
 鎌倉中の人々から「仏の如く」「羅漢の如く」尊仰されている建長寺道隆や極楽寺良観、そのほか寿福寺など五大寺の長老たちは、いずれもその実体は「増上慢の大悪人」であり、祈りが叶う道理がないと喝破されている。
「増上慢」とは、真理を究めてもいないのに究めたと錯覚し、慢心を起こして他よりも優れていると思うことをいう。特に法華経および法華経の行者に敵対する増上慢について説いたのが法華経勧持品第十三である。
 この勧持品の文から、中国天台宗の妙楽大師(七一一年~七八二年)は法華文句記巻八の四で、三種に分け、「三類の強敵」と名づけたのである。すなわち、俗衆増上慢・道門増上慢・僭聖増上慢の三種である。
 俗衆増上慢とは法華経の行者を悪口罵詈(あっくめり)したり、刀杖を加えたりする仏法に無知な在俗の人々のことをいう。勧持品の「諸の無智の人の 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者有らん」(『妙法蓮華経並開結』四一八㌻ 創価学会刊)とあるのがこれに当たる。
 次に道門増上慢とは、未だ得ていないのに最高の法理を得たと慢心し、法華経の行者を誹謗する僧をいう。勧持品では「悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲(てんごく)に 未だ得ざるを謂(おも)いて得たりと為し 我慢の心は充満せん」(同・四一八㌻)と説かれている。
 僭聖増上慢とは似非(えせ)聖者をいう。つまり、世間から厚く尊敬され、聖者のように思われているが、内実は狡猾で、名聞名利を求める念が強く、慢心を抱き、自分より優れる人が現れると怨嫉(おんしつ)を起こし、権勢の力を利用して法華経の弘通者を除こうとする敵人のことである。
 勧持品では「自ら真(しん)の道(どう)を行(ぎょう)ずと謂(おも)いて 人間を軽賤(きょうせん)する者有らん 利養に貪著(とんじゃく)するが故に 白衣(びゃくえ)の与(た)めに法を説いて 世の恭敬(くぎょう)する所と為(な)ること 六通の羅漢の如くならん(中略)常に大衆(だいしゅ)の中に在(あ)って 我れ等を毀(そし)らんと欲するが故に 国王大臣 婆羅門居士 及び余の比丘衆に向かって 誹謗して我が悪を説いて 是(こ)れ邪見の人 外道の論議を説くと謂(い)わん」(同・四一八㌻)と説いている。
 本文に「道隆聖人をば仏の如く之を仰ぎ良観聖人をば羅漢の如く之れを尊む」とあるのは、僭聖増上慢を説いたこの勧持品の経意に基づいての仰せである。つまり、道隆・良観の二人こそ僭聖増上慢にほかならないと断じられているのである。
 それに対し「其の外寿福寺・多宝寺・浄光明寺・長楽寺・大仏殿の長老等」については本文に「『我慢の心充満し、未だ得ざるを得たりと謂(おも)う』の増上慢の大悪人なり」と仰せのように道門増上慢に当たるとされているのである。
 ゆえに、こうした「増上慢の大悪人」が、それぞれの低い法でどんなに祈ろうと、蒙古の調伏など思いも寄らないことであり、逆に蒙古の侵攻で国中の王民が蒙古の虜囚となって、今世では国を滅ぼし、後世では必ず無間地獄へ堕ちるであろうと警告されている。
 最後に、同趣旨の書状を執権・北条時宗、近侍の宿屋入道、家司(けいし)の平左衛門尉など幕府の為政者へも送ったことを告げ、一所に集まって評議したうえで、公場対決の用意をするよう促されている。
 そして、日蓮大聖人の諫言は「私曲の義」ではなく、「只経論の文に任す」あくまで経論を根拠にして言っているのであると仰せられている。
 最後に、詳細は書面に書きあらわせないから、公場対決の時を待ちたいと仰せられ、その理由として「書は言を尽さず言は心を尽さず」と述べられて、本書を締めくくられている。末尾の「道隆聖人侍者御中」とあるなかの「侍者」とは、そば近く仕える人の意である。侍者を通して住僧へ書状を届ける当時の儀礼に倣(なら)われたものである。

出典『日蓮大聖人御書講義』第四巻下(編著者 御書講義録刊行会 発行所 聖教新聞社)

                  建長寺道隆への御状 ―了―

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