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平左衛門尉頼綱への御状・第一章 再度の諌暁の目的を示す

         平左衛門尉頼綱への御状

       第一章 再度の諌暁の目的を示す

本文(御書全集一七一㌻初~一七一㌻四行)
 蒙古国の牒状到来に就いて言上せしめ候い畢(おわ)んぬ、抑(そもそも)先年日蓮立正安国論に之を勘(かんが)えたるが如く少しも違わず普合せしむ、然る間重ねて訴状を以て愁欝(しゅううつ)を発(ひら)かんと欲す爰(ここ)を以て諫旗(かんき)を公前に飛ばし争戟(そうげき)を私後に立つ、併(しかし)ながら貴殿は一天の屋梁(おくりょう)為り万民の手足為り争(いか)でか此の国滅亡の事を歎かざらんや慎まざらんや、早く須(すべから)く退治を加えて謗法の咎(とが)を制すべし。

通解
 蒙古国から牒状が到来したことについて執権へ言上したのである。先年、日蓮が立正安国論にこれを勘えたのと少しも違わず符号している。
 それゆえ重ねて訴状をもって日頃の愁(うれ)いをひらこうと望んだのである。そのため執権に諫状を送り、建長寺などへ破折の書を送ったのである。しかしながら貴殿は天下の棟梁であり、万民の手足である。どうしてこの国の滅亡のことを歎かずにいられようか、用心しないでいられようか。一日も早く謗法に退治を加えてその咎を制すべきである。

語訳
蒙古国
 十三世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から、西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では五代フビライ(クビライ。世祖)が一二七一年に国号を元と称し、一二七九年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永五年(一二六八年)一月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永十一年(一二七四年)、弘安四年(一二八一年)の二回にわたって大軍を送った。

立正安国論
 文応元年(一二六〇年)七月十六日、日蓮大聖人が三十九歳の時、鎌倉幕府の実質的な最高権力者である北条時頼に提出された国主諫暁の書(一七㌻)。五大部の一つ。諫暁とは諫(いさ)め暁(さと)す、すなわち相手の誤りを指摘して正しい道に導くという意。本抄御執筆当時、日本では飢饉・疫病・災害によって多くの民衆が苦悩にあえいでいた。本抄では種々の経典を引用しながら、こうした災難の根本原因は謗法であると明かし、その元凶は、浄土教の教え以外を捨閉閣抛(しゃへいかくほう)せよと主張する法然(源空)の専修念仏(せんじゅねんぶつ)であるとして、これをもっぱら破折されている。そして謗法の教えへの帰依をやめて正法に帰依しなければ、三災七難のうち、残る「自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)(内乱)」と「他国侵逼難(たこくしんぴつなん)(外国からの侵略)」が起こると予言し警告された。しかし幕府はこの諫言を用いることなく、謗法の諸宗の僧らを重用した。その結果、二難はそれぞれ文永九年(一二七二年)の二月騒動(北条時輔の乱)、文永十一年(一二七四年)と弘安四年(一二八一年)の蒙古襲来として現実のものとなった。本抄の構成としては、災難を嘆きその根本原因を尋ねる客(=北条時頼を想定)に対して、主人(=日蓮大聖人)が立正安国(正を立て、国を安んず)を説くという十問九答の問答形式で展開されている。なお、「広本(こうほん)」と呼ばれる身延入山後に再治された本には、真言などの諸宗を破折する文が添加されている。

講義
 本書状は文永五年(一二六八年)十月十一日、日蓮大聖人が四十七歳の御時、鎌倉幕府の実力者・平左衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな)(~一二九三年)へ与えられた書である。「十一通御書」の一つ。
 頼綱は平盛時の子で、平重盛の子孫にあたるところから、平頼綱・平金吾と呼ばれる。また左衛門尉に任じられていたので、平左衛門尉とも称された。
 執権・北条時宗、貞時の二代に仕え、鎌倉幕府の政治上の実力者として権勢を振るった。北条得宗家(北条氏の嫡流)の家司(けいし)(執事)、また侍所所司(次官)として、軍事、警察、政務を統括していた。頼綱は、律宗の極楽寺良観や諸宗の僧と結びつき、日蓮大聖人の諌言を用いず、かえって迫害を加え、大聖人並びに門下を弾圧した。
 大聖人は文永八年(一二七一年)九月十二日の竜の口の法難の直前と、同十一年(一二七四年)四月八日の佐渡御赦免直後の二回にわたって頼綱を諌暁されている。頼綱も大聖人が佐渡流罪を赦免になられた時は態度を改め、蒙古襲来の時期などについて質問している。大聖人は「今年は必ずくる」(※)と答えられ、早く邪法を捨てて正法に帰依する以外、この災難を対治する方法はないと諌められたが、聞き入れなかった。
(※追記 大聖人御予言の六か月後、果たして蒙古が襲来した〔文永の役〕)
 弘安二年(一二七九年)九月の熱原の法難の際には、滝泉寺院主代・行智の策謀に応じ、捕らえられ送られてきた熱原の農民信徒二十人を自邸で拷問にかけ改宗を迫ったが、一人も退転する者がいなかったため、神四郎、弥五郎、弥六郎の三人を斬首、十七人を追放している。三人は後世、熱原の三烈士と称えられた。
 弘安七年(一二八四年)四月、執権・時宗が病死、嫡子・貞時が十四歳で第九代執権に就いた時、権力争いの相手であった評定衆の安達泰盛を讒訴(ざんそ)して滅ぼし、幕府の実権を掌握した。いわゆる「霜月騒動」である。その勢いは執権をしのぐほどになった。
 しかし、永仁元年(一二九三年)四月、次男・資宗(すけむね)を執権にしようとの野望が発覚、反逆の罪で資宗ともども斬罪に処された。父・頼綱の企みを密告した長男・宗綱も佐渡へ流罪され、頼綱一族は滅亡した。大聖人が御入滅されて十年六か月後のことである。日興上人は弟子分帳のなかで「これただ事にあらず、法華の現罰を蒙(こうむ)れり」と記されている。
 また日寛上人は、撰時抄文段で「今案じて云く、平左衛門入道果円の首を刎ねらるるは、これ則ち蓮祖の御顔を打ちしが故なり。最愛の次男安房守の首を刎ねらるるは、これ則ち安房国の蓮祖の御頸を刎ねんとせしが故なり。嫡子宗綱の佐渡に流さるるは、これ則ち蓮祖聖人を佐渡島に流せしが故なり」と、因果応報の厳しさを述べられている。
 さて、本書状の内容は、立正安国論の予言が符合したことをまず指摘され、蒙古襲来による国の滅亡を救う道は、謗法の寺僧を退治して、諸天善神の擁護(おうご)をこうむる以外にないことを教えられている。

 重ねて訴状を提出

 冒頭、「蒙古国の牒状到来に就いて言上せしめ候い畢(おわ)んぬ」と、蒙古から牒状(国書)が到来したことを機に、執権・北条時宗へ諫状を送ったことを告げられている。
 蒙古の牒状到来によって、九年前に上呈した立正安国論での予言が少しも違わず符号したとされ、それゆえ、日頃の愁いを発(ひら)こうと思って重ねて訴状を提出したと述べられている。「愁欝(しゅううつ)」は、愁いで気がふさぐ意で、日本の国が蒙古軍の侵逼を受けることに対する愁いの気持ちを仰せられている。
 本書状で「重ねて訴状を以て愁欝を発(ひら)かん」と言われているが、「訴状」とは理非・曲直の裁断を請うために問注所(裁判所)などに提出する文書である。これに対する答弁書が「陳状」である。ただし、ここで仰せの「訴状」とは十一通の御状全てをさして言われたと考えられる。
「諫旗を公前に飛ばし」とは、諌暁を旗にたとえ、国主に向かって翻すことをいい、幕府に直諫の書を提出したことを意味する。「争戟(そうげき)を私後に立つ」とは、法論を戟(ほこ)をもって戦うことにたとえ、「諫旗」との対句である。ここでは諸宗の僧に対する破折の書を送ったことを意味する。未曾有の国難をまえに座視できない御本仏の烈々たる気迫が伝わってくる。
 そして、「併(しかし)ながら貴殿は一天の屋梁(おくりょう)為り万民の手足為り」と、一方に執権への「諌旗」、他方に諸宗への「争戟」を出されたなかで、その両方につながりをもつ平左衛門尉への期待を述べられている。すなわち、頼綱は政治・軍事の大権を握る幕府の実力者であるとともに、万民の手足となって民のために仕えるべき立場であるとされ、「争(いか)でか此の国滅亡の事を歎かざらんや慎まざらんや」と、国が滅亡しようとしていることとについて、あなたが憂えられないはずがないと述べられ、「早く須(すべから)く退治を加えて謗法の咎(とが)を制すべし」と、国難の元凶である邪法悪法を早急に退治すべきであると、強く謗法禁断を求められている。

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