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北条時宗への御状・第三章 諸宗との公場対決を迫る

           北条時宗への御状

       第三章 諸宗との公場対決を迫る

本文(一七〇㌻九行~一七〇㌻終)
 此の由方方(かたがた)へ之を驚かし奉る一所に集めて御評議有つて御報に予(あず)かる可(べ)く候、所詮は万祈を抛(なげう)つて諸宗を御前に召し合せ仏法の邪正を決し給え、澗底(かんてい)の長松未だ知らざるは良匠(りょうしょう)の誤り闇中の錦衣(きんい)を未だ見ざるは愚人の失(とが)なり。
 三国仏法の分別に於ては殿前に在り所謂阿闍世(あじゃせ)・陳隋(ちんずい)・桓武(かんむ)是なり、敢て日蓮が私曲に非ず只偏(ひとえ)に大忠を懐(いだ)く故に身の為に之を申さず神の為・君の為・国の為・一切衆生の為に言上せしむる所なり、恐恐謹言。
  文永五年戊辰十月十一日       日 蓮  花 押
   謹上 宿屋入道殿

通解
 このことを他の方々(建長寺等十か所)へ申し送ってあるから、一所に集めて御評議のうえ、御返事にあずかりたい。所詮はこれまでの諸仏諸神への祈禱をなげうって、諸宗の僧たちと日蓮を御前に召し合わせて仏法の邪正を決していただきたい。谷の深い所に松の良材があるのに、これを未だ知らないでいるのは良匠の誤りとなり、闇のために錦衣を見分けられないでいるのは愚人の失である。
 三国(インド・中国・日本)において、仏法の分別は(国主の)殿前で行われた。いわゆる阿闍世王は釈尊の正しさを知り、陳や隋の国主は天台大師の正しさを知り、桓武天皇は伝教大師の正しさを知った。
 これは日蓮の身勝手の邪見ではない。ただひとえに大忠を懐くゆえであって、自身のために申すのではない。神のため、君のため、国のため、一切衆生のために申し上げるのである。恐恐謹言。
  文永五年戊辰十月十一日       日 蓮  花 押
   謹上 宿屋入道殿

語訳
阿闍世(あじゃせ)
 梵名アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨(みしょうおん)と訳す。釈尊在世における中インド・マガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希(いだいけ)夫人。提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って釈尊を殺そうとするなどの悪逆を行った。のち、身体に悪瘡ができことによって仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど仏法のために尽くした。

陳隋(ちんずい)
 陳王朝(五五七年~五八九年)と随王朝(五八一年~六一八年)。陳は中国・南北朝時代の南朝最後の王朝。梁の後を受けて建国し、隋に滅ぼされた。中国は分裂が長く続いた時代が終わり、再び統一された。天台大師智顗は、陳の宣帝(せんてい)と後主叔宝(しゅくほう)の帰依を受けた。隋は南北朝に分裂していた中国を再統一した王朝。文帝(楊堅(ようけん))が科挙をはじめ帝政の強化を図ったが、子の煬帝(ようだい)(晋王楊広(ようこう))の外征失敗などで混乱し、唐に滅ぼされ短命に終わった。文帝は北周の廃仏以降の仏教復興を図り、そのもとで寺院の建設や訳経事業が活発に行われた。天台大師智顗は文帝と煬帝の帰依を受け、また同時代の吉蔵(嘉祥)が三論教学を大成した。

桓武(かんむ)
(七三七年~八〇六年)。桓武天皇のこと。第五十代天皇。光仁天皇の第一皇子。律令政治を立て直すため、長岡京、平安京への遷都を行った。伝教大師最澄を重んじ、日本天台宗の成立に大きく貢献した。

講義
 本段では、諸宗の高僧たちとの公場対決を要求されている。公場対決とは公の場所で、相対(あいたい)し、法門の正邪・勝劣・高低を決することをいう。当時は君主制であったため、公場での対決は必然的にとられた方法である。
 主権在民の現代においては、〝公場対決〟は、民衆のなかで一対一の仏法対話であり、折伏・弘教であるといえよう。
 また広い意味では、正法の信仰者が社会のなかで実証を示し、他の思想が誤っていることを示しゆくことも、それに当たるであろう。
 まず、同じような諫状を「方方へ」送ったので、彼らを一堂に集めて評議し、そのうえで公場での対決を実現するよう、返事を求められている。
「所詮は万祈を抛(なげう)って」とは、当時、頻発する天変地変を治めようとして、国の上下を挙げ、諸宗の邪法を用いて行っていた祈禱・祈願をやめよ、ということである。
 その諸宗の邪法たる所以を明らかにするためには「諸宗を御前に召し合わせ」、すなわち諸宗の高僧たちと日蓮大聖人とを、執権である時宗の御前で対決させ、邪正を決することであると、公場での法論実現を迫られている。

 澗底(かんてい)の長松未だ知らざるは良匠(りょうしょう)の誤り闇中の錦衣(きんい)を未だ見ざるは愚人の失(とが)なり

 蒙古を調伏し、国を安泰に導くのは「日蓮に非ざれば叶う可からざるなり」と強く諌める大聖人を無視して、一向に用いようとしない為政者・時宗の誤り、愚かさを指摘した譬えである。
「澗底の長松未だ知らざるは良匠の誤り」とは、だれにも見えている山にだけ木を求めて、澗底(深い谷の底)にはえている松の良材を見いだせないのは、良匠(腕の立つ大工)としては大なる誤りである、との意である。
 また「闇中の錦衣を未だ見ざるは愚人の失」とは、暗闇のなかに錦衣(美しい着物)を着た人がいても、暗いために見分けることができないでいるのは、愚人の罪であるということである。
「澗底の長松」「闇中の錦衣」を大聖人御自身に、「良匠」「愚人」を北条時宗になぞらえておられることは論をまたない。時宗にとって厳しい諌言であるが、そのような愚かな人であってはならないとの諌言であられる。

 三国仏法の分別に於ては殿前に在り所謂阿闍世・陳隋・桓武是なり

 ここでは公場対決の先例を示されている。「三国」つまりインド・中国・日本では、仏法の邪正の分別は、「殿前に在り」、すなわち国王や皇帝の御前で行われてきたことを指摘され、そうした前例にならうよう勘められている。すなわち「阿闍世」がインド、「陳隋」が中国、「桓武」が日本の例である。
「阿闍世」とは、釈尊在世時代のインド・マガダ国の阿闍世王で、六師外道に対して釈尊の正しさを知って仏法に帰依したことをさす。六師外道とはバラモン教の中で起きた六派の思想運動で、当時の社会で新しい思想の代表とみなされていた。
 沙門果経によると、阿闍世王は各大臣から六師外道の教えを聞いたが、いずれに対しても満足できなかった。その後、耆婆(ぎば)大臣から釈尊に会うことを勧められ、千二百五十人の比丘僧団の前で釈尊と問答の末、釈尊に帰依したとされる(世界の名著1「バラモン経典・原始仏典」五〇五㌻)。
 阿闍世王は後に釈尊教団の大檀那となり、釈尊滅後は経典結集の事業を支援し仏法を後世に遺すうえで大きく貢献した。
「陳隋」とは、中国・陳王朝(五五七年~五八九年)第五代の後主淑宝(しゅくほう)と、随王朝(五八一年~六一八年)第二代の煬帝(ようだい)のことをさす。
 これらの為政者の前で仏法を宣揚したのが天台大師(五三八年~五九七年)である。天台大師は当時までの中国仏教の代表である南三北七の十師を悉く論破し、「法華経第一」を確立した。このことについては報恩抄には「南北の諸師(中略)智顗法師(ちぎほっし)をば頭をわ(破)るべきか国をを(逐)うべきかなんど申せし程に陳主此れを・きこしめして南北の数人に召し合せて我と列座してきかせ給いき」(二九九㌻)と述べられている。
「桓武」とは、日本の第五十代桓武天皇(七三七年~八〇六年)のことで、仏教に理解が深かった。伝教大師(七六七年~八二二年)は延暦二十一年(八〇二年)一月十九日、高雄寺で南都六宗の碩学(せきがく)十四人と対論し、彼らを論破して謝表(承伏状)を提出させた。
 このことについて撰時抄には「(伝教大師は)仏の誡(いましめ)ををそれて桓武皇帝に奏し給いしかば帝・此の事ををどろかせ給いて六宗の碩学に召し合させ給う(中略)終(つい)に王の前(みまえ)にしてせめをとされて六宗・七寺・一同に御弟子となりぬ」(二六三㌻)と記されている。
 このように公場対決を求められるのは「敢て日蓮が私曲に非ず」と述べられ、その本意は「只偏(ひとえ)に大忠を懐(いだ)く故に身の為に之を申さず神の為・君の為・国の為・一切衆生の為に言上」しているのであると述べられて、本書を結ばれている。
 宛名は「謹上 宿屋入道殿」となっているが、この御状が執権・北条時宗宛てであることは内容から明確であり、これは近侍である宿屋入道の手を経て北条時宗の御前へ披露を請うという形式を踏まれたためである。

出典『日蓮大聖人御書講義』第四巻下(編著者 御書講義録刊行会 発行所 聖教新聞社)

                   北条時宗への御状 ―了―

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