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北条時宗への御状・第二章 正法への帰依を勧める

          北条時宗への御状

       第二章 正法への帰依を勧める

本文(一七〇㌻三行~一七〇㌻九行)
 夫(そ)れ此の国は神国なり神は非礼を稟(う)けたまわず天神七代・地神五代の神神・其の外諸天善神等は一乗擁護(おうご)の神明なり、然(しか)も法華経を以て食と為し正直を以て力と為す、法華経に云く諸仏救世者(しょぶつくせしゃ)・大神通に住して衆生を悦ばしめんが為の故に無量の神力を現ずと、一乗棄捨(きしゃ)の国に於ては豈(あに)善神怒を成さざらんや、仁王経(にんのうきょう)に云く「一切の聖人去る時七難必ず起る」と、彼(か)の呉王は伍子胥(ごししょ)が詞(ことば)を捨て吾が身を亡し・桀紂(けつちゅう)は竜比(りゅうひ)を失つて国位を喪(ほろ)ぼす、今日本国既に蒙古国に奪われんとす豈歎かざらんや豈驚かざらんや、日蓮が申す事御用い無くんば定めて後悔之有る可し、日蓮は法華経の御使なり経に云く「則ち如来の使如来の所遣として如来の事を行ず」と、三世諸仏の事とは法華経なり。

通解
 この国は神の国である。神は礼にそむくことをうけられない。天神七代、地神五代の神々、その外、諸天善神等は法華経守護の神々である。しかも法華経を食となし、正直をもって力とするのである。法華経神力品第二十一には「諸の仏、救世者は大神通に住して衆生を悦ばしめんがための故に、無量の神力を現じたもう」とある。法華経を捨てて顧(かえり)みない国においては、諸天善神が怒りをなして守護されないのは当然である。
 仁王経には「一切の聖人が国を捨てて去る時、七難が必ず起こる」とある。呉王の夫差(ふさ)は伍子胥(ごししょ)の諫めを捨てて我が身を亡ぼした。夏(か)の桀王(けつおう)、殷の紂王(ちゅうおう)は忠臣竜蓬(りゅうほう)や比干(ひかん)を殺して王位を失った。今、日本国はすでに蒙古国に奪われようとしている。どうして嘆かずにいられようか、どうして驚かずにいられようか。日蓮が申すことをお用いにならなければ、必ず後悔されるであろう。日蓮は法華経の御使いである。
 法華経法師品第十に「この人は則ち如来の使いであり、如来の所遣として、如来の事を行ずる」とある。三世諸仏の事とは法華経である。

語訳
天神七代
 日本神話の神々で、日本書紀巻一によると、天地開闢(かいびゃく)の初、天地の中に葦牙(あしかび)のようなものが生(な)り、それが神と化爲(な)った。第一・国常立尊(くにのとこたちのみこと)、第二・国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、第三・豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)(以上の三神は男性の独化身)、第四・泥土煮尊(ういじにのみこと)と沙土煮尊(すいじにのみこと)、第五・大戸之道尊(おおとのじのみこと)と大苫辺尊(おおとまべのみこと)、第六・面足尊(おもだるのみこと)と惶根尊(かしこねのみこと)、第七・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)(以上の八神は男女の耦生神(ぐうせいじん))。古事記・日本書紀では神世七代(かみのよななよ)という。

地神五代
 日本神話の神々。天神七代のあと地上に降りて人王第一代の神武天皇に先立って日本を治め、皇統の祖神となったとされる五代の神。日本書紀には天照大神(あまてらすおおみかみ)、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)、天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)をさす。

法華経
 大乗仏典の極説。梵名サッダルマプンダリーカ・スートラ(Saddharmapuṇḍarīka-sūtra)、音写して薩達摩芬陀梨伽蘇多覧(さだるまふんだりきゃ・そたらん)、「白蓮華のごとき正しい教え」の意。経典として編纂されたのは紀元一世紀ごろとされ、すでにインドにおいて異本があったといわれる。漢訳には「六訳三存」といわれ、六訳あったが現存するのは三訳である。その中で後秦代の鳩摩羅什訳「妙法蓮華経」八巻は、古来より名訳とされて最も普及している。内容は前半十四品(迹門)には二乗作仏、悪人成仏、女人成仏等が説かれ、後半十四品(本門)には釈尊の本地を明かした久遠実成を中心に、本因妙・本果妙・本国土妙の三妙合論に約して仏の振る舞い、また末法に法華経を弘通する上行菩薩等の地涌の菩薩に結要付嘱されたこと等が説かれている。

仁王経(にんのうきょう)
 中国・後秦の鳩摩羅什による仁王般若波羅蜜経(にんのうはんにゃはらみつきょう)と、唐の不空による仁王護国般若波羅蜜多経(にんのうごこくはんにゃはらみったきょう)の二訳が現存するが、中国撰述の経典とする説もある。二巻。正法が滅して思想が乱れる時、悪業のために受ける七難を示し、この災難を逃れるためには般若を受持すべきであるとして菩薩の行法を説く。法華経・金光明経とともに護国三部経とされる。

七難
 七種の災難のこと。仁王経、薬師経、金光明経等に説かれる。仁王経巻下には、①日月(にちがつ)失度難(太陽や月の異常現象)②星宿(しょうしゅく)失度難(星の異常現象)③災火難(大火が国土を焼き、一切を焼き尽くす)④雨水難(大水が人々を漂没させる)⑤悪風難(大風が吹いて人々が死に、山河や樹木が一時に滅没する)⑥亢陽(こうよう)難(旱魃のため草は枯れ、穀物が実らず人々は滅尽する)⑦悪賊難(他国からの侵略、国内の賊によって戦乱が起こる)の七種が説かれる。

呉王は伍子胥(ごししょ)が詞(ことば)を捨て
 呉王はここでは夫差(ふさ)(~前四七三年)のこと。中国春秋時代の呉王朝最後の王。父の呉王闔閭(こうりょ)は越王勾践(こうせん)に敗れ、その復讐を子の夫差に託して死ぬ。そこで夫差は、二年後に再び勾践と相対して勾践を敗る。勾践は夫差に和解を申し入れるが、内心はこれに取り入って再起をうかがう腹であった。そのとき家臣の伍子胥(ごししょ)(~前四八五年)は、越が後日軍備を整えて攻めてくるのを見通して、夫差に勾践の首をはねることを進言した。夫差はこれを聞き入れないので、再び勾践を殺すことを進言するが、それも聞き入れられず、かえって宰相・嚭(ひ)の讒言により自害させられる。そのとき、伍子胥は「自分の死んだのちに、わが眼を呉の東門に懸けておけ。敵国越が呉を亡ぼすさまを見届けよう」といって自害した。その後予言どおり呉は越に亡ぼされた。

桀紂(けつちゅう)
 桀は中国・夏(か)王朝の最後の王。名は履癸(りき)。史記によれば暴虐で人民を苦しめ、民財を尽くして酒池肉林の楽にふけった。殷の湯(とう)王に滅ぼされる。紂は紀元前十一世紀ごろの人で殷王朝最後の王。名は受、死後辛と称された。史記によれば専断的で臣下の言を用いず酒池肉林をきわめ、民に重税をかけ苦しめた。周の武王に滅ぼされる。桀、紂とも中国における悪王の代表とされる。

竜比(りゅうひ)
 竜は夏の桀王(けつおう)に仕えた竜蓬(りゅうほう)。比は殷の紂王(ちゅうおう)に仕えた比干(ひかん)のこと。共に主君の暴虐を諫めて容(い)れられず殺された。

講義
 国を守護する善神は、衆生が正法である法華経に帰依してこそ法味によって勢力を増し守護の働きをあらわすのであり。謗法を捨てよとの大聖人の諌言を用いなければ必ず後悔する事態を招くと警告されている。
「此の国は神国なり」とは、古事記や日本書紀などにみられるように、我が国には神が天地・国家を創造し、統一して支配したという思想があり、天照太神・八幡大菩薩が守護していると考えられていたからである。更にいえば、これらの神を仏法で説く〝諸天善神〟のなかに包括され、「神国なり」といわれたとも拝される。
 諸天善神は梵天・帝釈・天照太神・八幡大菩薩をはじめとする一切の諸天の総称であり、正法である法華経(妙法)を人々が信仰するとき、その法味を力として民衆と国土を守護し、福をもたらす働きをもつ。
 神道では天照太神や八幡大菩薩を礼拝の対象としているのに対し、仏法では妙法の働きの一分として位置づけているのである。したがって、人々が正法である妙法に背き、妙法を誹謗しているときには、善神は守護の威光勢力を失うことになる。
「神は非礼を禀(う)けたまわず」と仰せの「非礼」とは正しい道理にのっとらない行為、すなわち邪法帰依、法華誹謗をさす。「禀けたまわず」は人々が尊敬・礼拝を捧げて祈っても、祈りは叶えられないことを意味する。
「正直」とは「正しく真っすぐであること」をいい、正しい教え、法華経を仏説通りに信受することである。日本神話で日本を治めたとされる「天神七代・地神五代の神神」そのほかの一切の諸天善神は「一乗擁護(おうご)の神明なり」と、「一乗」である法華経擁護の本来の役割とする神々であるとされている。「神明」は天神地祇のことで、諸天善神をいう。
「法華経を以て食と為し正直を以て力と為す」とは、諸天善神は法華経の法味を食して威光勢力を増すのであり、しかも人々の生き方・信仰の姿勢が「正直」であってこそ、守護の力を発揮するということである。
「法華経に云く諸仏救世者(しょぶつくせしゃ)・大神通に住して衆生を悦ばしめんが為の故に無量の神力を現ず」とは、法華経如来神力品第二十一(『妙法蓮華経並開結』五七三㌻ 創価学会刊)の文である。
 諸仏救世者は大神通をそなえ、衆生に悦楽を与えるために無量の神力を現じたとの意であるが、ここでは仏の持つ「無量の神力」に諸天善神の働きも包摂されているとして引用されたと拝察される。
 なお「神力」とは神通力のことで、〝神〟は計り知ることができない、との意。〝通〟は働きが自在で妨げのないこと。〝力〟は作用、働きをいう。つまり仏の有する不可思議な力用をさす。
 大聖人は御義口伝「如来秘密神通之力の事」で「成仏するより外の神通と秘密とは之れ無きなり」(七五三㌻)と、一切衆生を成仏させる力を「如来秘密神通之力」というと説かれている。
 また、如来神力品の題号を釈されるなかで「妙法蓮華経如来と神との力の品と心得可きなり(中略)此の神とは山王七社等なり此の旨之を案ず可きなり」(七七〇㌻)と御教示されている。
 したがって、「一乗棄捨(きしゃ)の国」、すなわち法華経を捨て、邪法が充満する国においては、善神が法華経の題目の法味を食することができないため怒りをなし、国を治罰するのは当然のことではないか、といわれている。

 一切の聖人去る時七難必ず起る

「一乗棄捨」によって善神が瞋恚(しんに)を起こし、このため七難が起きることを、仁王経巻下の「一切の聖人去る時七難必ず起る」の文を示して教えられている。
 ここでは「聖人」も、人々が正法に背くときには去るとの原理から仰せられている。このことは安国論に「善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず」(一七㌻)と仰せられている通りである。
 蒙古の来牒によって、「七難」のなかの最後の難である他国侵逼難が現実化し「七難必ず起る」の経文通りになったわけである。

 彼の呉王は伍子胥が詞を捨て吾が身を亡し

 続いて、そうした「聖人」の一分の例として忠臣の諌言を国主が用いなかったために亡国を招いた先例を、中国の故事から示されている。「彼の呉王」とは、中国・春秋時代の呉の王だった夫差(在位、前四九六年~前四七三年)のことである。
 父王である闔閭(こうりょ)は越王・勾践(こうせん)との戦いに敗れ、太子・夫差に復讐を遺言して死んだ。王位を継いだ夫差は二年後に再び越と対戦し、大勝した。勾践は会稽山(かいけいさん)(現在の浙江省紹興)にこもり、呉に降伏を申し出た。
 その時、呉の重臣・伍子胥(?~前四八五年)が「今、越を滅ぼさなければ、あとで後悔するでしょう。勾践は賢君で、許されて国に帰ったら、必ず反乱を起こすでしょう」と進言したが、夫差はその諫めを聞かず、勾践を許して越へ帰国させた。
 伍子胥はその後も越に備えるよう説いたが、夫差は聞き入れなかっただけでなく、宰相・伯嚭(はくひ)の讒言を用い、伍子胥を自害させてしまったのである。その際、伍子胥は「我が眼をえぐって、呉の東門に懸けよ。越人が呉を滅ぼすさまを見ん」と言って死んだ。
 果たせるかな、それから二年後、国力を回復した越王・勾践は、呉に叛旗を翻した。油断を突かれた呉は戦いに敗れ、夫差は伍子胥の諌言を用いなかったことを後悔しながら自ら命を断ち、呉は滅びたのである。

 桀紂は竜比を失つて国位を喪ぼす

「桀紂」は中国・古代の二人の王、夏の桀王と殷の紂王のことで、ともに悪王の代表とされている。「竜比」とは竜蓬と比干のことで、竜蓬は桀王に、比干は紂王に仕えた忠臣である。
 桀王は夏王朝最後の王であるが、妃の妺嬉(ばっき)におぼれ、その言をすべて聞き入れ、悪政の限りを尽くし、人民を苦しめた。竜蓬が諌めたが用いず、かえって竜蓬の首を刎ねてしまった。やがて諸侯を率いて立った湯王によって滅ぼされた。湯王は殷王朝を開いた。
 また紂王も殷王朝の最後の王である。知力、腕力ともに優れていたが、妃の妲己(だっき)を溺愛して淫欲にふけり、酒池肉林に興じて、重税で農民を苦しめた。比干がこれを諌めたが、紂王は聞き入れようとせずかえって比干の胸を裂いて殺した。紂王はやがて、兵を起こした周の武王によって討たれ、殷王朝は滅びた。
 大聖人は妙法比丘尼御返事でも「竜逢・比干なんど申せし賢人は、頚(くび)をきられ胸をさかれしかども国の大事なる事をばはばからず申し候いき」(一四一二㌻)と述べられている。他に開目抄(二〇四㌻)、聖愚問答抄(四九三㌻)などの御抄でも引用されている。

 日蓮は法華経の御使なり経に云く「則ち如来の使如来の所遣として如来の事を行ず」と

 大聖人は御自身を「伍子胥」「竜比」に比せられ、「日蓮が申す事御用い無くんば定めて後悔之有る可し」と、執権・時宗に大聖人の諌暁を用いるよう促されている。
 しかも大聖人は、単に世法上の賢人・聖人ではない。ここで大聖人は、御自身の立場を経文のうえから「日蓮は法華経の御使なり」と宣言されている。すなわち、法華経法師品第十に「是(こ)の人は則ち如来の使(つかい)にして、如来に遣わされて、如来の事(じ)を行ず」(『妙法蓮華経並開結』三五七㌻ 創価学会刊)とある経文がそれである。
「如来の使」とは仏の使者、仏の代理人として振る舞う人をいう。「如来に遣わされて」も仏に遣わされる人の意で、「如来の使」と同じ意味である。「如来の事を行ず」とは、仏のなす行為を行ずることで、法華経を衆生に説くことをいう。
 天台大師は法華文句巻八上で、この文について「今日の行人は能(よ)く大悲有りて、此の経の中の真如の理を以て衆生のために説き、利益を得せしむ。亦(また)如来の事を行ずと名づくるなり」と釈している。
 ゆえに「如来の事」について、次下で「三世諸仏の事とは法華経なり」と述べられているのである。

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