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十一通御書について

          十一通御書について

 文永五年(一二六八年)閏(うるう)正月に蒙古から初めての牒状が幕府に到来し、これを機に、同年八月二十一日に著された宿屋入道への御状、十月十一日の十一通の御状、そして十一通の御状と同じ日に著された弟子檀那中への御状は同じ背景のもとに著されたものであるので、これらをひとまとめとし、その背景を最初に明らかにし、続いて本文の講義に入ることにする。なお、十一通の御状は古来、「十一通御書」として呼称されているので、本講義でもそれにならい、総称する場合は「十一通御書」と表記した。

 立正安国論で国主諌暁

 日蓮大聖人は文応元年(一二六〇年)七月十六日、三十九歳の御時、立正安国論を著され、宿屋入道光則を通じて、時の鎌倉幕府の最高権力者・北条時頼(一二二七年~一二六三年)に提出された。第一回の国主諌暁(かんぎょう)である。
 当時、時頼は第五代執権職を退いて、最明寺に出家しており、第六代執権には北条長時が就いていたが、依然として幕府の権力は時頼が握っていた。大聖人はこの実質的な〝国主〟である時頼に対し諌暁されたのである。諌暁とは、国の重大事について指導者の迷いや誤りを聞き、諌(いさ)め暁(さと)すことである。
 立正安国論は奥書に「去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥(いぬい)の尅(こく)の大地震を見て之を勘(かんが)う」(三三㌻)と仰せられているように、正嘉元年(一二七五年)の大地震を契機として執筆・上呈を決意されたものである。
 全体が客と主人の十問九答で構成されており、客の最後の言葉は主人の答えも兼ねている。客とは、宗教の正邪を知らず誤った宗教に執着し、迷妄に覆われた一切衆生をさすが、別しては北条時頼を想定されている。主人とは、仏説にのっとり真実を究めた人で、いうまでもなく日蓮大聖人御自身のことである。
 安国論の内容を要約すれば、当時、日本の国を襲っていた天災・飢饉・疫病等は、世の人々が皆、正法に背いて悪法を信じているゆえに、国土を守護すべき善神が去って、悪鬼・魔神が住みついていることに根本原因があることを金光明経等の四経の文を引いて示される。そして、その背正帰邪をもたらした「一凶」は日本の念仏宗(浄土宗)の開祖・法然(一一三三年~一二一二年)の邪義であると喝破され、この一凶を断じて正法に帰依することが平和楽土実現の道であると論じられている。
 そして、もしこれを早く実行しなければ、七難のなかでまだ起こっていない自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)と他国侵逼難(たこくしんぴつなん)の二難が必ず起こるであろうと予言され、速やかに正法(実乗の一善)に帰依するよう強く訴えて結ばれている。

 上呈契機に値難始まる

 当時は日本中の人々が熱狂的に念仏を信仰していた時代であるから、大聖人はこの諌暁が重大な迫害をもたらすことを覚悟されていた。
 果たせるかな、日蓮大聖人の諌言は、直ちに念仏者の知るところとなり、彼らは北条重時ら念仏を信仰していた権力者を後ろ盾に、安国論上呈から約四十日後の文応元年(一二六〇年)八月二十七日の深夜、松葉ケ谷(やつ)(現在の神奈川県鎌倉市大町)の大聖人の草庵を襲い、大聖人を暗殺しようとしたのである。この時、大聖人は奇跡的に法難を逃れ、下総(現在の千葉県市川市)の壇越・富木常忍のもとへ身を寄せられた。
 翌弘長元年(一二六一年)、鎌暮へ帰られた大聖人を、幕府は念仏者らの訴えによって捕らえ、五月十二日、伊豆の伊東(現在の静岡県伊東市)へ流罪したのである。
 弘長三年(一二六三年)二月に伊豆流罪から赦免になられ、その翌文永元年(一二六四年)七月五日、東北の空に凶瑞(きょうずい)である大彗星が現れたことから、大聖人は安国論で予言した自界叛逆難・他国侵逼難の二難が現実のものとなることを確信されたのである。

 他国侵逼難の予言が的中

 安国論の上呈から九年後の文永五年(一二六八年)、日本国にとって重大事件が勃発した。蒙古国のフビライ汗から牒状(国書)が到来したのである。フビライ汗は南栄を滅ぼして中国本土を領土に組み入れた元の世祖である。
 属国であった高麗(朝鮮)の藩阜(はんぷ)が蒙古の使者として牒状を携え、九州の太宰府(現在の福岡県太宰府市)へ上陸、同年閏(うるう)正月十八日、牒状は鎌倉幕府に届けられた。
 牒状は、表向きは通交を求めるというものであったが、実質的には蒙古の威に服して属国となり、貢(みつ)ぎ物をせよ、と日本に迫ったものであった。
 驚いた幕府は第七代執権・北条政村(一二〇五年~一二七三年)が連署(執権職の補佐)に退き、十八歳の北条時宗が第八代執権となって、蒙古の襲来に備えた。
 このように、大聖人の予言が見事に的中したという現実を前にしてもなお、幕府は大聖人の諌言を用いず、教えを請おうとしないばかりか、国中の神社・仏閣に対して蒙古調伏の祈禱を命じたのである。
 大聖人は、同年四月五日、幕府の中枢に関係があったと思われる法鑒房(ほうがんぼう)(生没年不明)へ安国論御勘由来(三三㌻)を送られた。
 しかし、これに対する反応もなかったため、同年八月二十一日、かつて北条時頼に安国論を提出したときに、仲介の労をとった宿屋入道光則へ書状(宿屋入道光則への御状)を送り、安国論の予言が的中したことを指摘し、北条時宗と対面するうえからも、宿屋入道に見参したい旨を申し入れられている。

「十一通御書」は十一通の諫状

 しかし、またしても、何の反応もないことから、大聖人はその背後に諸宗の策動があることを見抜かれ、文永五年十月十一日、幕府要人と鎌倉の諸宗諸大寺へ、計十一通の諫状を認(したた)め、送られた。これを称して「十一通御書」と呼んでいるのであるが、正式の御書名ではなく、計十一通の諌状という意であることはいうまでもない。
 すなわち「十一通御書」とは、「北条時宗への御状」(一六九㌻)、「宿屋左衛門光則への御状」(一七〇㌻)、「平左衛門尉頼綱への御状」(一七一㌻)、「北条弥源太への御状」(一七二㌻)、「建長寺道隆への御状」(一七三㌻)、「極楽寺良観への御状」(一七四㌻)、「大仏殿別当への御状」(一七四㌻)、「寿福寺への御状」(一七五㌻)、「浄光明寺への御状」(一七五㌻)、「多宝寺への御状」(一七六㌻)、「長楽寺への御状」(一七六㌻)の、計十一通をさし、「平左衛門尉頼綱への御状」(一七一㌻)にもその宛先が記されている。御真筆は現存していない。
 趣旨からして内容的には、ほとんど共通している。まず、蒙古の来牒で立正安国論の他国侵逼難の予言が的中したことを指摘され、大聖人の主張を一刻も早く用いるべきであるにもかかわらず、鎌倉幕府が、依然として邪法に執着し、諸宗に蒙古調伏の祈禱を行わせていることを責められ、このうえは諸宗との公場対決によって、仏法の正邪を明確にすべきであると、強く迫られている。
 これら十一通の御状が宛てられた十一人の人物については、それぞれの章節で詳述するが、大きく分けて幕府関係者と、鎌倉仏教界を代表する大寺の高僧とになる。
 もちろん、諫暁書という観点からいえば「十一通御書」を送られた中心は、執権である北条時宗であるが、当時、時宗はまだ十八歳で若く、執政経験も浅いため、側面的影響力を考慮されたと拝される。
 つまり、近侍で有力者だった宿屋光則、侍所の所司として幕府の実権を握っていた平左衛門尉、執権と血族関係にあった北条弥源太、そして幕府に対して影響力をもっており、大聖人に敵対していた極楽寺良観、建長寺道隆など仏教界の七大寺を選ばれたと拝察される。
 ちなみに、他国侵逼難とともに予言されていた自界叛逆難は、「十一通御書」御述作四年後の文永九年(一二七二年)二月、執権・時宗の異母兄・北条時輔(ときすけ)の謀反の陰謀が発覚し、名越時章(ときあきら)、教時(のりとき)らとともに誅殺される事件となって現れている。いわゆる「二月騒動」である。
 この「十一通御書」について、日蓮大聖人は後の建治二年(一二七六年)三月に御述作の種種御振舞御書で次のように記されている。
「去(い)ぬる文永五年後(のち)の正月十八日・西戎(さいじゅう)・大蒙古国より日本国ををそ(襲)うべきよし、牒状(ちょうじょう)をわたす。日蓮が去ぬる文応元年太歳(たいさい)庚申(かのえさる)に勘(かんが)えたりし立正安国論、今すこしもたが(違)わず符合(ふごう)しぬ。此の書は白楽天が楽府(がふ)にも越へ、仏の未来記にもをとらず。末代の不思議、なに事かこれにすぎん、賢王・聖主の御世(みよ)ならば、日本第一の権状(けんじょう)にもをこ(行)なわれ、現身に大師号もあるべし。定めて御たづ(尋)ねありて、いくさ(軍事)の僉義(せんぎ)をもいゐあわせ、調伏(じょうぶく)なんども申しつけられぬらんと・をもひしに、其の義なかりしかば、其の年の末(まつ)十月に十一通の状をかきて・かたがたへをどろ(驚)かし申す」(九〇九㌻)
 すなわち、蒙古から牒状が届き、かつて立正安国論で経文で引いて記した予言が的中したのである。ゆえに安国論は白楽天の楽府にも、仏(釈尊)の未来記にも超過している。これほどの不思議はない。賢王や聖主の御代であるなら、日本第一のおほめにもあずかって、軍議や蒙古調伏の相談もあろうと思ったのに、幕府からは何の沙汰もなかったので、十一通の書状を書き各所へ送った、という意である。

「十一通御書」に対する反響

 この十一通の諌状に対し、どのような対応がなされたかということについては、先の種種御振舞御書の続きで触れられている.
「国に賢人なんども・あるならば、不思議なる事かな・これはひとへにただ事にはあらず、天照太神(あまてらすおおみかみ)・正八幡宮の此の僧につ(託)いて、日本国のたすかるべき事を御計らいのあるかと・をもわるべきに・さはなくて或(あるい)は使を悪口(あっく)し、或はあざむき、或はとりも入れず、或は返事もなし、或は返事をなせども上(かみ)へも申さず。これひとへにただ事にはあらず。設(たと)い日蓮が身の事なりとも、国主となりまつり(政)事をなさん人人は取りつぎ申したらんには政道の法ぞかし。いわうや・この事は上(かみ)の御大事い(出)でき(来)らむのみならず、各各の身にあたりて・をほいなるなげき出来(しゅったい)すべき事ぞかし。而るを用うる事こそなくとも悪口まではあまりなり」(九〇九㌻)
 すなわち、国内に賢人等がいるならば、「予言の的中はまことに不思議なことだ、これはただごとではない。天照太神等がこの僧に託宣し、救国の方法を計られたのではないか」と思うべきであるのに、そうではなくして、ある者はこの書状を持っていった使いを悪口し、ある者は嘲り、ある者は受け取りもせず、ある者は受け取っても返事さえしなかった。ある者は返事はしたが執権へ取り次ぐこともしなかった、とその対応の仕方を述べられている。
 そして、――これはただごとではない。たといこの書状の内容が日蓮の一身上のことであったとしても、国主となって政治をつかさどる立場の人々は、それを執権に取り次いでこそ政道の法にかなう行為といえる。まして今、日蓮が訴えていることは、幕府にとって大事件に関することであり、各人の身にあたって大きな嘆きとなる問題である。それなのに日蓮の忠告を用いないまでも、悪口まで言うとは非道もきわまりない、との意である。つまり、彼らは大聖人の諌言を受け入れようとせず、それどころか、大聖人を僉議(せんぎ)にかけ、流罪・死罪等の重罪に処そうと考えたのである。
 もとより大聖人は、こうした厳しい弾圧の動きが出てくるであろうことを覚悟のうえで、「十一通御書」をしたためられたのであった。
十一通御書と同日付で弟子門下一同へ送られた「弟子檀那中への御状」(一七七㌻)によって、そのことが拝察できる。すなわち「日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定(いちじょう)ならん(中略)各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶(おも)うこと莫(なか)れ権威を恐るること莫れ」(一七七㌻)と、必ず大聖人一門に厳しい弾圧が加えられてくるであろうと述べられ、その覚悟を促されている。
 幕府要人たちへの諌暁は、文永六年(一二六九年)十一月にも再び行われたことが、下総の大田金吾へ与えられた金吾殿御返事にうかがわれる。
「去年(こぞ)方方(かたがた)に申して候いしかども・いなせ(否応)の返事候はず候、今年十一月の比(ころ)方方(かたがた)へ申して候へば少少返事あるかたも候、をほかた人の心もやわらぎて・さもやとをぼしたりげに候、又上(かみ)のけさん(見参)にも入りて候やらむ」(九九九㌻)
 すなわち、再度の諫状に対しては返事が少々あった。大聖人に対する感情も和らぎ、大聖人の言っていることにも一理があると考えるようになった模様であり、また執権の目にも入ったのであろう。と述べられている。
 とはいえ、このように冷静に受け止める人も出てきた反面で、ますます大聖人への憎悪を燃やし、弾圧を画策する働きも強まっており、それが文永八年(一二七一年)竜の口の法難、佐渡流罪という形で現れていくのである。

出典『日蓮大聖人御書講義』第四巻下(編著者 御書講義録刊行会 発行所 聖教新聞社)

                  十一通御書について ―了―

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