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蓮盛抄(禅宗問答抄)第十章 禅宗が大邪見なるを明かす

          蓮盛抄(禅宗問答抄)

       第十章 禅宗が大邪見なるを明かす

本文(一五三㌻八行~一五四㌻二行)
 禅宗は言語を以て人に示さざらんや若(も)し示さずといはば南天竺の達磨(だるま)は四巻の楞伽経(りょうがきょう)に依つて五巻の疏(しょ)を作り慧可(えか)に伝うる時我漢地を見るに但此の経のみあつて人を度す可(べ)し汝此れに依つて世を度す可し云云、若(も)し爾(しか)れば猥(みだり)に教外別伝(きょうげべつでん)と号せんや。
 次に不伝の言に至つては冷煖二途(れいだんにと)・唯自覚了(ゆいじかくりょう)と云つて文字に依るか其れも相伝の後の冷煖自知(れいだんじち)なり是を以て法華に云く「悪知識を捨て善友(ぜんう)に親近(しんごん)せよ」文、止観に云く「師に値(あ)わざれば邪慧(じゃえ)日に増し生死月に甚(はなはだ)し稠林(ちょうりん)に曲木(こくもく)を曳くが如く出づる期(ご)有(ある)こと無けん」云云。
 凡(およ)そ世間の沙汰尚以て他人に談合す況んや出世の深理寧(むし)ろ輙(たやす)く自己を本分とせんや、故に経に云く「近きを見る可からざること人の睫(まつげ)の如く遠きを見る可からざること空中の鳥の跡の如し」云云、上根上機の坐禅は且(しばら)く之を置く当世の禅宗は瓮(もたい)を蒙(こうむ)つて壁に向うが如し、経に云く「盲冥(もうめい)にして見る所無し大勢の仏及び断苦の法を求めず深く諸の邪見に入つて苦を以て苦を捨てんと欲す」云云、弘決(ぐけつ)に云く「世間の顕語尚識(し)らず況んや中道の遠理(おんり)をや円常の密教寧ろ当(まさ)に識(し)る可けんや」云云。
 当世の禅者皆是れ大邪見の輩(やから)なり、就中(なかんずく)三惑未断の凡夫の語録を用いて四智円明(しちえんみょう)の如来の言教(ごんきょう)を軽んずる返す返す過(あやま)てる者か、疾(やまい)の前に薬なし・機の前に教なし・等覚(とうがく)の菩薩すら尚教を用いき底下(ていげ)の愚人何ぞ経を信ぜざる云云、是を以て漢土に禅宗興(こう)ぜしかば其の国忽(たちま)ちに亡びき本朝の滅す可き瑞相に闇証(あんしょう)の禅師充満す、止観に云く「此れ則ち法滅の妖怪なり亦(また)是れ時代の妖怪なり」云云。

通解
 禅宗は言葉によって人に教えを示さないだろうか。もし「示さない」というならば、南インドの達磨(だるま)は四巻の楞伽経(りょうがきょう)によって五巻の注釈書を作り慧可(えか)に伝える時、「私が中国を見るに、ただこの経のみが人を救うことができる。汝よ、これによって世を救いなさい」と述べたというのはどうなるか。もしそうであるならば、むやみに教外別伝(きょうげべつでん)と称せようか。
 次に先聖不伝(せんしょうふでん)の言葉については、達磨が血脉論(けちみゃくろん)に「冷たいと煖かいの二つはただ自分で覚了する以外ない」というのも文字によっているではないか。それも文字によって相伝を受けて後に(飲んでみて)冷たいと煖かいの二つを自ら知るのである。このことから法華経譬喩品に「悪知識を捨てて善友に親近しなさい」とある。摩訶止観に「師にあわなければ邪(よこしま)な智慧が日ごとに増し、生死の苦しみは月ごとに甚だしい。密林に曲がった木を曳くように、生死の苦しみから出る時期がない」とある。
 およそ世間の問題でさえもなお他人と相談する。まして出世間の深理はむしろ容易に迷いの自己を本位とできようか。ゆえに涅槃経に「近いところが見えないことは人の睫(まつげ)のようであり、遠いところが見えないことは空中の鳥の跡のようである」とある。上根上機の者の坐禅については、いましばらく置いておく。今の世の禅宗は甕(かめ)をかぶって壁に向かっているようなものである。法華経方便品に「盲目にして見るところがない。偉大な力をもつ仏および苦を断つ法を求めないで、深くもろもろの邪見に入って、苦をもって苦をすてようとする」とある。止観輔行伝弘決に「世間の明らかな言葉すら知らない。まして仏法の中道の深遠な法理はなおさらである。完全で常住の秘密の教えをむしろ知ることができようか」とある。
 今の世の禅宗の者はすべて大邪見の輩(やから)である。なかでも未だ三惑を断じていない凡夫の言葉を集めた書物を信用して、四智の円(まど)かで明るい如来の教えを軽んずるのは、どう考えても誤っている者である。病の前に薬がなく、衆生の機根の前に教がないのと同じである。等覚の菩薩すらなお教を用いた。機根の低い愚かな人がどうして経を信じないのかというべきである。このように中国に禅宗が興ったので、その国がたちまちに滅んだ。我が日本が滅びる前兆として仏法の悟りに暗い禅師が充満しているのである。摩訶止観に「これは法を滅する妖しい怪物である。またこれは時代の妖しい怪物である」とある。

語訳
達磨(だるま)
 生没年不詳。五~六世紀の人。梵名ボーディダルマ(Bodhidharma)の音写・菩提達磨(ぼだいだるま)の略。達摩とも書く。中国禅宗の祖とされる。その生涯は伝説に彩られていて不明な点が多い。釈尊、摩訶迦葉と代々の法統を受け継いだ二十八代目の祖師とされる。以下、伝承から主な事跡を挙げると、南インドの香至国の第三王子として生まれ、後に師の命を受け中国に渡る。梁の武帝に迎えられて禅を説いたが、用いられなかった。その後、嵩山(すうざん)少林寺で壁に向かって九年間座禅を続けていたところ、慧可が弟子入りし、彼に奥義を伝えて没したという。

楞伽経(りょうがきょう)
 漢訳は三種が現存する。釈尊が楞伽島(スリランカ)山頂で大慧菩薩に対して説いたという経。唯識の立場から大乗の教義が列挙されている。この経に四種禅が説かれているとして、初期の禅宗で重視された。

慧可(えか)
(四八七年~五九三年)。中国・南北朝時代から隋の僧。禅宗で菩提達磨に次ぐ第二祖とされる。菩提達磨の弟子となり、名を慧可と改め、六年間修行した。達磨の死後、慧可に帰依する者が多かったが、妬む者も多く、隋の開皇十三年(五九三年)、讒訴によって処刑されて、百七歳で死んだ。なお、慧可が達磨に入門するにあたって、積雪中に夜を徹して入門の許可を待ったが許されず、自ら左の腕を切断して求道の心を示し、ついに許しを得て弟子となったという慧可断臂(えかだんぴ)の故事は有名。

冷煖二途(れいだんにと)・唯自覚了(ゆいじかくりょう)
「冷煖の二途、唯(ただ)自ら覚了す」と読む。禅宗の説で、水が冷たいか暖かいかの二つの途は唯、自ら飲んでみて初めて知ることができるように、仏の悟りは自ら覚了(覚知)する以外にないこと。悟りは自分で究めるもので他からの教示によるものではないということ。冷煖自知(れいだんじち)と同意。

悪知識
 誤った教えを説いて人々を迷わせ、仏道修行を妨げたり不幸に陥れたりする悪僧・悪人のこと。善知識に対する語。悪友ともいう。「知識」とは梵語ミトラ(mitra)の漢訳で、「友」とも訳され、友人・仲間を意味する。涅槃経には「菩薩は悪象等に於いては心に恐怖すること無く、悪知識に於いては怖畏の心を生ず。悪象に殺されては三趣に至らず、悪友に殺されては必ず三趣に至る」とある。この文は、修行者は凶暴な象に殺されるというような外的な損害よりも、正法を信じる心を破壊し、仏道修行を妨げ、三悪道に陥れる悪知識こそ恐れなければならないことを述べている。日蓮大聖人は、悪知識に従わないように戒められるとともに、悪知識をも自身の成仏への機縁としていく強盛な信心に立つべきであると教えられている。さらには、御自身を迫害した権力者や高僧たちを自身の真価を現すのを助けた善知識と位置づけられている(九一七㌻)。

善友(ぜんう)
 善知識のこと。よい友人・知人の意。「知識」とは梵語ミトラ(mitra)の漢訳で、友人・知人を意味する。善知識とは、仏法を教え仏道に導いてくれる人のことであり、師匠や、仏道修行を励ましてくれる先輩・同志などをいう。善友ともいう。悪知識に対する語。

止観
 摩訶止観のこと。全十巻(各巻に上下あるため二十巻ともする)。天台大師智顗(ちぎ)が荊州(けいしゅう)玉泉寺で講述したのを、弟子の章安大師灌頂(かんじょう)が筆録したもの。法華玄義、法華文句とあわせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂(そうしょう)して法華経の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方規を明かしている。摩訶とは梵語マハー(mahā)の音写で、大を意味し、止とは邪念・邪想を離れて心を一境に止住(しじゅう)する義で、観とは正見(しょうけん)・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華玄義と法華文句が法華経の教相の法門であるのに対して、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書とされる。章安大師はその序に「止観明静(みょうじょう)、前代未だ聞かず」と称賛している。

弘決(ぐけつ)
 止観輔行伝弘決(しかんぶぎょうでんぐけつ)の略。妙楽大師湛然による摩訶止観の注釈書。十巻(または四十巻)。天台大師智顗による止観の法門の正統性を明らかにするとともに、天台宗内の異端や華厳宗・法相宗の主張を批判している。

疾(やまい)の前に薬なし・機の前に教なし
 病人を前にして薬を与えず、衆生の機根を前にしながらそれにかなった教えを示さない、との意。禅宗の邪見を指摘されている。

闇証(あんしょう)の禅師
 闇証とは仏説を依りどころとする教義を無視して、盲目的に坐禅するのみで、我見をもって悟りを得た、あるいは得られると思い込んでいること。摩訶止観巻五上の十乗観法を明かす文中には「闇証の禅師、誦文の法師の能く知る所に非ざるなり」とあり、経文を読誦しているだけの「誦文の法師」に対置し、ともに止観の真意を得ることはできないと破折されている。また、法華玄義巻一上には「若(も)し観心の人、心に即して而も是、己(おの)れ則(すなわ)ち仏に均(ひと)しと謂(い)い、都(すべ)て経論を尋ねずして、増上慢に堕す。此れ則ち、炬(たいまつ)を抱いて自ら焼かる」と述べている。

講義
 前章で、仏は文字(すなわち言語)によって衆生を救うことを明らかにされ、文字(言語)を離れて仏の衆生救済の仕事は成り立たないことを確認されたのであるが、ここでは、更に、教外別伝・不立文字を言う禅宗も、実際には言語に依っている事実を挙げ、いかに自己矛盾した大邪見の宗であるかを指摘されるとともに、仏説を排除して三惑未断の凡夫の語録に依る禅宗は、仏法を滅ぼし国を滅ぼす妖怪であると破折されている。
 まず、禅宗の祖である南インド出身の達磨が楞伽経四巻に対して五巻にわたる注釈書を作ったこと、そして、この注釈書を弟子の慧可に伝える時に「中国の仏教界を見るとただこの楞伽経だけが人々を済度することができる経である。あなたはこの経によって世の人々を済度しなさい」と言った。祖師である達磨が楞伽経を重視しているのに、教外別伝などというのはおかしいではないかと難じられている。
 次に、仏祖不伝の教義の〝不伝〟ということについても、禅宗の言葉に「水が冷たいか暖かいかは、自ら飲んで覚知するしかない(仏の悟りは、結局は自ら覚知するしかないという意味)」とあるが、この言葉そのものが文字に依っているではないかと指摘され、しかも「飲んでみて判断する」というように、法門についても、教えの相伝を受けて、それを自ら覚るということであるから「自覚・自知」の前に「受法・聞法」があることを指摘されている。この「相伝」「聞法」の段階で、正しい法を伝えてくれる「善知識」「師」が不可欠となるわけで、ゆえに、法華経の譬喩品第三の「悪知識を捨てて 善友(ぜんう)に親近する」((『妙法蓮華経並開結』二〇五㌻ 創価学会刊)の文と摩訶止観の「師と出会わなければ邪(よこしま)な智慧が増大して生死の迷いからは脱却できない」(取意)という文を引用されて、正法を伝えてくれる善友や師の存在なくして仏道修行による悟りはないことを明らかにされている。これを敷衍(ふえん)して、一般に世の中の事柄でさえ他の人と相談してよりよく計らっていくのであるから、まして出世間の仏法の深い真理についての探究では善友や師の言葉を必要とするのであり、安易に「自己を本分とする」、つまり凡夫としての自分を基準にしてよかろうかと、禅の本質にある増上慢を指摘されている。
 次いで、凡夫としての自分が基準にならないことを涅槃経師子吼品の「近きを見ることができないのは人の睫(まつげ)のようであり、遠きを見ることができないのは空中の鳥が飛んだ跡のようなものである」(取意)という文を引用されて、凡夫は総じて余りに近いところと遠いところは見えないことを示されて、禅宗がその頼りない凡夫の自己を本分として修行する危うさを指摘されている。
 最後に「上根上機の坐禅は且(しばら)く之を置く」とした後、「当世の禅宗」、すなわち大聖人御在世当時の禅宗の修行はまるで瓶(かめ)を頭にかぶって壁に向かっているようなもので、何も見えるわけがないと指摘され、法華経方便品第二の「大勢(だいせい)ある仏 及与(およ)び断苦の法を求めず 深く諸の邪見に入(い)って 苦を以て苦を捨てんと欲す」(眼が見えないために大きな力のある仏や苦しみを本当に断ずる法を求めないので、深く邪見の中に入ってまるで苦しみを脱却するのに苦しみで行うようなものである)(『妙法蓮華経並開結』一四〇㌻ 創価学会刊)との文や止観輔行伝弘決の「世の中の事象を顕(あらわ)に記した言葉ですらなお認識できない場合がある。ましてや仏法の中道の深遠な道理を認識することは容易ではない。更にいわんや円満で常住の秘密の妙法などどうして簡単に認識できるであろうか」(取意)という文を引用され、これを裏づけとされて「当世の禅者皆是(こ)れ大邪見の輩(やから)なり」と結論されている。邪見とは因果の道理を否定する見解のことであるから、当世の禅を行ずる者たちは悟りに到達するための因(修行)と果(悟達)の道理を否定しているゆえに「大邪見」と断じられているのである。
 更に禅宗を大邪見と断ずる理由として、見思(けんじ)・塵沙(じんじゃ)・無明(むみょう)の三惑を未だに断じきっていない単なる凡夫である先輩の禅僧の書いた語録を大切にして、四智(大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)が円満に具わった如来の言葉や教えを軽んじている姿を挙げられ、同時に「返す返す過(あやま)てる者か」と嘆かれている。
 更に「疾(やまい)の前に薬なし・機の前に教なし・等覚(とうがく)の菩薩すら尚教を用いき底下(ていげ)の愚人何ぞ経を信ぜざる云云」と説かれ、仏道を修行する者にとって、仏の教えがいかに必要であるかということを述べられている。
「疾の前に薬なし・機の前に教なし」とは、禅宗の「仏祖不伝」「不立文字」等の主張は、病人に薬を与えず、衆生にその機根にかなった教を示さないようなものであるという意と考えられる。そして「等覚の菩薩すら尚(なお)教を用いき」と、仏の位にほとんど等しい菩薩ですらなお仏が示した教えを必要とすることを述べられて、ましてや位の低い凡夫の愚人が仏の教えである経々を信じないでいられようかと教えの必要性を強調されている。そして結論として、このような大邪見の輩である禅宗が中国に栄えたために国が滅びたのであると述べられ、大聖人の時代に「闇証の禅師」が充満しているのは本朝・日本が滅びる予兆であると喝破され、その根拠として、禅宗を「法滅の妖怪」「時代の妖怪」と弾呵した摩訶止観巻二の文を引かれている。「法滅の妖怪」とは仏法を滅ぼす妖怪ということであり、「時代の妖怪」とは、王朝すなわち国家・社会を滅ぼす妖怪ということである。

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