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蓮盛抄(禅宗問答抄)第九章 衆生教化に於ける文字の重要性明かす

           蓮盛抄(禅宗問答抄)

     第九章 衆生教化に於ける文字の重要性明かす

本文(一五三㌻六行~一五三㌻八行)
 仏は文字に依(よ)つて衆生を度し給うなり、問う其の証拠如何(いかん)、答えて云く涅槃経の十五に云く「願わくは諸(もろもろ)の衆生悉(ことごと)く皆出世の文字を受持せよ」文、像法決疑経(ぞうぼうけつぎきょう)に云く「文字に依るが故に衆生を度し菩提(ぼだい)を得(う)」云云、若(も)し文字を離れば何を以てか仏事とせん。

通解
 仏は文字によって衆生を救われるのである。問う。その証拠はどうか。答えていう。涅槃経の巻十五に「願わくは、もろもろの衆生はすべて出世間(仏教)の文字を受持しなさい」とある。像法決疑経に「文字によるゆえに衆生を救い菩提を得る」とある。もし文字を離れば、何を衆生教化という仏事とすることができようか。

語訳
受持(じゅじ)
 正法を信じて心に受け入れ、忘れずに持(たも)つこと。受持には二つの義がある。①法華経法師品第十に説かれる五種の妙行(みょうぎょう)(受持・読(どく)・誦(じゅ)・解説(げせつ)・書写)の一つとしての受持を「別体の受持」という。②これに対して、五種の妙行をすべて含めて、広く正法を信受し護持することを「総体の受持」という。日蓮大聖人は総体の受持を重視され、受持即観心の法門を説かれた。受持即観心とは、末法の凡夫が成仏するための観心の修行は、南無妙法蓮華経の御本尊を受持することに尽きるということ。日蓮大聖人が「観心本尊抄」で明かされた。「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(二四六㌻)と仰せである。

像法決疑経(ぞうぼうけつぎきょう)
 一巻。訳者不明。釈尊は入滅に際して、跋提河(ばつだいが)のほとりで、常施菩薩を対告衆としてこの経を説いたとされる。釈尊はこの経のなかで滅後千年後(像法時代)における仏法衰微の相を挙げ、主に布施行を修すべきことを説いている。「復(また)衆生有って他の旧寺・塔廟(とうみょう)・形像(ぎょうぞう)及び経典の破落毀壊(はらくきえ)するを見て、肯(あえ)て修治せず。便(すなわ)ち是の言を作(な)さく、我が先崇(せんそう)の造る所に非ず、何ぞ治を用いることを為さん、我寧(むし)ろ更に自ら新しき者を造立せん。善男子よ、一切衆生新しき者を造立するは、故(ふる)きを修する其の福甚(はなは)だ多きには如(し)かず」(像法の世は比丘・比丘尼・国王などが仏法を軽賤(きょうせん)し、古い寺の修治をせず新しい寺を造立しようとするが、新しい寺を造立する福徳は、古い寺を修治する福徳には及ばない)〔取意〕として、布施は貧窮孤老(びんぐころう)の者にすべきであると述べ、布施を行じなければ涅槃に至ることができないと説いている。次に像法時代には仏の意を理解せず、自らの所見に固執して仏法を破壊させる悪比丘が充満するため、衆生は三宝を軽賤することになると述べ、このような諸悪が起こる時は一切の道俗は大慈大悲を修学して救済にあたるべきであると説いている。天台家では、この経を涅槃経の結経として多く引用しているが、大周刊定衆経目録(※)では偽経としており、真偽は明確でない。
〈追記〉
「大周刊定衆経目録」は「武周録」ともいい、則天皇后(在位六九〇年~七〇五年)が明佺らに命じて編纂させた仏典目録。経録の範とされる「開元釈教録」(開元十八年〔七三〇年〕年成立)の成立以前に編まれたもの。

菩提(ぼだい)
 梵語ボーディ(bodhi)の音写で、覚りの意。特に、仏が体得した最高の智慧による覚りをいう。

講義
 ここでは、仏は文字によって衆生を救うという原点を確認することによって、禅宗の「不立文字」が邪説であることを明らかにされている。
 まず、「仏は文字に依(よ)つて衆生を度し給うなり」と述べられ、これに対して、禅宗側からその証拠を問う質問が出され、答えとして涅槃経と像法決疑経の二つの経からの引用文を挙げて証拠とされている。
 涅槃経からは、衆生が出世間すなわち仏の教えを文字に記した仏教の経々を受持すべきであるとの仏の願いをあらわした文、像法決疑経からは、文字を頼りとし根本とすることによって衆生を救い悟りを得させることができるという文の二文を掲げられて「若(も)し文字を離れば何を以てか仏事とせん」と結論されている。
 一般に、釈尊の教えは、在世には文字に記されず、滅後も数百年間は口承で伝えられたことからこのように「文字」が強調されていることに疑問が投げられるかもしれない。ここで言わんとされている肝要は〝文字〟とは明確な言葉で表現された教えということである。禅宗が「不立文字」と主張しているのも、必ずしも〝文字〟というより〝言葉〟による表現ということだからである。

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