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蓮盛抄(禅宗問答抄)第五章 是心即仏・即身是仏の義を破す

          蓮盛抄(禅宗問答抄)

      第五章 是心即仏・即身是仏の義を破す

本文(一五二㌻三行~一五二㌻九行)
 禅宗云く是心即仏(ぜしんそくぶつ)・即身是仏(そくしんぜぶつ)と、答えて云く経に云く「心は是れ第一の怨(おん)なり此の怨最も悪と為(な)す此の怨能(よ)く人を縛り送つて閻羅(えんら)の処に到る汝独(ひと)り地獄に焼かれて悪業の為に養う所の妻子兄弟等・親属も救うこと能(あた)わじ」云云、涅槃経に云く「願つて心の師と作(な)つて心を師とせざれ」云云、愚癡無懺(ぐちむざん)の心を以て即心即仏と立つ豈(あに)未得謂得(みとくいとく)・未証謂証(みしょういしょう)の人に非ずや。
 問う法華宗の意(こころ)如何(いかん)、答う経文に「具三十二相・乃是真実滅(ないぜしんじつめつ)」云云、或は「速成就仏身(そくじょうじゅぶっしん)」云云、禅宗は理性(りしょう)の仏を尊んで己(おの)れ仏に均(ひと)しと思ひ増上慢に堕つ定めて是れ阿鼻の罪人なり、故に法華経に云く「増上慢の比丘は将(まさ)に大坑(だいきょう)に墜ちんとす」。

通解
 禅宗がいう。是心(ぜしん)は即ち仏であり、即身は是れ仏と。答えていう。正法念処経(しょうぼうねんじょきょう)に「心は是れ第一の怨(おん)である。この怨は最も悪となす。この怨はよく人を縛って、閻魔王の所に送るに至る。汝一人が地獄の炎に焼かれて、悪業のために、養っている妻子や兄弟など親族も救うことができない」とある。涅槃経に「願って心の師となって心を師としてはいけない」とある。
 愚かで恥を知らない心をもって即心は即ち仏と立てるのは、未だ得ざるを得たりと謂(おも)い、未だ証せざるを証せりと謂う人ではないか。
 問う。法華宗の意はどうか。答える。法華経化城喩品に「三十二相を具す、乃(すなわ)ち是れ真実の滅である」とある。あるいは寿量品に「速やかに仏身を成就する」とある。しかし禅宗は理としての仏性を尊んで自己が仏に等しいと思い、増上慢に堕ちる。必ずこれは阿鼻地獄に堕ちる罪人である。ゆえに法華経方便品に「増上慢の僧はまさに大きい坑(あな)に堕ちようとする」とある。

語訳
是心即仏(ぜしんそくぶつ)・即身是仏(そくしんぜぶつ)
 自分の心が即ち仏であり、この身そのままが仏である、との意。
〈追記〉
「即心即仏」「是心是仏」「即心是仏」などと同義。「是心是仏」の語は「『観無量寿経』に出る言葉。いろいろな解釈がある。第一の解釈は、天台智顗(ちぎ)によるもので、仏は元来無であって、心浄くなれば仏あり、すなわち心のほかに仏なく、また仏の因なしということ。即心即仏ともいう。第二の解釈は,浄土教の諸師によるもので,心よく仏を想念すれば,想によりて仏身現ずということ」(ブリタニカ国際大百科事典の「是心是仏」の項より一部抜粋)とある。「即心是仏」の語は、中国・唐の禅僧、馬祖道一(ばそどういつ)(七〇九年~七八八年)が発した語として有名。

「心は是れ第一の怨(おん)なり……親属も救うこと能(あた)わじ」
 正法念処経巻六地獄品の二の文を中略して引用したもの。ただし本抄の「悪業の為に養う所の」の句は正法念処経では「悪業の為に食らわれる」とある。

即心即仏
 衆生の心そのまま即(すなわ)ち仏である、との説。前出の「是心即仏・即身是仏と同義。

未得謂得(みとくいとく)・未証謂証(みしょういしょう)の人
「未だ得ざるを得たりと謂(おも)い、未だ証せざるを証せりと謂(おも)えり」(『妙法蓮華経並開結』一一九㌻ 創価学会刊)との人。悟ってもいないのに悟ったと思う慢心の者をさす。
〈追記〉
 法華経方便品第二において、釈尊が舎利弗の三止三請を受け、法華経の大法を説かんとした時、座を起って去った五千人の四衆(五千起去(ごせんきこ))をいう。天台大師は法華文句巻四で、爾前権経に執着し、未だ得ざるを得たと思いこんでいる増上慢のため等と釈している。

理性(りしょう)の仏
 一切衆生に本然(ほんねん)としてそなわっている仏性のこと。「理性(りしょう)」は一切諸法のなかに存在する不改不変の法性・真如の理・真理のこと。普遍的な真理のことをいう。「事相」に対する語。したがって理性の仏とは一切の衆生のうちに本来そなわっていて永遠に変わらない仏性をさす。

大坑(だいきょう)
 無間地獄のこと。坑は「あな」と読み、大きな穴という意。

講義
 ここでは、凡夫である自身の心をそのまま仏であるとする禅宗の「成仏観」を破られ、代わって法華経の正しい考え方を明らかにされるところである。本章は二つの問答からなっているが、最初の問答では禅宗で説く「是心即仏(ぜしんそくぶつ)・即身是仏(そくしんぜぶつ)」(是(こ)の人間の心がそのまま仏であり、是の人間の身体がそのまま仏であるということ)という教義を破られている。次の問答では代わって法華経の成仏観を明らかにされている。
 まず初めの問答であるが、禅宗でいう〝是の人間の心と身体がそのまま仏である〟という教義に対しては、正法念処経(しょうぼうねんじょきょう)の「心は是れ第一の怨(おん)であり、悪であり、人を束縛して地獄に連れていくもの」(取意)とする文や、涅槃経の「願って心の師とはなっても、心を師とするな」(取意)との文を引用される。結論として、愚かで道理にくらく、自己反省のない凡夫の心をそのまま直ちに仏とするのは、「未得謂得(みとくいとく)・未証謂証(みしょういしょう)(まだ悟りを得ていないのにあたかも得たかのように錯覚し、まだ悟りの証が立っていないのにあたかも証が立っているかのように錯覚すること)」の増上慢であると破られているのである。次に、法華宗の場合、仏がどのようにとらえているのかという禅宗側の問いに対して、法華経化城喩品第七の「三十二相を具しなば 乃(すなわ)ち是(こ)れ真実の滅ならん」(『妙法蓮華経並開結』三二一㌻ 創価学会刊)という経文と如来寿量品第十六・自我偈の「速(すみや)かに仏身を成就することを得せしめんと」(同・四九三㌻)との文を引用されて、法華経の場合、仏に成るには正法の修行によって三十二相の仏身を成就することが必要であることを述べられて、禅宗のように凡夫の身体や心をそのまま修行もなしに仏とするようなことは教えていないと答えられている。
 更に、禅宗のような成仏観は「理性(りしょう)の仏を尊んで己(おの)れ仏に均(ひと)しと思ひ増上慢に堕つ定めて是れ阿鼻の罪人なり」と破られている。加えて、増上慢の仏教徒は阿鼻地獄に堕ちる罪人であることを、法華経方便品第二の「増上慢の比丘は、将(まさ)に大坑(だいきょう)に墜つべし」(同・一一六㌻)との文で裏づけされている。禅宗は〝理性の仏〟すなわち〝一切衆生に本性としてそなわっている理としての仏性〟を、それだけで仏と錯覚して、煩悩に覆(おお)われた凡夫の自己がそのまま仏に等しいと思い上がり、増上慢に堕落すると破折されているのである。

「具三十二相・乃是真実滅(ないぜしんじつめつ)」云云、或は「速成就仏身(そくじょうじゅぶっしん)」云云

 いずれも法華経から引用されている。初めの文は化城喩品第七の終わりの段落からの引用で、具(つぶさ)には次のとおりである。「諸仏は方便力もて 分別して三乗を説きたまう 唯(た)だ一仏乗のみ有り 息処(そくしょ)の故に二を説く 今汝が為めに実(じつ)を説く 汝が得(う)る所は滅に非(あら)ず 仏の一切智の為(た)めに 当(まさ)に大精進を発(おこ)すべし 汝は一切智 十力等の仏法を証し 三十二相を具(ぐ)しなば 乃(すなわ)ち是(こ)れ真実の滅ならん 諸仏の導師は 息(やす)めんが為めに涅槃を説きたまう 既に是(こ)れ息み已(おわ)んぬと知れば 仏慧に引入(いんにゅう)したまう」(『妙法蓮華経並開結』三二一㌻ 創価学会刊)と。ここは二乗が灰身滅智(けしんめっち)をもって涅槃としていたのを真実の滅(涅槃)ではないと打ち破った後、仏の悟りの智慧である一切智を目指して大精進を起こして修行に励み、その結果、一切智を得て、かつ十力(じゅうりき)(仏が具える十種類の力)をはじめとする仏のすぐれた徳を獲得したことを実証し、また三十二相という仏の身体に具わるすぐれた特徴をも具したならば、それこそが真実の滅であり悟りである、と述べているところである。法華経の教えによれば、理性(りしょう)としての仏性(法身)は本来、衆生の生命にあっても、それを覚知する智慧(報身)が信を根本とする修行によって獲得され、法身の境と報身の智が冥合(みょうごう)することによって、三十二相が現実の身と行動に具(そな)わる(応身)。この三身が円満に具わってこそ、真実の成仏となるのである。
 次の文は如来寿量品第十六・自我偈の最後の句で具(つぶさ)には「毎(つね)に自ら是(こ)の念を作(な)す 何を以てか衆生をして無上道に入(い)り 速かに仏身を成就することを得しめんと」(同・四九三㌻)とある。
 ここは仏がどうすれば衆生が無上の道に入って速やかに仏身を成就することができるかについて、常に思念をこらしているという仏の慈悲の心を説き明かしたところである。この二つの文は、ともに仏の境地は衆生が精進し仏道を修行して獲得されるものであることを明らかにしている点で共通している。後の自我偈の文は仏の境地をできるだけ速やかに衆生に獲得させたいという仏の願いを説いたものであるが、そのことは、凡夫はそのままでは仏ではないことをあらわしているのである。この法華経の立場から見ると、禅宗が衆生・凡夫の心や身体をそのままで仏であるととらえているのは明らかに邪道であり、増上慢に陥る罠となるのである。

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