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蓮盛抄(禅宗問答抄)第四章「本分の田地」を破し法華の福田を賛す

           蓮盛抄(禅宗問答抄)

     第四章「本分の田地」を破し法華の福田を賛す

本文(一五一㌻一七行~一五二㌻二行)
 問うて云く本分(ほんぶん)の田地(でんじ)にもとづくを禅の規模(きも)とす、答う本分の田地とは何者ぞや又何(いず)れの経に出でたるぞや法華経こそ人天(にんでん)の福田(ふくでん)なればむね(旨)と人天を教化し給ふ故に仏を天人師と号す此の経を信ずる者は己身の仏を見るのみならず過・現・未の三世の仏を見る事・浄頗梨(じょうはり)に向ふに色像を見るが如し、経に云く「又浄明鏡(じょうみょうきょう)に悉(ことごと)く諸の色像を見るが如し」云云。

通解
 問うていう。禅宗では本分の田地に基づくことを禅の手本とする。答える。本文の田地とはどんなものか。またどの経に出ているのか。法華経こそ人天の福田であるので、法華経によって主に人天を教化されたのであり、ゆえに仏を天人師と称する。この法華経を信ずる者は自分自身の内の仏を見るだけではなく、過去・現在・未来の三世の仏を見ることは浄頗梨(じょうはり)の鏡に向かうと、はっきりと姿を見るようなものである。法華経法師功徳品に「また浄明鏡に、ことごとくもろもろの姿を見るようなものである」とある。

語訳
本分(ほんぶん)の田地(でんじ)
 禅宗では、衆生の本来そなえている安心立命(あんじんりゅうみょう)の境地という意味で使っている。坐禅によってその境地に住することができるとするのである。本地の風光・本来の面目ともいう。

禅の規模(きも)
 禅宗の模範のこと。禅は梵語ディヤーナ(dhyāna)の音写・禅那の略。静慮(じょうりょ)と訳す。規模は①物事の大きさ。②手本・極意・規範。ここでは②の意。

人天(にんでん)の福田(ふくでん)
 人と天の福徳の田のこと。「人天」は人界と天界の衆生のこと。人は梵語マヌシャ(manuṣya)の訳。「考える存在」を意味し、仏教では「聖道正器(しょうどうしょうき)」といって仏道修行をすることのできる素質をもった存在としている。「福田」とは福徳を生ずる田のこと。田畑が作物を実らせるように仏を恭敬(くぎょう)し、布施することによって福徳を生ずることが田の如くであるからこういう。ここでは法に約して福田を法華経としている。

浄頗梨(じょうはり)
 鏡の名。浄玻璃鏡の略。業鏡ともいう。閻魔王の住む光明院にあって、亡者がこれに向かえば、現世になした善悪の所業をすべてそのまま映し出すという九面の鏡のこと。仏説地蔵菩薩発心因縁十王経(地蔵十王経)による。

浄明鏡(じょうみょうきょう)
 真実をありのままに映し出す浄らかで明るい鏡のこと。浄明な鏡が物事の真実の姿を映し出すことから、法華経を信受し自身を磨きあげることによって世間の諸相を正しく認識し、自分自身を真に知る力が具えることできる。すなわち法華経を信ずるならば、身心が清浄になって物事の真実の姿を正しく認識しうることを鏡にたとえて浄明鏡の譬という。

講義
 ここでは禅宗側が本分(ほんぶん)の田地(でんじ)に基づくことを禅の規模(きも)とすると主張していることに対して、それは、具体的にどうことで、いかなる経文によって立てられたものかを反論されてこれを破られるとともに、法華経こそが人天の福田であることを明かされ、法華経を信ずる者の功徳の大きさを述べられている。
 まず、禅宗側の言い分として、禅の規模としていること、すなわち禅が模範や手本とし面目ともしているのは本分の田地に基づくことにあると言っていることを挙げられている。本抄では「本分の田地とは何者ぞや」と問い返され、その答えは明かされていないが、禅宗側の主張によると、本分の田地という〝本分〟とは本来の分際(ぶんざい)の意味で、人間が生まれながらに仏性を具えているという本来のすがたをいい、〝田地〟とは境地のことをいうとしている。すなわち、坐禅によってもともと人間が本来具えている仏性の境地に安住することが禅宗の規範であるというのが彼らの言い分である。
 ここで大聖人が、本分の田地というが、いったいその言葉自体、何者で、どの経典に出てくる言葉であるかと反論されているのは、もとより、そうした彼らの主張を御存知のうえで、その言葉そのものが何の根拠もない禅宗の勝手な造語であることを示されて破折される意が込められていると拝される。
 次いで、法華経こそが人天(にんでん)の福田(ふくでん)であり、人界、天界の現実の世の人々を、福徳に満ちた境涯に変える法であると述べられている。そして、それゆえに仏を「天人師」と称するのであると仰せられ、最後に法華経を信ずる者は己心の仏を見るだけでなく、過去・現在・未来の三世の仏を見ることができると、即身成仏の功徳の大きさを述べられ、法華経法師功徳品第十九から一文を引用されてそれを裏付けられている。

 此の経を信ずる者は……経に云く「又浄明鏡(じょうみょうきょう)に……色像を見るが如し」云云

 法華経が人々を即身成仏させる法であることを述べられているところである。すなわち、法華経を信ずると、信ずる人は自身の内なる仏を見ることができるだけではなく、過去・現在・未来の三世にわたる数多くの仏をも見ることができると仰せられている。その見え方を喩(たと)えて浄頗梨(じょうはり)のごとくといわれている。浄頗梨の鏡というのは業の鏡ともいわれるように、閻魔王が住むという光明院にある鏡で、中有(ちゅうう)において聖霊が生前の生涯でなした善・悪の行為(善業・悪業)のすべて(ここでは色像)をそのまま映し出すという不思議な九面からなる鏡である。法華経を信ずる人が自身の内なる仏と三世にわたる無数の仏と三世にわたる無数の仏を見るとは、信ずる人の仏性が正報・依報に顕れて成仏するということである。
「又浄明鏡に悉く諸の色像を見るが如し」は法華経法師功徳品第十九の偈頌(げじゅ)の文である。今、原文を引用すると次のとおりである。「若(も)し法華経を持(たも)たば 其の身は甚(はなは)だ清浄(しょうじょう)なること 彼(か)の浄瑠璃(じょうるり)の如(ごと)くにして 衆生は皆な見るを憙(よろこ)ばん 又(ま)た浄明(じょうみょう)なる鏡に 悉(ことごと)く諸(もろもろ)の色像を見るが如く 菩薩は浄身に於いて 皆な世の所有(あらゆ)るものを見ん」(『妙法蓮華経並開結』五四七㌻ 創価学会刊)と。その意味は法華経を信じて持(たも)つならば身体が浄瑠璃のように清浄になるから、みんなが見たいと欲するようになる。更には澄明(ちょうめい)な鏡に、さまざまな物の像がすべて映るように、法華経を信ずる菩薩の清浄な身体に世のすべてのすがたを見るであろう、ということである。このように浄明鏡がすべてを明瞭に映し出すように、法華経を信じた人は、明瞭に仏性を見ることができるというのである。
「己身の仏を見るのみならず過・現・未の三世の仏を見る」とは、正報である自身の生命の内にある仏性を見るだけでなく、依報である一切のなかにある仏性を見るということである。法華経の会座における多宝塔中(たっちゅう)の釈迦・多宝二仏は己心の仏であり、この会座に集って、娑婆世界および四百万億那由佗の世界に充満した十方諸仏は「過・現・未の三世の仏」に当たる。法華経の儀式自体が、成仏の境地を具象化してあらわしたものなのであり、大聖人はこの点を踏まえて、このように仰せられているのである。

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