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蓮盛抄(禅宗問答抄)第三章 法華の菩提の無上なるを明かす

          蓮盛抄(禅宗問答抄)

      第三章 法華の菩提の無上なるを明かす

本文(一五一㌻一二行~一五一㌻一六行)
 問うて云く法華は貴賤男女何(いず)れの菩提の道を得べきや、答えて云く「乃至一偈(いちげ)に於ても皆成仏(じょうぶつ)疑い無し」云云、又云く「正直に方便を捨て但(ただ)無上道を説く」云云、是(ここ)に知んぬ無上菩提なり「須臾(しゅゆ)も之(これ)を聞いて即ち阿耨菩提(あのくぼだい)を究竟(くきょう)することを得るなり」此の菩提を得ん事須臾も此の法門を聞く功徳なり、問うて云く須臾とは三十須臾を一日一夜と云う「須臾聞之(しゅゆもんし)」の須臾は之を指すか如何(いかん)、答う件(くだん)の如し天台止観の二に云く「須臾も廃すること無かれ」云云、弘決(ぐけつ)に云く「暫(しばら)くも廃することを許さざる故に須臾と云う」故に須臾は刹那(せつな)なり。

通解
 問うていう。法華経においては貴い者・賤しい者、男性・女性はどの菩提の道を得られるのか。答えていう。法華経法師品に「仏の所説の法の一偈でも聞けば皆成仏することは疑いない」と。また方便品に「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説く」とある。これで法華経の菩提は無上菩提であることが明らかである。また「須臾(しゅゆ)(瞬間)でも法華経を聞いて直ちに阿耨菩提を究めることができる」とある。この菩提を得ることは須臾もこの法華経の法門を聞く功徳である。
 問うていう。須臾とは須臾三十を一日一夜という。「須臾も之を聞いて」とある須臾はこれをさすのか、どうか。答える。そのとおりである。天台大師の摩訶止観巻二に「須臾も廃してはいけない」とある。止観輔行伝弘決に「しばらくも廃することを許さないゆえに須臾という」とある。ゆえに須臾とは刹那(せつな)のことである。

語訳
法華
 法華経のこと。大乗仏典の極説。梵名サッダルマプンダリーカ・スートラ(Saddharmapuṇḍarīka-sūtra)、音写して薩達摩芬陀梨伽蘇多覧(さだるまふんだりきゃ・そたらん)、「白蓮華のごとき正しい教え」の意。経典として編纂されたのは紀元一世紀ごろとされ、すでにインドにおいて異本があったといわれる。漢訳には「六訳三存」といわれ、六訳あったが現存するのは三訳である。その中で後秦代の鳩摩羅什訳「妙法蓮華経」八巻は、古来より名訳とされて最も普及している。内容は前半十四品(迹門)には二乗作仏、悪人成仏、女人成仏等が説かれ、後半十四品(本門)には釈尊の本地を明かした久遠実成を中心に、本因妙・本果妙・本国土妙の三妙合論に約して仏の振る舞い、また末法に法華経を弘通する上行菩薩等の地涌の菩薩に結要付嘱(けっちょうふぞく)されたこと等が説かれている。

一偈(げ)
 偈は梵語ガーター(gāthā)の音写の省略形。偈陀(げだ)、偈他(げた)、伽陀(かだ)とも書き、頌(じゅ)、諷誦(ふじゅ)と訳す。経典の中で韻文(詩句)の形式で説かれたものをいい、仏の功徳や法理を説く。
〈追記〉
 梵語の文献では、八音節四句(一行二句で二行)からなるシュローカ(śloka)[首盧迦]などの形が多い。 漢訳では一句の字数を四字または五字とし、四句を一偈としているものが多い。これを別偈という。韻文と散文とを問わず、八字四句の三十二字よりなるものを通偈(つうげ)という。また偈の説かれ方によって、重頌偈(じゅうじゅげ)と孤起偈(こきげ)の二つに区別される。重頌偈とは、長行(散文)で説いたものを重ねて偈頌をもって説くもので、梵語でゲーヤ(geya)といい、祇夜(ぎや)と音写する。孤起偈は、前に長行の教説がなく、単独に説き起こされた偈をさし、梵語でガーター(gāthā)といい、伽陀と音写する。

成仏(じょうぶつ)
 仏法の信仰の根本的な目的。日蓮大聖人の仏法が明かす成仏観は、一生成仏である。
〈追記〉
 一生成仏とは、この一生の間に成仏すること。日蓮大聖人は「法華経の行者は、仏の説いた通りに修行するなら、必ず一生のうちに一人も残らず成仏することができる。譬えば、春・夏に田を作るのに、早く実る品種と遅く実る品種の違いがあっても、どちらも一年のうちには必ず収穫できるようなものである」(四一六㌻、通解)と仰せである。成仏の「成」について、「御義口伝」には「成は開く義なり」(七五三㌻)とある。法華経以外の諸経では、いくつもの生の間、多くの劫を経て修行をして覚りを目指す歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう)が説かれる。これに対し法華経では、万人に仏界がそなわっていることを明かしており、この仏界を開き現すことで、この身のままで直ちに成仏できることが説かれている。それ故、凡夫成仏とも即身成仏ともいう。ただし成仏とは、現在の自分とまったく異なった特別な人間になるとか、死後に次の一生で現実世界を離れた浄土に生まれることではない。あくまでもこの現実世界において、何ものにも崩されない絶対的な幸福境涯を築くことをいう。すなわち「御義口伝」に「桜・梅・桃・李(すもも)がそれぞれの特質をもつように、私たちもそれぞれの特質を改めることなく、そのままの姿で無作三身の仏であると開き現れるのである」(七八四㌻、通解)と仰せのように、成仏とは、自分自身が本来もっている特質を生かしきって、自身を最も充実させていく生き方をすることである。言い換えれば、生命の全体が浄化され、本来もっている働きを十分に発揮して、さまざまな困難に直面しても動揺しない、力強い境涯になることをいう。つまり成仏とは、ある終着点に到達するということではない。妙法を受持して悪を滅し善を生ずる戦いを続けていく、その境涯が、仏の境涯であり、間断なく広宣流布に戦い続ける人こそが仏なのである。

方便
 仏が衆生を教化するうえで、真実に導くために設ける巧みな手段(教え)のこと。梵語ウパーヤ(upāya)の漢訳。当座の理解のための便宜上のもの。
〈追記〉
 爾前経では、十界の境涯の差別を強調し、二乗や菩薩の覚りを得ることを修行の目的とする方便の教えを説く。これに対し法華経では、二乗・三乗は、すべて一仏乗である法華経を教えるための方便として説かれたものであるとする。天台は法華文句巻三上で、方便を①法用方便・②能通方便・③秘妙方便の三種類に分け、秘妙方便こそ「法華経方便品の方便」であるとする。①法用方便とは、衆生の機根に合わせて種々の法を説き、その法の働き(用(ゆう))で人々に応じた利益を与える教え。②能通方便とは、真実に入る門となる教えで、通り過ぎる門なので能通(能(よ)く通る)という。これらはいずれも「法華経方便品の方便」ではなく、「爾前権教の方便」の二つの側面であり、法用方便は当面の利益を与える面、能通方便は真実へと導く面といえる。これに対し秘妙方便は、方便品に「正直に方便を捨て」とある方便ではなく、そのまま「真実」である方便である。天台は、①法用・②能通を「体外の方便」、③秘妙を「体内の方便」と立て分ける。すなわち①法用・②能通は仏の「真実の智慧の外に立てられた方便」、③秘妙は「真実と一体の方便」であり「同体の方便」ともいう。③秘妙方便の「秘」とは、ただ仏だけが知っている真実であり、秘められているにもかかわらず、縁にふれて顕現する不可思議な生命の実相であるゆえに「妙」という。「秘妙方便」について戸田先生は、「私も皆さんも凡夫です。しかし、われわれ自身、理のうえでは仏なのです。成仏とは、自分が仏であることを知ることで、これは秘密にされ、妙がかくされているのです。これを秘妙というのです。仏が、凡夫の姿で、苦労させるためにつくられたのです。これが、秘妙方便の原理です。皆さん方は、地涌の菩薩なのです。この原理が心の奥底でわかれば、方便品が読めるのです」(『法華経の智慧』より引用)と講義されている。本抄には「正直捨方便」とあり、爾前経で説かれた法用方便・能通方便(仮の教え)を捨てること。

須臾(しゅゆ)
 時間の単位。①一昼夜の三十分の一をさす場合、②最も短い時間の単位(瞬時)である刹那(せつな)をさす場合がある。本抄で「三十須臾を一日一夜と云う……答う件(くだん)の如し」とあるから、ここでは①の意であるが、また本抄で「須臾は刹那なり」ともいわれる②の用い方もある。

功徳(くどく)
 功能福徳(くのうふくとく)の意。福利を招く功能が、善行に徳として備わっていること。

弘決
 止観輔行伝弘決(しかんぶぎょうでんぐけつ)のこと。十巻。中国・唐代の妙楽大師湛然(たんねん)の著。天台大師の摩訶止観の注釈書。内容は題号の釈出をはじめ、無情仏性に関する十難や華厳宗の法華漸頓(ぜんとん)・華厳頓頓(とんとん)説を打ち破るなど、摩訶止観の妙旨を明らかにするとともに、天台宗内外の異義に破折を加えている。

刹那(せつな)
 梵語クシャナ(kṣaṇa)の音写で、極小の時間・瞬間のこと。叉拏(しゃな)とも音写する。念頃(ねんぎょう・ねんきょう)と漢訳される。一説では、一刹那は七十五分の一秒にあたる。また一弾指(たんじ)(指をはじく間)の六十五分の一を一刹那とする説もある。

講義
 前章の終わりで、禅宗に説く菩提が大菩提でもなければ無上道でもないと破られた。それに対し、ここでは法華経の菩提こそ無上であること、しかも、これを獲得するには法華経の法門を須臾(しゅゆ)も聞く功徳が大切な要件であることを明かされ、その須臾というのが刹那(せつな)という短い時間であることを示されている。問いにある「貴賎男女」の言葉は、やや突飛(とっぴ)の感があるが、この前のところで「広く利益する」と述べられたのを承(う)けておられると考えられる。貴賎という社会的身分や男女の性別に関わりなく、あらゆる人が平等に成仏できる法であることを強調されるためである。鎌倉時代当時、禅宗が広まっていたとはいえ、身分的には上流の人々に偏(かたよ)り、男女では、圧倒的に男性向きの観があった。それに対して、法華経は一切の人に平等であることを示されているのである。

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