FC2ブログ
09 -<< 2018-10 -  12345678910111213141516171819202122232425262728293031  >>11 -
 

蓮盛抄(禅宗問答抄)第二章 迦葉への付嘱の真意を明かす

          蓮盛抄(禅宗問答抄)

       第二章 迦葉への付嘱の真意を明かす

本文(一五〇㌻六行~一五一㌻一一行)
 禅宗云く涅槃経の二に云く「我今所有(しょう)の無上の正法悉(ことごと)く以て摩訶迦葉に付属す」云云此の文如何(いかん)、答えて云く無上の言は大乗に似たりと雖(いえど)も是(こ)れ小乗を指すなり外道の邪法に対すれば小乗をも正法といはん、例せば大法東漸(とうぜん)と云えるを妙楽大師解釈(げしゃく)の中に「通じて仏教を指す」と云いて大小権実をふさ(総)ねて大法と云うなり云云、外道に対すれば小乗も大乗と云われ下﨟(げろう)なれども分には殿(との)と云はれ上﨟(じょうろう)と云はるるがごとし。
 涅槃経の三に云く「若(も)し法宝を以て阿難及び諸の比丘に付属せば久住(くじゅう)を得じ何を以ての故に一切の声聞及び大迦葉は悉(ことごと)く当(まさ)に無常なるべし彼(か)の老人の他の寄物を受くるが如し、是(こ)の故に応(まさ)に無上の仏法を以て諸の菩薩に付属すべし諸の菩薩は善能(よく)問答するを以て是(か)くの如きの法宝則(すなわ)ち久住(くじゅう)することを得・無量千世増益熾盛(むりょうせんぜぞうやくしじょう)にして衆生を利安せん彼(か)の壮(さかん)なる人の他の寄物を受くるが如し是の義を以ての故に諸大菩薩乃(すなわ)ち能(よ)く問うのみ」云云、大小の付属其れ別なること分明(ふんみょう)なり。
 同経の十に云く「汝等文殊当(まさ)に四衆の為に広く大法を説くべし今此の経法を以て汝に付属す乃至迦葉阿難等も来らば復(また)当に是くの如き正法を付属すべし」云云故に知んぬ文殊迦葉に大法を付属すべしと云云、仏より付属する処の法は小乗なり悟性論(ごしょうろん)に云く「人心をさとる事あれば菩提の道を得る故に仏と名づく」菩提に五あり何(いず)れの菩提ぞや得道又種種なり何れの道ぞや余経に明す所は大菩提にあらず又無上道にあらず経に云く「四十余年未顕真実(みけんしんじつ)」云云。

通解
 禅宗がいう。涅槃経の巻二に「私が今、有するところの無上の正法を悉く摩訶迦葉に付嘱する」とある。この文はどうか。答えていう。無上という言葉は大乗に似ているが、これは小乗をさすのである。外道の邪法に対すれば小乗をも正法というわけである。例えば、大法東漸(とうぜん)というのを妙楽大師の解釈のなかに「大法とは通じて仏教を指す」といって、大乗・小乗・権教・実教をまとめて大法というのである。外道に対すれば小乗も大乗といわれ、身分の低い者でも対比によっては殿といわれ、身分の高い方といわれるようなものである。
 涅槃経の巻三に「もし法宝を阿難および多くの比丘に付嘱するならば、法が久しく住することはできない。どうしてかというと一切の声聞および大迦葉はすべて無常であるからである。かの老人が他の贈り物を受けるようなものである。このゆえに無上の仏法をもろもろの菩薩に付嘱するであろう。もろもろの菩薩はよく問い答えるので、このような法宝は久しく住することができ、無量の千世まで利益を増すことが盛んであり、衆生を利益し安穏にするだろう。かの壮(さかん)なる人が他の贈り物を受けるようなものである。このような理由から諸大菩薩にはよく問うことができるのである」とある。大乗・小乗の付嘱はそれぞれ別であることが明白である。
 同じく涅槃経の巻十に「汝等よ、文殊菩薩は四衆のために広く大法を説くであろう。今、この教法を文殊菩薩に付嘱する。(中略)迦葉・阿難らも来るならば、またこのような正法を付嘱すべきである」とある。ゆえに文殊菩薩や迦葉それぞれに大法を付嘱されたことが分かる。しかしこの時、迦葉に仏から付嘱された法は小乗である。悟性論(ごしょうろん)に「人が心を悟ることがあれば菩提の道を得る。ゆえに仏と名づく」とある。だが菩提にも五種がある。どの菩提なのか。得道もまた種々ある。どの得道なのか。法華経以外の諸経に明かすところは大菩提ではない。また無上道ではない。無量義経に「四十余年には未だ真実を顕さず」とあるとおりである。

語訳
涅槃経
 釈尊の入涅槃の様子とその時に説かれた教えを記した経。大・小乗で数種ある。①大乗では、㋑中国・東晋代の法顕(ほっけん)訳「大般泥洹経(だいはつないおんぎょう)」六巻、四一八年成立。㋺北涼代の曇無讖(どんむしん)訳「大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)」(北本)四十巻、四二一年成立。㋩劉宋代の慧観(えかん)・慧厳(えごん)・謝霊運(しゃれいうん)訳「大般涅槃経」(南本)三十六巻、四三六年成立。㋑を参照して㋺の前半を改めたもの。㋥唐代の若那跋陀羅(にゃくなばつだら)訳「大般涅槃経後分」二巻、仏の荼毘(だび)・舎利の分配までの事績を記す。②小乗では、同じく法顕訳「大般涅槃経」三巻、姚秦(後秦)代の鳩摩羅什訳「仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)」等がある。内容は、大乗の涅槃経では仏身の常住、涅槃の四徳である常楽我浄を説き、一切衆生悉有仏性を明かして、善根を断じた一闡提(いっせんだい)も成仏すると説いている。また小乗の涅槃経は教理を説いたものではなく、釈尊の入涅槃から舎利の分配までの事跡を記している。

妙楽大師
(七一一年~七八二年)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の教義を宣揚(せんよう)し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(けいけい)(江蘇省)の人。諱(いみな)は湛然(たんねん)。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元十八年(七三〇年)左渓玄朗(さけいげんろう)について天台教学を学び、天宝七年(七四八年)三十八歳の時、宿願を達成して宜興浄楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴(ぶつろう)道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」十巻、「法華文句記」十巻、「止観輔行伝弘決」十巻、また「五百問論」三巻等多数ある。

下﨟(げろう)
 地位の低い者。ここでは侍の身分の低い者。

上﨟(じょうろう)
 地位の高い者。もとは年功を積んだ身分の高い僧
〈追記〉
「﨟」は仏教では「臘」と書き、もとは僧侶の九十日に及ぶ夏安居(げあんご)の回数を数える語で、後に僧侶が比丘としての具足戒を受けてからの年数を数える単位となった(法臘)。また「﨟」は宮廷において年功序列の意で用いられ、任官・叙位の順番によって先に任じられた者を上﨟、後から任じられた者を中﨟・下﨟などと区別した(﨟次(ろうじ))。さらに女房でも区別があり、上﨟は公卿の家の女(むすめ)がなるのが例で、中﨟は五位以上、下﨟は六位官人か社家出身の女性が就くこととされた。

阿難
 梵名アーナンダ(Ānanda)の音写、阿難陀(あなんだ)の略。釈尊十大弟子の一人。釈尊の従弟(いとこ)で、提婆達多の弟とされる。釈尊に常随給仕し、その説法を聞くことが仏弟子中もっとも多かったことから多聞(たもん)第一と称される。釈尊滅後、第一回仏典結集では誦出者(じゅしゅつしゃ)として中心的な役割を果たした。摩訶迦葉から付嘱を受け、付法蔵の第二として小乗教を弘通した。法華経授学無学人記品第九で山海慧自在通王如来(せんかいえじざいつうおうにょらい)の記別を受けた(『妙法蓮華経並開結』三四四㌻ 創価学会刊)。

無量千世増益熾盛(むりょうせんぜぞうやくしじょう)
 無量千世は量(はか)りしれないほど数多くの世。極めて長い期間をいう。無量世に同じ。増益熾盛は利益(りやく)が盛んに増すこと。仏の教えを修行することによって各種の功徳・利益を増すことをいう。

悟性論(ごしょうろん)
「少室六門集」の中の第五門のこと。一巻。達磨(だるま)の述作と伝承されているが、後人が達磨の名で記述したと考えられる。六門とは①心経頌(じゅ)②破相論③二種入④安心法門⑤悟性論⑥血脈(けちみゃく)論。悟性論は達磨所説の見性悟道(けんしょうごどう)(自己の本性を徹見し悟りを得ること)を論じ座禅に言及している。

菩提の道
 悟りを得る仏道。菩提は梵語ボーディ(Bodhi)の音写で、覚・智・道などと訳す。声聞・縁覚・菩薩・仏がそれぞれの果において得る悟りの智慧のこと。道・覚ともいう。このうち仏の悟りは最上究極のものであるから阿耨多羅三藐三菩提(無上菩提)という。

菩提に五あり
 菩提に五種の段階があるということ。すなわち大智度論巻五十三には菩提に至る五種の段階を示している。①発心菩提(悟りを求める大心を発すること)②伏心菩提(煩悩を調伏(じょうぶく)して種々の波羅蜜を行ずること)③明心(みょうしん)菩提(諸法実相を観照して心が明晰(めいせき)になること)④出到(しゅっとう)菩提(般若波羅蜜の中にあって、しかもこれにとらわれず煩悩を滅して一切智に至ること)⑤無上菩提(等覚の菩薩が諸惑を断じ尽くし仏界を覚知すること)。

講義
 前章では禅宗の成り立ちの淵源に関する根拠のある経が偽経(ぎきょう)であると、総論的に破折されたのであるが、それを受けて、これからは各論的に破折されていくのである。
 まず、ここでは仏の正法が摩訶迦葉のみに伝授されたとする教義を破られるのである。
 初めに、禅宗側が涅槃経巻二の一文――「我今所有の無上の正法悉(ことごと)く以て摩訶迦葉に付嘱す」を引いて迦葉付嘱の正しさを裏づけようとしているのを受けて、その涅槃経の文中の「無上の正法」といっても小乗にすぎないことを同じ涅槃経巻三の文や巻十の文をもって証明されている。次いで、悟性論(ごしょうろん)を引いて仏の菩提(悟り)や菩薩を得る道という点についても、幾つかの種類があることを明かされ、所詮、四十余年の間に説かれた「余経」の爾前経に明かす菩提や得道は大菩提でもなければ無上道でもない、と破折され、更には無量義経の「四十余年には未だ真実を顕さず」との文を引用されてこれを裏づけられている。

 無上の言は大乗に似たりと雖(いえど)も是れ小乗を指すなり外道の邪法に対すれば小乗をも正法といはん

 禅宗側が引用した涅槃経巻二の文――「我今所有の無上の正法悉く以て摩訶迦葉に付嘱す」のなかの「無上の正法」の〝無上〟について釈されているところである。経文を無条件に読むと、いかにも禅宗の言うとおり、この上の無い最高の正法が摩訶迦葉に付嘱されたことになる。だが、大聖人はここで〝無上〟といっても、何を比較の対象にするかによって、意味が異なることを明らかにされているのである。外道の邪法に対し内道(仏教)は、小乗ですら大乗といわれたり、正法といわれたりすることを挙げられながら、摩訶迦葉に付嘱された「無上の正法」は、小乗でしかないことを明らかにされている。

 例せば大法東漸(とうぜん)と云えるを……大法と云うなり

 比較の対象によって意味が異なることの例として、天台大師の法華玄義巻一の「大法東漸」という文を解釈した妙楽大師の文を挙げているところである。玄義の「大法東漸」とは正法時代・像法時代に大法(仏法)がインドから次第に東の方に伝わったという意味である。
 これを受けて妙楽大師が〝大法〟を釈して「通じて仏教を指す」と述べて、大法といっても仏教全般を指すとしている。これは、涅槃経で迦葉に付嘱された法が「無上の正法」と呼ばれていても、小乗の法にすぎないことの裏付けとされているのである。

 涅槃経の三に云く「若(も)し法宝を以て阿難及び諸の比丘に付属せば……問うのみ」云云、大小の付属其れ別なること分明(ふんみょう)なり

 この文は仏が、法宝(この場合、大乗教)を阿難や大迦葉など声聞の比丘たちに付嘱すると〝久住〟(法が久しい間、存在すること)することができないが、もろもろの菩薩たちに付嘱すると久住することができるので、無上の仏法は菩薩たちに付嘱すると述べたものである。
 先に禅宗側が涅槃経巻二の文を引いて「無上の正法」が迦葉に付嘱されたと主張したのに対し、同経巻三のこの文では「無上の仏法」は、阿難や大迦葉には付嘱せず諸菩薩に付嘱すると述べられているのである。「無上の正法」も」「無上の仏法」も言葉は同じであるが、一方は迦葉に付嘱すると言い、もう一方は迦葉らには付嘱しないと言っている。明らかに、言葉は似ていても「正法・仏法」の中身は別なのである。ここから、仏は、付嘱といっても、声聞の比丘たちと菩薩たちとでは別々の「法」を付嘱したことが明らかである。前者が小乗であり、後者が大乗であり、「大小の付属其れ別なること分明(ふんみょう)なり」と大聖人は仰せられているのである。
 なお、阿難、大迦葉の声聞の比丘たちが「無常」で「老人」に喩(たと)えられているのに対し、もろもろの菩薩たちは「善能(よく)問答するを以て……無量千世増益熾盛(むりょうせんぜぞうやくしじょう)にして衆生を利安せん」ことをもって「壮(さかん)なる人」に喩えられているが、この対比のなかに小乗と大乗の相違が明確に説かれている。
 小乗は声聞の比丘たちのためにだけ利益をもたらす〝小さな乗り物〟にすぎない。したがって、この声聞たちに付嘱された法とは、彼らだけを利益するもので、無常の彼らが亡くなると法も消滅する。ここから、彼らは死が時間的に迫っている老人に喩えられるのである。
 これに対して、もろもろの菩薩たちに付嘱される法は大乗の法であり、よく多くの人たちと問答しながら法を伝えていくので、この法は無量千世という長い年月にわたってますます豊かになって一切の衆生を利益していく。このゆえに、菩薩たちのことをまだまだ未来ある壮人に喩えているのである。

 同経の十に云く「汝等文殊当(まさ)に四衆の為に……付属すべし」云云故に……付属する処の法は小乗なり

 同じく涅槃経巻十の文である。ここでは仏が文殊らに対し、比丘、比丘尼、優婆塞(うばそく)、優婆夷(うばい)の四衆に向かって大法を説いていくように促し、そのために「此の経法」を付嘱すると述べ、迦葉・阿難などの声聞たちも来たならば正法を付嘱すべしとする文の二文を引用されている。声聞に付嘱された法は声聞だけのためであるが、菩薩に付嘱された法は大乗であるから、声聞を排除することはないのである。

 菩提に五あり

 大智度論巻五十三には次のように五つの菩提を説いている。 
「復(また)五種菩提有り、一には発心菩提と名づけ、無量の生死の中に於いて発心し、阿耨多羅三藐三菩提の為にするが故に名づけて菩提と為す。此れ因中に果を説くなり。二には伏心菩提(ふくしんぼだい)と名づけ、諸の煩悩を折(しゃく)し、其の心を降伏(ごうぶく)し、諸の波羅蜜を行ず。三には明菩提(みょうぼだい)と名づけ、三世の諸法の本末、総相、別相を観じ、分別籌量(ふんべつちゅうりょう)して諸法実相、畢竟清浄(ひっきょうしょうじょう)、謂(いわ)ゆる般若波羅蜜の相を得、四には出到菩提(しゅっとうぼだい)と名づけ、般若波羅蜜の中に於いて方便力を得るが故に、亦(また)般若波羅蜜に著(じゃく)せず。一切の煩悩を滅し、一切十方の諸仏を見たてまつり、無生法忍(むしょうほうにん)を得、三界を出でて薩婆若(さはにゃ)に到る。五には無上菩提と名づけ、道場に坐し、煩悩の習を断じて阿耨多羅三藐三菩提を得(う)」と。
 すなわち、菩薩の修行の段階によって悟りの智慧を、発心菩提、伏心菩提、明菩提、出到菩提、無上菩提の五種類に分けている。大聖人は菩提に五種類あることを示されることにより、禅宗の「悟性論」で「菩提」という言葉を使っているからといって、法華経の無上菩提と同じものだと思ってはならないと破られているのである。

コメント



 編集・削除ができます。
 管理者にだけ表示を許可する
 
 

プロフィール

墨田ツリー

Author:墨田ツリー

 
 
 

最新トラックバック

 
 

カテゴリ

 

検索フォーム

 
 
 

ブロとも申請フォーム

 

QRコード

QR