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真言見聞・第十七章 文証無き邪義を説く真言を難ず

             真言見聞

      第十七章 文証無き邪義を説く真言を難ず

本文(一四九㌻一五行~一五〇㌻二行)
 又大日経等の諸経の中に法華経に勝(すぐ)るる経文之(これ)無し是六、釈尊御入滅より已後天竺の論師二十四人の付法蔵(ふほうぞう)・其の外大権(だいごん)の垂迹・震旦(しんたん)の人師・南三北七の十師・三論法相の先師の中に天台宗より外に十界互具・百界千如・一念三千と談ずる人之無し、若(も)し一念三千を立てざれば性悪(しょうあく)の義之無し性悪の義無くば仏菩薩の普現色身(ふげんしきしん)・真言両界の漫荼羅・五百七百の諸尊は本無今有(ほんむこんぬ)の外道の法に同ぜんか、若し十界互具・百界千如を立てば本経何(いず)れの経にか十界皆成(じっかいかいじょう)の旨之(これ)を説けるや、天台円宗見聞(けんもん)の後・邪智荘厳(じゃちしょうごん)の為に盗み取れる法門なり、才芸を誦(じゅ)し浮言(ふげん)を吐くには依る可(べ)からず正しき経文・金言を尋ぬ可きなり是七。

通解
 また大日経などの諸経のなかに法華経よりも勝れているという経文はない〔これが第六〕。
 釈尊の御入滅より以後、天竺(インド)において仏法を付嘱され伝え弘めた二十四人の論師、そのほか仏・菩薩が権(かり)に迹(しゃく)を垂れて現れた導師、また震旦(中国)の人師、中国の南部の三師と北部の七師の十師、三論宗・法相宗の先師のなかで、天台宗よりほかに十界互具・百界千如・一念三千と談じた人はいない。もし一念三千を立てなければ、仏・菩薩に本来の性分として悪を具える義はない。この生悪の義がなければ仏・菩薩が衆生を救うために普(あまね)く色心を現すこと、真言の金剛界・胎蔵界における両界の漫荼羅における五百・七百の諸尊は、本なくして今だけあるという外道の法と同じになるであろう。(真言宗で)十界互具・百界千如を立てるのは、依処とする真言の本経三部のどの経に十界がすべて成仏する旨を説いているのか。(真言宗の一念三千は)天台円宗を見聞の後、邪智によって自宗を飾るために盗み取った法門である。才知と技芸を唱え、無責任な言葉を吐くのには依拠してはならない。正しい経文と金言を求めるべきである〔これが第七〕。

語訳
二十四人の付法蔵(ふほうぞう)
 釈尊から付嘱された教法(法蔵)を次々に付嘱し、布教していった正法時代の正統な継承者たち。付法蔵因縁伝では二十三人とするが、摩訶止観では阿難から傍出した末田地(までんじ)を加えて二十四人とする。

南三・北七
 中国・南北朝時代(四四〇年~五八九年)に江南の三師と河北の七師によって立てられた種々の学派のこと。天台大師智顗が法華玄義巻十上で分類したもの。日蓮大聖人は「しかれども大綱は一同なり所謂一代聖教の中には華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三なり」(撰時抄・二六一㌻)とされている。すなわち、南三北七の諸学派は華厳経を頓教として最勝としたが、天台大師はこれらの主張を批判し、五時の教判を立て、釈尊一代の教えについて法華経第一、涅槃経第二、華厳経第三であるとし、法華経の正義を宣揚した。

性悪(しょうあく)の義
 仏に本性としての悪があるとする教義のこと。天台大師が立てた十界互具・一念三千の法門に基づいたもの。性善・性悪は、すべての生命に本来的にそなわる善悪の性分を指している。これに対して、行動の次元に本来の性分が顕れて、その効用を発揮することを修善・修悪という。天台大師の観音玄義巻上に「仏は修悪を断じ尽くして、但(ただ)性悪あり。(中略)仏は性悪を断ぜずと雖(いえど)も、而(しか)も能(よ)く悪に於て達す。悪に達するを以ての故に、悪に於いて自在なり。故に悪の染むる所と為(な)らず、修悪起こるを得ず。故に仏、永く復(また)悪無し。自在を以っての故に、広く諸悪の法門を用いて衆生を化度す。終日之を用いて、終日染まらず」とある。

仏菩薩の普現色身(ふげんしきしん)
 仏・菩薩が普(あまね)く色身を現ずること。仏・菩薩が衆生救済のために、広く種々の姿に身を変えて現れること。普門示現(ふもんじげん)ともいう。法華経には、観音菩薩が三十三身、妙音菩薩が三十四身を示現して衆生を済度することが説かれている。

五百七百の諸尊
 真言密教で説く金剛界・胎蔵界の両界曼荼羅における五百・七百という多くの尊像のこと。金剛界曼荼羅は金剛頂経の所説を図顕したもので、仏果の実相を描いている。その図は九会(くえ)からなり、総じて一千四百六十一尊あるが、太平記に「金剛界の五百余尊を顕はして」とあり、五百余尊を挙げることがあったらしい。また、胎蔵界曼荼羅は内院に二百九尊、外院に二百五尊、合わせて四百十四尊が図示されている。太平記に「胎蔵界七百余尊」とあり、これら諸尊に眷属を加えて七百余尊となる。

本無今有(ほんむこんぬ)
「本(もと)無くして今有り」と読む。根本となる法理を明かさず、今ある現象だけを示していること。外道の特徴とされている。

講義
 ここでは、真言宗への七難のうち、最後の二難を取り上げる。第六の疑難は、真言宗が依経とする大日経等の三部経にも、大日経が法華経に勝れているとする経文はないということである。
 したがって、大日経が法華経に勝れているとする真言宗の教義は自らが依経とする三部経にも文証のない我見であり邪義であると難じられているのである。
 最後の第七の疑難は、真言宗は一念三千が自宗にもあるとしているが、これも法華経にしかないのであるから、真言宗は盗んだにすぎないということである。まず、釈尊入滅以来、インドで仏教を伝承した(付法蔵の)二十四人の論師、仏・菩薩が衆生救済のために仮に迹を垂れ出現した人たち、中国の南三北七の十師、三論宗・法相宗の先師たちのなかで、天台宗以外で十界互具・百界千如・一念三千の法門を説いた者はいなかったという事実を明確にされている。そして「若し一念三千を立てざれば性悪の義之無し」と仰せられ〝性悪の義〟が成り立たないと仰せられている。「性悪の義」とは仏・菩薩にも性分として六道の生命が具わるというもので、仏・菩薩が六道の衆生として色心を現し、衆生を化導・利益することが、それによって可能となるのである。一念三千の基礎は十界互具であるが、これは十界の各界が互いに十界を具(そな)えていることであり、言い換えれば、九界の迷いの衆生(悪)に仏界を具え、悟りの仏界にも迷いの九界(悪)を具えているということである。これを仏や仏性、真如の側から言えば、仏・仏性・真如に悪が本性として具わっているという性悪の義となる。
 しかるに十界互具一念三千を説かない真言の経典では、仏・菩薩が種々の姿を現して衆生を化導・利益するということは不可能であるはずである。それゆえに次に「性悪の義無くば仏菩薩の普現色身(ふげんしきしん)・真言両界の漫荼羅・五百七百の諸尊は本無今有(ほんむこんぬ)の外道の法に同ぜんか」と破折されている。
 すなわち、仏や菩薩が衆生を救うために、あまねく種々さまざまなものの姿や身体を示して説法するのも、仏・菩薩に本性として衆生の悪を具えているから可能なのであり、真言宗の金剛界・胎蔵界の漫荼羅に五百余尊、七百余尊といわれる図像が描かれるのは、仏・菩薩が種々の色身を現じて衆生を化導・利益することを表現しているのである。したがって、仏性に衆生の悪を具えるとの性悪の義があって初めて可能なのであるから、もしこの義がなかったならば、普現色身にしても、五百余尊・七百余尊にしても、〝本無くして今有る〟という根拠のないものとなり、外道と同じになってしまうと難じられている。
 次いで、もし真言宗が一念三千の法門は自らの教義にあるというなら、真言宗が根本とする真言三部経のどの経に十界互具の法門に基づいて初めて可能な十界の衆生すべて成仏するという義が説かれているのか、と追及。真言宗が依経である真言三部経にない一念三千の法門を自宗にあると言っているのは、天台宗で説いているのを見聞した後に、悪智慧によって己の貧しい教義を荘厳するために盗み取ったのであると断じられている。更に、才知と技芸に長(た)け、譫言(うわごと)のように無責任な言葉を吐く弘法のような人師を、仏法に関しては依りどころにしてはならないと戒められ、依るべきは正しい経文と仏の金言であると勧められている。
 最後の第七の疑難は真言が正しい経文や仏の金言に基づかずに虚妄(こもう)の義を立てていることに対してなされている。

 性悪(しょうあく)の義について

 性悪とは本性としての悪ということで、本性としての善である性善と対語(ついご)である。また、修悪(しゅあく)と修善という対語もあり、修悪とは行為としての悪、修善は行為としての善、である。いずれも、天台大師が観音玄義巻上のなかで使用している言葉である。
「闡堤(せんだい)は修善を断じ尽くして但(ただ)性善のみあり。仏は修悪を断じ尽くして但性悪のみあり」とある。ここでは、善の代表である仏と悪の代表である闡堤とを対比させて論じている。その意味は、悪の代表のような一闡堤は行為としての善は断じて行わないが、それでも本性としての善を有しているから仏になる可能性をもっている。その反対に、仏は行為としての悪は断じて行わないが本性としての悪は有している、というものである。
 更に、仏に性悪が有るということについて、同玄義では「仏は性悪を断ぜずと雖(いえど)も、而(しか)も能(よ)く悪に達す。悪に達するを以ての故に、悪に於いて自在なり。故に悪の染まる所と為(な)らず修悪を起こすことを得ず。自在を以っての故に、広く諸悪の法門を用いて衆生を化度す」と述べている。つまり、仏は本性としての悪を具えていても、能く悪の本質に通達しているために、自在にもろもろの迷いや悪の法門を用いて衆生を教化することができるというものである。
 この性悪の義は十界互具・一念三千の法門に基づいてこそ初めて成り立つのであり、仏や菩薩の衆生救済を裏づける原理となるのである。仏や菩薩が性悪を有するからこそ、六道輪廻の迷いの世界に出現して、苦しむ衆生の機に応じてさまざまな姿や身体を現じ、自在に法を説いて救うことが可能となるのである。

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