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真言見聞・第十六章 真言が五仏の説に背くを難ず

             真言見聞

      第十六章 真言が五仏の説に背くを難ず

本文(一四九㌻六行~一四九㌻一五行)
 六波羅蜜経に云く「所謂(いわゆる)過去無量殑伽沙(ごうがしゃ)の諸仏世尊の所説の正法・我今亦当(またまさ)に是(かく)の如き説を作(な)すべし所謂八万四千の諸の妙法蘊(おん)なり○而(しか)も阿難陀等の諸大弟子をして一(ひと)たび耳に聞いて皆悉(ことごと)く憶持(おくじ)せしむ」云云、此の中の陀羅尼蔵を弘法我が真言と云える若(も)し爾(しか)れば此の陀羅尼蔵は釈迦の説に非ざるか此の説に違す是二。
 凡(およ)そ法華経は無量千万億の已説(いせつ)・今説(こんせつ)・当説(とうせつ)に最も第一なり、諸仏の所説・菩薩の所説・声聞の所説に此の経第一なり諸仏の中に大日漏(も)る可(べ)きや、法華経は正直無上道の説・大日等の諸仏長舌を梵天に付けて真実と示し給う是三。
 威儀形色経(いぎぎょうしききょう)に「身相黄金色(しんそうおうごんじき)にして常に満月輪に遊び定慧智拳(じょうえちけん)の印法華経を証誠(しょうじょう)す」と、又五仏章の仏も法華経第一と見えたり是四。
「要を以て之(これ)を云わば如来の一切所有の法乃至皆此の経に於て宣示顕説(せんじけんぜつ)す」云云、此等の経文は釈迦所説の諸経の中に第一なるのみに非ず三世の諸仏の所説の中に第一なり此の外・一仏二仏の所説の経の中に法華経に勝れたる経有りと云はば用(もち)ゆ可(べ)からず法華経は三世不壊(ふえ)の経なる故なり是五。

通解
 六波羅蜜経に「いわゆる過去の恒河(ごうが)(ガンジス河)の砂の数ほど無数の諸仏世尊の説かれた正法について、我も今またこれと同じ説をなすのである。いわゆる八万四千のもろもろの妙法の集まりである(中略)しかも阿難陀らのもろもろの大弟子に、ひとたび耳に聞かせ皆ことごとく記憶させている」とある。このなかの陀羅尼蔵を弘法は我が真言といっている。もしそうであるならば、この陀羅尼蔵は釈尊の説ではないのか。弘法の言い分は陀羅尼蔵は釈尊の説であるとの経文に違っている〔これが第二〕。
 およそ法華経は無量千万億の已説(いせつ)・今説(こんせつ)・当説(とうせつ)の三説のなかで最も第一である。諸仏の所説や菩薩の所説、声聞の所説のなかで、この法華経が第一である。諸仏の中に大日如来が漏れることがあろうか。法華経は正直で無上道の説であり、大日如来らの諸仏は長舌を梵天に付けて真実と示されたのである〔これが第三〕。
 威儀形色経に「(大日如来の)姿は黄金色で常に満月のようであり、定慧智拳の印を結んで、法華経を証明する」とあり、また法華経方便品第二の五仏章の段で総諸仏・過去仏・現在仏・未来仏・釈迦仏の五仏も法華経を第一と説いている〔これが第四〕。
 法華経如来神力品第二十一に「要をもって之をいうと、如来の一切の所有の法(中略)皆この法華経において宣(の)べ示し顕(あらわ)に説いた」とある。これらの経文は、法華経は釈尊が説いた諸経のなかで第一であるだけでなく、過去・現在・未来の三世の諸仏の所説のなかで第一である。このほか一仏・二仏が説いた経のなかで法華経よりも勝れている経があるというならば、用いてはならない。法華経は三世にわたって壊れない経であるからである〔これが第五〕。

語訳
六波羅蜜経
 十巻。中国・唐代の般若訳。大乗理趣六波羅蜜多経という。衆生を発心させ修行させる法と不退転心を説き、更に菩薩の修行の要としての布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(智慧)の六波羅蜜多について詳説している。

威儀形色経(いぎぎょうしききょう)
 一巻。中国・唐代の不空訳。法華曼荼羅威儀形色法経(ほっけまんだらいぎぎょうしきほうきょう)という。法華経見宝塔品第十一で説かれる宝塔品の儀式、すなわち多宝如来の出現を基にして、密教様式の曼荼羅いをあらわした経。

満月輪に遊び
 満月輪は満月が丸いことを輪にたとえたもの。「満月輪に遊び」とは仏の身相が(黄金色にして)円満なさまを表現している。

定慧智拳(じょうえちけん)の印
 定は禅定、慧は智慧、智の拳印は無明を除き仏智に入る拳印で、金剛界の大日如来(智法身)などが結んでいる印である。また胎蔵界の大日如来(理法身)などが定印禅定に入った相を示す印契(いんげい)を結んでいる。不空訳の威儀形色経においては、法華経の説法において出現した多宝如来も、この印を結んでいるとしている。

五仏章の仏
 五仏章に説かれる諸仏のこと。五仏章とは法華経方便品第二で、総諸仏・過去仏・未来仏・現在仏・釈迦仏の五仏が皆同じく、一仏乗である法華経のために方便をもって諸法を説くということを明かした段のこと。総諸仏章・過去仏章・未来仏章・現在仏章・釈迦仏章の五章からなる(『妙法蓮華経並開結』一二二㌻~一二四㌻ 創価学会刊))。五仏は必ず先に権経を説き、最後に実教である法華経を説いて三乗を会(え)して一乗に帰入させるという教化の儀式(説法の筋道)の同一であること(これを五仏道同という)を明かしている。

講義
 ここでは、真言への七つの疑難のうち、第二、第三、第四、第五までの四つの疑難を取り上げる。
 まず、第二の疑難は、弘法が六波羅蜜経のなかで説かれる陀羅尼蔵を自分の立てる真言教に配したことに対して弘法の誤りを指摘されている。異なった観点ながら、同じ疑難は既に提出されている(一四八㌻)。
 六波羅蜜経には「過去において諸仏によって説かれた無量無数の正法を我(釈尊)もまた、今説くのである。いわゆる八万四千の妙法蘊(おん)(妙なる教えの集まり)である……」とあり、更に、ここにいう八万四千の妙法蘊、すなわち一切経を経蔵・律蔵・論蔵・慧蔵・陀羅尼蔵の五種類に分類している。
 弘法は弁顕密二教論巻下で、この陀羅尼蔵を自分の弘める真言密教に配しているのであるが、一方では真言は大日如来の説法であるといいながら、もう一方では釈尊の六波羅蜜経で自らの所説としている五蔵の一つだとするのは明らかに矛盾することになると破られている。
 第三の疑難は、釈尊が法華経法師品第十で已・今・当の三説のなかで、法華経が最第一であると説いており(『妙法蓮華経並開結』三六二㌻ 創価学会刊)、また、同薬王菩薩本事品第二十三では一切の如来が説いた経々、一切の菩薩が説いた経々、一切の声聞が説いたもろもろの経々のなかで、法華経が第一であると説いている(同・五九六㌻)。このことから、大日如来もこの諸仏、一切の如来のなかに当然、入っているはずで、したがってこの法華経より勝れる大日如来の法というものがあるはずがないということ。ゆえに、法華経如来神力品第二十一で大日如来を含めた諸仏が天上界の最上の梵天まで舌を届かせて釈尊の説法の真実なることを証明しているではないか、と述べられている。
 このように、大日如来も釈尊の説いた法華経を最高第一の教えであると証明しているのに、真言宗が大日如来を崇拝し、法華経を顕教と貶(おとし)めるのは大日如来の心にも違背するではないか、と破られているのである。
 第四の疑難は、不空訳の法華曼荼羅威儀形色法経からの一節を引用して提起されている。そこでは大日如来の身体が黄金色で常に満月のように円満で、そのうえ定(禅定)印・慧(智慧)印・智(仏智)拳印の三つの印を結んで妙法輪である法華経を証明していると説かれている。次に、法華経方便品第二に、過去仏・現在仏・未来仏・総諸仏・釈迦仏のいわゆる五仏は必ず初めに方便権教を説いた後に、その権教を開いて実教の法華経を説きあらわすという経過を経て衆生を教化する(これを五仏道同という)とあることから、諸仏、したがって当然、大日如来も法華経を最高第一の教えであるとしているはずであるとされている。
 このように大日如来も法華経を最高第一であるとしているのに、真言宗が法華経を第三の劣・戯論(けろん)などと貶(おとし)めているのは釈尊に違背するのはもちろんのこと、自らが崇拝する大日如来や諸仏にも違背していると難じられているのである。
 第五の疑難では、まず、釈尊が滅後の流布のために上行菩薩等の地涌の菩薩に法華経の要を四句に結んで付嘱するという法華経如来神力品第二十一の文を引用されている。そして、この神力品の文を含めて、それまで引用された法華経法師品第十、同薬王菩薩本事品第二十三、同方便品第二の五仏章等の文は法華経が釈尊の説いた諸経のなかだけでなく、三世諸仏が説いた無数の経々のなかでも最第一であることをあらわしているとされ、したがって、「此の外」――つまり、これにそむいて、一仏や二仏の説いた経々において、法華経より勝る経があると説いていたとしても用いてはならないと戒められている。なぜなら、法華経は三世の諸仏が「第一」と証明したのであるから、三世にわたって壊れることのない最高の経であるからであると述べられ、大日経が法華経より勝れているとする真言宗の教義を破折されている。これが第五の疑難である。
 以上のなかで、第三、第四、第五は、今の結びの御文にあるように「法華経第一」というのが大日如来も含めた諸仏の金言であることを示されているのであるが、「是三」「是四」「是五」と立て分けられた理由を考えてみたい。結論的にいえば、同じく「法華第一」といっても諸経との関係のあり方に種々あり、第三の場合は、法華経は已今当の諸経に超絶して勝(すぐ)れるという立場である。それに対し、第四の場合は、諸経を説くのは最後の法華経へ誘引するためで、したがって、法華経は諸経の頂点にあるという立場である。
 これに対し、第五の場合は「如来の一切所有の法が此の経(法華経)に宣示顕説されている」とあるように、一切法・一切諸経は法華経の中に会入(えにゅう)され、この部分部分として位置づけられるという立場である。こうした違いがあることから、三つに立て分けられたのであろうと考えられる。

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