FC2ブログ
11 -<< 2018-12 -  12345678910111213141516171819202122232425262728293031  >>01 -
 

真言見聞・第十三章 弘法の法華第三の邪義を破す

             真言見聞

      第十三章 弘法の法華第三の邪義を破す

本文(一四七㌻一七行~一四八㌻一〇行)
 弘法大師は「法華は戯論(けろん)・華厳は真実なり」と云云、何(いず)れを用う可(べ)きや、宝鑰(ほうやく)に云く「此(か)くの如き乗乗は自乗に名を得れども後に望めば戯論(けろん)と作(な)る」文、又云く「謗人謗法(ぼうにんほうぼう)は定めて阿鼻獄に堕せん」文、記の五に云く「故に実相の外は皆戯論と名づく」文、梵網経の疏(しょ)に云く「第十に謗三宝戒亦(また)は謗菩薩戒と云い或は邪見と云う謗は是れ乖背(けはい)の名なり絓(すべ)て是れ解(げ)・理に称(かな)わず言は実に当らずして異解(いげ)して説く者を皆名づけて謗と為すなり」文、玄の三に云く「文証無き者は悉(ことごと)く是れ邪偽・彼(か)の外道に同じ」文、弘の十に云く「今の人他の所引の経論を信じて謂(い)いて憑(たの)み有りと為して宗の源を尋ねず謬誤(みょうご)何ぞ甚(はなはだ)しき」文、守護章上の中に云く「若(も)し所説の経論明文有らば権実・大小・偏円・半満を簡択(かんちゃく)す可し」文、玄の三に云く「広く経論を引いて己義を荘厳(しょうごん)す」文。
 抑(そもそも)弘法の法華経は真言より三重の劣・戯論の法にして尚(なお)華厳にも劣ると云う事大日経六巻に供養法の巻を加えて七巻三十一品・或は三十六品には何(いず)れの品何れの巻に見えたるや、しかのみならず蘇悉地経三十四品・金剛頂経三巻三品或は一巻に全く見えざる所なり、又大日経並びに三部の秘経には何れの巻・何れの品にか十界互具之有りや都(すべ)て無きなり、法華経には事理共に有るなり、所謂(いわゆる)久遠実成は事なり二乗作仏は理なり、善無畏等の理同事勝は臆説(おくせつ)なり信用す可からざる者なり。

通解
(以上の釈尊・天台・妙楽・伝教の説に対し)弘法大師は「法華経は戯れの論であり、華厳経は真実である」と述べている。いずれの説を用いるべきか。秘蔵法鑰に「このような乗々(十住心のうち第八・如実一道心と第九・極無自性心)は、自らの乗(教え)において当分では仏乗の真理であるとの名を得ているが、後(第十・秘密荘厳心)に比べると戯れの論となる」とある。また「謗人・謗法は必ず阿鼻地獄に堕ちる」とある。法華文句記の巻五に「ゆえに諸法実相の法門以外はすべて戯れの論と名づける」とある。梵網経疏に「第十に謗三宝戒または謗菩薩戒といい、あるいは邪見という。謗は乖背(けはい)の名である。すべてこれは智解が理に合致しておらず、その言葉が真実に当たっておらず、異なった解釈をして説く者をみな名づけて謗というのである」とある。止観輔行伝弘決の巻十に「今の人は他人が引用する経論を信じて頼りにできると思って、宗旨の本源を究めない、この誤りは甚だしい」とある。守護国界章巻上の中に「もし所説の経論の明文があるならば権教か実教か、大乗教か小乗教か、偏教か円教か、半字教(小乗)か満字教(大乗)かを選別すべきである」とある。法華玄義巻三に「広く経論を引用し自分の教義を飾り立てても、権教はやはり権教であり実教にはならない」とある。
 そもそも弘法は、法華経は真言より三重の劣で戯れの教法であり、華厳経よりも劣るといっているが、大日経六巻には供養法の巻を加えて七巻三十一品、あるいは三十六品のなかで、どの品、どの巻に見えているのか。それだけでなく蘇悉地経三十四品、金剛頂経三巻三品あるいは一巻にも全く見えないところである。また大日経ならびに三部の秘経のなかで、どの巻、どの品に十界互具の法門が説かれているのか。これらのどこにも説かれていない。法華経には事・理ともに説かれている。いわゆる久遠実成は亊であり、二乗作仏は理である。善無畏らの法華経と大日経は理は同じであるが事においては大日経は勝れている」とは憶測の説である。信用できない説である。

語訳
弘法大師
(七七四年~八三五年)。平安時代初期の僧。日本真言宗の開祖。諱(いみな)は空海。弘法は諡号(しごう)。姓は佐伯氏、幼名は真魚(まお)。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦十二年(七九三年)勤操(ごんそう)の下で得度。延暦二十三年(八〇四年)留学生(るがくしょう)として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果(けいか)に密教の灌頂を禀(う)け、遍照金剛(へんじょうこんごう)の号を受けた。大同元年(八〇六年)に帰朝。弘仁七年(八一六年)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁十四年(八二三年)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰(さんごうしいき)」三巻、「弁顕密二教論」二巻、「十住心論」十巻、「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」三巻等がある。

「法華は戯論(けろん)・華厳は真実なり」
 真言宗の教判で、弘法が秘密曼荼羅十住心論で立てた法門の要旨の一つ。大日経・菩提心論を依拠として、十住心を立て諸経の優劣・浅深を判じ、真言密教が最高の教説であると主張した。とくに第八に一道無為心(法華経・天台宗の立場)、第九に極無自性心(ごくむじしょうしん)(華厳経・華厳宗の立場)、第十に秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)(大日経・真言宗の立場)と立て、第八・法華は第十の真言にだけでなく第九の華厳にも劣ると貶(けな)すのである。

宝鑰(ほうやく)
 三巻。弘法の著。秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)のこと。「秘密曼荼羅十住心論」十巻を要約して三巻にまとめたもの。法華経は真言・華厳に劣る戯論(けろん)であると下し、更に法華経の教主は顕教のなかでは究竟の理智法身ではあるが、真言門に望めば初門にすぎず、悟りには遠い「無明の辺域」にすぎない、と法華経の教主である釈尊を卑しめている。

梵網経(ぼんもうきょう)
「梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十(ぼんもうきょうるしゃなぶっせつぼさつしんじかいほんだいじゅう)」上下二巻の略。下巻を特に「菩薩戒経」とよぶ。僧肇の序文によれば、梵網経すべてを翻訳すると百二十巻六十一品となるが、鳩摩羅什が長安で同経中の菩薩心地戒品第十のみを訳出したという。梵網とは、仏が衆生の機根に合わせて教を設け、病に応じて薬を与えて、一人も漏らさず彼岸に達せしめることが、あたかも大梵天王の因陀羅網(いんだらもう)のようであるということから名づけられた。この経の教主は蓮華台蔵世界において成道した報身仏の盧舎那仏であり、釈迦応化身の覆述によるものである。大乗律の経典で、衆生の戒は仏性の自覚によって形成されるとしている。上巻には菩薩の階位の十住・十行・十回向・十地の四十法門が、下巻には菩薩戒の十重禁戒、四十八軽戒(きょうかい)が説かれている。天台大師智顗が華厳経の結経としたことから、結経梵網経とも呼ばれる。伝教大師最澄は本経に基づいた大乗戒による戒壇の建立を目指し、四分律に基づく具足戒を小乗戒として廃し、それに代わる授戒制度を創出した。
〈追記〉
 大正大蔵経の律部に収録される梵網経は、古来、中国・日本を通じて重視され、大乗菩薩戒の典拠経典となっているが、梵本は存在しない。同名の経典として、大正大蔵経の阿含部に梵網六十二見経が存するが、当然のことに大乗菩薩戒を説くものではない。今日では、梵網経は五世紀の劉宋期に中国で撰述されたとする学説が有力である。

梵網経の疏(しょ)
 二卷。中国・隋代の天台大師講述、章安大師記。菩薩戒義疏のこと。梵網経義記ともいう。

絓(すべ)て是れ解(げ)・理に称(かな)わず
 すべて智解(ちげ)が道理に合っていない、との意。絓(かい)は絓糸(しけいと)のことで、繭(まゆ)の上皮からとった粗末な絹糸。節が多く、太さも不揃いな粗糸のこと。転じて、引っ掛かる・滞(とどこお)るの意。麤(そ)(粗雑で偏頗なさま)の義に通じ、「邪見」を表した語。ここでは「すべて」と読み、副詞として用いている。

守護章
 守護国界章(しゅごこっかいしょう)のこと。三巻。伝教大師著。法相宗の得一が三乗差別の立場から天台大師智顗の宗義を批判したことを破折し、法華一乗平等の立場から天台宗の正義を明らかにした。

半満
 ①半字と満字のこと。半字はサンスクリットの字母である母音(ぼいん)十二字と子音(しいん)三十七字をいう。これらの字母を合わせて字義を成ずるを満字という。②半字教と満字教のこと。涅槃経如来性品第十二の譬喩に基づいて立てられたもの。教師が子供を教育するにあたり、まず半字を教え、後に満字を教えるように、仏は初めに小乗の九部経典を説いて後に大乗の方等経典を説いたとある。③菩提流支(ぼだいるし)(~五二七年)による教判。諸経典を釈尊一代に説かれたものとして、二つの時期に分類して解釈した。釈尊の成道から十二年間説かれた小乗の教えを半字教とし、十二年以後を満字教とする。天台大師が法華玄義巻十上に挙げている。④半字教を二乗・三乗の方便、満字教を一仏乗の真実の教えとする。法華玄義巻十上に天台大師が立てたもの。ここでは伝教大師の守護国界抄の文ゆえ、④の意であろう。

蘇悉地経
 三巻。中国・唐代の善無畏訳。蘇悉地羯羅経(そしつじからきょう)の略。真言三部経の一つ。仏部・蓮華部・金剛部の三部法について真言の持誦・灌頂・諸曼荼羅および妙果を得るための種々の成就法を説いている。

金剛頂経(こんごうちょうきょう)
 もとは単一の経典ではなく、大日如来が十八の会座で説いたとされるものを集めた経典の総称。一般に金剛頂経という場合、このうち初会の一部を訳して一経としたものをさす。漢訳には、金剛智が訳した金剛頂瑜伽中略出念誦経(こんごうちょうゆがちゅうりゃくしゅつねんじゅきょう)四巻と、弟子の不空が訳した金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経(こんごうちょういっさいにょらいしんじつしょうだいじょうげんしょうだいきょうおうぎょう)三巻がある。金剛界を説いた経とされ、大日経とともに密教の根本聖典とされる。金剛界三十七尊が明かされ、金剛界曼荼羅とその供養法などが説かれている。

久遠実成(くおんじつじょう)
 インドに生まれ今世で成仏したと説いてきた釈尊が、実は五百塵点劫という非常に遠い過去(久遠)に成仏していたということ。法華経如来寿量品第十六で説かれる。同品には「我れは実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由他劫なり」(『妙法蓮華経並開結』四七八㌻ 創価学会刊)、「我れは仏を得て自(よ)り来(このかた) 経(へ)たる所の諸の劫数(こうしゅ)は 無量百千万 億載阿僧祇なり」(同・四八九㌻)とある。さらに釈尊は、自らが久遠の昔から娑婆世界で多くの衆生を説法教化し、下種結縁してきたことを明かした。五百塵点劫の久遠における説法による下種結縁を久遠下種という。

講義
 法華最勝が仏説であることを示された前段を受けて、この段は、弘法大師が「法華経は大日経第一、華厳経第二に次いで三重に劣っており、戯論(けろん)(戯れのような無益な論議)のようなものだ」と述べた邪義を破られている。初めに掲げられている「法華経は戯論のようなものであり、華厳のほうが真実である」というのは、直接、弘法の言葉としてはないが、彼が言っている内容はこのとおりである。そして、この主張と前の段で示された法華経が真実で華厳経等を方便権教とする仏語や天台大師・伝教大師の釈と比べて、どちらを用いるべきであるかと責められている。当然、後者であることはいうまでもない。
 次いで、弘法の秘蔵宝鑰から二つの文を引用されている。一つは秘蔵宝鑰巻下の「(大乗において前の二は菩薩乗、後の二は仏乗なり)此(か)くの如き乗乗は自乗に仏の名を得れども後に望むれば戯論と作(な)る」との文である。弘法は十住心を立て分け、大乗については第六・他縁大乗住心(法相宗)、第七・覚心不生住心(三論宗)、第八・一道無為住心(天台宗)、第九・極無自性住心(華厳宗)の四住心とし、第十の究極の心として秘密荘厳住心を置き、これを真言宗の立場とする邪義を立てているのである。引用された文の「此くの如き乗乗」というのは弘法が仏乗とした第八と第九のことである。第八(天台宗)と第九(華厳宗)は「自乗」、自らの教えにおいては、それぞれ仏乗といって仏の名を冠しているが、後の第十(真言宗)と比較すると戯論となる、と述べている。これが、天台宗の依経である法華経を戯論と貶(おとし)め、また、華厳宗を第九、天台宗を第八にして法華経を華厳経より下に置き、第十の大日経の真言宗より三重の劣にする邪義の根本である。次に秘蔵宝鑰巻中から「人を謗じ法を謗ずれば定めて阿鼻獄に堕して……」という文を引用されている。つまり、人であれ法であれ、これを誹謗すると必ず阿鼻地獄に堕ちるということを弘法自身が述べているのである。
 以上、弘法の二つの文を引用されたのちに、以下、これを破折していくための文証を引用されるのである。
 まず、妙楽大師の法華文句記巻六下の「実相の外は皆戯論と名づく」との文を引用されて、弘法が法華経を戯論と貶めた邪義に対して、逆に、諸法実相を説かない大日経等は皆戯論であると破折されている。次いで、天台大師の梵網経の疏(しょ)(菩薩戒義疏)巻下からの文を引用されている。この疏は梵網経に説かれる大乗の十重禁戒について釈したもので、引用された文は十番目の不謗三宝戒(仏法僧の三宝を謗(そし)ってはならないという戒)について釈したところである。三宝を謗るということは菩薩を謗ることであり、因果の道理を無視する邪見でもあると釈している。また、謗ずるということは「乖背(けはい)」(そむくこと)と同じ意義であり、すべてにおいてその解釈している内容が理に合致しておらず、言葉が真実から外れており、本義と異なった勝手な見解を説く者を謗とするのであると釈している、この謗三宝の条件に当てはまるのが弘法ら真言宗の輩(やから)であることはいうまでもない。
 次に、天台大師の法華玄義巻二下から、仏説の裏づけ、すなわち文証のないものはことごとく邪偽であり、外道と異ならないという一文を引用されている。これは次に述べられるように、弘法の主張が文証に依っていないことを破折されるためである。
 更に、妙楽大師の止観輔行伝弘決巻十上から、妙楽大師在世当時の人々が他の人が経や論を引いて教義を主張しているとすぐに信じて頼りにして、その宗派の本源を尋ねるようなことをしないのは誤りである、という一文を引用され、暗に大聖人御在世当時の人々が真言宗などで経や論を引いて邪義を主張しているのを安易に信頼しているのは間違っていることを指摘されている。また、更に伝教大師の守護国界章巻上の中から、もし経や論の文が引かれていたとしても、その経論が権教か実教か、大乗か小乗か、偏教か円教か、半字教(小乗)か満字教(大乗)かを選別すべきであるとの文を引用されている。ここでは、真言師たちが、大日経等の三部経の文を引いていたとしても、それが権教であり偏教であることをしっかり見据えるべきであると戒められているのである。
 最後の法華玄義巻三下からの「広く経論を引いて己義(自分勝手な教義)を飾り立てる」という一文(取意)を引用されているのは、経論を引用していても自らの邪義を飾り立ててもっともらしく見せるためでしかないと破折されるためである。第六章に「密家(みっけ)に四句の五蔵を設けて十住心を立て論を引き伝を三国に寄せ家家の日記と号し我が宗を厳(かざ)るとも皆是れ妄語胸臆(くおく)の浮言(ふげん)にして荘厳己義(しょうごんこぎ)の法門なり」と仰せの破折を裏づける文でもある。「抑(そもそも)弘法の法華経は真言より三重の劣・戯論の法にして……」以下は法華経が華厳にも劣り真言に比べて三重の劣であり戯論であるとする弘法の邪義を彼自身が依経としている大日経六巻三十一品、更にこれに供養法を説いている第七巻の五品を加えた七巻三十六品のなかの、どの巻や品に文証としてあるのかと責められている。同時に、蘇悉地経三巻三十四品と金剛頂経三巻、金剛略出経一巻のなかにも全くないと断言されている。
 次に、大日経を含む真言三部の秘密経のどの巻や品に、十界互具の法門が説かれているのかと責め、全く説かれていないと断定されている。これに対して、法華経には事と理とともに説かれていると述べられ、久遠実成が事(じ)で、二乗作仏が理であると明言されたうえで、善無畏等の理同事勝説は単なる憶説(おくせつ)にすぎず信用に値しないものであると重ねて破折されている。

 法華経には事理共に有るなり、所謂久遠実成は事なり二乗作仏は理なり

 同じことを真言天台勝劣事には次のように説かれている。すなわち「抑(そもそも)法華の理秘密とは何様の事ぞや、法華の理とは迹門・開権顕実の理か其の理は真言には分絶えて知らざる理なり、法華の事(じ)とは又久遠実成(くおんじつじょう)の事なり此の事又真言になし真言に云う所の事理は未開会(みかいえ)の権教の事理なり何ぞ法華に勝る可きや」(一三七㌻)と。
 ここでは法華について、根本となる理と亊とを挙げれば、理は迹門で明かされる開権顕実の理であり、事は本門の久遠実成であるとされている。四十余年未顕真実の方便権教を開いて真実の法華経を顕すということが開権顕実で、これによって、それまでの声聞・縁覚・菩薩の三乗を開いて実相である一仏乗を開くという開三顕一が説かれ、二乗も作仏できるという理が明らかにされたのである。これに対し、法華経に説かれる多くの事(じ)のなかで、最も甚深であるのは仏の久遠実成である。二乗作仏自体、その場で成仏したのではなく、未来に成仏するとの授記であるから理であるのに対し、事実のうえで二乗の作仏、言い換えれば一切衆生の成仏が可能となるのは仏の久遠実成の開顕によってなされるので事となるのである。これに対し、善無畏らの理同事勝は、全く経文の裏づけのない勝手な説であるから信用するに値しないと破られている。

コメント



 編集・削除ができます。
 管理者にだけ表示を許可する
 
 

プロフィール

墨田ツリー

Author:墨田ツリー

 
 
 

最新トラックバック

 
 

カテゴリ

 

検索フォーム

 
 
 

ブロとも申請フォーム

 

QRコード

QR