FC2ブログ
11 -<< 2018-12 -  12345678910111213141516171819202122232425262728293031  >>01 -
 

真言見聞・第二章 謗法が堕獄の業因なるを明かす

              真言見聞

       第二章 謗法が堕獄の業因なるを明かす

本文(一四二㌻二行~一四二㌻九行)
 凡(およ)そ謗法とは謗仏(ぼうぶつ)・謗僧(ぼうそう)なり三宝一体なる故なり是れ涅槃経の文なり、爰(ここ)を以て法華経には「則(すなわ)ち一切世間の仏種を断ず」と説く是(これ)を即ち一闡提(いっせんだい)と名づく涅槃経の一と十と十一とを委細に見る可(べ)きなり。
 罪に軽重(きょうじゅう)有れば獄に浅深を構えたり、殺生・偸盗(ちゅうとう)等乃至一大三千世界の衆生を殺害すれども等活黒繩(とうかつこくじょう)等の上(かみ)七大地獄の因として無間(むけん)に堕つることは都(すべ)て無し、阿鼻(あび)の業因は経論の掟(おきて)は五逆・七逆・因果撥無(いんがはつむ)・正法誹謗の者なり、但し五逆の中に一逆を犯す者は無間に堕つと雖(いえど)も一中劫を経て罪を尽して浮ぶ、一戒をも犯さず道心堅固にして後世を願うと雖も法華に背(そむ)きぬれば無間に堕ちて展転無数劫(てんでんむしゅこう)と見えたり、然(しか)れば則ち謗法は無量の五逆に過ぎたり、是(これ)を以て国家を祈らんに天下将(まさ)に泰平なるべしや。

通解
 およそ謗法とは謗仏・謗僧でもある。仏・法・僧の三宝は一体であるゆえである。これは涅槃経の文である。このことを法華経には「すなわち一切世間の仏種を断ずる」と説かれ、この者を一闡提(いっせんだい)と名づける。涅槃経の巻一と巻十と巻十一とを詳細に見るべきである。
 罪に軽重があるので地獄にも浅深を設けている。殺生・偸盗など、そして三千大千世界の衆生を殺害したとしても、等活地獄・黒縄地獄などの上方の七大地獄の因となるが、無間地獄に堕ちることは全くない。阿鼻(無間)地獄の業因は経論の定めによると五逆罪・七逆罪・因果否定・正法誹謗の者である。ただし五逆罪のなかの一逆を犯す者は無間地獄に堕ちるが、一中劫を経過して罪は消滅し浮かび上がる。一戒をも犯さず仏道を求める心を固くして後世を願ったとしても、法華経に背いてしまうと無間地獄に堕ちてこの地獄を展転(てんでん)することが無数劫であると経文に説かれている。だから謗法は無量の五逆罪に過ぎている。これをもって国家を祈って、天下が泰平になることがあるであろうか。

語訳
三宝一体
 仏・法・僧の三宝が一体であること。涅槃経巻二の純陀品(じゅんだほん)第二に「世尊、我ら今より主なく親なく救なく護なく帰なく趣なく貧窮飢困(びんぐきこん)せん」とあり、この文を釈して章安大師の涅槃経会疏(えしょ)巻二に「無主は是れ仏を失い、無親は是れ法を失い、無救は是れ僧を失う、(中略)然る所以(ゆえん)は一切衆生同一仏性、其の味真正にして、一体三宝等しく差別なけれども、煩悩の覆敝(ふへい)する所の為に六道に輪廻し種種の身を受け界隔差別(かいかくさべつ)し其の味混雑(こんぞう)し(中略)主なく親なく家を亡ぼし、国を亡ぼし一体三宝隠れて顕れず」等とある。

涅槃経
 釈尊の入涅槃の様子とその時に説かれた教えを記した経。大・小乗で数種ある。①大乗では、㋑中国・東晋代の法顕訳「大般泥洹経(だいはつないおんぎょう)」六巻、四一八年成立。㋺北涼代の曇無讖(どんむしん)訳「大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)」(北本)四十巻、四二一年成立。㋩劉宋代の慧観(えかん)・慧厳(えごん)・謝霊運(しゃれいうん)訳「大般涅槃経」(南本)三十六巻、四三六年成立。㋑を参照して㋺の前半を改めたもの。㋥唐代の若那跋陀羅(にゃくなばつだら)訳「大般涅槃経後分」二巻、仏の荼毘(だび)・舎利の分配までの事績を記す。②小乗では、同じく法顕訳「大般涅槃経」三巻、姚秦(後秦)代の鳩摩羅什訳「仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)」等がある。内容について、大乗の涅槃経では仏身の常住、涅槃の四徳である常楽我浄を説き、一切衆生悉有仏性を明かして、善根を断じた一闡提(いっせんだい)も成仏すると説いている。また小乗の涅槃経は教理を説いたものではなく、釈尊の入涅槃から舎利の分配までの事跡を記している。

法華経
 大乗仏典の極説。梵名サッダルマプンダリーカ・スートラ(Saddharmapuṇḍarīka-sūtra)、音写して薩達摩芬陀梨伽蘇多覧(さだるまふんだりきゃ・そたらん)、「白蓮華のごとき正しい教え」の意。経典として編纂されたのは紀元一世紀ごろとされ、すでにインドにおいて異本があったといわれる。漢訳には「六訳三存」といわれ、六訳あったが現存するのは三訳である。その中で後秦代の鳩摩羅什訳「妙法蓮華経」八巻は、古来より名訳とされて最も普及している。内容は前半十四品(迹門)には二乗作仏、悪人成仏、女人成仏等が説かれ、後半十四品(本門)には釈尊の本地を明かした久遠実成を中心に、本因妙・本果妙・本国土妙の三妙合論に約して仏の振る舞い、また末法に法華経を弘通する上行菩薩等の地涌の菩薩に結要付嘱されたこと等が説かれている。

一闡提(いっせんだい)
 梵語イッチャンティカ(icchantika)の音写で、一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。正法を信ずる心がなく、成仏の機縁をもたない衆生のこと。

一大三千世界
 三千大千世界に同じ。三千世界・三千界ともいう。古代インド人の描いた宇宙。須弥山を中心として、そのまわりに四大洲があり、さらにそのまわりに九山八海があるが、これが人間の住む世界の単位で小世界という。この世界を千集めたものを小千世界といい、小千世界を千集めたものを中千世界という。中千世界をさらに千集めたものを大千世界と呼ぶ。この大千世界は小・中・大の三種の千世界から成るので三千大千世界という。三千の世界という意味ではなく、千の三乗の数の世界という意味であり、一仏の教化する範囲とされる。

等活黒繩(とうかつこくじょう)
 等活地獄と黒縄地獄のこと。いずれも八大地獄(八熱地獄)、あるいは七大地獄(八大地獄から無間地獄を除いた七つ)の一つ。等活地獄とは獄卒に身を斬られ砕かれても、すぐに前と等しく復活してさらに責められるのでこの名がある。黒縄地獄とは黒い熱鉄の縄で身にすみをうたれ、それに沿って斬られ、あるいは鋸(のこぎり)でひかれ、苦しみにあえぐ地獄である。倶舎論巻八等に説かれる。

上(かみ)七大地獄
 八大地獄の第八・無間地獄を除いた七つの地獄。等活(とうかつ)・黒縄(こくじょう)・衆合(しゅごう)・叫喚(きょうかん)・大叫喚・焦熱・大焦熱地獄のこと。

無間(むけん)
 無間地獄のこと。八大地獄の一つ。阿鼻(あび)地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチ(Avīci)の音写で、訳して無間という。苦を受けるのが間断ないことをいう。周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれているところから阿鼻大城、無間大城ともいわれる。大焦熱地獄の下、欲界の最低部にあるとされ、八大地獄の他の七つよりも一千倍も苦が大きいという。五逆罪、正法誹謗の者が堕ちるとされる。

五逆
 五逆罪のこと。理に逆らうことの甚だしい五種類の重罪。無間地獄に堕ちる悪業のゆえに無間業(むけんごう)ともいう。五逆罪には、三乗通相の五逆(五逆の本罪)、大乗別途(べつず)の五逆、同類の五逆(相似(そうじ)の五逆)、提婆の五逆などがある。代表的なものは倶舎論巻十七に説かれる三乗通相の五逆で、一に父を殺し、二に母を殺し、三に阿羅漢を殺し、四に仏身より血を出し、五に和合僧を破る、をいう。

七逆
 七逆罪のこと。梵網経巻下、止観輔行伝弘決巻二の一等に説かれる七種の逆罪。五逆罪に殺和尚(しわじょう)・殺阿闍梨(しあじゃり)を加えていう。

因果撥無(いんがはつむ)
 因果応報を否定すること。因果は原因と結果のこと。撥無は排斥して信じないこと。

一逆
 五逆罪のなかの一つ。

一中劫
 中劫は劫に大・中・小の三種あるなかの一つ。劫は梵語カルパ(Kalpa)の音訳で劫波(こうは)・劫跛(こうは)ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増・一減を合わせて一小劫とし、二十小劫をもって一中劫とする。
〈追記〉
 上記の説によると、一小劫は一千六百万年より二千年を減じた数、一千五百九十九万八千年にあたる。この第一の減劫から第二十の増劫に至るまでの間を中劫といい、すなわち二十小劫ゆえに、三億一千九百九十六万年の長さにあたる。

講義
 ここでは、謗法が亡国と堕獄の業因となることを示された前の文を受けて、まず、堕獄の業因となることを詳しく説かれた後、そのような謗法の邪法たる真言によって国家を祈れば亡国となることは当然であると述べられている。
 初めに、謗法が謗仏、謗僧を含むことを述べられる。元来、仏・法・僧の三宝は一体のもので互いに切り離せない関係にあり、したがって、法を誹謗するということは法宝だけにとどまらず、仏宝や僧宝をも誹謗していることでもあると説かれ、そのことは大般涅槃経巻二の純陀品(じゅんだほん)の文からも明確であるとの出典を示されている。次いで、法華経・譬喩品の一節である。謗法の者は衆生に内在する仏種(仏になるための原因)を断ち切ったものであるとの文を引用されて、謗法の者は一闡堤(いっせんだい)とも名づけると説き進められ、一闡堤を厳しく戒めた大般涅槃経の巻一と巻十と巻十一の三文を詳しく見れば明らかであると述べられている。更に続けて、謗法の罪の重さに言及される。まず、殺生や偸盗などはもとより、たとえ三千大千世界の衆生を殺害するという悪業を犯したとしても、八大地獄(八熱地獄)のうち、等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱の七大地獄に堕ちるという果報を受けるが、八番目の最も重い無間地獄(阿鼻地獄)には堕ちないと説かれ、次に、無間地獄に堕ちる業因が五逆、七逆、因果撥無(いんがはつむ)(因果応報を否定すること)、正法誹謗を犯すことにあると示された後、更に、同じ無間地獄でも、五逆の場合は一中劫を経過すれば罪を償(つぐな)って無間地獄を出ることができるが、正法の法華経に背いた場合は、その者がたとえ一戒も犯さず、求道心も堅く後生善処を願って善根を積んでいたとしても、無数劫(むしゅこう)という長期間、無間地獄を脱出できないと述べられている。
 以上のことから、謗法の罪が無量の五逆罪より重いと結論され、そのような罪深き謗法の邪法・真言宗によって国家の安寧(あんねい)を祈願しても天下の泰平がもたらされる道理がないことを強調され、「真言亡国」の理由とされている。

 凡(およ)そ謗法とは謗仏・謗僧なり三宝一体なる故なり是れ涅槃経の文なり

 仏・法・僧の三宝一体を説いているのは大般涅槃経巻八の如来性品第十二である。すなわち「汝今まさに諸声聞凡夫の人の如く三宝を分別(ふんべつ)すべからず。此の大乗においては三帰分別の相有ることなし。所以(ゆえん)は何(いか)ん、仏性中において即ち法僧あり。声聞・凡夫を化度せんと欲する為の故に分別して三宝の異相を説く」とある。
 ここは仏が迦葉菩薩を相手に説いているところである。声聞や凡夫を導くためには方便として三宝が別々であることを示してもよいが、大乗の菩薩にあっては三宝を分けてはならないと戒めており、その理由としては、仏性の中に法も僧も含まれているからであるとして、本来、三宝が一体であることを示唆している。
 また、涅槃経巻二の純陀品第二の文にある主、親、救の言葉をそれぞれ仏宝、法宝、僧宝にあてはめて釈した章安大師の涅槃経会疏(えしょ)巻二では「一切衆生同一仏性、其の味真正にして、一体三宝等しく差別なけれども、煩悩の覆敝(ふへい)する所の為に六道に輪廻し種種の身を受け界隔差別(かいかくさべつ)し其の味混雑(こんぞう)し……主なく親なく家を亡ぼし、国を亡ぼし一体三宝隠れて顕れず」と説いている。ここでも、一切衆生に同一の仏性が貫かれており、仏性においては三宝が一体であるとしている。
 三宝一体の場合、法宝は無上の真理を、仏宝はその清浄の徳を、僧宝は和合の徳を、それぞれ表していることになる。(中村元『仏教語大辞典』)
 なお、本文に即して三宝の内容を述べるならば、法宝が法華経、仏宝は久遠実成の釈尊、僧宝が法華経を信じ行ずる和合僧団となる。更に、これを末法の文底独一本門についてみるならば、仏宝が久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人、法宝が事の一念三千・三大秘法の南無妙法蓮華経、僧宝が日興上人となる。
 いずれにせよ、ここで「三宝一体」を強調されるゆえんは、「謗法」という言葉の意味は、〝法〟である法華経への誹謗であるが、法華経そのものを誹謗しなくとも、釈尊を誹謗して大日如来を讃嘆しているのは大日は真言の経に結びつき、それに対して釈尊は法華経に結びついているから「謗法」となるということである。

 法華経には「則ち一切世間の仏種を断ず」と説く是を一闡堤と名づく

 法華経譬喩品第三からの引用文である。より詳しくは「若(も)し人は信ぜずして 此(こ)の経を毀謗(きぼう)せば 則(すなわ)ち一切世間の 仏種を断ぜん」(『妙法蓮華経並開結』一九八㌻ 創価学会刊)という文である。内容は法華経を信じないで誹謗する人がいるとすれば、その人は自身に内在する仏種(仏になるための原因)を断ち切ったものであるというものである。
 天台大師は法華文句巻六上で「世間の仏種を断ず」という句を釈して次のように述べている。すなわち「今経には小善の成仏を明かす。此れ縁因を取って仏種と為す。若し小善の成仏を信ぜざれば、即ち世間の仏種を断ずるなり」と。ここでは「世間の仏種」の〝仏種〟について、天台の立てる三因仏性のうちの縁因仏性をさしているとしている。
 縁因仏性とは人界や天界の衆生が行う俗世間上の小さな善根や善行がそのまま仏になるための縁になることをいう。これは法華経の開会(かいえ)の法門によって初めて可能となったものである。
 したがって、その法華経を信ぜず誹謗するということは、世間上の小さな善根や善行が成仏につながる縁となることを否定するのと同じであることを、譬喩品で「世間の仏種を断ずる」と説いたと釈したのである。もし、ここでの仏種を正因仏性とすると、法華経の十界互具・一念三千法門と矛盾することとなることはいうまでもない。

 謗法は無量の五逆に過ぎたり

 謗法も五逆も、ともに無間(阿鼻)地獄に堕ちる業因であるが、謗法のほうがはるかに重い罪であることを述べられている。
何故に、謗法の方が罪が重く、無量の五逆のほうが軽いのであろうか。これについては顕謗法抄に大品般若経の一節を引用されて答えられている。
 すなわち「問うて云く五逆と謗法と罪の軽重如何(きょうじゅういかん)、答て云く大品経に云く『舎利弗仏に白(もう)して言(もうさ)く世尊五逆罪と破法罪と相似(そうじ)するや、仏舎利弗に告(つげたま)わく相似と言うべからず所以(ゆえん)は何(いか)ん若(も)し般若波羅蜜を破れば則ち十方諸仏の一切智一切種智を破るに為(な)んぬ、仏宝を破るが故に法宝を破るが故に僧宝を破るが故に三宝を破るが故に則ち世間の正見を破す世間の正見を破れば○則ち無量無辺阿僧祇の罪を得るなり無量無辺阿僧祇の罪を得已(えおわ)つて則ち無量無辺阿僧祇の憂苦(うく)を受るなり』」(四四八㌻)とある。
 この文の般若波羅蜜とは真理を悟る智慧であり仏智のことである。すなわち、破法罪(謗法罪)とは悟る智慧・仏智を破壊する行為といえる。仏智はまた一切諸仏を仏にした根源であり、その破壊は、仏・法・僧の三宝を破り、世間の正見を破壊することになる。このゆえに、謗法の行為は最悪の行為となるのである。
 これに対し、五逆は正法そのものに対する反逆行為ではない。たしかに、殺父・殺母・殺阿羅漢はそれぞれ恩義有り徳のある人を殺す行為であり、出仏身血(すいぶっしんけつ)は仏の身体より血を出すことであり、破和合僧は釈尊の教団を破壊するという罪で、それぞれに重罪であるから、決して犯してはならない行為ではある。しかし、正法に対する直接的な破壊行為である謗法に対し、五逆は恩があり尊ぶべき人の肉身や集団を破壊する行為であるという点で、謗法を犯す罪のほうが五逆よりはるかに重いのである。
 ちなみに五逆のなかの「仏身より血を出(い)だす」と先の「三宝一体」との違いをいえば、五逆の場合は仏の肉身に対する加害であるのに対し。「謗仏」は〝法を体現する存在〟としての法を謗るゆえに「謗法」と同じになるとされるのである。

コメント



 編集・削除ができます。
 管理者にだけ表示を許可する
 
 

プロフィール

墨田ツリー

Author:墨田ツリー

 
 
 

最新トラックバック

 
 

カテゴリ

 

検索フォーム

 
 
 

ブロとも申請フォーム

 

QRコード

QR