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真言諸宗違目・第五章 教の勝劣により人を判ずべきを明かす

            真言諸宗違目

     第五章 教の勝劣により人を判ずべきを明かす

本文(一四〇㌻一六行~一四一㌻八行)
 疑つて云く汝当世の諸人に勝(すぐ)るることは一分爾(しか)る可し真言・華厳・三論・法相等の元祖に勝るとは豈(あ)に慢過慢(まんかまん)の者に非ずや過人法(かにんほう)とは是なり汝必ず無間大城に堕(お)つ可し、故に首楞厳経(しゅりょうごんぎょう)に説いて云く「譬えば窮人(ぐうにん)妄(みだ)りに帝王と号して自ら誅滅(ちゅうめつ)を取るが如し況んや復(また)法王如何ぞ妄りに竊(ぬす)まん因地(いんち)直からざれば果紆曲(うきょく)を招かん」等云云、涅槃経に云く「云何(いか)なる比丘か過人法に堕する○未だ四沙門果を得ず云何んぞ当(まさ)に諸の世間の人をして我は已(すで)に得たりと謂わしむべき」等云云。
 答えて云く法華経に云く「又大梵天王の一切衆生の父の如く」又云く「此の経は○諸経の中の王なり最も為(こ)れ第一なり能(よ)く是の経典を受持すること有らん者は亦復(また)是くの如し一切衆生の中に於て亦為(こ)れ第一なり」等云云、伝教大師の秀句に云く「天台法華宗の諸宗に勝れたるは所宗の経に拠るが故なり自讃毀他(じさんきた)ならず庶(ねがわ)くは有智の君子経を尋ねて宗を定めよ」等云云。
 星の中に勝れたる月・星月の中に勝れたるは日輪なり、小国の大臣は大国の無官より下る傍例(ぼうれい)なり、外道の五通を得るより仏弟子の小乗の三賢の者の未だ一通を得ざるは天地猶勝る、法華経の外の諸経の大菩薩は法華の名字即の凡夫より下れり何ぞ汝始めて之を驚かんや教に依つて人の勝劣を定む先ず経の勝劣を知らずんば何ぞ人の高下を論ぜんや。

通解
 疑っていう。あなた(日蓮大聖人)が今の世の多数のさまざまな人々より勝れていることは、わずかについてはそのとおりであろう。しかし、あなたが、真言宗、華厳宗、三論宗、法相宗などの宗祖より勝れているというのは、他の人のほうが勝っているのに自分のほうが勝っていると思う慢過慢(まんかまん)の者ではないだろうか。いまだ上人法を体得していないのに上人法を得たように振る舞う過人法(かにんほう)とは、このことをいうのである。したがって、あなたは必ず無間地獄に堕ちるであろう。ゆえに首楞厳経に次のように説いている。「譬えば、貧しい者がむやみに帝王と称して、自ら討ち滅ぼされてしまうようなものである。ましてや法王(仏)の位を、どうしてこっそりとぬすんでよいであろうか。修行の位が正しくなければ、仏果である悟りの境地も、うねり曲がるであろう」等と。また、涅槃経には「どのような出家の男子が過人法に堕するのであろうか。……いまだ四沙門果を得ていないのに、どのようにして、世俗の人々に対し、私は四沙門果を得ていると思わせられるだろうかと考え、いろいろと画策する者が過人法に堕するのである」等と説かれている。
 答えていう。法華経薬王菩薩本事品第二十三には「また、大梵天王がすべての衆生の父であるのと同じように(法華経も一切の賢聖や菩薩の心を起こす者の父である)」と説かれ、また、同品に「この経(法華経)は……諸経の中の王である。……最もこの経が第一である。よくこの経典を受持する者も、また、すべての衆生の中において第一である」と説かれている。伝教大師は法華秀句に「天台法華宗が他のさまざまな宗派より勝れているのは、依りどころとする法華経が勝れているからである。決して自らを讃(ほ)め他を毀(そし)っているのではない。ねがわくは、仏法に通達し解了している人格者であるならば、所依の経を明らかにしたうえでその宗を定めなさい」などと説かれている。
 星々の中で勝れているのは月である。星々や月の中で最も勝れているのは太陽である(同じように、諸経の中で最高の教えは法華経である)。小さな国の政務を執行する高官は、大きな国の官職のない臣下より劣る。このことは、間接的な例証である。したがって、外道であって五種の神通力を得た者よりも、内道の仏弟子であって小乗の三賢の位でいまだ五種の神通力のうちの一つも得ていない者のほうが、天が地に勝れている以上に、勝(まさ)っているのである。法華経以外の諸経を行ずる大菩薩は、法華経を行ずる名字即の凡夫より劣っている。
 どうしてあなたはこのことを聞いて、初めて聞いたかのように驚くのであろうか。教によっていずれの人が勝れ、いずれの人が劣っているかが定まるのである。まず、経の勝劣を知らなければどうして人の高下を論ずることができようか。

語訳
慢過慢(まんかまん)
 七慢(慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑慢・邪慢)の第三。自分より他人が勝れているのに自分の方が勝れていると思うこと。七慢は阿毘達磨品類足論(あびだつまほんるいそくろん)巻一などに説かれる。①慢は、劣れる他人に自分が優れていると思い、等しい他人に自分と等しいと思うこと。②過慢は、他人に等しいのに自分が優れていると思い、他人が優れているのに自分と等しいと思うこと。③慢過慢は、他人が優れているのに、自分が更に優れていると思うこと。④我慢は、我をたのんで思いあがること。⑤増上慢は、法理などをいまだ得ていないのに得たと思うこと。⑥卑慢は、他人のほうがはるかに優れているのに自分は少ししか劣っていないとすること。⑦邪慢は、自分は徳がないのに徳があるようにみせること。

過人法(かにんほう)
 比丘が避けるべき四つの重罪である四波羅夷(しはらい)の一つで、大妄語にあたる。いまだ上人法(しょうにんほう)(すぐれた修行者としての徳)を体得していないのに、上人法を得たと称することをいう。四波羅夷は四重禁戒ともいい、殺生・偸盗(ちゅうとう)・邪婬・妄語の四種の重罪を禁じた戒である。比丘に対して定められた最も厳重な禁制で、これを犯すものは教団を追放され再び比丘にはなれないとされている。

首楞厳経(しゅりょうごんぎょう)
 二種類の首楞厳経がある。①首楞厳三昧経(しゅりょうごんざんまいきょう)の略。中国・後秦の鳩摩羅什訳。二巻。堅意菩薩が煩悩や魔に妨げられず、諸の功徳を受けるための三昧を質問したのに対して、仏が首楞厳三昧を挙げ、その力を説いたもの。菩薩が首楞厳三昧を得れば、将軍が諸兵を率いるように、一切の三昧が随従して、煩悩や魔を破ることができると説かれている。②大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経(だいぶっちょうにょらいみっちんしゅしょうりょうぎしょぼさつまんぎょうしゅりょうごんぎょう)の略。大仏頂経(だいぶっちょうぎょう)とも略す。唐の般刺蜜帝(はんらみったい)訳とされる。十巻。摩登迦女(まとうかにょ)の呪力に害されている阿難を仏が救うことから始まり、禅定の力と白傘蓋陀羅尼(はくさんがいだらに)の功徳力を説いている。ここでは②の意。

四沙門果
 小乗教における四種の声聞の果(悟り)のこと。声聞の修行の階位で、四つの果位。預流(よる)果・一来果・不還(ふげん)果・阿羅漢果の四つ。①預流とはサンスクリットのスロータアーパンナ(須陀洹(しゅだおん))の訳。預流果は無漏(煩悩のない状態)の聖者の仲間(流)に初めて加わる(預)ことをいう。②一来とはサクリッドアーガーミン(斯陀含(しだごん))の訳。一来果は一度天界に生まれ再び人界に生まれて覚りを得ることをいう。③不還とはアナーガーミン(阿那含(あなごん))の訳。不還果は再び欲界に還ってこないことをいう。④阿羅漢とはアルハトの主格アルハンの音写、尊敬に値するものという意で応供(おうぐ)などと訳す。阿羅漢果は修学を終え更に学ぶべきものがないので無学といい、長く涅槃に入って再び三界に生ずることがないので不生ともいう。ここでは、④の阿羅漢果をさす。

伝教大師
(七六七年~八二二年)。平安時代初期の人で、日本天台宗の開祖。諱(いみな)は最澄。伝教大師は諡号(しごう)。叡山大師・根本大師・山家(さんげ)大師ともいう。俗姓は三津首(みつのおびと)。幼名は広野(ひろの)。近江国(滋賀県)滋賀郡の生まれ。先祖は後漢の孝献帝の末裔で、応神天皇の時代に日本に帰化したといわれる。十二歳で近江国分寺の行表(ぎょうひょう)について出家。延暦四年(七八五年)東大寺で具足戒を受け、その後、比叡山に登り、諸経論を究めた。延暦二十一年(八〇二年)和気弘世(ひろよ)・真綱(まつな)の招請を受けて下山し、京都高雄山寺(のちの神護寺)で天台三大部を講じた。延暦二十三年(八〇四年)還学生(げんがくしょう)(短期留学生)として義真を連れて入唐し、道邃(どうずい)・行満(ぎょうまん)(以上天台学)・翛然(しゅくねん)(禅)・順暁(じゅんぎょう)(密教)等について学び、翌年帰国して延暦二十五年(八〇六年)日本天台宗を開いた。その後、嵯峨天皇の護持僧となり、大乗戒壇実現に努力した。没後、勅許を得て大乗戒壇が建立された。貞観八年(八六六年)伝教大師の諡号(しごう)が贈られた。おもな著書に「山家学生式」一巻、「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「守護国界章」九巻等がある。

秀句
 法華秀句のこと。三巻(または五巻)。伝教大師最澄の著述。弘仁十二年(八二一年)成立。法華経が諸経より優れていることを十点(法華十勝)を挙げて説き示し、当時流行していた法相・三論・華厳・真言など諸宗の邪義を破折している。特に、法相宗の得一が法華経を誹謗したことを糾弾している。

五通
 五種の不思議自在の神通力のこと。五神通・五神変ともいう。①天眼(てんげん)通 ②天耳(てんに)通 ③他心通 ④宿命(しゅくみょう)通 ⑤如意通(神足通ともいう)をいう。

名字即(みょうじそく) の凡夫
 名字即の位にある凡夫のこと。天台大師が円教(法華経)を修行する者の境地を立て分けた六即位(理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即)の第二位。初めて正法を聞いて一念三千の理を名字(言葉)によって理解し、正法を疑わずに信ずる位をいう。摩訶止観巻一下に「名字即とは……或いは知識に従い、或いは経巻に従いて、上に説く所の一実の菩提(=三諦の名)を聞き、名字の中に於いて通達解了(つうだつげりょう)して、一切の法は皆是れ仏法なりと知る。是れを名字即の菩提と為す」とある。信心に約していえば、御本尊を戴(いただ)き、信心した人である。
〈追記〉
 六即位(円教の菩薩の修行位)の最高位である究竟即(くきょうそく)に相当するのが、五十二位(菩薩瓔珞(ようらく)経に説かれる菩薩の修行位)の最高位の第五十二位、等覚(とうがく)位の菩薩である。日寛上人の『当流行事抄』によれば、これを文底の意から見た場合、等覚位の菩薩でも、久遠元初の妙法である南無妙法蓮華経を覚知して一転して南無妙法蓮華経を信ずる「名字即の凡夫」の位に返り、そこから直ちに妙覚位(仏位)に入ったとする。これを等覚一転名字妙覚という。

講義
 大聖人が諸宗の元祖たちよりはるかに勝(すぐ)れることを、法華経等を引いて明かされている。
 前章に述べられたように、大聖人が末法の法華経の行者であることは法華経の文によって明らかになったが、それに対する疑問が挙げられている。質問の趣旨は、大聖人が当世の諸人に勝ることは一分そうも思われるが、真言・華厳・三論・法相等の諸宗の元祖より勝れているというのは慢心であり、他人のほうが勝っているのに、自分のほうが勝っていると思う慢過慢(まんかまん)にあたるのではないかとの批判であり、それは比丘が避けるべき重罪の一つである過人法(かにんほう)――悟りを得ていないのに悟りを得たようにいう大妄語の罪にあたり、必ず無間地獄に堕ちるであろう、として首楞厳経(しゅりょうごんぎょう)や涅槃経の文をその根拠として挙げているのである。
 首楞厳経の文は、例えば貧しく賤しい者が帝王と称して自分から誅滅(ちゅうめつ)を招くようなものであり、また仏を僭称(せんしょう)することについても、私心がないのが仏であるから、自分を利するために仏を僭称することはナンセンスであるとして、因の修行が正しくなければ、曲がった結果を招くことになるであろう、との意である。窮人(ぐうにん)とは自ら法を悟ったと嘘をつく凡夫をたとえ、帝王とは仏をたとえたものである。
 その資格のない者が帝王と称すれば、たちまち攻め滅ぼされるように、悟っていない者が仏と称することは、自らを滅ぼすことになるとの意であるが、仏を僭称したからといって帝王の場合のように力をもって滅ぼされるのではなく、仏は無私の境地であるから、自らの利益を狙って仏を僭称しても、自己矛盾に陥って、敗れてしまうということである。因が正しくなければ、果も歪(ゆが)むのが道理であるとの文である。質問者は、大聖人が、諸宗の元祖にも勝ると称しているのはこの文にあたる、と非難しているのである。
 涅槃経の文は、どのような僧が過人法の罪に堕ちるのかといえば、未だ四沙門果を得ていないのに、もろもろの世間の人々に自分は既に得ていると思わせようとする者である、との意である。四沙門果とは四果ともいい、小乗仏教における声聞の四種の果(悟り)をいう。その最高位を阿羅漢果とし、小乗の聖者の位とされた。大聖人が諸宗の元祖に勝るとしているのはこの経文にあたるとしているのである。
 それに答えて大聖人は、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「大梵天王の一切衆生の父なるが如く、此(こ)の経も亦復(ま)た是(かく)の如く、一切の賢(げん)・聖(しょう)・学・無学、及び菩薩の心を発(おこ)す者の父なり」(『妙法蓮華経並開結』五九五㌻ 創価学会刊)の文と、同じく「此(こ)の経も亦復(ま)た是(かく)の如く、諸経の中の王なり……一切の如来の説きたまう所、若(も)しは菩薩の説く所、若しは声聞の説く所、諸の経法の中に、最も為(こ)れ第一なり。能(よ)く是(こ)の経典を受持すること有らん者も亦復(ま)た是(かく)の如く、一切衆生の中に於いて、亦(ま)た為(こ)れ第一なり」(同・五九五㌻)の文を略して引かれている。
 これは、薬王品の中で、法華経が諸経の中で最高の教えであることを示すために説かれた十種の譬喩(十喩)の第七喩(大梵王喩)と第八喩(四果辟支仏喩(しかびゃくしぶつゆ))の文にあたっている。
 娑婆世界の主とされる大梵天王が一切衆生の父であるように、法華経は一切衆生にとって父の存在であるとの譬えから、それを弘通する者もまた一切衆生にとっては父の存在になるとの意である。また諸経の王である法華経をよく受持する者は、一切衆生の中で第一なのであるから、末法の法華経の行者である日蓮大聖人が、一切衆生の中で第一となることは当然であることを示しているのである。
 続いて引かれた伝教大師の法華秀句の文は――天台法華宗が諸宗に勝れているというのは、所依の経である法華経が勝れているためであって、自らを讃(ほ)めたたえて他を毀(そし)ったものではない。仏法を知る智者であるならば、所依の経の勝劣によって宗旨の勝劣を定めるべきである、との意である。
 これは、法師品第十の「薬王よ今汝に告ぐ 我が説く所の諸経 而(しか)も此の経の中に於いて 法華は最も第一なり」(同・三六二㌻)の文を釈した段の一節で、「明らかに知りぬ、天台所釈の法華の宗は、釈迦世尊所立の宗なることを」としたうえで、その理由を述べたものである。諸経の中で第一である法華経に依って立てられた天台の宗旨は釈尊所立の宗旨であり、法華経以外の諸経に依って人師が立てた諸宗に勝れていることは当然なのである。宗旨の勝劣は所依の経の勝劣によるのであり、同じように人の勝劣は持つ経法の勝劣によるのである。
 そして、星の中で勝れているのは月であり、星や月に勝れているのは日輪――太陽であり、世間では小国の大臣は大国の無官の臣にも劣るように、外道の五神通を得た者よりも仏弟子の小乗の三賢の位で、一神通も得ていない者のほうが天と地の差以上に勝れており、更に仏法の中では法華経以外の諸経における大菩薩は、法華経を持つ名字即の凡夫より劣ることを明らかにされている。
 星と月と太陽の譬えは、薬王品の「衆(もろもろ)の星の中に月天子(がってんし)は最も為(こ)れ第一なるが如く、此(こ)の法華経も亦復(ま)た是(かく)の如く、千万億種の諸(もろもろ)の経法の中に於いて、最も為(こ)れ照明(しょうみょう)なり。又(ま)た日天子(にってんし)は能(よ)く諸の闇を除くが如く、此(こ)の経も亦復(ま)た是(かく)の如く、能く一切不善の闇を破す」(同・五九四㌻)との文意によったものであろう。法華経こそ諸経の衆星の中の大日輪なのである。
 また大国と小国の臣の譬えは、釈籤(しゃくせん)に「小国の大臣等と云うは、前の三教を名づけて小国と為す。教主已下を皆名づけて臣と為す(中略)若し円の大国の凡夫の小臣は名字仏と名づく」とあるのによられたものであろう。
 そうした道理によれば、大聖人が諸宗の元祖に勝るとするのに何を驚くことがあろうかとされ、教法の勝劣に依って人の勝劣が定まるのであるから、まず経の勝劣を知らなければ人の勝劣・高下を論ずることはできない、と破されているのである。
 諸宗の元祖が勝れているとする主張は感情論であり、昔から人々に尊崇されてきたからというにすぎない。大聖人は仏法の道理と文証の上から、釈尊の仏法の中では法華経を持つ者こそが勝れ、末法においては大聖人こそが勝れていることを明かされているのである。
 なお最蓮房御返事には「善無畏・金剛智・達磨・慧可・善導・法然・東寺の弘法・園城寺の智証・山門の慈覚・関東の良観等の諸師は今の正直捨方便(しょうじきしゃほうべん)の金言を読み候には正直捨実教(しょうじきしゃじつきょう)・但説方便教(たんせつほうべんきょう)と読み・或は於諸経中(おしょきょうちゅう)・最在其上(さいざいごじょう)の経文をば於諸経中・最在其下(さいざいごか)と・或は法華最第一の経文をば法華最第二・第三等と読む、故に此等の法師原(ほうしばら)を邪悪の師と申し候なり」(一三四一㌻)と述べ、諸宗の元祖等は諸経の中で第一である法華経を下し誹謗して、誤った宗旨を立てた邪悪の師であると厳しく破折されている。

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