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真言諸宗違目・第二章 真言等の諸宗の誤りを略して挙げる

            真言諸宗違目

     第二章 真言等の諸宗の誤りを略して挙げる

本文(一三九㌻六行~一三九㌻一二行)
 真言宗は天竺より之無し開元の始に善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等・天台大師己証(こしょう)の一念三千の法門を盗んで大日経に入れて之を立て真言宗と号す、華厳宗は則天皇后の御宇(ぎょう)に之を始む、澄観(ちょうかん)等天台の十乗の観法を盗んで華厳経に入れて之を立て華厳宗と号す、法相三論は言うに足らず、禅宗は梁(りょう)の世に達磨(だるま)大師楞伽経(りょうがきょう)等を以てす大乗の空の一分なり、其の学者等大慢を成して教外別伝(きょうげべつでん)等と称し一切経を蔑如(べつじょ)す天魔の所為なり、浄土宗は善導等・観経等を見て一分の慈悲を起し摂地(じょうち)二論の人師に向つて一向専修(いっこうせんじゅ)の義を立て畢(おわ)んぬ、日本の法然之を悞(あやま)り天台真言等を以て雑行(ぞうぎょう)に入れ末代不相応の思いを為して国中を誑惑(おうわく)して長夜(じょうや)に迷わしむ、之を明(あきら)めし導師は但日蓮一人なるのみ。

通解
 真言宗はインドにはもともと存在しなかったもので、唐の開元年間の初めころに、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵らが天台大師の悟った一念三千の法門を盗んで大日経に取り入れて宗派を立て、真言宗と称したのである。
 華厳宗は唐の則天皇后の時代に始まったものである。第四祖の澄観らが天台大師の十乗観法を盗んで華厳経に取り入れて宗派を立て、華厳宗と称したのである。
 法相宗や三論宗は言及する必要すらない宗派である。
 禅宗は梁の時代に達磨大師が楞伽経等をもって始めたとされているもので、その教理は大乗教で説く「空」の法理の一部分にすぎない。その禅宗を学ぶ者らが、大きな慢心を起こして教外別伝などと称して一切経を軽蔑しているのは天魔の行いである。
 浄土宗は善導らが観無量寿経などを見てごくわずかの慈悲心を起こして、摂論宗と地論宗の人師に向かってひたすら念仏のみを修行すべきであるとの教義を立てたのである。日本の法然は、この善導らの教義を誤って解釈し、天台宗・真言宗を雑行に入れ、それらは末法の時に適(かな)っていないという誤った考えを起こして日本国中の人々をたぶらかし、惑わせ、更に死後にまで、六道の生死輪廻の迷いに陥れている。
 このような諸宗の邪義を明らかにした導師は、ただ日蓮一人だけなのである。

語訳
天台大師
(五三八年~五九七年)。中国・南北朝から隋代にかけての人。天台宗開祖(慧文、慧思に次ぐ第三祖でもあり、竜樹を開祖とするときは第四祖)。智者大師と尊称し、また天台山に住んだので天台大師という。姓は陳氏。諱(いみな)は智顗(ちぎ)。字(あざな)は徳安。荊(けい)州華容県(湖南省)の人。父の陳起祖は梁の高官であったが、梁末の戦乱で流浪の身となった。その後、両親を失い、十八歳の時、湘州果願寺の法緒(ほうしょ)について出家し、慧曠(えこう)律師から方等・律蔵を学び、大賢山に入って法華三部経を修学した。陳の天嘉元年(五六〇年)光州の大蘇山に南岳大師慧思(えし)を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日(しゃくにち)、霊山(りょうぜん)に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復(また)来る」(隋天台智者大師別伝)と、その邂逅(かいこう)を喜んだ。南岳は天台に普賢道場を示し、四安楽行を説いた。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏(ごちゅうしょぶつ)、同時讃言(どうじさんごん)、善哉善哉(ぜんざいぜんざい)。善男子(ぜんなんし)。是真精進(ぜしんしょうじん)。是名真法供養如来(ぜみょうしんほうくようにょらい)」(『妙法蓮華経並開結』五八五㌻ 創価学会刊)の句に至って身心豁然(しんじんかつねん)、寂として定(じょう)に入り、法華三昧を感得したといわれる。これを大蘇開悟(だいそかいご)といい、後に薬王菩薩の後身と称される所以となった。南岳から付属を受け「最後断種の人となるなかれ」との忠告を得て大蘇山を下り、三十二歳(あるいは三十一歳)の時、陳都金陵の瓦官寺に住んで法華経を講説した。宣帝の勅を受け、役人や大衆の前で八年間、法華経、大智度論、次第禅門を講じ名声を得たが、開悟する者が年々減少するのを嘆いて天台山に隠遁を決意した。太建七年(五七五年)天台山(浙江省)に入り、翌年仏隴峰(ぶつろうほう)に修禅寺を創建し、華頂峰で頭陀を行じた。至徳三年(五八五年)陳主の再三の要請で金陵の光宅寺に入り仁王経等を講じ、禎明元年(五八七年)法華文句を講説した。開皇十一年(五九一年)隋の晋王であった楊広(のちの煬帝)に菩薩戒を授け、智者大師の号を受けた。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じたが、間もなく晋王広の請いで揚州に下り、ついで天台山に再入し六十歳で没した。彼の講説は弟子の章安灌頂(かんじょう)によって筆記され、法華三大部などにまとめられた。

一念三千
 天台大師智顗が『摩訶止観』巻五で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。三千とは、百界(十界互具(じっかいごぐ))・十如是(じゅうにょぜ)・三世間(さんせけん)のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの。このうち十界とは、十種の境涯で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。十如是とは、ものごとのありさま・本質を示す十種の観点で、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等をいう。三世間とは、十界の相違が表れる三つの次元で、五陰(衆生を構成する五つの要素)、衆生(個々の生命体)、国土(衆生が生まれ生きる環境)のこと。

十乗の観法
 天台大師が摩訶止観のなかで説いた十種の観法のこと。十法成乗観(じっぽうじょうじょうかん)・十重観法・十乗観心・十観ともいう。所観の境である十境のそれぞれに対して十乗の観法が成されるところから、百法成乗(ひゃっぽうじょうじょう)ともいう。①観不思議境(衆生の一念に三千の諸法が具足していることを観ずること)②起慈悲心(四弘誓願を方軌として慈悲行を修すること)③巧安止観(ぎょうあんしかん)(心を法性にとどめ、三千の諦理に安住すること)④破法遍(遍くすべての執着を取り払うこと)⑤識通塞(しきつうそく)(実相に通じる道か、塞ぐ道かを識別すること)⑥修道品(しゅどうほん)(三十七道品等を用いて止観成就の程度を確かめること)⑦対治助開(浅近の修行を助けとして悟りの妨げとなるものを除くこと)⑧知次位(慢心を排するために自身の修行の段階を知ること)⑨能安忍(種々の縁にとらわれないように心を安定させること)⑩無法愛(低い法に対する執着心を取り払うこと)をいう。十乗のうち観不思議境が根本であり、他の九乗はそれを修するための補助として立てられたものである。上中下の機根のうえからみると、上根の者は①の観不思議境で得道できるが、中根の者は①から⑦までの観法によって得道し、下根の者は⑩まですべて修行しないと得道できないとされる。

教外別伝等
「教外別伝(きょうげべつでん)・不立文字(ふりゅうもんじ)・直指人心(じきしにんしん)・見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」を略して挙げられたと拝される。仏の悟りは、文字や言語であらわされた経典や教理によらず、ただ心をもって伝えられたとする禅宗の教義。大梵天王問仏決疑経の「涅槃の時、世尊座に登り拈華(ねんげ)して衆に示す、迦葉破顔微笑(みしょう)せり、仏の言く吾に正法眼蔵・涅槃の妙心・実相無相・微妙(みみょう)の法門有り文字を立てず教外に別伝し摩訶迦葉に付嘱するのみ」を根拠とするが、この経自体、漢訳仏典の二大目録である開元釈教録や貞元新定釈教目録にも記録されておらず、大蔵経に収録されていないもので、偽経の疑いが強い。

観経
 観無量寿経のこと。一巻。中国・劉宋(りゅうそう)代の畺良耶舎(きょうりょうやしゃ)訳。内容は、悪子・阿闍世のいる濁悪世を嘆き、極楽浄土を願う韋提希夫人(いだいけぶにん)に対し、釈尊は神通力によって諸の浄土を示し、そこに生ずるための三種の浄業を説き、特に阿弥陀仏とその浄土の荘厳の相を十六種に分けて説いた。無量寿経、阿弥陀経とあわせて浄土三部経という。
〈追記〉
 サンスクリット原典、 チベット語訳ともに発見されていないため、中国撰述説もある。

摂地(じょうち)二論の人師
 無著(むじゃく)の摂大乗論(しょうだいじょうろん)を所依とする学派・摂論宗(しょうろんしゅう)と、世親の十地経論を所依とする学派・地論宗(じろんしゅう)の人師のこと。摂論宗は、真諦(しんだい)(四九九年~五六九年)が無著の摂論(摂大乗論)と世親の摂大乗論釈を漢訳後、梁・陳代の百年間、弟子達が弘めて一派を形成した。しかし唐代に玄奘(六〇〇年~六六四年)が摂論・摂大乗論釈を新訳し、窺基(きき)(六三二年~六八二年)が法相宗を興すに至って摂論宗は勢力を失い、衰微消滅して日本には伝えられていない。教義は唯識説によるものであるが、九識を立て阿頼耶識(あらやしき)以下の八識を去って第九識の阿摩羅識(あまらしき)の真如に入ることを説いている〔※〕。一方、地論宗は、北魏の宣武帝(せんぶてい)の時、勒那摩提(ろくなまだい)、菩提流支(ぼだいるし)が華厳経の一品である十地品(十地経)を注釈した「十地経論」(世親著)を訳出したのに始まる。早く南北両派に分かれ、菩提流支の弟子の系統である北道派は、後発の摂論宗とその教義が近く,摂論宗へ次第に吸収された。一方、四分律宗の祖でもある光統律師(こうずりっし)(慧光)(四六八年~五三七年)を祖とする南道派には、多くの学僧が出て盛えた。隋の浄影寺慧遠(じょうようじえおん) (五二三年~五九二年)の著「大乗義章」は、六朝以来の各派の教説を地論宗の立場によって集大成した。しかし唐代に華厳宗が興ると、発展的に吸収されていった。
〔※追記〕
「……唯識説では,対象を弁別して知る働きを識といい、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの識と、思量の働きをする末那識(まなしき)、存在を成立せしめる可能力から成る阿頼耶識(あらやしき)の八種類の識を立てる。末那識は阿頼耶識に依存して成立するが、後者に対して我執を起す。しかし修行によって阿頼耶識は一変して清浄なものとなる。これを阿摩羅識(あまらしき)という。真諦の流れをくむ摂論宗はこれを独立の識と考えて九種の識を立てるが、玄奘の有相(うそう)唯識派では,阿摩羅識は阿頼耶識の清浄無垢な側面であるとして独立の識とは考えない」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説「阿摩羅識」より一部抜粋)。
「法相宗では、八つの識が心王とされ八識心王といわれる。これに対して天台宗などでは第九識が生命の働きの中心であるので心王といい、仏の覚りの真実である真如と一体であるので九識心王真如という。第九識は真如を覚った仏の境涯の識であることから、天台大師智顗は『金光明経玄義』巻上で仏識と位置づけている。この第九識は、万物を貫く本性である覚りの法性が現れた覚りの境地そのものであり、法性と第九識は一体であるので、九識法性という。また第九識は、衆生の生命に本来的にそなわる覚りである本覚と一体であるので、九識本覚ともいう」(SOKAnet教学用語検索「九識」より一部抜粋)。

講義
 真言・華厳・法相・三論・禅・浄土の諸宗の誤りを、簡潔に指摘されている。
 初めに、真言宗について、インドにはなかった宗派で、善無畏・金剛智・不空の三三蔵等が、天台大師の立てた一念三千の法門を盗み入れて大日経の法理とし、真言宗と名乗ったのである、と破折されている。法華経の法理を盗んだということは、法華経の一念三千が大日経にもあると主張したことである。
 善無畏・金剛智・不空の三三蔵が、大日経・金剛頂経・蘇悉地経の真言三部経をインドから中国へ伝えた時、すでに天台大師によって法華経の一念三千が明かされ法華最勝の義が確立されていたので、真言経を弘通するために、一念三千の法理を盗んで大日経にも法華経と同じ法理が説かれていると飾り立て、そのうえで大日経には印と真言も説かれているから勝れていると、法華経を誹謗したのである。しかし、大日経等の真言経には、一念三千の法理の基礎となる二乗作仏・十界互具は説かれておらず、まして久遠実成の明文はない。法華経の文に類似した大日経の経文に、法華経の法理をこじつけたにすぎない。
 開目抄には「真言・大日経等には二乗作仏・久遠実成・一念三千の法門これなし、善無畏三蔵・震旦(しんたん)に来つて後・天台の止観を見て智発し大日経の心実相・我一切本初の文の神(たましい)に天台の一念三千を盗み入れて真言宗の肝心として其の上に印と真言とをかざり法華経と大日経との勝劣を判ずる時・理同事勝の釈をつくれり、両界の漫荼羅の二乗作仏・十界互具は一定(いちじょう)・大日経にありや第一の誑惑(おうわく)なり、故に伝教大師云く『新来の真言家は則ち筆受の相承を泯(みん)じ、旧到(くとう)の華厳家は則ち影響(ようごう)の規模(きも)を隠す』等云云」(二一五㌻)と、真言宗が天台大師の一念三千の法門を盗んだ経緯を詳細に述べて破折されている。
 撰時抄にも、善無畏が中国天台宗の僧・一行(いちぎょう)を誑(たぶら)かして大日経疏(しょ)を作らせ、そのなかで大日経と法華経はともに一念三千の法理を明かしているが、大日経には法華経にない印と真言が説かれているので法華経より勝れていると述べさせたことが記されている(二七五㌻~二七七㌻)。
 次に華厳宗についても、澄観(ちょうかん)等が天台大師の十乗観法を盗んで華厳経に入れ、華厳宗と名乗ったのであるとされている。澄観は中国華厳宗の第四祖で、法華経をはじめ大乗の諸経論を研究し、妙楽大師について摩訶止観を学んだ人物で、華厳宗を再興するために天台大師の一念三千の法理を華厳経に盗み入れたのである。そのことを「華厳宗と号す」と述べられたのであろう。
 たしかに天台大師は摩訶止観の中で華厳経巻十の「心は工(たくみ)なる画師(えし)の如し」の文を引用し、心(一念)が諸法(三千)を形づくっているとの理は、ちょうど巧みな画師が種々の絵の具を用いてあらゆる物事を表現するようなものであると説いているが、あくまで傍証として用いただけで、華厳経に一念三千があるということではない。澄観はそれを逆に用いて、この文を華厳経に一念三千が説かれている根拠としたのである。
 開目抄には「華厳宗と真言宗とは本は権経・権宗なり(中略)華厳宗は澄観が時・華厳経の心如工画師(しんにょくえし)の文に 天台の一念三千の法門を偸(ぬす)み入れたり、人これをしらず」(一九〇㌻)とも、また「華厳経・乃至諸大乗経・大日経等の諸尊の種子・皆一念三千なり天台智者大師・一人此の法門を得給えり、華厳宗の澄観・此の義を盗んで華厳経の心如工画師の文の神(たましい)とす」(二一五㌻)とも述べている。
 天台大師が華厳経の文を引いた理由について、日寛上人は三重秘伝抄に「彼(か)の経に記小久成を明かさず、何ぞ一念三千を明かさんや。若(も)し大師引用の意は、浄覚云く『今の引用は会入(えにゅう)の後に従う』等云云。又古徳云く『華厳は死の法門にして法華は活(かつ)の法門なり』云云。彼の経の当分は有名無実なる故に死の法門と云う(中略)若し会入の後は猶蘇生の如し、故に活の法門と云うなり」(『六巻抄』二六㌻ 聖教新聞社刊)と述べている。華厳経には二乗作仏・久遠実成が説かれていないのだから、一念三千が明かされているわけがないのであり、天台大師が引用したのは、あくまでも法華経に会入したうえでのことだったのである。
 次に、法相宗と三論宗は、華厳経とともに南都六宗のなかの大乗三宗であるが、この二つについては論ずるに足らないと、一蹴(いっしゅう)されている。法相宗は、中国の唐代に玄奘がインドから伝えた唯識論をもとに窺基(きき)(慈恩)が開いた宗派で、諸法の性相を分別し体系化することを目的とした大乗の学問宗である。日本へは道昭・智通・玄昉(げんぼう)等によって伝えられ、元興寺・法隆寺・興福寺・薬師寺等で法相宗の学問研究が盛んに行われた。他宗の僧が法相宗を兼学する者が多く、宗派というよりも学派であった。
 三論宗も、鳩摩羅什が中国に紹介した竜樹の中論・十二門論と提婆の百論の三つの論を依りどころとして立てられた宗派で、吉蔵によって大成され、日本へは高麗の慧灌(えかん)によって伝えられた。法相宗と同じく学問宗である。法相・三論の二宗は、大聖人御在世当時にはともに全く力を失っていたので、「言うに足らず」と一言で破されたのであろう。
 禅宗については、中国・梁(りょう)代にインドから渡来した達磨(だるま)が楞伽経(りょうがきょう)等によって立てたもので、空の一分を説いた大乗の宗派である、とされている。しかし、禅宗の最大の欠陥は、その学者たちが慢心を起こし、「教外別伝・不立文字」――仏の真実の教えは経文にはなく、仏が涅槃の時に微妙(みみょう)な法門を迦葉へ、文字を立てずに教外(きょうげ)に別に伝え付嘱した――と主張して、一切の経典を軽蔑し否定していることにあると指摘され、そうした禅宗の教義は「天魔の所為」であると破折されている。なぜなら、経典に依らずに教義を立てて、しかも仏説である経典を否定し誹謗するということは、涅槃経に「若(も)し仏の所説に随(したが)わざる者有れば是れ魔の眷属(けんぞく)なり」とあるように、仏法を破壊する天魔の行為だからである。
 しかも、菩提達磨は、楞伽経に四種禅が説かれているとして禅宗の依経にし、更に、大梵天王問仏決疑経に、仏が正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相という法門を摩訶迦葉に付嘱したことが説かれており。これが禅の起源であるとしている。文字を用いないといいながら、楞伽経を依経とし、問仏決疑経を用いるなど自語相違しているのである。しかも、問仏決疑経は仏説ではなく、偽経であることが明らかである。
 蓮盛抄には「教外と号し剰(あまつ)さえ教外を学び文筆を嗜(たしな)みながら文字を立てず言と心と相応せず豈(あに)天魔の部類・外道の弟子に非ずや、仏は文字に依つて衆生を度し給うなり(中略)若(も)し文字を離れば何を以てか仏事とせん禅宗は言語を以て人に示さざらんや若し示さずといはば南天竺の達磨は四巻の楞伽経に依つて五巻の疏(しょ)を作り慧可(えか)に伝うる時我漢地を見るに但此の経のみあつて人を度す可し汝此れに依つて世を度す可し云云、若し爾(しか)れば猥(みだり)に教外別伝と号せんや」(一五三㌻)と破されている。
 次に浄土宗について、善導等が観経等の経典を見て一分の慈悲を起こし、当時の摂論宗(しょうろんしゅう)や地論宗(じろんしゅう)の人師に向かって、余行を選び捨てて専ら念仏の一行を修めよと一向専修(いっこうせんじゅ)の教義を立てたのであるとされている。
 中国浄土教善導流の祖とされる善導は、道綽(どうしゃく)のもとで観無量寿経を学んで念仏を行じ、師の滅後、念仏の弘教に励んだ。その著・観経疏のなかの、称名念仏という他力本願によって弥陀の浄土に往生できるとの思想は、法然の選択集(せんちゃくしゅう)にもしばしば引用され、最も重要な依りどころとなっている。また、往生礼讃偈では「千中無一」と説き、念仏以外の雑行(ぞうぎょう)を修行する者は千人の中で一人も成仏しない、としている。
 本来、善導ら中国の祖師たちは法華経以外の諸経について聖道・浄土、正行・雑行の義を立てたのであったが、日本の法然が善導らの誤りを更に拡大して、天台・真言等をも雑行の中に含めて、法華経を末法には不相応の教えであると誹謗し、国中の人々を誑(たぶら)かして生死の闇に迷わせたのである、とされている。
 法然は、その著・選択集の結論として「夫(そ)れ速かに生死を離れんと欲せば二種の勝法の中に且(しばら)く聖道門を閣(さしお)きて選んで浄土門に入れ、浄土門に入らんと欲せば正雑二行の中に且く諸の雑行を抛(なげう)ちて選んで応(まさ)に正行に帰すべし」と述べ、称名念仏のみを正行とし、他の諸行はことごとく雑行なので捨てるべきであると主張した。すなわち、諸行のなかに法華経の修行を含めて、末法には不相応の法であると誹謗し、捨てるように勧めており、これを大聖人は「人々を惑わし、無間地獄の苦悩に突き落とすものである」とされたのである。
 すなわち大聖人は、この法然の誤りは、法華経を誹謗していることにあり、法華経譬喩品第三の「若(も)し人は信ぜずして 此の経を毀謗(きぼう)せば 則(すなわ)ち一切世間の 仏種を断ぜん(中略)其の人は命終(みょうじゅう)して 阿鼻獄に入(い)らん」(『妙法蓮華経並開結』一九八㌻ 創価学会刊)の戒めに当たるため、「念仏は無間地獄の業である」と破折されたのである。
「国中を誑惑(おうわく)して長夜(じょうや)に迷わしむ」と仰せられているのは、この法然の邪義が大聖人当時、日本中に広まり、浄土宗は興隆を極めていたことをさしておられる。そうしたなかで、ただ一人「念仏は無間地獄の業」と叫んで、覚醒を促されたのが大聖人であるゆえに「之を明めし導師は但日蓮一人なるのみ」と断じられているのである。同趣旨のことは開目抄にも「権大乗・実大乗経を極めたるやうなる道綽・善導・法然等がごとくなる悪魔の身に入りたる者・法華経をつよくほめあげ機をあなが(強)ちに下し理深解微(りじんげみ)と立て未有一人得者・千中無一等と・すかししものに無量生が間・恒河沙の度すかされて権経に堕ちぬ権経より小乗経に堕ちぬ外道・外典に堕ちぬ結句は悪道に堕ちけりと深く此れをしれり、日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり」(二〇〇㌻)と述べられている。

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