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真言諸宗違目・第一章 門下に流罪赦免の運動を禁ずる

            真言諸宗違目

      第一章 門下に流罪赦免の運動を禁ずる

本文(御書全集一三九㌻初~一三九㌻五行)
 土木殿(ときどの)等の人人御中         日  蓮
 空(そら)に読み覚えよ老人等は具(つぶさ)に聞き奉れ早早に御免を蒙(こうむ)らざる事は之を歎く可からず定めて天之を抑(おさ)うるか、藤河入道を以て之を知れ去年流罪有らば今年横死に値(あ)う可からざるか彼を以て之を惟(おも)うに愚者は用いざる事なり、日蓮が御免を蒙らんと欲するの事を色に出す弟子は不孝の者なり、敢(あえ)て後生を扶(たす)く可からず、各各此の旨を知れ。

通解
 富木常忍殿ならびに門下、信徒の人々へ。
 この書を暗記して自分のものにしなさい。老人たちは、富木殿から詳しく聞きなさい。
 日蓮が佐渡流罪を早く赦免されないからといって、嘆いてはならない。これはきっと、諸天善神が赦免されないように抑えておられるのであろう。藤河入道のことをとおしてこのことを理解しなさい。もし藤河入道が昨年(文永八年)流罪されていたら、今年(文永九年)災難にあって死ぬことなどなかったであろう。藤河入道のことをもって日蓮のことを考えてみても、愚かな者は受け入れようとしない。
 日蓮を赦免してほしいとの思いを表情や言動に出すような弟子は、不孝の者である。そのような弟子の未来世を救うことはできない。
 おのおのは、以上に述べてきたことの趣旨を理解しなさい。

語訳
土木殿(ときどの)
(一二一六年~一二九九年)。富木常忍(ときじょうにん)のこと。俗名は常忍(つねのぶ)という。下総国葛飾郡八幡荘若宮(現在の千葉県市川市若宮)に住み、千葉氏に仕えていた武士。かなりの学識があり、大聖人より観心本尊抄、法華取要抄、四信五品抄等数十編にのぼる御書をいただいている。本領は因幡国(いなばのくに)(現在の鳥取県の東部)富城郷(ときごう)にあった。建長六年(一二五四年)ごろ大聖人に帰依したとされ、よく外護の任に励み、門下の中核として活躍した。大聖人御入滅後、出家して常修院日常と改め、自邸の法華堂を法華寺と改称して開山となり、中山門流の祖となった。

藤河入道
(~一二七二年)。生年や人物についての詳細は不明である。日蓮大聖人門下の人かどうかも定かではない。本抄の記述から、大聖人とは異なって流罪は免れたものの、文永九年(一二七二年)五月以前に、何らかの災難や事故などで亡くなったことが推察されるのみである。

不孝の者
 親孝行でない者。ここでは一切衆生の親の徳を具備する仏の教えを信受せず、仏法に反する者のこと。法華経譬喩品第三に「今此の三界は、皆な是れ我が有(う)なり、其の中の衆生は、悉(ことごと)く是れ吾が子なり」(『妙法蓮華経並開結』一九一㌻ 創価学会刊)とある。また「法門申さるべき様の事」では「設(たと)い法華経をそし(謗)らずとも・うつり付(つか)ざらん人人・不孝の失(とが)疑なかるべし」(一二六六㌻)として、仏の教えどおり法華経を信受しなければ不孝の失を免れない、とされている。

後生
 未来世、後の世のこと。また未来世に生を受けること。前生(ぜんしょう)・今生(こんじょう)に対する語。後世(ごせ)・来世(らいせ)ともいい、三世の一つ。

講義
 本抄は文永九年(一二七二年)五月五日に佐渡・一谷(いちのさわ)で著され、富木常忍に送られた御書で、真言・華厳・禅・浄土などの諸宗の誤りがどこにあるかを簡潔に示され、ただ一人、法華経の正法を弘める御自身の立場を明らかにされている。大聖人は同年四月初めに塚原の三昧堂から一谷の一谷入道の邸へ移られており、四月十日には富木殿御返事を送られている。そのなかで、法華経の行者である大聖人に諸天の加護が現れない理由を挙げられ、加護の有無にかかわりなく、折伏を行じぬくこと、そのために斬首されれば本望であると記されている。その一か月弱後の本抄をしたためられた理由は、恐らく、それでも門下には疑いを抱く者があったことから、邪法の諸宗と法華経の正法の違いを明確にすることによって、大聖人の正しさへの確信を門下に呼びさまそうとされたと考えられる。
 富木常忍は、下総国葛飾郡八幡庄若宮(現在の千葉県市川市若宮)に住み、下総の豪族・千葉氏に仕えていた武士である。建長六年(一二五四年)ごろに入信した最古参の大聖人の信徒で、下総地方だけでなく、在家の門下全体の中心的存在となっていた。大聖人の御信頼も厚く、佐渡流罪の際も、越後の寺泊(てらどまり)・佐渡の塚原・一谷の各地に着かれると最初に富木常忍へ書状を出されており、文永十年(一二七三年)四月には法本尊開顕の重書である観心本尊抄を賜っている。
 なお当時の状況については、建治元年(一二七五年)の一谷入道御書に「文永九年の夏の比(ころ)・佐渡の国・石田の郷一谷と云いし処に有りしに・預りたる名主等は公(おおやけ)と云ひ私(わたくし)と云ひ・父母の敵よりも宿世の敵よりも悪(にく)げにありしに・宿の入道と云ひ・妻と云ひ・つかう者と云ひ・始はお(畏)ぢをそれしかども先世の事にやありけん、内内・不便(ふびん)と思ふ心付きぬ、預りより・あづかる食は少(すくな)し付ける弟子は多くありしに・僅(わずか)の飯の二口三口ありしを或はおしき(折敷)に分け或は手に入て食しに・宅主・内内・心あつて外には・をそるる様なれども・内には不便(ふびん)げにありし事・何(いつ)の世にかわすれん」(一三二八㌻)と述べられていて、大聖人を預かった一谷入道が、念仏者でありながら、大聖人に同情してひそかに外護していたことがうかがえる。
 また、弘安元年(一二七八年)の千日尼御前御返事では、「入道の堂のらう(廊)にて、いのちをたびたび(度度)たす(助)けられたりし事こそ、いかにすべしともをぼへ候はね」(一三一五㌻)と述べられており、大聖人を狙った暗殺者から、一谷入道がたびたび御命を御守りしていたようである。
 もとより、一谷入道が大聖人に心を寄せるようになったのは月日が経ってのことで、当初は、それほどではなかったと思われる。しかし、それにしても塚原三昧堂の御生活に比べると、はるかに大聖人への処遇はよくなったと考えてよい。そうしたなかで、大聖人は観心本尊抄、顕仏未来記、当体義抄等の重書を次々と著されている。
 本抄は「土木殿等の人人御中」とあて名されているように、富木常忍をはじめとする門下一同に与えられたものである。原文は漢文体で著されており、大聖人の御真筆が現存している。
 題名の「真言諸宗違目」は、真言宗と諸宗の違目(相違)の意ではなく、真言等の諸宗の違目の意で、内容は、真言・華厳・法相・三論・禅・浄土等の諸宗の教義の誤りを指摘され、その邪義を呵責(かしゃく)している日蓮大聖人が、日本国の諸人にとっては主・師・親の三徳を具える立場であることを明らかにされている。次に、仏の滅後には、五逆・一闡堤(いっせんだい)は十方の土のように多く、正法の人は爪上(そうじょう)の土のように少ないと説く涅槃経の文を引かれて、大聖人こそ、この経文の正法の人に当たることを示されている。次に法華経勧持品等の文を引かれ、そこに予言されたとおりの大難にあわれている大聖人こそ、末法の法華経の行者であることを明かされている。更に、大聖人が法華経の行者なら、なぜ諸天が守護しないのかとの疑問に対して、悪鬼が充満しているためと、過去の宿業が尽きていないためであると述べられたうえで、竜の口の大難を免れたことをもって、諸天の守りが強いことを疑ってはならない、との門下への戒めで結ばれている。
 この第一章の本文は、明らかに、最後に書かれた端書き(追伸)である。それが冒頭になっているのは、本文を著された後に紙が足りなくなり、冒頭のところに余白があったため、書き加えられたものであろう。同じ例は、同年三月の佐渡御書等にもみられ、御流罪の身で、紙も容易に入手できなかった窮状が拝せられる。
 この追伸の中で、大聖人が赦免されるよう幕府に働きかけることをしてはならないと仰せられ、その旨を徹底するよう指示されている。恐らく幕府が大聖人を塚原から一谷入道邸に移し待遇を改善したことから、赦免の可能性が強まったという期待が門下の間にわき起こり、幕府へ働きかけようとする働きがあったのであろう。この書を繰り返し読んで暗記して諳(そら)んじ、老人たちは詳しく聞いていきなさいとの仰せは、大聖人が流罪されたことによって、門下が疑いを起こすことを防ぐために、本抄の内容を理解し徹底するようにとの御指示と拝される。
 また、大聖人がすぐに佐渡流罪を許されないことを嘆くには及ばないとされ、これには必ず理由があり、諸天が赦免されることを抑えているのであろうと述べられ、そのことは藤河入道の例によっても分かるであろうと仰せである。この藤河入道がいかなる人か詳しいことは分からないが、去年に流罪されていれば、今年、横死することはなかったであろうとの仰せから、流罪を免れて鎌倉にいたために、かえって不慮の死を遂げた人のようである。同じ趣旨のことは、建治三年(一二七七年)七月の四条金吾殿御返事でも「日蓮はなが(流罪)されずして・かまくら(鎌倉)にだにも・ありしかば・有りし・いくさに一定(いちじょう)打ち殺されなん、此れも又御内にては・あしかりぬべければ釈迦仏の御計いにてや・あるらむ」(一一六四㌻)と述べられている。もしも、大聖人が佐渡へ流罪されずに鎌倉にいたなら、文永九年(一二七二年)二月に北条時輔(ときすけ)の一味とされた名越時章(ときあきら)等が鎌倉の邸で滅ぼされた内乱の折に、必ずや打ち殺されていたことだろう、との意である。幕府の要人をはじめ、大聖人を憎む多くの謗法の者たちが、戦乱のどさくさにまぎれて大聖人の暗殺を謀ることは十分に考えられたからである。したがって、そうした時に佐渡へ流罪されていたことは仏の計らいであったのであろうと仰せなのである。
 更に、藤河入道のことから考えると、愚かな者には分からなくとも、大聖人が赦免されないのにはわけがあるのだから、赦免されることを願い、それを顔色に出して行動するのは師に背く不孝の者であり、到底、後生(ごしょう)を助けることはできないと厳しく戒められ、各人がそのことをよく理解するようにと諭(さと)されている。
 大聖人にとって、佐渡への流罪は、法華経に予言された「数数見擯出(さくさくけんひんすい)」(『妙法蓮華経並開結』四二〇㌻ 創価学会刊)の文の身読であり、末法の法華経の行者として、当然、起こるべくして起こった難であった。そして、幕府が大聖人を流罪してから四か月後に起きた文永九年二月の北条時輔の乱は、文応元年(一二六〇年)に立正安国論で予言され、竜の口法難の際に平左衛門尉に警告された、自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)が現実となったものである。しかし、それでも幕府は大聖人の諌暁の正しさに目覚めることはなかった。このままでは、残る他国侵逼難(たこくしんぴつなん)が起こることも間違いなかったが、それによって為政者が覚醒することが、立正安国実現のために、どうしても必要なことであった。安易に幕府に赦免を願うことは、そうした大聖人の御心に背くものだったのである。ゆえに、厳しく赦免運動を禁じられたのであろう。

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