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真言天台勝劣事・第十四章 真言が五時に属さずの説を破る

            真言天台勝劣事

      第十四章 真言が五時に属さずの説を破る

本文(一三七㌻一六行~一三八㌻六行)
 次に一代五時の摂属(しょうぞく)に非ずと云う事是れ往古より諍(あらそい)なり唐決には四教有るが故に方等部に摂(せっ)すと云へり、教時義には一切智智・一味の開会(かいえ)を説くが故に法華の摂(せつ)と云へり、二義の中に方等の摂と云うは吉き義なり、所以に一切智智・一味の文を以て法華の摂と云う事甚だいはれなし彼は法開会の文にして全く人開会(にんかいえ)なし争(いかで)か法華の摂と云わるべき、法開会の文は方等般若にも盛んに談ずれども法華に等(ひとし)き事なし彼の大日経の始終を見るに四教の旨具(つぶさ)にあり尤(もっと)も方等の摂と云う可し。
 所以に開権顕実の旨有らざれば法華と云うまじ一向小乗三蔵の義無ければ阿含の部とも云う可からず、般若畢竟空(ひっきょうくう)を説かねば般若部とも云う可からず、大小四教の旨を説くが故に方等部と云わずんば何(いず)れの部とか云わん。
 又一代五時を離れて外に仏法有りと云う可からず若(も)し有らば二仏並出(びょうしゅつ)の失(とが)あらん、又其の法を釈迦統領の国土にきた(来)して弘む可からず。

通解
 次に、(真言経は)一代五時に属さないということについていえば、これは昔から論争のあるところである。唐決では「蔵・通・別・円の四教が説かれているがゆえに方等部に入る」といい、教時義では「一切智智・一味の開会を説くがゆえに法華部に入る」といっている。この二義の中では、方等部に入るというのが理にかなった義である。ゆえに、一切智智は一味であるという開会の文をもって法華部に入るというのは全く正当な理由がない。それは法開会の文であって、全く人開会は説いていない。どうして法華部に入るということができよう。法開会の文は方等部や般若部にも盛んに述べられているけれども、法華部と等しいということはない。大日経を始めから終わりまで見てみると、四教の趣旨がすべて具わっている。まさに方等部に入るというべきである。
 ゆえに開権顕実の趣旨がないので法華部ということはできず、全く小乗の三蔵の義がないので阿含部ということはできず、般若畢竟空を説いていないので般若部ともいうことはできない。大乗・小乗の四教の趣旨を説くのであるから、方等部といわなければ、どの部といえよう。
 また、一代五時以外の時に説かれた仏法があるというべきではない。もし、有りとするならば二仏が同時に出現するという過ちとなろう。また、その法を釈迦が統治する国土に持ってきて弘めるべきではない。

語訳
唐決
 日本の伝教大師や円澄などの天台学に関する質問に対して、中国・唐代の道𨗉(どうずい)・広修(こうしゅ)・維蠲(ゆいけん)らが答えたもの。七篇の唐決が知られている。ここでは円唐決一巻(日本国三十問謹案科直答ともいう)のことと思われる。
〈追記〉
 日本天台宗では、天台教学における密教の位置づけが大きな課題であった。円載(えんさい)(~八七七年)は天台座主円澄の宗義に関する疑問三十条を携え、承和五年(八三八年)唐に渡った。当時の中国天台宗座主は第十一祖広修(七七一年~八四三年)で、師は伝教大師最澄に法を伝えた道𨗉、弟子に維蠲・良諝(りょうしょ)がいる。円澄の三十条の疑問に対し、師弟それぞれが答え、広修の決答を「円唐決」、維蠲の決答を「澄唐決」という。円載はこれらの唐決を得て弟子の仁好(にんこう)に託して日本に送った。在唐すること四十年、貞観十九年(八七七年)典籍数千巻を携えて帰国の途中、暴風のため溺死した。

四教
 天台大師智顗による教判。ここでは化法の四教のこと。釈尊一代の説法の次第を、教法の深浅による「化法の四教」(蔵・通・別・爾前の円)と説法の深浅による「化儀の四教」(頓・漸・秘密・不定)の八教をもって分別した。妙楽大師は、法華の円は独妙であるとし、法華経を八教を超えて優れた超八醍醐の教えと位置づけた。

方等部
 天台大師が一代聖教を五時(華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時)に立て分けたうちの第三・方等時に説かれた経典の総称。方等は方正・平等な教えの意で、広く大乗経をさす。二乗と菩薩に共通の教え(通教)を説いているとされる。

法開会
 教法における開会のこと。限られた範囲における教法を一切にわたる教法の中に位置づけて入れることをいう。人開会に対する語。

人開会(にんかいえ)
 人における開会のこと。成仏することができないとされてきた衆生を、等しく成仏する一切衆生の中に入れることをいう。法華経以前の諸経で不成仏とされた二乗(声聞・縁覚)が法華経に至って成仏すると説かれたことをさす。法開会に対する語。

畢竟空(ひっきょうくう)
 諸法は究極するところ空であるということ。「畢竟」は究極・つまるところの意。摩訶般若波羅蜜経に「何等をか畢竟空と為す。畢竟は諸法は畢竟して不可得なるに名づく。常に非ず、滅に非ざる故なり。何を以っての故に、性、自爾なればなり。是れを畢竟空と名づく」とある。
〈追記〉
 上記に「自爾(じに)」とあるのは「みずから」の意。摩訶止観巻五上に「法性自爾」(=全ての存在の本性はおのずからその通りにある)と説く。

講義
 第五問答の答えが続いているところである。先の四点にわたる難詰のうち、ここでは③真言三部経は釈尊一代五時の中に属さない、という真言宗の言い分を破られている。
 まず初めに、真言三部経が一代五時の中に属するか否かについては「往古より諍(あらそい)なり」、昔から論争されてきた問題であると仰せられている。そして、一代五時に属するという立場を代表する唐決と真言宗教時義(台密の安然)の説を紹介されている。そのなかで、唐決は大日経は蔵・通・別・円の四教を具えているので第三時の方等部に摂するとし、安然の教時義では、大日経が一切智智・一味の開会を説いているから、第五時の法華・涅槃時に摂するとしているのであるが、大日経は二義の中では唐決の方等部に摂する説が妥当であると結論されている。
 その理由として、安然は教時義で、大日経は一切智智・一味の開会を説いているから第五時法華・涅槃時に摂せられるとしているが、この大日経の開会は第三方等時や第四般若時の経にも見られる法開会にすぎず、二乗作仏という人開会を説いていない点において、とても第五法華・涅槃時に摂することはできない、と述べられている。そして、大日経の全体を見るのに、蔵・通・別・円の四教の内容がすべて具わっていることから、第三方等時に摂せられるべきであると結論されている。
 そして、真言三部経は開権顕実の法門を説いていないので第五法華・涅槃時というわけにはいかず、といって、小乗三蔵教の内容のみを説いているわけではないので、第二阿含時(部)ともいえず、また般若や、究極は空であるという法門を説いているわけではないので第四般若時(部)ともいえない。要するに、真言三部経は大乗、小乗にまたがる蔵・通・別・円の四教の内容を説いているので第三方等時(部)に摂せられなかったら、一体どの時(部)に入ることができようかと、述べられている。
 最後に、真言三部経は釈迦一代五時に属さないという邪説に対して、そもそも一代五時を離れて外に仏法が存在するというような説を立てるべきではないと断ぜられ、もし五時以外に教法があるとすれば、同一の娑婆世界に二仏が並んで出現したということになり、これは仏法の原則に外れることになる。また、釈尊とは別の仏の説いた教法を、釈迦如来が統治する娑婆国土にもってきて弘通すべきではない、と破折されている。

 唐決には四教有るが故に方等部に摂すと云へり、教時義には一切智智・一味の開会を説くが故に法華の摂(せつ)と云へり

 真言三部経は一代五時の中に摂せられるという立場を代表する二説を挙げられているところである。
 まず唐決とは、日本の伝教大師や円澄などの質問に対して、本家である中国天台宗で唐代に活躍した道邃(どうずい)・広修・維蠲(ゆいけん)らが答えたものである。これに七篇あるなかで、ここに紹介されている唐決は円唐決一巻であると考えられる。この一巻は日本の円澄の三十条にわたる疑問に対して、広修が答えたものである。
 この中で円澄は大日経に関して質問している。すなわち、毘盧遮那経(大日経)は五時四教八教に明確に位置づけられておらず、法華経の前説としたり法華の後説としたりしているが、この義についてはどうかというものである。
 これに対して広修は「既に四教の機根有り。豈(あに)、第三時の摂、方等教の収と為らざらんや。理を以って之を検(けみ)するに即ち知る、是れ法華の前説並びに八教の中に並摂せられることを」と答えている。つまあり、第三方等時(部)に摂せられるといっている。
 これとは別に、天台宗の密教(台密)の安然はその著・真言宗教時義に「今の大日経は応正遍知が衆生の楽(ねが)いに随って四乗の法及び八部の法を説き、而して是の一切智智は一味なり云云。若(も)し爾(しか)らば法華と同なりと謂うべし」と述べている。
 応正遍智とは仏の十号のうちの応供と正遍知を併せた呼称で、ここでは大日如来をさしている。すなわちこの文の意は、大日如来は衆生の願いと望むところに随って、それまで四乗(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗・仏乗)のための法や仏法を守護する天・竜・夜叉(やしゃ)など八部衆のための法を説いてきたが、今、大日経を説くことで、それまでの法があくまで一切智智(大日如来の根本の智慧)を顕すための方便であったことを明らかにした結果、すべての法は一切智智を分々に説いたものとして生かされ(開会)、ここに一切智智によって一味として統一されたというのである。大日経には、このように開会の法門が説かれているがゆえに、法華経と同じ第五時に摂せられるというのである。

 一切智智・一味の文を以て法華の摂と云う事甚だいはれなし彼は法開会の文にして全く人開会なし

 大聖人は右の安然の教時義の釈は、根拠のない言い分であるとされ、その理由として、大日経の「一切智智・一味」の文は単に法開会にすぎず、大日経には人開会がないから、真実の開会とはいえないと仰せられている。
 このことを理解するために「一切智智・一味の文」というのを見てみよう。大日経巻一に「世尊、云何(いかん)が如来応供正遍知は一切智智を得たもうや。彼一切智智を得て、無量の衆生の為に広演分布し、種種の趣と種種の性欲とに随って、種種の方便道をもって一切智智を宣説したもう。或いは声聞乗道、或いは縁覚乗道、或いは大乗道、或いは五通智道、或いは願って天に生じ、或いは人中及び竜・夜叉・乾闥婆(けんだつば)に生じ、乃至摩睺羅伽(まごらが)に生ずる法をときたもう……而して此の一切智智道は一味なり」とあるのがそれである。
 ここに一切智智とは大日如来の仏智のことで、大日如来はこの仏智を得てのち、無量の衆生のために、彼らのさまざまな傾向性と求めに応じて、声聞乗道、縁覚乗道、大乗道などを説いてきた。それらはどこまでも一切智智の道を説くためにしたことであると述べ、「一切智智道は一味なり」すなわち、全ての教法は一切智智の道に通じていて一味平等であると結論している文である。
 安然は、この文をもって、大日経には開会が説かれているから、同じく一切法を開会した第五法華時に摂せられるべきであるといったのである。
 これに対して、大聖人は大日経の開会は法の開会にすぎず、人の開会、すなわち、成仏することができないとされてきた衆生を、成仏する一切衆生の中に等しくして入れることは説いていないから真の開会ではなく、法華経とは全く違うと指摘されている。
 法の開会だけなら方等時や般若時の経教でも説かれていることで、これは抽象的観念の上で「平等」を唱えているにすぎないのである。

 所以に開権顕実の旨有らざれば……

 蔵・通・別・円四教の立て分けは、小乗教を蔵教、小乗・大乗両方に通じる教えを通教、別して大乗菩薩道を説いたのを別教とし、一切衆生を一仏乗に包摂する教えを円教とする。そのなかで、法華経はそれ以前の諸経を「方便権教」と断じて、唯一仏乗を説いた「開権顕実」の法門である。それに対し大日経は蔵・通・別・円すなわち大小四教すべてを説いており、これは五時の立て分けでいえば「方等時の経典」の特色である。このことから、「大小四教の旨を説くが故に方等部と云わずんば何れの部とか云わん」と結論されているのである。

 又一代五時を離れて外に仏法有りと云う可からず……釈迦統領の国土にきた(来)して弘む可からず

 仏教では、一つの世界に出現して衆生のために法を説く教主としての仏は一仏のみとされる。二仏・三仏が同時に出現して法を説けば、衆生はどの仏を信ずべきかで迷い、結局、我見にとらわれてしまうからである。法華経で二仏・三仏が出現したといっても、教主は釈迦であり、多宝・十方はあくまで証明役だったのである。一つの世に二仏が同時に出現することはないということの論拠としては、涅槃経巻三十四の「善男子、我処処の経の中に於いて説いて言わく『一人出世すれば多人利益す。一国土の中に二転輪王、一世界の中に二仏出世すること、是の処(ことわり)有ること無し……』と」の文がある。
 また、大智度論巻九には「十方恒河沙等の三千大千世界、是を名づけて一仏世界と為す。是の中に更に余仏無し。実に一(ひと)りの釈迦牟尼仏なり」とあり、妙楽大師の法華文句記巻一には「世に二仏無く、国に二王無し。一仏の境界には二尊の号無し」とある。
 これらの文を裏づけにして、大聖人は、釈迦仏とは別に大日如来が出現して、釈迦一代の教法とは別に法を説いたなどということは「二仏並出はない」との原則に反することになるから、ありえないとされているのである。
 また、この娑婆国土は釈迦仏の仏法が弘められるべき世界なのであるから、それ以外の仏の法であるなどといって、釈迦仏の説によらない法を持ちきたって弘通するようなことはあってはならないのである。

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