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真言天台勝劣事・第十三章 事理倶密の邪説を破折する

            真言天台勝劣事

       第十三章 事理倶密の邪説を破折する

本文(一三七㌻一三行~一三七㌻一六行)
 次に事理倶密(じりくみつ)の事・法華は理秘密・真言は事理倶密なれば勝るとは何(いず)れの経に説けるや抑(そもそも)法華の理秘密とは何様の事ぞや、法華の理とは迹門・開権顕実の理か其の理は真言には分絶えて知らざる理なり、法華の事(じ)とは又久遠実成(くおんじつじょう)の事なり此の事又真言になし真言に云う所の事理は未開会(みかいえ)の権教の事理なり何ぞ法華に勝る可きや。

通解
 次に、事も理もともに秘密であるということについていえば、法華経は理が秘密であり、真言経は事も理もともに秘密であるので勝れるというのは、どの経に説いてあるのか。そもそも法華経の理が秘密であるというのは、どのようなことをいうのか。法華経の理とは法華経迹門で説く開権顕実の理のことか。もし、そうであれば、その理は真言経には領分を超えていて知ることのない理である。法華経の事とはまた、久遠実成の事(じ)である。この事(じ)もまた、真言経には説かれていない。真言経に説くところの事と理は未開会の権教の事と理である。どうして法華経に勝ることができようか。

語訳
理秘密
 天台密教では一切経を顕示教(三乗教)と秘密教(一乗教)の二種に分け、更に秘密教を理秘密のみ説く理秘密教と事秘密・理秘密の両方を説く事理倶密教に分ける。そして華厳・般若・維摩・法華・涅槃経等が理秘密教であるのに対して、大日・金剛頂経などが事理倶密経であって勝れているとする。

迹門
 法華経迹門をさす。妙法蓮華経の中で、釈尊が垂迹の仏の立場で説いた前半十四品の法門のこと。久遠実成という本地を明かさず、始成正覚という垂迹の姿で説いたので迹門という。迹門は本門に対する語。

開権顕実
「権を開いて実を顕す」と読む。方便権教を開いて真実の教えを説き顕したこと。「権」は権教である四十余年の爾前経、「実」は実教である法華経をさす。法華経迹門では、三乗(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)の法を開いて一仏乗を説き顕した開三顕一の法門をいう。法華経法師品第十には「此の経は方便の門を開いて、真実の相を示す」(『妙法蓮華経並開結』三六五㌻ 創価学会刊)とある。

久遠実成(くおんじつじょう)
 インドに生まれ今世で成仏したと説いてきた釈尊が、実は五百塵点劫という非常に遠い過去(久遠)に成仏していたということ。法華経如来寿量品第十六で説かれる。同品には「我れは実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由他劫なり」(『妙法蓮華経並開結』四七八㌻ 創価学会刊)、「我れは仏を得て自(よ)り来(このかた) 経(へ)たる所の諸の劫数(こうしゅ)は 無量百千万 億載阿僧祇なり」(同・四八九㌻)とある。さらに釈尊は、自らが久遠の昔から娑婆世界で多くの衆生を説法教化し、下種結縁してきたことを明かした。五百塵点劫の久遠における説法による下種結縁を久遠下種という。

未開会(みかいえ)
「未だ開会せず」と読む。まだ開会の法門を説いていないということ。「開会」とは、低い教えにおける隔別・差異を除き、高い教えにおいて融合・平等化することをいう。開会には法開会と人開会とがあり、真実究竟の開会が説かれているのは法華経である。

講義
 第五問答の答えが続いているところである。ここでは四点の難詰のうち②「法華は理秘密・真言は事理倶密なれば勝(まさ)る」すなわち、法華経は理のみ秘密であるのに対し真言経典は理も事も俱に秘密であるので真言経は法華経に勝るという邪説を破られているところである。
 この考え方は、理については法華・真言両経は同じで、印・真言などの事については真言経が勝れるという「理同事勝」として中国の善無畏らが唱えていたのと共通しており、弘法の真言宗(東密という)ではなく、慈覚や智証といった比叡山天台宗の密教(台密という)の説である。
 しかしながら、本来、法華経を根本とした天台宗である慈覚たちが、このような「亊理俱密の故に真言の方が勝れる」と言ったことは、もともとの真言宗側からの見解以上に、真言の邪義を助ける力となっていたのである。
 まず、大聖人は、亊理俱密であるから真言が法華に勝るというのはどの経に説かれているのか、と追及されている。確かな文証のないまま立てられたこの邪説の虚妄性を指摘されているのである。
 次に、いったい法華経の理が秘密であるといっているが、その内容は何をさしているかと述べられ、法華経の理といえば迹門には開権顕実の理があるが、この理は真言が全く知らない理であると指摘されている。更に、事についても法華の事は仏が実は久遠において成仏していたという事であると仰せられ、これもまた真言には全くないことであると述べられている。台密の言う「事」は印や真言のことであるが、大聖人は、法華経には、そのような小手先の小さな「事」などよりずっと大きく根本的な「事」がある、という意味を込めて仰せられたのであろう。結論として、真言がいうところの事や理は未だ真実を開顕していない権教の事や理にすぎないのであるから、それがどうして法華に勝っているということができようか、と破られている。

 法華は理秘密・真言は事理倶密なれば勝る

 この台密の立てる邪説の出典とその意味が撰時抄に明確に説かれているので、引用しておきたい。すなわち「此の疏(しょ)の肝心の釈に云く『教に二種有り一は顕示教謂(おもえら)く三乗教なり世俗と勝義と未だ円融せざる故に、二は秘密教謂く一乗教なり世俗と勝義と一体にして融する故に、秘密教の中に亦(また)二種有り一には理秘密の教諸の華厳般若維摩法華涅槃等なり但だ世俗と勝義との不二を説いて未だ真言密印の事を説かざる故に、二には事理倶密教謂く大日教金剛頂経蘇悉地経等なり亦世俗と勝義との不二を説き亦真言密印の事を説く故に』等云云、釈の心は法華経と真言の三部との勝劣を定めさせ給うに真言の三部経と法華とは所詮の理は同じく一念三千の法門なり、しかれども密印と真言等の事法は法華経か(闕)けてをはせず法華経は理秘密・真言の三部経は事理倶密なれば天地雲泥なりとかかれたり」(二八〇㌻)と。
 ここに「此の疏」とあるのは台密の慈覚の蘇悉地経疏のことである。この疏では、一代聖教には顕示教と秘密教との二種があるとし、そのうち顕示教とは阿含経・深密経などの三乗教で、その特色は世俗諦(世間一般の道理)と勝義諦(出世間の仏法における真理)とが別々で円融一体になっていないところにあるとし、秘密教は一乗教で、その特色は世俗諦と勝義諦とが円融不二と教えるところにあるとしている。
 更に、その秘密教にまた二種あって、一つが理秘密、すなわち世俗諦と勝義諦との円融不二であることを説くだけで真言、密印等の事相を説かない教えで、これには華厳経、般若経、維摩経、法華経、涅槃経等が入るのに対し、いま一つは事理俱密教で、世俗諦と勝義諦とが円融不二であるとする理秘密だけでなく、真言、密印等の事法をも説いているもので、これに当たるのが大日・金剛頂・蘇悉地の真言三部経であるとしている。
 これを受けて大聖人は「釈の心は」以下の御文で、その内容を簡潔にまとめられている。
 法華経と真言三部経とに共通するという「理」を一念三千の法門とされている。「事」を「密印と真言等」とすることは同じである。

 真言に云う所の事理は未開会の権教の事理なり何ぞ法華に勝る可きや

 真言でいう事と理は、未だ開会されていない権教の事・理であるゆえに法華経のそれに劣ると仰せられている。
 開会とは、言葉、名称だけでなく実体を明らかにすること、部分だけ示すのでなく全体を明らかにすること等と考えてよい。
 言葉だけで実体を知らないのは観念でしかない。部分だけで全体を知らないのは、部分にすぎないものを全体であるかのように思い込んでしまうので、偏見にとらわれてしまう。
 真言の経典など、いわゆる権教は、言葉だけ見ると深遠そうな説法が含まれていても、例えば「成仏」という言葉はあっても成仏の法が明かされていないから実義がなく「真理」といった言葉はあっても生命の全体が示されていないので偏頗(へんぱ)なものでしかない。すなわち「未開会」の「権教」であるゆえに、さまざまな「事」「理」が説かれていたとしても、実体と全体像を余すところなく説いた法華経にははるかに及ばないのである。

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