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真言天台勝劣事・第十二章 印・尊形等の事相につき答う

            真言天台勝劣事

      第十二章 印・尊形等の事相につき答う

本文(一三七㌻一〇行~一三七㌻一三行)
 答う凡(およ)そ印相(いんぞう)尊形は是れ権経の説にして実教の談に非ず設(たと)い之を説くとも権実大小の差別浅深有るべし、所以(ゆえ)に阿含経等にも印相有るが故に必ず法華に印相尊形を説くことを得ずして之を説かざるに非ず説くまじければ是を説かぬにこそ有れ法華は只三世十方(さんぜじっぽう)の仏の本意を説いて其形がと(左)あるかう(右)あるとは云う可からず、例せば世界建立(こんりゅう)の相を説かねばとて法華は倶舎(くしゃ)より劣るとは云う可からざるが如し。

通解
 答える。そもそも印相や尊形は権経の説くところであって実教の述べるところではない。たとえこれを説いていたとしても、権教・実教、大乗・小乗の差別や浅深があるべきである。ゆえに阿含経等にも印相が説かれているのであるから、必ずしも法華経に印相や尊形を説くことができなくて説かなかったのではなく、説く必要がないので説かなかったのである。法華経はただ三世十方の仏の本意を説いているのであり、その形(印の形)がどうであるとかこうであるとかはいっていないのである。
 例えば、世界建立の様相を説かないからといって、法華経は倶舎論よりも劣るなどとはいうことができないようなものである。

語訳
印相(いんぞう)尊形
 諸仏菩薩等の、手を結ぶ印の形や所持する器物によって仏菩薩の厳かさや特質をあらわしたこと。密教では、それが諸尊の本誓(ほんぜい)等を標示しているとする。

阿含経
 阿含は梵語アーガマ(āgama)の音写で、「伝承された聖典」の意。各部派が伝承した釈尊の教説のこと。大きく五つの部、ニカーヤ(nikāya)に分類される。歴史上の釈尊に比較的近い時代の伝承を伝えている。漢訳では長阿含・中阿含・増一阿含・雑阿含の四つがある。中国や日本では、大乗との対比で、小乗の経典として位置づけられた。

三世十方(さんぜじっぽう)の仏
 時間・空間にわたるすべての仏のこと。過去から未来にかけての全宇宙の仏をいう。三世は過去世・現在世・未来世のこと。十方とは東・西・南・北の四方と、東南・東北・西南・西北の四維(しい)に上・下の二方を加えたもの。

世界建立
 阿毘達磨倶舎論分別世品(世間品)第三に、器世間や有情などの成立の姿が説かれている。また、長阿含経第四分の世記経世本縁品第十二には、国土や人間社会が、いかにして形成されてきたかという世界成立の姿と因縁が明かされている。

倶舎
 阿毘達磨倶舎論のこと。三十巻。世親著。中国・唐代の玄奘訳。梵名アビダルマ・コーシャ(Abhidharma-kośa)の音写。対法蔵論と訳す。四諦の理を対観し、知識として含蔵する論との意。九品からなり、当時の広範な知識が駆使されて、迷いや悟り、その因果、また無我の理が説かれている、百科全書的著作。説一切有部(せついっさいうぶ)の教理の集大成である大毘婆沙論(だいびばしゃろん)の綱要を記したもので、処々に経量部(きょうりょうぶ)または自己の立場から有部の主張を批判している。玄奘訳の他に、真諦(しんだい)が訳した「阿毘達磨倶舎釈論」二十二巻があり、これを旧倶舎ともいう。

講義
 第五問答の答えに入る。ここでは、先の四点にわたる難詰のうち①印・真言・三摩耶尊形が法華経にはほとんど説かれていないから、法華は真言に劣るという言い分を破られている。
 まず、印とは印相とも印契(いんげい)ともいう。諸仏や諸菩薩の悟りや誓願等を形として表したものであるが、これに二つある。
 一つは悟りや誓願等を指を特別な形に結んで表示したものを手印といい、いま一つは所持する刀剣などの器具でもって表すものを契印という。
 真言は呪、神呪、陀羅尼ともいい、仏の悟りや誓願を示す秘密の言葉で一種の呪文である。三摩耶尊形とは〝三摩耶〟が真言宗では誓願や本願を意味し〝尊形〟が象徴する物を意味することから、諸仏、諸菩薩が心に懐(いだ)いている衆生救済の誓いと願いを形の上で象徴する弓、箭(や)、剣、卒塔婆(そとば)などの器物や印をいう。この意味で、印(相)と三摩耶尊形とは重なり合うが、主として手の指によるのを印、持つ器物を三摩耶と考えてよい。
 さて、これら印・真言・三摩耶尊形という外に表れた具体的な形が法華経にはほとんど説かれていないとの難詰に対して、大聖人はまず、印相、尊形といった外面的な問題に力を入れて説いたのは権経であって、実教の法華経では枝葉のことであるから、あまり説かなかったのであると述べられている。そして、実教の法華経でも印相等の事相を説いてあったにしても、あくまで教えの権実、大小、浅深の区別を重視すべきであって、事相を説いているかいないかは大した問題ではないと一蹴されている。
 したがって、阿含経等の小乗教にも印相が説かれているので、法華経では詳しく説く必要がないゆえに説かないのであると述べられている。
 更に、法華経は最も重要な三世十方の諸仏の本意を説き明かすことを目的としたのであって印の形の問題などには触れていないのであると言われ、印・真言が詳しくないことをもって法華経を劣ると考えるのは大なる誤りであると破折されている。

 凡そ印相尊形は是れ権経の説にして実教の談に非ず

 印・真言・三摩耶尊形など外面的な形にあらわれたものを重視するのは、見えざる内面よりは見える形を求める衆生の機根に応じている点において、随他意の方便、権経の特徴を示しているのである。
 これに対して、実教の法華経においては、仏の真実の教えを衆生の機根の如何(いかん)にかかわらず、仏の意のままに説きあらわす随自意の立場であるから、本来的に、印相や尊形などは実教が説く必要のないものとなるのである。

 法華は只三世十方の仏の本意を説いて其形がと(左)あるかう(右)あるとは云う可からず

 法華経はただ三世十方の仏の本意を真実に説いているから実教なのであり、したがって、衆生の機根を調え導くために形にあらわす印、尊形などについては、こだわっていないのであると法華経の立場を明確にされている。
 さて、三世十方の諸仏の本意とは先の本文で「只仏出世の本意は仏に成り難き二乗の仏に成るを一大事とし給へり」(一三六㌻)とあるとおり、仏に成りがたい二乗を仏にする妙法を説き顕すことにある。
 まさに、この一切衆生の成仏の根本である妙法を明かすことに法華経説法の目的があったのであり、この立場からすれば印や真言は枝葉末節にすぎない。したがって印・真言が大日経のように詳しくないから法華経は大日経に劣るなどというのは、本末転倒の愚かな考え方といわなければならないのである。

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