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真言天台勝劣事・第八章 大日の法身説法・無始無終説を破る

            真言天台勝劣事

      第八章 大日の法身説法・無始無終説を破る

本文(一三六㌻六行~一三六㌻一二行)
 次に法身の説法と云う事何(いず)れの経の説ぞや弘法大師の二教論には楞伽経(りょうがきょう)に依つて法身の説法を立て給へり、其の楞伽経と云うは釈迦の説にして未顕真実の権教なり法華経の自受用身に及ばざれば法身の説法とはいへどもいみじくもなし此の上に法は定んで説かず報は二義に通ずるの二身の有るをば一向知らざるなり、故に大日法身の説法と云うは定んで法華の他受用身に当るなり。
 次に大日無始無終と云う事既に「我昔道場に坐して四魔を降伏(ごうぶく)す」とも宣(の)べ又「四魔を降伏し六趣を解脱し一切智智の明を満足す」等云云、此等の文は大日は始て四魔を降伏して始て仏に成るとこそ見えたれ全く無始の仏とは見えず、又仏に成りて何程を経ると説かざる事は権経の故なり実経にこそ五百塵点(ごひゃくじんでん)等をも説きたれ。

通解
 次に法身の説法ということは、どの経に説かれているか。弘法大師の二教論では楞伽経によって法身の説法ということが立てられているが、その楞伽経というのは釈迦の説法であって未顕真実の権教である。それでは法華経の自受用身に及ばないので法身の説法といっても、ありがたくもない。そのうえ法身は決して説かず、報身は説くと説かないとの二義に通ずる他受用身と自受用身の二身があるのを全く知らないのである。ゆえに大日法身の説法というのは、まさしく法華経の他受用身に当たるのである。
 次に大日が無始無終であるということについていえば、大日経には「私は昔、道場に坐して四魔を降伏した」とも述べ、また「四魔を降伏し、六趣を解脱し、一切智智という明慧を満足する」等とある。これらの文は大日は始めて四魔を降伏して始めて仏に成ったと説かれているのであり、全く無始の仏とは説かれていない。また、仏に成ってどのくらい経っているかを説かないことは、権経だからである。実経にこそ五百塵点劫等と説かれたのである。

語訳
二教論
 二巻。弘法の著。弁顕密二教論の略。顕密二教を比較対照して、その浅深・勝劣を判じ、真言密教が最勝であるとしている。真言宗では、十住心論を竪(たて)の教判とし、二教論を横の教判とする。

楞伽経(りょうがきょう)
 漢訳は三種が現存する。釈尊が楞伽島(スリランカ)山頂で大慧菩薩に対して説いたという経。唯識の立場から大乗の教義が列挙されている。この経に四種禅が説かれているとして、初期の禅宗で重視された。

四魔
 衆生の心を悩乱させて仏道修行を妨げる四つの働きのこと。煩悩魔(貪・瞋・癡などの煩悩による障害)・陰魔(身体を構成する五陰より生ずる障害)・死魔(命根を断つ死による障害)・天子魔(人の善事を害する他化自在天魔による障害)をいう。

一切智智
 一切智の中で最も勝れた仏自証の智のこと。通例、一切智は声聞・縁覚・仏に通ずる智とされるが、声聞・縁覚の智と仏の智を分別した場合、より深い仏の智を一切智智という。
〈追記〉
 仏自証は自証と同じ。自証とは、他の助けを借りずに自分で悟りを開くこと。自己の悟り。

五百塵点(ごひゃくじんでん)
 五百塵点劫のこと。釈尊が真実に成仏して以来の時の長遠であることを示した語。法華経如来寿量品第十六に説かれる(『妙法蓮華経並開結』四七八㌻ 創価学会刊)。すなわち、五百千万億那由他阿僧祇(極めて大きな数)の三千大千世界の国土を粉々にすりつぶして微塵とし、東方に進み五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて一塵を落とし、以下同様にしてすべて微塵を下ろし尽くして、今度は下ろした国土も下ろさない国土もことごとく合わせて微塵にし、その一塵を一劫とする、またそれに過ぎた長遠な時である。

講義
 第四問答の答えが続いているところである。ここでは問者の四点にわたる難詰のうち、大日如来が②法身で無始無終の如来であると述べていることに対し破折を加えられているのである。大日如来を法身とすることについては、前章でそれが他受用報身にすぎず、法華経の自受用報身や法身如来よりははるかに劣る仏身でしかないことが明らかにされたのであるが、ここでは、その法身が菩薩のために真言を説いたとする真言宗の〝法身説法〟の邪義を破折されるのである。
 まず、法身の説法というのはいったい、どの経に説かれているのかと反問されている。
 弘法自身は弁顕密二経論の中で楞伽経(りょうがきょう)を法身説法の根拠としているが、たといそうであったとしても、楞伽経は大日如来の説ではなく釈尊の説であり、しかも未顕真実の権教にすぎない。したがって、法身の説法だからといっても、実教である法華経の自受用報身には及ばないから、勝れているなどということはいえない、と破られている。
 更に、より根本的に、法身は法性(悟り)、真理そのものの義に他ならないから説法するわけがないと指摘されるとともに、報身には自受用身と他受用身の二身があり、前者は法を説かないが、後者は法を説く、の二義があることを説明されて、真言宗はそのような深い仏身論を知らないのであると破られている。結局、真言のいう大日如来の説法というのは、法華経の立場からいえば他受用身に当たるのである、と結論されている。
 次いで、大日如来が無始無終であるとの主張に対しては、まず大日経のなかに、大日如来が四魔を降伏して始めて仏に成ったと説かれていることを挙げて〝始めて成った(始成)〟とある以上は、始まりがあることになり、無始ではないと破られている。しかも、大日如来が仏に成ってからどれほどの年数を経ているかを説いていないのは大日経が権経だからであるとされ、実経の法華経には釈尊が成道してから五百塵点劫を経ていると説かれていることを述べられている。
 したがって、大日如来が無始無終であるという義は成り立たないと断じられているのである。

 弘法大師の二教論には楞伽経に依つて法身の説法を立て給へり

 二教論とは弘法が著した弁顕密二教論二巻のことである。この中で、弘法は楞伽経、詳しくは入楞伽経十巻(菩提流支訳)の一節を引用して法身の説法を立てている。その一節とは次のとおりである。
「……大慧よ。是を分別虚妄の体相と名づく。大慧よ、是を報仏説法の相と名づく。大慧よ、法仏の説法とは心相応の体を離るるが故に、内証聖行の境界なるが故に、大慧よ、是を法仏説法の相と名づく……」と。
 弘法は、ここにある〝法仏説法〟が法身の説法ということであり、報仏説法、すなわち報身の説法が顕教であり、法仏が説法した「内証聖行の境界」が密教であるとする邪義を立てたのであった。この点について大聖人は、楞伽経自体、釈尊の権教であるから、そこで「法身の説法」などといっても、それは法華経の自受用身に及ばない権教の法身によるものであり、「いみじくもない」ものであると破折されている。

 法は定んで説かず報は二義に通ずるの二身の有るをば一向知らざるなり

 更にいえば、法身の説法ということ自体、ありえないことである。
 まず、法は定んで説かず、つまり、法身とは法(真理)そのものであるから、それが説法するなどということはない、それに対し、報は二義に通ずる二身が有る、つまり、報身には自受用報身と他受用報身の二身あって、前者は法を説かない法身の義に通じ、後者は法を説く応身の義に通ずるという二義を存するというのが仏身論の基本であることを明らかにされている。法身説法という邪義を説く弘法は以上のような仏身論の原則を全く知らないのであると打ち破られている。
 では「法仏説法」という楞伽経の文は何を意味するかといえば、具体的に法身仏が説法するということではなく、衆生が仏法を修し真理を思索したときに、自ずと悟ることをこのように表現したにすぎない。しかも前述のように未顕真実の権教である楞伽経であるから、その真理というのも浅いものでしかないということである。

「我昔道場に坐して四魔を降伏す」とも宣べ又「四魔を降伏し六趣を解脱し一切智智の明を満足す」等云云……全く無始の仏とは見えず

 大日如来が無始無終の仏であるとする邪義を破られているところである。初めの文は大日経巻二入漫荼羅具縁真言品第二の余の「我昔道場に坐して、四魔を降伏し、大勤勇の声を以て、衆生の怖畏を除く」という文の引用であり、次の文は同経巻三悉地出現品第六の「爾の時、毘盧遮那世尊、又復、降伏四魔金剛戯三昧に住して、四魔を降伏し、六趣を解脱し、一切智智を満足する金剛の字句を説きたもう」という文からの引用である。
 その意味するところは、大日経の教主である毘盧遮那世尊(大日如来)が昔、菩提道場に坐って、煩悩魔、五陰魔、死魔、天子魔の四魔を降伏して六道の境地から脱却し、〝一切智智〟すなわちすべてを知り尽くす仏智を成就し満足する法を説いた、ということである。このように六道輪廻の凡夫の境地を脱却して初めて仏に成るということは、その仏としての寿命に始めがあるのであるから、〝無始〟というのは明らかに誤りである。

 又仏に成りて何程を経ると説かざる事は権経の故なり実経にこそ五百塵点等をも説きたれ

 しかも、成道からどれほど経っているのか、つまりその毘盧遮那の成道の時期はどれくらい昔のことなのかについて、大日経には全く述べられていない。この理由を大聖人は「権経の故なり」と述べられている。権経とは「かりの教えを説いた経」であり、衆生をある段階まで導くための方便を説いているのであるから、仏自身の真実の境地やその寿命を明かすことはしていないのである。仏自身の根源を明かすことは最も重要な説法であり、このゆえに五百塵点劫の成道は実教である法華経にこそ明かされるのである。しかも、そのことを明かす如来寿量品が法華経二十八品の中でも最も肝心とされるのは、このゆえにほかならない。

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