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真言天台勝劣事・第七章 大日は釈尊の異名なる事を明かす

            真言天台勝劣事

      第七章 大日は釈尊の異名なる事を明かす

本文(一三五㌻一六行~一三六㌻六行)
 答て云く依法不依人の故にいかやうにも経説のやうに依る可きなり、大日経は釈迦の大日となつて説き給へる経なり故に金光明と最勝王経との第一には中央釈迦牟尼と云へり又金剛頂経の第一にも中央釈迦牟尼仏と云へり大日と釈迦とは一つ中央の仏なるが故に大日経をば釈迦の説とも云うべし大日の説とも云うべし。
 又毘盧遮那(びるしゃな)と云うは天竺の語(ことば)大日と云うは此の土の語なり釈迦牟尼を毘盧遮那と名づくと云う時は大日は釈迦の異名なり加之(しかのみならず)旧訳(くやく)の経に盧舎那(るしゃな)と云うをば新訳の経には毘盧遮那と云う然る間・新訳の経の毘盧遮那法身と云うは旧訳の経の盧舎那他受用身なり。
 故に大日法身と云うは法華経の自受用報身にも及ばず況(いわん)や法華経の法身如来にはまして及ぶ可からず法華経の自受用身と法身とは真言には分絶えて知らざるなり法報不分二三莫弁(ばくべん)と天台宗にもきらはるるなり。
 随つて華厳経の新訳には或は釈迦と称(な)づけ或は毘盧遮那と称くと説けり故に大日は只是釈迦の異名なりなにしに別の仏とは意得(こころう)可きや。

通解
 答えていう。涅槃経に「法に依って人に依らざれ」とあるのであるから、どのような場合にも経説のとおりによるべきである。大日経は釈迦が大日となって説いた経である。ゆえに金光明経と最勝王経の巻一には中央が釈迦牟尼仏と説いており、また金剛頂経の巻一にも中央が釈迦牟尼仏と説いている。大日と釈迦は同じ中央の仏であるがゆえに、大日経を釈迦が説いたものとも、大日が説いたものともいうことができるのである。
 また、毘盧遮那というのはインドの言葉で、大日というのは日本の言葉である。釈迦牟尼を毘盧遮那と名づけるというときは、大日は釈迦の異名である。それだけでなく、旧訳の経で盧舎那といっているのを新訳の経では毘盧遮那といっている。それゆえに新訳の経で毘盧遮那法身というのは旧訳の経の盧舎那他受用身のことである。
 ゆえに大日法身というのは法華経の自受用報身にも及ばない。ましてや法華経の法身如来には及ぶはずがない。法華経の自受用身と法身は、真言経には立場が隔絶しており、知ることのないところである。法華文句記に「法報を分かたず、二、三弁(わきま)うること莫(な)し」と述べられているように天台宗からも排斥されているのである。
 したがって、華厳経の新訳には、あるいは釈迦と名づけ、あるいは毘盧遮那と名づけると説いたのである。ゆえに大日はただ釈迦の異名である。どうして別の仏と心意得ることができようか。

語訳
依法不依人
 涅槃経巻六の文。「法に依って人に依らざれ」と読む。仏道修行にあたっては、仏の説いた経文をよりどころにすべきであって、人師・論師の言を用いてはならないとの意。

金光明
 金光明経のこと。漢訳は五種三存で、北涼の曇無讖(どんむしん)訳「金光明経」四巻、唐の義浄訳「金光明最勝王経」十巻などがある。この経が流布するところは、四天王をはじめ諸天善神がよくその国を守りその国を益し、災厄がなく人々が幸福になることを説いている。中国では曇無讖の訳が広く用いられ、吉蔵の疏(しょ)があり、天台智者大師もこの経について疏釈している。日本では法華経・仁王経とともに護国三部経のひとつに数えられ、聖武天皇は義浄訳の金光明最勝王経を写経して全国に配布し、また全国に国分寺を建立し、金光明四天王護国之寺と称された。

最勝王経
 十巻。中国・唐代の義浄訳の金光明最勝王経のこと。三十一品からなる。金光明経漢訳五本の一つ。懺悔による滅罪の功徳を強調するとともに、この経を護持する者を、四天王をはじめ一切の諸天善神が加護するが、もし正法をないがしろにすれば、諸天が国を捨て去って種々の災難が競い起こると説いている。

毘盧遮那(びるしゃな)
 梵名ヴァイローチャナ(Vairocana)の音写で、毘盧舎那とも書き、遍一切処・光明遍照などと訳す。華厳経(新訳)・観普賢菩薩行法経・大日経等に説かれる仏の名。華厳宗では、旧訳(くやく)の華厳経に「盧舎那」と訳されていることから毘廬遮那と盧舎那は同じであり、報身等の十身を具足するとしている。天台宗では、毘盧遮那は法身で、盧遮那を報身、釈尊を応身としている。真言宗では、毘盧遮那は法身であり、大日如来としている。

旧訳(くやく)
 漢訳仏典のうち唐の玄奘(六〇二年~六六四年)以前に鳩摩羅什らによって翻訳されたもの。新訳に対する語。羅什以前の初期の漢訳は古訳と呼ばれる。羅什訳は簡明でわかりやすさを重視したことにその特徴がある。

新訳
 漢訳仏典のうち唐の玄奘以後の翻訳のこと。旧訳に対する語。玄奘はサンスクリットの原意や発音に忠実であるよう努め、旧訳と異なる新しい訳語をつくった。例えば旧訳で「衆生」と訳されるサットヴァ(生き物)を「有情」と訳した。

他受用身
 他に法楽を受用させる仏身のこと。自受用身に対する語。他受用報身ともいう。仏地経論や成唯識論などには、自性身・受用身・変化身のうちの受用身(法・報・応の三身のうちの報身にあたる)を二つに分けて自受用身と他受用身とし、他受用身は十地の菩薩のために神力を現して説法し大乗の法楽を享受させる仏をいうとある。

自受用報身
 因位における願行の報いによって万徳を成じ、自ら広大なる法楽を受用する仏身のこと。他受用報身に対する語。自受用身ともいう。法華経本門の教主は法・報・応の三身相即の自受用法身であり、この自受用報身は因縁の作為によらない本よりの存在(無作本有)で法楽を受用し、現実に法を説いて衆生を救済する。しかし、法華経本門の教主は本有といえども五百塵点劫という限界があり、無作といえども劣応身から次第に昇進して自受用報身となったもので、これを応仏昇進の自受用報身という。これに対して法華経本門文底の教主を久遠元初の自受用報身という。

法報不分二三莫弁(ばくべん)
 新訳(中国・唐代の玄奘以後の漢訳経典)が法身と報身とを立て分けず、法報応の三身や、他受用報身と自受用報身の二身について正しく理解せずに混同していることを指摘したもの。法華文句記巻九下に「法報分かたず、三、二弁(わきま)うること莫(な)し」とある。

華厳経
「大方広仏華厳経」の略。漢訳に三種ある。①六十華厳(六十巻)。東晋代の仏駄跋陀羅(ぶっだばつだら)訳。②八十華厳(八十巻)。唐代の実叉難陀(じっしゃなんだ)訳。③四十華厳(四十巻)。唐代の般若三蔵訳で、華厳経末の入法界品のみの訳。華厳経は「十地品」と「入法界品」が特に重視され、多くの部分訳が存する。華厳経の内容は、毘盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界縁起(無尽縁起)、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説く。また入法界品には、五十三人の善知識を歴訪し、最後に悟りを開いた求道物語を展開し、仏道修行の段階とその功徳を示している。

講義
 第四問答の答えの部分が始まる。ここでは、まず、先の四点にわたる難詰のうち、①の大日如来が中央に位置する仏であることをもって釈尊より高位の仏であるとの邪説を破られるのである。そのために、まず、総論的に釈尊と大日如来との真言の関係を明らかにされるのである。
 初めに、問者に対して「依法不依人」という涅槃経に説かれた仏の金言を守るべきであることを強調されている。つまり、仏法の勝劣浅深を判断するに際しては〝依法〟、すなわち仏の説いた経文(経説)を依りどころとして〝不依人〟、すなわち人師や論師の言葉に依ってはならない、ということである。問者が仏の説に依らずに、弘法や覚鑁(かくばん)などの人師の言葉に依りがちであるのを誡められているのである。
 次いで、「大日経は釈迦の大日となって説き給へる経なり」と述べられ、その証拠として釈尊が中央に位置していると説かれている経を挙げられている。
 すなわち、金光明経巻一や金光明最勝王経巻一では、四方に阿閦(あしゅく)、無量寿、宝相、微妙声、などの仏を配し、中央に釈迦牟尼仏が位置しており、また、密教経典の金剛頂経巻上でも不動如来、宝生如来、観自在如来、不空成就如来などの中央に釈迦如来が座していると説かれている。
 そして「大日と釈迦とは一つ中央の仏なるが故に大日経をば釈迦の説とも云うべし大日の説とも云うべし」と釈尊・大日一体説を展開されて、釈尊と大日とを別にした上で大日が釈尊に勝る、という問者の邪説を破られている。
 更に、大日は釈尊の異名に他ならないことを明らかにするため、梵語の毘盧遮那という原語の意義に触れられている。

 法身・報身・応身の三身如来、自受用(報)身、他受用(報)身

 本章と次章は仏身の位をめぐって論議が展開されているので、ここであらかじめ、よく使われる仏身に関する術語について、簡単に解説を加えておきたい。
 まず、法・報・応の三身と自受用・他受用の二身の関係であるが、三身のうちの報身が分かれて二身(自受用報身と他受用報身)になるのである。
 法身は法身仏、法性身、自性身などともいい、真理や法性(悟り)を身体としている仏のことで、真理そのもののことである。
 次いで、報身とは「報い」とあるように、仏になるための原因としての修行を積み、その報いとして悟りを成じ功徳を具えた仏身のことで、因行果徳身ともいう。また、法(真理)と冥合した智慧を持つ仏身でもある。
 この仏身はまた受用身ともいい、報いとして悟りを成じた結果、悟った法(真理)を「受け用いる」、すなわち、自ら享受して楽しみ、また、他の人びとにも享受させ楽しませていく仏身のことである。そのうち、自らが悟りの法を享受し楽しんでいる仏身が自受用報身で、他の衆生にも悟りの楽しみ(法楽)を分け与えようとして衆生救済へと出ていく仏身を他受用報身という。
 更に、応身は化身、応化身、変化身ともいい、衆生を導くために衆生の機根や状態に応じて現れる仏身である。この応身は勝応身と劣応身に分かれ、勝応身のほうは他受用報身と同じ仏身である。
 さて、これら様々な仏身の位の高低についてであるが、真理そのものである法身が一番高く、報身の中の自受用身がこれに続く。しかし、以上の二身は衆生教化という意義は含まない。三番目が他受用報身で、これは勝応身と同体であり、最後に劣応身が配されるが、これら他受用・勝応・劣応はいずれも衆生への説法教化のために現じた仏身である。
 もとより、自受用報身といっても法華経本門の教主は法・報・応の三身相即の自受用報身であり、この仏身は因縁の作為によらない本よりの存在(無作本有)として、自ら法の楽しみを享受するとともに、その成仏の根源であり、自ら享受する妙法をそのままに説いて衆生を救済する仏である。
 しかし、法華経本門の教主は五百塵点劫という限界があり、劣応身から次第に昇進して自受用報身の立場を顕した仏であるから、これを応仏昇進の自受用報身という。これに対して日蓮大聖人は法華経本門文底の教主として最初から成仏の根源の法である妙法を体現し、衆生にこれを説き弘められた。そのお立場を久遠元初の自受用報身というのである。
 以上のことを考慮すると、仏身の位は①久遠元初の自受用報身(人法一箇であるゆえに法華経の法身如来ともいえる)→②応仏昇進の自受用報身(法華経本門文上の釈尊)→③爾前権教の法身→④爾前権教の自受用報身→⑤他受用報身(勝応身)→⑥(劣)応身、という順序になる。

 旧訳の経に盧舎那と云うをば新訳の経には毘盧遮那と云う然る間・新訳の経の毘盧遮那法身と云うは旧訳の経の盧舎那他受用身なり

 毘盧遮那は梵語ヴァイローチャナ(Vairocana=輝くもの)の音写であり、その意味は遍一切処(虚空のように際限なくいたるところに満ちること)、光明遍照(仏徳の光があまねくゆきわたること)などとなる。華厳経(新訳)や法華経の結経・観普賢菩薩行法経や大日経等に説かれる仏である。
 特に、旧訳で盧遮那と音写されているものが、新訳では毘盧遮那と音写されている。旧訳の盧遮那は他受用(報)身であるから、新訳で毘盧遮那は法身であるとっても、それは「盧遮那他受用身」と同じものであると指摘されているのである。

 故に大日法身と云うは法華経の自受用報身にも及ばず況や法華経の法身如来にはまして及ぶ可からず……法報不分二三莫弁と天台宗にもきらはるるなり

 前に述べられているように、新訳では毘盧遮那法身としているが、これは、旧訳の盧遮那他受用(報)身のことである。したがって、新訳の毘盧遮那すなわち真言密教の大日如来は、法身といっても、旧訳では他受用報身であるから、法華経の自受用報身にも及ばず、いわんや法華経の法身如来には及ばない、と言われているのである。
 いうまでもなく、他受用(報)身は自受用(報)身に劣り、ましてや法身如来には劣ることは明らかだからである。
 ここで、「法華経の自受用報身」が寿量品で明かされた五百塵点劫成道の釈尊、すなわち「応仏昇進の自受用報身」であることはいうまでもない。それに対し、さらに勝れる「法華経の法身如来」とは成仏の根源である妙法そのものであり、この妙法と体一である「久遠元初自受用報身」となるのである。
 また「法報不分二三莫弁」の文は、旧訳では盧遮那他受用報身とあるのを新訳では毘盧遮那法身と翻訳していることについて、天台宗の妙楽大師が述べたもので、新訳の訳者は〝法報分かたず〟、法身と報身を立て分けられず、法報応の三身等の区分けを弁えていないと批判したのである。
 いずれにしても、真言宗は法華経の自受用身と法身については「分絶えて知らざるなり」と結論されている。すなわち、真言宗にとっては法華経の自受用身と法身は余りに隔絶して高すぎるために分からないのであると仰せられている。

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