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真言七重劣事・第五章 天台宗への帰伏の様相を示す

             真言七重劣事

       第五章 天台宗への帰伏の様相を示す

本文(一三一㌻一二行~一三二㌻二行)
 天台宗に帰伏する人人の四句の事
一に身心倶に移る ───┬― 三論の嘉祥大師
            └─ 華厳の澄観法師
            ┌─ 真言の善無畏・不空
二に心移りて身移らず ─┼─ 華厳の法蔵
            └─ 法相の慈恩
三に身移りて心移らず ─┬─ 慈覚大師
            └─ 智証大師  
四に身心倶に移らず ───― 弘法大師

通解
 天台宗に帰伏する人々を四句に立て分けたときの事。
一に身も心もともに移る ───┬― 三論宗の嘉祥大師
               └─ 華厳宗の澄観法師
               ┌─ 真言宗の善無畏と不空
二に心は移って身は移らない ─┼─ 華厳宗の法蔵
               └─ 法相宗の慈恩
三に身は移って心は移らない ─┬─ 慈覚大師
               └─ 智証大師  
四に身も心もともに移らない ─── 弘法大師

語訳
三論
 三論宗のこと。竜樹の中論・十二門論と提婆(だいば)の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什(くまらじゅう)が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵(きちぞう)によって大成された。教義は、大乗の空理によって、自我を実有とする外道や法を実有とする小乗を破し、さらに成実(じょうじつ)の偏空をも破している。究極の教旨として八不(はっぷ)(不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不来・不去)をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道をとなえた。日本には推古天皇三十三年(六二五年)一月一日、吉蔵の弟子の高句麗僧・慧灌(えかん)が伝えたのを初伝とする。奈良時代には南都六宗の一派として興隆したが、以後、次第に衰え、聖宝(しょうぼう)が東大寺に東南院流を起こして命脈をたもった以外は、法相宗に吸収された。

嘉祥(かじょう)大師
(五四九年~六二三年)。中国・陳代から唐代の僧。三論宗の大成者。吉蔵の別名。祖父または父が安息(パルチア)人(胡族)であったことから胡吉蔵と称し、嘉祥寺(浙江省紹興市会稽)に住したので嘉祥大師と称された。姓は安氏。金陵(南京)の人。幼時父に伴われて真諦(しんだい)に会って吉蔵と命名された。十二歳で法朗に師事し三論(中論・百論・十二門論)を学んだ。隋代の初め、開皇年中に嘉祥寺で八年ほど講義をはって三論、維摩等の章疏を著わし、三論宗を立て般若最第一の義を立てた。著作に「三論玄義」一巻、「中観論疏」十巻、「大乗玄論」五巻、「法華玄論」十巻、「法華遊意」一巻など数多くある。後に天台大師に心身ともに帰伏し、七年間仕えたという。法華文句輔正記(ほっけもんぐふしょうき)(唐の道暹著)巻三には、吉蔵が天台大師に帰依して身を肉隥(にくとう)として高座に登らせた、とある。隥とは、はしごの意。

華厳
 華厳宗のこと。華厳経を所依とする宗派。中国・唐代の杜順(とじゅん)によって開かれ、法蔵によって大成された。教義は、一切万法は融通無礙(ゆうずうむげ)であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立て、華厳経を最第一としている。日本には天平八年(七三六年)唐の道璿(どうせん)が華厳宗の章疏を伝え、天平十二年(七四〇年)新羅の審祥(しんじょう)が講経し、その教えを受けた良弁(ろうべん)が東大寺で宗旨を弘めた。南都六宗の一つ。

真言
 真言宗のこと。大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元四年(七一六年)にインドから渡来し、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来し、帰朝した翌年の大同二年(八〇七年)に真言宗弘通の勅許があって開宗した。弘法は弘仁七年(八一六年)に高野山の地を下賜されて、金剛峯寺を創建し、また弘仁十四年(八二三年)、東寺を下賜された。後に東寺の密教を東密、天台宗の密教を台密と呼ぶようになる。教義は、顕密二教判を立て、自宗所依の経を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を示し真実の秘法を説いた密教であるとし、他経を応身の釈尊が衆生の機根に応じて顕(あらわ)に説いた顕教と下(くだ)している。弘法は十住心論のなかで、大日経が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。

法相
 法相宗のこと。解深密経(げじんみつきょう)、瑜伽師地論(ゆがしじろん)、成唯識論(じょうゆいしきろん)などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘(げんじょう)がインドから瑜伽唯識(ゆがゆいしき)の学問を伝え、窺基(きき)(慈恩)によって大成された。教義は、五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、諸法はすべて衆生の心中の根本識である阿頼耶識(あらやしき)に含蔵(ごんぞう)する種子(しゅうじ)から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・一乗方便の邪説を立てている。日本伝来については四伝あり、孝徳天皇白雉四年(六五三年)道昭(どうしょう)が入唐し、玄奘より教えを受けて、斉明天皇六年(六六〇年)帰朝して元興寺で弘通したのを初伝とする。南都六宗の一つ。

慈恩(じおん)
(六三二年~六八二年)。中国・唐代の僧。中国法相宗の事実上の開祖(玄奘を開祖と立てる場合は第二祖)。窺基(きき)のこと。陝西省西安府長安県の人。姓は尉遅(うっち)氏、字(あざな)は供道。十七歳のとき玄奘三蔵がインドから帰ると、その弟子として出家。玄奘のもとで多くの翻訳に従事し、経論疏を撰述して中国法相宗を立てた。長安の慈恩寺に住んだので慈恩大師と称された。著書には「成唯識論述記」二十巻、「成唯識論掌中枢要」四巻、「大乗法苑義林章(だいじょうほうおんぎりんじょう)」七巻、「法華玄賛(妙法蓮華経玄賛)」十巻など数多くあり、百本の疏主・百本の論師と称された。三乗真実・一乗方便の説を立て、法相宗の依経・解深密経(げじんみつきょう)を真実の教えとし、方便である法華一乗の教えよりも勝るとしている。

講義
 中国・日本の諸師が天台宗に帰伏したか否かを「身」「心」の」両面から判じられている。そして、三論の嘉祥(かじょう)、華厳の澄観(ちょうかん)を身心ともに天台に移った人、真言の善無畏・不空、華厳の法蔵、法相の慈恩を心は移ったが身は移らなかった人、慈覚、智証は逆に、身は天台宗に置いたが、心は天台宗でなかった人、身心とも天台宗でなかった人が弘法であると示されている。ここで第三の慈覚・智証や弘法については、改めて述べるまでもないので、第一と第二について、少し補足しておきたい。

 身心ともに天台に移った嘉祥・澄観

 まず、嘉祥(吉蔵)は既に述べたとおり、三論宗の大成者といわれる人師であるが、法華経を学びながら般若経の下に置くなど、法華経の真義をわきまえなかった。天台大師と意見を交わすようになってから自らの不明を恥じ、以後、法華経を我見で講じないことを誓った(廃講散衆)。のみならず、身を肉橋(にくきょう)として帰伏したという。このことを、善無畏抄には「嘉祥寺の吉蔵大師は……智者大師の梵網等の疏(しょ)を見て少し心と(解)けやうやう近づきて法門を聴聞せし程に結句は一百余人の弟子を捨て般若経並びに法華経をも講ぜず七年に至つて天台大師に仕えさせ給いき、高僧伝には『衆を散じ身を肉橋と成す』と書かれたり、天台大師高坐に登り給えば寄りて肩を足に備え路を行き給えば負(おい)奉り給うて堀を越え給いき、吉蔵大師程の人だにも謗法を恐れてかくこそ仕え給いしか」(一二三五㌻)と述べられている。
 また華厳宗の澄観については、開目抄に「華厳の澄観は華厳の疏を造て華厳・法華・相対して法華を方便とかけるに似れども彼の宗之を以て実と為す此の宗の立義・理通ぜざること無し等とかけるは悔い還すにあらずや」(二一六㌻)とある。初めは法華経を方便の教えとしていたが、後に、法華経の義は〝実〟であり、華厳の教えもそれに通じていると言い直したこと自体が既に心に悔い返している証拠であると仰せられている。更に言えば〝華厳も法華に通じる〟と言っているのは、同等ではなく法華経を根本に考えていたゆえであるといえよう。更に、依憑集(えひょうしゅう)には「大唐大原府崇福寺の新華厳宗翻経の沙門澄観、天台の義を判じて理致円満す」とある。
 なお、嘉祥と澄観は、ともに天台宗に改宗したわけではなく、身も移ったとはいえないが、大聖人が身心ともに移ったと言われているのは、嘉祥が廃講散衆して身を肉橋としたこと、澄観が最初は法華経を誹謗しながら、後に言い直していることを評価されての仰せと考えられる。

 心は移ったが身は移らなかった善無畏等

 次の善無畏等は、身は移らなかったものの、心は帰伏していたと仰せである。
 善無畏については、法華経誹謗の罪により地獄に堕ちようとした時、法華経の文を唱えて免れたことが諸御書に示されている。善無畏抄には「一時(あるとき)に頓死(とんし)して有りき。蘇生(よみがえ)りて語って云く、我死(しに)つる時獄卒来りて鉄の繩七筋付け、鉄の杖を以て散散にさいなみ、閻魔宮に到りにき。八万聖教一字一句も覚えず、唯(ただ)法華経の題名(だいみょう)許(ばか)り忘れざりき。題名を思いしに鉄の繩少し許(ゆり)ぬ。息続(つ)いで高声に唱えて云く「今此三界皆是我有(こんしさんがいかいぜがう)、其中衆生悉是吾子(ごちゅうしゅじょうしつぜごし)、而今此処多諸患難(にこんししょたしょげんなん)、唯我一人能為救護(ゆいがいちにんのういくご)」等云云。七つの鉄の繩切れ砕け十方に散す。閻魔冠を傾けて南庭に下り向い給いき」(一二三三㌻)と述べられている。善無畏が死に直面して、法華誹謗の罪から逃れようと、法華経に助けを求めたことが「心移る」にあたるのである。
 同じく三三蔵の一人・不空については、天台大師を賛嘆したことが撰時抄に記されている。また曾谷入道殿許御書に「不空三蔵の還つて天竺に渡つて真言を捨てて漢土に来臨し天台の戒壇を建立して両界の中央の本尊に法華経を置きし是なり」(一〇二八㌻)と仰せのように、不空は大暦二年(七六七年)に上表し、五台山のうち呉摩子寺を大暦法華之寺と改名、両部の大日を脇士(きょうじ)に、中央に法華経を置き、国のために法華経を転じたことは、既に第三章のなか、不空の鎮護国家の三部でみたところである。護国のために法華経を安置したことを「天台の戒壇を建立して」と述べられている。
 華厳の法蔵については、撰時抄に「華厳宗の法蔵大師天台を讃して云く『思禅師智者等の如き神異(じんい)に感通して迹登位に参(まじ)わる霊山の聴法憶い今に在り』等云云」(二七〇㌻)とあるとおり、天台大師を賛嘆していることが挙げられよう。
 また、慈恩については、開目抄に「法相の慈恩は法苑林(ほうおんりん)・七巻・十二巻に一乗方便・三乗真実等の妄言多し、しかれども玄賛の第四には故亦両存(=故に亦(また)両(ふた)つながら存す)等と我が宗を不定になせり、言は両方なれども心は天台に帰伏せり」(二一六㌻)と、慈恩が一乗(一仏乗)方便・三乗真実等を主張したものの、一方では一乗の法と三乗の法とが両存するとしていると述べられている。これについて大聖人は、言葉は「両存」であっても、心は帰伏であると仰せられている。なお「玄賛の第四」とあるが、正しくは、慈恩の弟子・栖復(せいふく)の著・法華経玄賛要集巻四をさすとされている。

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