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      開目抄 序講 (一)本抄御述作の由来

一、対告衆と御正筆

 本抄は、日蓮大聖人が佐渡御流罪中、文永九年二月、聖寿五十一歳の時の御著作で、四条中務(なかつかさ)三郎左衛門尉頼基(よりもと)に与えられた。
 すなわち、種種御振舞御書に「去年(こぞ)の十一月より勘(かんが)えたる開目抄と申す文二巻造りたり、頚(くび)切(きら)るるならば日蓮が不思議とど(留)めんと思いて勘えたり……かやうに書き付けて中務三郎左衛門尉が使にとらせぬ」(九一九㌻)と。
 また文永九年四月、佐渡の一の谷(さわ)から贈られた富木殿御返事に「法門の事先度四条三郎左衛門尉殿に書持せしむ其の書能(よ)く能く御覧有る可し」(九六二㌻)とある。
 開目抄は信読(しんどく)の書である。堀日亨上人は、
「佐渡御流罪中、筆舌に尽くせぬ大法難の最中、深縁(じんえん)の門下に、筆紙ご窮乏のなかから、遺言的にしたためられた重書であるから、信読、身読にあらざれば、奥旨(おうし)に達することができぬ」と述べている。
 四条中務三郎左衛門尉頼基は、当時の慣例で、唐名によって金吾と通称、すなわち、「四条金吾」と呼ばれていた。北条の支族江間(えま)家の代々の忠臣で武道とともに医道にも通達していた。日蓮大聖人の折伏逆化を受けたのは、建長年間で、池上兄弟とともに入信している。文永八年九月十二日、竜の口の法難に際しては、四条金吾が大聖人の馬の口に取りすがり殉死の覚悟でおともしたのはあまりにも有名であり、種種御振舞御書等にその消息がいまに伝えられている。左の一文にも明らかである。
 四条金吾殿御消息にいわく、「かかる日蓮にともなひて、法華経の行者として腹を切らんとの給う事、かの弘演(こうえん)が腹をさいて主の懿公(いこう)がきも(肝)を入れたるよりも、百千万倍すぐれたる事なり。日蓮霊山(りょうぜん)にまいりてまづ四条金吾こそ、法華経の御故に日蓮とをなじく腹切らんと申し候なり、と申し上げ候べきぞ」(一一一三㌻)と。御本仏よりこれほどの信頼のおことばを給わった四条金吾の真情、はかりがたきものがあろう。
 当時は、鎌倉に四条金吾、下総に富木入道、上野に南条時光と、これら三人の人々は俗弟子門下の中心者であり、大聖人門下の外護の任に当たっていたのである。
 四条、富木、南条殿等は、それぞれ日蓮大聖人の仏法を令法久住(りょうぼうくじゅう)ならしめる上に、大きな役割りを果たしていることがうかがえる。四条金吾は強信をもって信心の鏡であり、富木入道は、観心本尊抄等の重要なるご法門を大聖人より給わり、数々の賜書(ししょ)を後世に伝承している。そして南条は日蓮大聖人滅後、いっさいの付嘱を受けた日興上人を上野の地に迎えられた。
 さて、開目抄が四条金吾に与えられた理由については、以上の当時の状況からもうかがえると思う。なお少しく詳論するならば、はじめにも本抄が信読の重書であると述べたように、竜の口の大法難で至信の姿を示した四条金吾こそ、開目抄をたまわる資格を有していたと拝される。そして、また日蓮大聖人のご真意を理解できたのである。
 日蓮大聖人は建長五年四月二十八日立宗宣言以来、数々の法難を受けられていた。義浄房御書(八九二㌻)に「此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり」とおおせられているように、文字どおりの死身弘法の尊姿であった。しかして、大聖人は竜の口、佐渡流罪をもって発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)され、御本仏のご境涯を開顕されたのである。
 本抄は、日蓮大聖人、またご門下に法難の嵐があれくるう最中、大聖人によって不自由な佐渡で認(したた)められ、三類の強敵(ごうてき)蜂起の根拠地である鎌倉の地に住む四条金吾に与えられた。ゆえに至信、身読の士であらずして開目抄の意義、ご精神を拝しえないのである。
 なお、本抄の御正筆(ごしょうひつ)は、明治八年に身延の大火で焼失し、寸紙も残っていない。御本仏が、筆舌に尽くせぬ生活の中から、当時の門下に対しては当然、末法万年にわたる仏弟子に遺されたと拝すべきご法門書を、火災などで焼失してしまうとは、なんたる信心のなさか。未来永劫にわたって、大聖人門下の笑いものである。顕仏未来記にいわく「伝持の人無ければ、猶木石(もくせき)の衣鉢(えはつ)を帯持せるが如し」(五〇八㌻)とはこのことか。
 富士一跡門徒存知の事にいわく
「一、開目抄一巻、今開して上下と為す。佐土国の御作・四条金吾頼基に賜う、日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校(かんが)えず」(一六〇四㌻)と。
 たしかなところでは、日興上人の写本が、重須(おもす)本門寺に秘蔵されている。同写本には、日興上人の記名はないが、同本の末尾に正和六年六月廿六日御影堂に於て」とある。日興上人ご遷化の十六年前の写本である。また徳川初期の日乾の対校本が、京都本満寺に現存している。

二、御述作の由来

 三沢抄にいわく
「又法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ……而(しか)るに去(いぬ)る文永八年九月十二日の夜たつ(竜)の口にて頚(くび)をは(刎)ねられんとせし時より・のち(後)ふびんなり、我につきたりし者どもにまこと(真)の事をい(言)わざりけるとをも(思)うて・さど(佐渡)の国より弟子どもに内内申す法門あり、此れは仏より後迦葉・阿難・竜樹・天親・天台・妙楽・伝教・義真等の大論師・大人師は知りてしかも御心(みこころ)の中に秘せさせ給いし、口より外には出し給はず、其の故は仏制(せい)して云く「我が滅後・末法に入らずば此の大法いうべからず」と・ありしゆへなり、日蓮は其の御使にはあらざれども其の時剋(じこく)にあたる上・存外に此の法門をさとりぬれば・聖人の出でさせ給うまでまづ序分にあらあら申すなり、而(しか)るに此の法門出現せば正法・像法に論師・人師の申せし法門は皆日出でて後の星の光・巧匠(たくみ)の後に拙(つたなき)を知るなるべし、此の時には正像の寺堂の仏像・僧等の霊験は皆き(消)へう(失)せて但此の大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候」(一四八九㌻)。
 ここで仰せの「内内申す法門」とは、開目抄上にいわく
「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろ(拾)いいだ(出)さず但(ただ)我が天台智者のみこれをいだ(懐)けり」(一八九㌻)。
 すなわち、日蓮大聖人がひろめられる法門は正像未弘の深秘の大法、事の一念三千である。この大法をひろめる大聖人は即、本因妙の教主であり、末法主師親三徳具備の御本仏である。御義口伝には「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(七六〇㌻)と申されているように、末法における人の本尊を開顕あそばされたのが本抄であり、法本尊開顕の観心本尊抄とともに、とくに重書とされるゆえんである。
 それでは、三沢抄におおせの、佐渡以前の法門は仏の爾前経と思いなさいとのおことばは、どのように拝すべきか。これは、すなわち、大聖人が竜の口の頸(くび)の座において、凡身、上行の再誕としての迹の姿を発(はら)って、久遠元初の自受用身としての本地を顕わされたことを知らなければならない。
 百六箇抄いわく
「久遠名字より已来(このか)た本因本果の主・本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮」(八五四㌻)云云。
 開目抄いわく
「日蓮といゐし者は去年(こぞのとし)九月十二日子丑(ねうし)の時に頚はねられぬ、此れは魂魄(こんぱく)・佐土の国にいたりて返年(かえるとし)の二月・雪中にしるして有縁(うえん)の弟子へをく(贈)ればをそ(畏)ろしくて・をそ(怕)ろしからず・みん(見)人いかに・をぢぬらむ、此れは釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国・当世をうつし給う明鏡なりかたみともみるべし」(二二三㌻)。
 以上の御文に、発迹顕本は明々赫々(かくかく)である。ゆえに、かかる大事をお示しくださった本抄を拝読するにあたっては、無二の信心をもって拝することが肝要である。また、竜の口の頸の座から佐渡ご流罪における苦難、そのなかでの御本仏としての偉大な御振舞については「種種御振舞御書」にみずから認(したた)められているとおりであるが、本抄の拝読にあたってこの間の経緯を拝する必要があろう。

三、背景

 文応元年七月、日蓮大聖人は立正安国論をもって、時の執権・北条時頼を諌(いさ)め、邪法を禁じて正法を立て、国を安んぜよ、もしこれを聞き入れなければ、自界叛逆(ほんぎゃく)・他国侵逼(しんぴつ)の両難が起こると警告あそばされた。しかるに幕府はこれを聞かないばかりか、同八月二十七日には松葉ヶ谷(やつ)の草庵を焼き討ちにし、翌弘長元年五月十二日には、伊豆の伊東へ流罪にしたのであった。
 弘長三年、日蓮大聖人は赦(ゆる)されて鎌倉へ帰られたが、翌文永元年十一月、安房へ行かれて小松原の法難にあわれるなど、大聖人に対する迫害は、年を経るごとに激しくなっていったのである。
 はたして、文応元年より満七年、文永五年正月、蒙古より牒状が到来し、立正安国論の予言的中は疑いのない事実となってあらわれたのである。幕府は、諸社寺に蒙古降伏を祈らせるなど、さらに謗法の罪を重ねたのである。この国家存亡の危急に対して、大聖人は十一通の御書をしたためて、幕府には迷妄をさますよう、また時の邪宗に対しては公場対決を厳しく迫られたのであった。十月十一日のことである。
 しかるに、幕府はこの至誠の国諌を聞き入れないのみか、幕府要人の上郎、尼御前たちに取り入った念仏、真言、律等の諸宗の邪僧のことばに迷い、ますます激しい弾圧と迫害を日蓮大聖人およびその御一門に加えていったのである。
 文永八年九月十日、幕府の軍事、警察権をにぎっていた平左衛門尉頼綱は、日ごろ大聖人をもっとも憎んでいたが、執権職代理として大聖人を幕府の奉行所に呼びだし、前執権であった北条時頼と同重時を無間地獄におちたといいふらしているとの嫌疑で、取り調べを行なった。日蓮大聖人は平左衛門に向かって、厳然と諌(いまし)められ、迫りくる国難にあたって覚醒を求められたが、平左衛門はもの狂いのように聞こうとすらしなかったのである。
 翌々日の九月十二日、再度の反省を求めておしたためあそばされた御書状が「一昨日御書」である。
「抑(そもそも)貴辺は当時天下の棟梁なり何ぞ国中の良材を損せんや、早く賢慮を回(めぐら)して須(すべから)く異敵を退くべし世を安じ国を安ずるを忠と為し孝と為す、是(こ)れ偏(ひとえ)に身の為に之を述べず君の為仏の為神の為一切衆生の為に言上せしむる所なり」(一八三㌻)との熱誠あふれる諫言も、ゆがみきった平左衛門には、怒りを爆発させる口火でしかなかった。
 平左衛門みずから大将となり、大聖人お一人を捕えるのに、数百人の武士を引きつれて松葉ヶ谷の草庵に押し寄せたありさまは、まさに狂った姿としかいいようがなかった。平左衛門の郎徒の少輔房(しょううぼう)というものは走りよって、法華経第五の巻で大聖人の顔を打ちすえ、そのほかの家来どもは、その他の法華経をまきちらし、足でふんづけ身にまとった。大聖人は「あらをもしろや、平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら(殿原)但今日本国の柱をたをす」と大声で呼ばわれ、かえって捕えにいった兵士どもが、顔色を失ってしまったのであった。
 十二日夜半、多くの武士たちが厳重に警戒するなかを大聖人は若宮小路を通り鎌倉を出て、由比の浜から腰越の竜の口へと向かわれた。この間、八幡宮の前では馬をおりられ、大音声をもって法華経の行者を守護せぬかと、八幡を叱咤されている。また、由比の浜から竜の口の刑場まで、大聖人の馬の口にとりすがって、お供したのは、本抄の対告衆(たいごうしゅう)となった四条金吾であった。
 頸の座にのぞまれたときのようすは、次の種種御振舞御書の御文を拝しよう。
「此(ここ)にてぞ有らんずらんと・をもうところに案にたがはず兵士(つわもの)どもうちまはり・さわぎしかば、左衛門尉申すやう只今なりとな(泣)く、日蓮申すやう不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそく(約束)をば・たがへらるるぞと申せし時、江のしま(島)のかたより月のごとく・ひかりたる物まり(鞠)のやうにて辰巳(たつみ)のかたより戌亥(いぬい)のかたへ・ひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ(昧爽)人の面(おもて)も・みへざりしが物のひかり月よ(夜)のやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥(ふ)し兵共(つわものども)おぢ怖れ・けうさ(興醒)めて一町計りはせのき、或は馬より・をりて・かしこまり或は馬の上にて・うずくま(蹲踞)れるもあり、日蓮申すやう・いかにとのばら・かかる大禍ある召人(めしうど)にはとを(遠)のくぞ近く打ちよれや打ちよれやと・たかだかと・よばわれども・いそぎよる人もなし、さてよ(夜)あけば・いかにいかに頚切(くびきる)べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐる(見苦)しかりなんと・すすめしかども・とかくのへんじ(返事)もなし」(九一三㌻)と。
 まことに、御本仏なればこその不思議であり、諸天の加護に頸切り役人どもの恐れおののく姿が目に映るようではないか。
 翌十三日、幕府の役人たちは大聖人をひとまず、相模の依智にある本間六郎左衛門の家にお入れ申し上げた。大聖人のお姿を拝して、長年の念仏信仰を捨てる武士があいついだ。さすがの平左衛門尉もなすすべを知らず、やがて、鎌倉へ帰っていった。
 十三日夜半、本間邸には数十人の武士が警護していたが、そのなかで、大聖人は庭に出て、おりから夜空に照り輝く月に向かって、法華経の守護を誓いながら、何のしるしもないのはどうしたことか、と責められたところ、空から明星のような大星が降りて庭の梅の木にかかった、という不思議をも現ぜられている。
 竜の口の斬罪については、平左衛門の独断で行なったもので、この間、執権北条時宗は、大聖人の無罪を認め、熱海で静養中の武蔵守宣時に使いを出し、刑の中止を指示している。しかし、大聖人の依智ご滞在二十日あまりの間に、鎌倉であいついで火事があり、それを念仏者が、大聖人の弟子たちのしわざであるとざん言し、その陰険な策謀によってふたたび弾圧の手がのび、弟子、信者は、ある者は流罪、あるものは入牢等々の迫害にあったのであった。
 大聖人に対しても佐渡流罪が決まり、十月十日依智をたって、同二十八日佐渡着、十一月一日、塚原の三昧堂に入れられる。そのありさまについて振舞抄にはつぎのように述べられている。
「十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に洛陽(らくよう)の蓮台野(れんだいの)のやうに死人を捨(す)つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたま(板間)あはず四壁はあばらに雪ふ(降)りつ(積)もりて消ゆる事なし、かかる所にしきがは(敷皮)打ちしき蓑(みの)うちきて夜をあかし日をくらす、夜は雪雹(あられ)雷電(いなずま)ひまなし昼は日の光もささせ給はず心細かるべきすまゐ(住居)なり」(九一六㌻)。  
 時あたかも冬である。火の気などもとよりあろうはずはなく、ただ一人、お供をした日興上人をつれての厳寒の佐渡のご生活は、想像申し上げるにあまりある。しかも、佐渡は念仏者の国土で、大聖人を念仏の敵、仏法の異端者と思いこんで、命をつけねらう者も少なくなかった。もと北面の武士で念仏の強信者であった阿仏房が、大聖人を殺そうと企てて「念仏無間のわけをいえ」とつめより、かえって逆に論破されて、念仏を捨てたのもこのころである。
 翌一月十六日には、佐渡はもとより越後、越中、出羽、奥州、信濃の国々から念仏、真言などの僧たちが集まり、近在の人たちも含めて数百人が大聖人をとりかこんで、有名な塚原問答が行なわれた。
 もとより、邪宗の坊主が大聖人の正義にかなうはずもなく、「止観・真言・念仏の法門一一にかれが申す様を・でつしあげ(牒揚)て承伏せさせては・ちやうとはつ(詰)めつめ・一言二言にはすぎず、鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりも・はかなきものどもなれば只思ひやらせ給へ、利剣をもて・うり(瓜)をきり大風の草をなび(靡)かすが如し」(振舞抄、九一八㌻)と、つぎつぎと破折されたので、その場で邪信を捨てるものも少なくなかった。
 これに対して、念仏者たちは、なんとかして大聖人をなきものにしようと、鎌倉へ使いを出して、武蔵前司にざん訴し、日蓮大聖人の信者になったものは国を追い出し牢に入れよとの下知を出させるという陰険な手段にさえ出たのである。
 この開目抄は、じつにこうした、想像を絶する不自由と、しかも大聖人の命をつけねらう邪宗の信者たちの真っただなかにおいて、お弟子日興上人、信者となった阿仏房等のかろうじて手に入れてご供養申しあげた紙や筆によってしたためられた、まことにもったいなき御書であることを知るべきである。
 しかも、そうした苦境にあってすら「日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿(こうどの)ましまさずんば争(いかで)か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(九一七㌻)と申されているのである。 
 竜の口での光りものといい、依智での不思議といい、また、佐渡の極寒の中で、ひたすら民衆救済のために重要の法門をしるされたことといい、御本仏大聖人の大慈大悲に、だれが感泣(かんきゅう)しないであろうか。そして、末法真実の主師親たることを宣言あそばされた本抄を、拝読するにあたっては、ただ熱烈なる信心、求めてやまぬ求道心をたぎらせて深くその奥義を拝すべきことを訴えてやまない。
 なお、末法人本尊の開顕たる本抄についで、観心本尊抄をあらわされて法本尊を開顕され、その他、諸法実相抄、如説修行抄、顕仏未来記、当体義抄等々、重要御抄の数々をおしたためになったこと、また文永十一年二月赦免となり、あわてふためく邪宗の僧らをあとに順風を帆をうけて鎌倉をお帰りになったことは略す。
             顕仏未来記

        第七章 正しく広布の方軌を示す

本文(五〇九㌻二行~五〇九㌻終)
 日蓮此の道理を存じて既に二十一年なり。日来(ひごろ)の災(わざわい)、月来(つきごろ)の難、此の両三年の間の事、既(すで)に死罪に及ばんとす。今年今月、万が一も脱(のが)れ難き身命(しんみょう)なり。世の人疑い有らば委細の事は弟子に之を問え。
 幸なるかな、一生の内に無始の謗法を消滅せんことを。悦ばしいかな、未だ見聞(けんもん)せざる教主釈尊に侍(つか)え奉らんことよ。願わくは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん。我を扶(たす)くる弟子等をば釈尊に之を申さん。我を生める父母等には未だ死せざる已前(いぜん)に此の大善を進めん。
 但し今夢の如く宝塔品の心を得たり、此の経に云く「若(も)し須弥(しゅみ)を接(と)って他方の無数(むしゅ)の仏土に擲(な)げ置かんも、亦(また)未だ為(こ)れ難しとせず。乃至若(も)し仏の滅後に悪世の中に於て能(よ)く此の経を説かん、是れ則(すなわ)ち為れ難し」等云云。
 伝教大師云く「浅きは易(やす)く深きは難しとは釈迦の所判なり。浅きを去つて深きに就(つ)くは丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順し、法華宗を助けて震旦(しんたん)に敷揚(ふよう)し、叡山の一家は天台に相承し、法華宗を助けて日本に弘通す」等云云。
 安州の日蓮は恐らくは三師に相承し、法華宗を助けて末法に流通す。三に一を加えて、三国四師と号(な)づく。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。
  文永十年太歳癸酉(みずのととり)後(のちの)五月十一日   
                  桑門 日 蓮 之を記す

通解
 日蓮はこの道理を覚知して、すでに二十一年になる。そのために日ごとに災いを受け、月ごとに難をこうむってきた。特にこの二、三年の間の難は大きく、すでに死罪にまで及ぼうとした。今年また今月は、万が一にも身命が助からないという状態におかれているが、世の人々はもし我が言うことについて疑いがあるならば、詳しいことは弟子に問いただしなさい。
 なんと幸福なことであろうか。生涯の内に無始以来の謗法の罪業を消滅できるとは。また、なんと悦ばしいことであろうか、いままでに、あうことのできなかった教主釈尊にお仕え申し上げられるとは。自分はこのような大利益を得たのであるから、願わくは自分を迫害した国主等を先(ま)ず最初に化導してあげよう。自分を助ける弟子等のことを釈尊に申し上げよう。また自分を生んでくださった父母には、今生のうちにこの南無妙法蓮華経の大善をおすすめしよう。この数々の大難によって、今、夢のように、宝塔品の要(かなめ)である六難九易の文意を証得することができた。
 すなわちこの宝塔品には、次のように説かれている。「もし須弥山をつかんで、他方の無数の仏土に投げようとも、それは難しいことではない。乃至もし、仏の滅度の後、悪世末法においてよくこの法華経(御本尊)を説いて折伏するということは、これこそ非常に難しいのである」等と。
 伝教大師は法華秀句に次のように述べている。「浅い爾前権教につくことは易しいが、深い法華経を持つことは困難であるというのは釈尊の教判である。しかし浅い小法を捨てて、深い大法につくことこそ、丈夫の心なのである。この教えにしたがって天台大師は釈尊に信順し、法華宗を助けて中国に法華経を広宣流布した。叡山の一家(伝教大師)は天台の法を承(う)け法華宗を日本に弘通したのである」と。
 安房国(あわのくに)の日蓮は、恐らくは、釈尊、天台、伝教の三師に相承し、法華宗を助けて、末法に南無妙法蓮華経を広宣流布するのである。ゆえに釈尊、天台、伝教の三師に日蓮を加えて、三国四師と名づけるのである。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
  文永十年太歳癸酉(みずのととり)後(のち)の五月十一日   
             桑門(そうもん) 日 蓮 之を記す

語訳
宝塔品の心を得たり
 法華経見宝塔品第十一に説かれている「六難九易」(『妙法蓮華経並開結』三九〇㌻以下 創価学会刊)の経文の意を覚知することができたとの意。六難九易とは、仏の滅後に法華経を受持し弘通することの難しさを、六つの難しいこと(六難)と九つの易しいこと(九易)との対比をもって示したもの。およそ不可能な九易でさえ、六難に比べればまだ易しいと説いたうえで釈尊は、滅後の法華経の弘通を促している。六難とは、①広説此経難(こうせつしきょうなん)(悪世のなかで法華経を説く)②書持此経難(しょじしきょうなん)(法華経を書き人に書かせる)③暫読此経難(ざんどくしきょうなん)(悪世のなかで、しばらくの間でも法華経を読む)④少説此経難(しょうせつしきょうなん)(一人のためにも法華経を説く)⑤聴受此経難(ちょうじゅしきょうなん)(法華経を聴受してその義趣を質問する)⑥受持此経難(じゅじしきょうなん)(法華経をよく受持する)。九易とは、①余経説法易(よきょうせっぽうい)(法華経以外の無数の経を説く)②須弥擲置易(しゅみちゃくちい)(須弥山をとって他方の無数の仏土に投げ置く)③世界足擲易(せかいそくちゃくい)(足の指で大千世界を動かして遠くの他国に投げる)④有頂説法易(うちょうせっぽうい)(有頂天に立って無量の余経を説法する)⑤把空遊行易(はくうゆぎょうい)(手に虚空・大空をとって遊行する)⑥足地昇天易(そくじしょうてんい)(大地を足の甲の上に置いて梵天に昇る)⑦大火不焼易(だいかふしょうい)(枯草を負って大火に入っても焼けない)⑧広説得通易(こうせつとくつうい)(八万四千の法門を演説して聴者に六神通を得させる)⑨大衆羅漢易(だいしゅらかんい)(無量の衆生に阿羅漢位を得させて六神通をそなえさせる)。開目抄下には「法華経の六難九易を弁うれば一切経よまざるにしたがうべし」(法華経の六難九易が分かったので、すべての経典は読まなくてもわがものとなっているのである」(通解、二二三㌻)と仰せになっている。

法華宗
 ①天台宗の正式名称である天台法華宗の別称。日蓮大聖人立宗以後は、混同を避けて用いられない。②日蓮大聖人を開祖とする流派の一つ。ここでは①を指す。

講義
 この段は、本抄全体のしめくくりであり、末法御本仏としての、御自身の悦びと、全民衆を救わんとの大慈悲、また妙法を受持して起(た)つ丈夫の心を述べておられる。この一文一句は、そのまま、日蓮大聖人の弟子たる者の自覚であり、決意であり、勇気でなければならない。すなわち、学会精神の骨髄であり、ここに師弟不二の原理があるといえる。

 日来(ひごろ)の災(わざわい)、月来(つきごろ)の難、此の両三年の間の事、既(すで)に死罪に及ばんとす。今年今月、万が一も脱(のが)れ難き身命(しんみょう)なり

「此の両三年の間の事」とは、文永八年九月十二日の竜(たつ)の口の頸(くび)の座より佐渡御流罪中のことを指す。この間、大聖人の身辺は常に危険にみまわれ、「昼夜十二時(とき)に仏の短(ひま)をねらいし」がごときありさまで、念仏者は口々に悪口をなし、阿弥陀仏のかたきと狙っていたのである。こうした中で日蓮大聖人は毅然とし、峨々(がが)たる眉山(びざん)の如く、洋々たる大河の如く、振舞われ、極寒をものともせず、妙法広布のために、令法久住(りょうぼうくじゅう)のために、観心本尊抄をはじめとする重要御書を、死身弘法の精神で、魂魄をとどめて執筆されたのである。
 よってこの御文を拝するときに、妙法広布の厳しさを痛切に感ずると共に、今日、順縁広布の時に生まれあわせたわれわれは、己心の魔に打ち勝ち、常に大聖人佐渡御流罪の厳しさを、広布達成まで瞬時たりとも忘ることがあってはならない。いかに時代が変わろうとも、妙法広布への燃え上がる情熱と闘魂を内に秘め、さらに只今臨終の決意に立って邁進する者こそ、日蓮大聖人の真実の弟子であり、創価学会員であると信ずる。

 世の人疑い有らば委細の事は弟子に之を問え

 この御文は短いが実に厳しい文であり、師弟不二の原理を厳然と述べておられる。すなわち、師匠は原理を説き、弟子は師匠の教えを応用し、実践し、敷衍(ふえん)すべきであるとの意である。弟子は広布実現のために師を守り、師と共に、さらに師の本意を永遠に伝えねばならない。よって、弟子はいざという時にひるむような弱者であっては、人類恒久の平和は達成されない。かような弟子はこの文を拝すべき資格のない者である。われわれは生涯、開拓者として、先駆者として、広布の礎(いしずえ)として、絶えざる前進をしなければならない。

 幸なるかな、一生の内に無始の謗法を消滅せんことを。悦ばしいかな、未だ見聞(けんもん)せざる教主釈尊に侍(つか)え奉らんことよ

 大聖人御自身が、三十二歳の立宗より五十二歳のこの年にいたる二十一年の間に受けられた数々の大難も、所詮は、御自身の罪障消滅のためであり、妙法広布のためであるが故に、無上の幸福であり、最高の喜びであると申されているのである。
 もとより、これは示同凡夫の立ち場に立ってのお言葉であり、御内証は本来、本有(ほんぬ)の自受用身如来である。信心の極意を、弟子のため、末法の荒凡夫のために教えられているのである。
 仏法のために受ける、いかなる大難も、ことごとくその本体は、わが身の罪業を消滅するための薬にほかならない。われわれは、過去より無数の悪業を犯し、無量の謗法の罪業を積み重ねてきている。その一切の罪障は永劫にわたっても、なおかつ消滅できるものではない。しかるに、今、妙法に巡り会って、この一生の間に消すことができるのである。
 あたかも、化膿した悪質の傷を治すようなものである。たとえ当座は痛くても、必ず後はよくなるのである。もし、当座の痛みを恐れて、治療を怠るならば、化膿はさらに進み、ますます苦しみを増すであろう。
 この原理を覚知するならば、妙法の故に、どんな迫害を蒙ろうと、それは、最高の幸福への道程であり、楽しみではないか。
 いわんや、このように、一生の内に無始の謗法の罪を消滅しうる仏法は、日蓮大聖人の三大秘法の仏法をおいて、他には絶対にない。一生成仏、転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)の大仏法を受持しえたことこそ、それ自体すでに最高の幸福なりと確信すべきである。
 また「悦ばしいかな、未だ見聞(けんもん)せざる教主釈尊に侍(つか)え奉らんことよ」とは、仏に仕え、妙法広布に活躍できることこそ、この上ない喜びであるとの意である。
 あらゆる民衆を、未来永劫にわたって、根底より救済される仏に仕え、その精神を受けついで妙法の広宣流布のために活動しゆく人生こそ、永遠不滅の、崇高なる人生というべきであろう。これこそ、「浅きを去つて深きに就(つ)く」丈夫の心であり、人間として、最高の喜びであり、感激ではないか。
 
 願わくは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん。我を扶(たす)くる弟子等をば釈尊に之を申さん。我を生める父母等には未だ死せざる已前(いぜん)に此の大善を進めん

 この一文に、末法御本仏としての大慈大悲と、大確信とが躍如としてあらわされている。心ある人ならば、この御文を拝して、感涙を抑えることはできないであろう。
「我を損ずる国主等」とは逆縁の衆生である。「我を扶(たす)くる弟子等」とは順縁の衆生である。順逆とも大聖人の大慈悲によって救われていくのである。
 御自身、何の罪もなくして、佐渡の極寒の地に配流せられ、命をも狙われながら「最初に之を導かん」と申されるその御心は、まさに大海のごとく広く、深く、雄大であるといわなければならない。
 仏の慈悲は絶対的なものであり、愛憎の範疇をはるかに超越した境涯である。「眼には眼を」(ハンムラビ法典)の文言は聖書にも記述があり、およそ比較にならないことを知るべきである。また、それは「汝の敵を愛せよ」と説いたキリストの偽善的な態度とも根本的に異なる。
 ここに「我を扶くる弟子等」とは、弟子のあるべき姿を示された言葉であり、大聖人の御偉業を扶け、実践し、具現しゆく人こそ、真の弟子であるとの仰せと拝せる。その大聖人の御偉業とは「此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか」(五〇七㌻)と本抄にも述べられているごとく、全世界に、この三大秘法の仏法を広宣流布することである。
 すなわち、折伏に励み、広宣流布のために不惜身命(ふしゃくしんみょう)の活躍をなす人こそ、「我を扶くる弟子等」の御文にあたる人であり、大聖人の心よりの賞讃を受ける人であることは、文にも明白である。
「我を生める父母等には未だ死せざる已前(いぜん)に此の大善を進めん」とは、この仏法を持(たも)たせることが、最高の親孝行であり、自分を生み、育ててくれた父母に対する報恩の道であるとの御文である。
 真の孝行とは何か、それは、親を最高に幸福にしていくことであり、永遠に崩れることのない幸福境涯に住せしめることである。ゆえに、その唯一の道たる妙法を教え、受持させることが、真実の孝行なのである。

 浅きを去つて深きに就(つ)くは丈夫の心なり

 丈夫の心とは、究極的にいえば、仏の心ということである。だが一般的に敷衍(ふえん)して論ずるならば、勇気ある人という意味になる。
 すなわち、人間は、本然的に安易な道をとろうとする弱みをもっているものである。遠大な目的観に立てば、いまは苦しくとも耐えて、困難な道を進むべきだということがわかっていても、なかなか、思うようにできないことが多い。その弱い自己に打ち勝って、あえて苦難の道を選び、前進していくのが丈夫の心、すなわち勇気ある人といえるのである。
 平坦な道や下り坂であれば、そこには努力を必要としない。だが、それはいくら進んでも、出発の時に立っていた位置の高さより高くなっているということはない。険しい登り道は、なみなみならない努力を必要とする。しかし、それをのり越え、がんばりぬいて登っていったとき、かつていた地点をはるか眼下に見下ろすような、高い位置に立つことができるのである。
 妙法は、あらゆる哲学、あらゆる人生の行き方の中で、最も難しい、険しい道である。無始以来の罪業をこの一生に集め、三類の強敵は行く手を阻(はば)まんと迫ってくるであろう。だが、臆せず、屈せず、自己と戦い、自己の宿業と戦い、あらゆる障害と戦いぬいていく人こそ、丈夫の中の大丈夫であり、最も勇気ある人なのである。

出典『日蓮大聖人御書講義』第七巻(編著者 御書講義録刊行会 発行所 創価学会)

                      顕仏未来記 ―了―
             顕仏未来記

        第六章 御本仏の未来記を明かす

本文(五〇八㌻一〇行~五〇九㌻二行)
 問うて曰く、仏記既(すで)に此(か)くの如し。汝が未来記如何(いかん)。
 答えて曰く、仏記に順じて之を勘(かんが)うるに、既に後(のち)の五百歳の始めに相(あい)当れり。仏法必ず東土の日本より出(い)づべきなり。其の前相、必ず正像に超過せる天変地夭之れ有るか。所謂(いわゆる)仏生(ぶっしょう)の時、転法輪の時、入涅槃の時、吉瑞・凶瑞共に前後に絶えたる大瑞(だいずい)なり。仏は此れ聖人の本(もと)なり。経経の文を見るに、仏の御誕生の時は、五色の光気四方に遍(あまね)くして夜も昼の如し。仏御入滅の時には十二の白虹(はくこう)南北に亘(わた)り、大日輪光り無くして闇夜(あんや)の如くなりし。其の後(のち)正像二千年の間、内外(ないげ)の聖人生滅有れども、此の大瑞には如(し)かず。
 而(しか)るに去(い)ぬる正嘉年中より今年に至るまで、或は大地震、或は大天変、宛(あたか)も仏陀の生滅の時の如し。当(まさ)に知るべし、仏の如き聖人(しょうにん)生れたまわんか。大虚(おおぞら)に亘(わた)って大彗星(だいほうきぼし)出(い)づ。誰の王臣を以て之に対せん。当瑞(とうずい)大地を傾動して三たび振裂(しんれつ)す。何(いず)れの聖賢を以て之に課(おお)せん。当(まさ)に知るべし、通途(つうず)世間の吉凶の大瑞には非ざるべし、惟(こ)れ偏(ひとえ)に此の大法興廃の大瑞なり。
 天台云く「雨の猛(たけ)きを見て竜の大(おおい)なるを知り、華の盛んなるを見て池の深きを知る」等云云。妙楽の云く「智人は起(き)を知り、蛇(じゃ)は自(おのずか)ら蛇を識(し)る」等云云。

通解
 問うていうには、釈尊の未来記があなたの身の上にあてはまることはよくわかった。それではあなたの未来記はどうなっているのか。
 答えていうには、釈尊の未来記にしたがってこれを考えてみるのに、今はすでに後五百歳の始め、すなわち末法の始めに相当している。末法の真の仏法は、必ず東土の日本から出現するはずである。ゆえに、その前相として、必ずや正法・像法時代に超えた天変地夭があるだろう。いわゆる釈迦仏の誕生の時、仏が法を説いた時、また入滅の時起こった瑞相には、吉瑞も凶瑞も共に、前後の時代に比べるべきものがないほどの大瑞であった。仏は聖人の本である。経文を見ると、釈尊が誕生した時の有様は、五色の光りが四方をあまねく照らして、夜も昼のように明るかったと説かれている。また、釈尊が入滅の時には、十二の白い虹が南北にわたって現われ太陽は光りを無くしてしまって、闇夜のように暗黒になってしまったと説かれている。その後、正法・像法二千年の間に内道・外道の多くの聖人が出現し、そして死んでいったけれども、この釈尊の時のような大瑞にはとうてい及ばなかった。
 しかるに、去る正嘉年中より今年に至るまでの間に、あるいは大地震が起こり、あるいは大天変があって、これらは、あたかも釈尊の生滅の時の瑞相のようである。これによってまさに知るべきである。釈尊のような聖人が生まれてきているのではなかろうかと。大空には、大彗星が出たが、いったいどのような王臣の出現が、この瑞相に対応するのであろうか。また、大地震が起こり、大地を傾動して、三度も振裂したほど激しいものであったが、どのような聖人、賢人の出現をもって、この瑞相に当てることができるのだろうか。まさに知るべきである。これらの大瑞は、一般世間における普通の吉凶の大瑞ではない。これはひとえに、南無妙法蓮華経の大仏法が興隆し、釈迦仏法が廃(すた)れるという大瑞なのである。
 天台大師は、法華文句の第九の巻に次のように述べている。「雨の降り方の猛烈さを見て(瑞相)、それを降らせている竜の大きさ(現象)を知ることができる。また蓮華の花の咲き方の盛んなのを見て(瑞相)、その池の深いこと(現象)を知ることができる」と。妙楽大師は、法華文句記に釈して「智者は事の起こる由来を知り、蛇は自ら蛇の道を知っている」と述べている。

語訳
五色の光気
 釈尊降誕の瑞相の一つ。開目抄下に「周の第四昭王の御宇(ぎょう)二十四年甲寅(きのえとら)・四月八日の夜中に天(そら)に五色の光気・南北に亘りて昼のごとし、大地・六種に震動し雨ふらずして江河(こうか)・井池(せいち)の水まさり一切の草木に花さき菓(このみ)なりたりけり不思議なりし事なり」と。

十二の白虹(はくこう)
 釈尊入滅の瑞相の一つ。釋迦如來成道記註(二巻)に「周書異記曰。穆王(ぼくおう)五十二年壬申(みずのえさる)二月十五日。暴風忽起。撥屋折木。山川覆震。天陰雲黑。西方有白虹十二道。南北通過。至夜不滅。王問大史扈多曰。是何徵耶。對曰。西方有大聖人。滅衰相現耳」とある。

大地震
 正嘉元年(一二五七年)より、本抄が著された文永十年(一二七三年)にいたるまで、毎年のように、鎌倉、京都を中心として天変地夭や飢饉などの大災害が起こった。ただし、鎌倉、京都を中心としてということは、鎌倉幕府の歴史書・吾妻鏡(あづまかがみ)、公家九条兼実の玉葉(ぎょくよう)等の記録がこの時点の事件に重点をおいているためで、おそらく全国的にわたったと思われる。殊に大きな災害が、正嘉の大地震であった。正嘉元年(一二五七年)八月二十三日に鎌倉地方を襲った大地震で、この時の惨状が「立正安国論」を著される契機となった(「安国論奥書」「安国論御勘由来」、三三㌻)。吾妻鏡には、「廿三日 乙巳(きのとみ) 晴る。戌(いぬ)の尅(こく)、大地震。音あり。神社仏閣一宇として全きことなし。山岳頽崩(たいほう)、人屋顚倒(てんどう)し、築地(ついじ)皆ことごとく破損し、所々地裂け、水涌き出づ。中下馬橋(なかのげばばし)の辺、地裂け破れ、その中より火炎燃え出づ。色青しと云云」と当時の様子が記されている。

大彗星(だいほうきぼし)
 文永の大彗星(ぶんえいのだいすいせい)。文永元年(一二六四年)七月五日の大彗星をさす。日蓮大聖人の時代、彗星は時代・社会を一掃する変革をもたらすできごとの兆しと考えられていた。安国論御勘由来に「文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり」(三四㌻)と。大聖人御自身は、正嘉の大地震とともに、この大彗星を末法に地涌の菩薩が出現する前兆と捉えられていた(二五四㌻など)。

智人は起(き)を知り、蛇(じゃ)は自(おのずか)ら蛇を識(し)る
 妙楽大師の法華文句記巻第九中に「然(しか)るに智人は起を知り、蛇(じゃ)は自(おのずか)ら蛇を識る。豈(あに)補処(ふしょ)の人その真応を識らざらんや」とある。これは法華経従地涌出品第十五で地涌の菩薩が大地から忽然(こつねん)と現れたのに対して、補処(ふしょ)の弥勒菩薩がその因縁を説きたまえと述べたところを釈した文である。文意は、智者は物事の起こる由来を予知し、蛇は蛇だけの知る世界を知っている。それゆえ、仏法の法灯を継ぐ智者は仏法の極理を知る、すなわち唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)と経にある通り、悟達の聖人のみが宇宙森羅万象の本質を知り予知している、との意である。

講義
 この章は御本仏日蓮大聖人の未来記を明かされたところである。
 末法において日蓮大聖人の仏法が、かならず東土の日本より出でて、東洋へ、全世界へ広宣流布していくことを御予言されている。
 しかして、その証拠として、インドの釈尊の降誕そして入滅の瑞相を引き、大聖人当時の天変地夭が大法興廃の大瑞なりと断ぜられるのである。

 仏記に順じて之を勘(かんが)うるに、既に後(のち)の五百歳の始めに相(あい)当れり。仏法必ず東土の日本より出(い)づべきなり

 本抄のはじめに薬王品の文を引き「我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」(概要・『妙法蓮華経並開結』六〇一㌻ 創価学会刊)と、釈尊が末法において必ず正法が広宣流布することを予言している。
 それに対し、この文は、日蓮大聖人が未来のために予言なされた、大聖人の未来記の文である。末法において正法が必ず東土の日本より興り、朝鮮、中国、インドはもとより、全世界に流布することは間違いないとの御本仏の大確信を述べられた文である。
 天台、妙楽、伝教にも未来記の言はあった。撰時抄に明らかなように「未来記の言はありや」(二五九㌻)との問いに対して、天台大師は法華文句に「後の五百歳遠く妙道に沾(うるお)わん」と末法を慕い、妙楽大師は法華文句記に「末法の初め冥利(みょうり)無きにあらず」と正法が流布して、大利益を得ることを願っており、伝教大師も守護国界章上に「正像稍(やや)過ぎ已(おわ)つて末法太(はなは)だ近きに有り」と恋い慕った。
 こうした願望に対して日蓮大聖人は「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」と大きく御自身の未来記を明かされたのである。
 すなわち、東国の辺土ともいわれたこの日本の地より、あたかも「日は東より出でて西を照す」(五〇八㌻)ごとく、大仏法が興隆し、東洋へ、全世界へと流布するとの予言の御文である。
 いま、創価学会の出現によって、この大聖人の御予言はことごとく真実であることが証明されつつある。だが、二十世紀に入っても学会草創期のころには、未だ「世界広布」は夢のような話であった。それを十三世紀において、わが生命の安全もおぼつかない状態の中で、世界広布を断言されている大聖人の言葉は、なんと偉大な予言ではないか。それは決して凡人の大言壮語ではなく、本仏なればこその確信であり、一切を見通された上での言葉と拝する以外にないのである。

 瑞相について

 瑞相の瑞とは、昔、中国において、天子が諸侯を各地に封ずるとき、その符節として下賜した圭玉(けいぎょく)をいったが、これが転じて、めでたい微(しるし)を瑞相というようになった。後に、さらに転じて、兆(きざ)し、前相を意味するようになったのである。
 何事にせよ、ある事象の起こるときには、必ず、それを必然ならしめる、現象界の変化が現れるものである。無から有が生じないように、ある事態が生ずるためには、その条件が整えられなければならない。
 たとえば、一点の雲もない青空から、突如として雨が降るなどということはあり得ないであろう。そこには必ず、気圧の変化、雲の出現等がある。人々は、それを見て、雨が近いことを知る。雨が降るという事象に対して、気圧の変化、湿気、雲の出現等は前相である。
 自然現象に限らず、人間社会の場合も、たとえば、革命や社会的変動が起こるときには、それなりの前相というものがあるものである。愚人には分からなくとも、透徹した知性の眼をもって見れば、明瞭に知覚することができるのである。
 ところで、いま、この御抄で示されているような、仏法でいう瑞相は、これらの気象上の現象や社会現象とは、大きい相違がある。すなわち、ここにあげた例は、起こるべき事象が気象上の現象であるなら、その前相も、やはり気象上の現象である。そこには、気象の科学によって裏づけられた、明白な因果関係がある。したがって、それについて疑義をはさむ人はいない。
 しかるに、仏法でいう瑞相、前相は、本抄で示されているように、起こるべき事象は仏の出現という、人間社会の出来事である。その前相たる天変地夭は、自然現象である。この両者の間の因果関係が、現代科学では明かされていないところに、仏法の瑞相論の理解を困難にしている淵源がある。
 それでは、人間社会と自然界とは、それぞれ独立した無関係な存在なのであろうか。今日の、あたかも無関係であるかのように考える思考法が、これまでの分化し専門化した西欧の科学の行き過ぎに起因するものであることは、一部の識者によって深く指摘されている。事実、その反省のもとに、科学界においても、総合化の試みがなされるようになっているのである。
 人間と環境、人間社会と自然現象の一体性を、生命哲学の立ち場から、明瞭に説き切ったのが仏法である。依正不二の原理がそれで、正報とは果報の主体、依報とは、この正報の所依、すなわち自己主体に対して、それをとりまく環境の一切である。
 一念三千の法門の中で、三世間のうち、五陰世間とはわが生命、衆生世間とは社会、そして国土世間とは、この生命の住する自然環境をいう。この三種が、わが生命の一念に収まっていることを一念三千というのである。気象学の眼をもってみれば、雨が降り、雪が降ることを、前相によって予知できるのと同じく、この仏法の透徹した眼をもって見るならば、自然現象の大なる変化をみて、人間社会の事象を予知することは何ら不思議ではなくなってくるのである。
 そこには明晰なる生命の哲学、生命の科学とがあり、その道理の示すところを仏は述べられているのである。それを知ろうともしないで、迷信であるかのように排斥するのは、中世末から近世のヨーローパで、優れた科学者を魔法使いのごとく思い込んだ、迷信深い民衆と何ら変わらないといってよいであろう。

 仏の如き聖人生れたまわんか

 これは、日蓮大聖人が、御自身のことを仰せられた御文である。「仏の如き聖人」と言葉は和(やわ)らげておられるが、御自身が末法の仏であることを厳然と示されたのである。
 初めに、釈迦仏の生滅の瑞相をあげ、正像二千年の間、内外の聖人の生滅の時の瑞相がこれに及ぶべくもないことを論じ、次に末法今時の瑞相は、まさに仏の生滅以上の大瑞であるといわれ、このように「仏の如き聖人」云云と仰せられたのである。
 ここに大聖人御出世の時の瑞相が、「宛(あた)かも仏陀の生滅の時の如し」といわれているが、釈尊の瑞相よりはるかに大瑞であることは、文にありて明白である。刮目(かつもく)して、ここに仰せられた一連の御文を拝するのに、日蓮大聖人こそ、末法の御本仏であると宣言された元意が汲みとれるではないか。
 しかも、その後に「惟(こ)れ偏(ひとえ)に此の大法興廃の大瑞なり」といわれ、日蓮大聖人の三大秘法の大法興(おこ)ることを明言されているのである。すでに、釈尊の仏法を月に、大聖人の仏法を太陽にたとえ、その勝劣を明かし、さらにここで瑞相論より、大聖人こそ末法の御本仏であり、今、日本に、釈迦仏法に代わって、それに勝る大白法が勃興することを告げられているのである。
             顕仏未来記

       第五章 月国・漢土に仏法無きを明かす

本文(五〇八㌻一行~五〇八㌻一〇行)
 疑って云く、如来の未来記、汝に相当(あいあた)れり。但し五天竺並びに漢土等にも法華経の行者之(これ)有るか、如何(いかん)。
 答えて云く、四天下(してんげ)の中(うち)に全く二(ふたつ)の日無し、四海の内豈(あに)両主有らんや。
 疑って云く、何を以て汝之を知る。
 答えて云く、月は西より出(い)でて東を照し、日は東より出でて西を照す。仏法も又以て是(か)くの如し。正像には西より東に向い、末法には東より西に往(ゆ)く。
 妙楽大師の云く「豈(あに)中国に法を失いて、之を四維(しい)に求むるに非ずや」等云云。天竺に仏法無き証文なり。漢土に於て高宗皇帝の時、北狄東京(ほくてきとんきん)を領して今に一百五十余年、仏法・王法共に尽き了(おわ)んぬ。漢土の大蔵(だいぞう)の中に小乗経は一向之れ無く、大乗経は多分之を失す。日本より寂照(じゃくしょう)等、少少之を渡す。然(しか)りと雖(いえど)も伝持の人無ければ、猶木石(もくせき)の衣鉢(えはつ)を帯持せるが如し。故に遵式(じゅんしき)の云く「始め西より伝う、猶(なお)月の生ずるが如し。今復(また)東より返る、猶日の昇るが如し」等云云。此等の釈の如くんば、天竺・漢土に於て仏法を失せること勿論なり。
 問うて云く、月氏(がっし)・漢土に於て仏法無きことは之を知れり。東西北の三洲に仏法無き事は何を以て之を知る。
 答えて云く、法華経の第八に云く「如来の滅後に於て、閻浮提の内(うち)に広く流布せしめて断絶せざらしめん」等云云。内の字は三洲を嫌う文なり。

通解
 疑っていうには、確かに釈尊の法華経の予言はあなたに当てはまっている。ただし、日本のみならず、インドや中国等にも法華経の行者がいるのではなかろうか。
 答えていうには、全世界に二つの日があるわけがない。一国になんで二人の国主がいようか、いるわけがないではないか。同じく法華経の行者は全世界にただ予(よ)一人のみである。
 疑っていうには、何を根拠として、あなたはこのことがわかるのか。
 答えていうには、月は西から出て東を照らし、日は東から出て西を照らす。仏法もまたこの大宇宙の法則どおりである。正法ならびに像法時代には、仏法は西のインドより、中国、朝鮮、日本へと次第に東へ伝わり、末法においては、南無妙法蓮華経の大仏法が、東のこの日本から、西の朝鮮、中国、さらにインドへと流布してゆくのである。
 妙楽大師は、法華文句記の巻十に「これは仏法の中心地たるインドでは仏法を失って、これを四方に求めていることではないか」と、述べている。これはインドに仏法がないという証文である。また中国においては、宋の高宗皇帝の時に、金が東京(とんきん)開封府を占領してから現在にいたるまで、百五十余年の歳月を経過して、すでに仏法も王法も共に滅んでしまった。中国における一切経の中には小乗教はまったくなくなっており、大乗教もそのほとんどを失ってしまった。
 その後、日本の国より中国へ天台僧の寂照(じゃくしょう)等が少々経文を渡した。しかしながら、中国においては仏法を持ち、伝えていく人がいないので、それはちょうど木石の像が法衣を着、鉢を持っているようなもので、何の役にも立っていない。故に遵式(じゅんしき)は天竺別集に次のように述べている。「始め、釈尊の仏法が西より伝わってきたのは、ちょうど月が西から東へ移っていくようなものであった。今、再び東の日本より仏法が返ってきたが、これはちょうど太陽が東から昇るようなものである」等と。この妙楽、遵式等の釈のとおりならば、インドや中国においては、すでに仏法を失ってしまったというのが明確である。
 問うていうには、インド、中国に、仏法がないことはよくわかった。では南閻浮提以外の東西北の三洲に仏法がないということは、どうしてわかるのか。
 答えていうには、法華経の八の巻・勘発品第二十八に「如来の滅後において、法華経を南閻浮提の内に広宣流布して、永久に断絶させないようにするでありましょう」と説かれている。この経文にある「内」の字は、東の弗婆提(ほつばだい)、西の瞿耶尼(くやに)、北の欝単越(うったんのつ)の三洲を除くという文証である。

語訳
高宗皇帝
(一一〇七年~一一八七年)。中国・南宋の初代皇帝。北宋の第八代皇帝・徽宗(きそう)の第九子。徽宗および欽宗(きんそう)が開封で金の軍勢に捕らえられたために、南京で即位した。紹興二年(一一三二年)臨安 (現在の杭州市) を都と定め、同八年(一一三八年)金と和議を結び、南宋の基礎を築いた。

寂照(じゃくしょう)
(九六二年頃~一〇三四年)。俗名は大江定基。文章博士。三河守在任中、妻の死にあって永延二年(九八八年)出家して叡山三千坊の一つ東山如意輪寺に入る。後に源信僧都に天台教学を学び、また醍醐寺で仁海(にんがい)に真言を学ぶ。長保五年(一〇〇三年)入宋し、時の皇帝真宗(しんそう)に謁し、後に蘇州僧録司に任ぜられ、円通大師の号を授けられた。天台山に登り、四明知礼(しめいちれい)を尋ねて源信より託された「天台宗疑問二十七条」に対する答釈を得て帰国しようとしたが、かなわず蘇州呉門寺に住した。宋滞在中にも藤原道長ら日本の貴族と書状を交わした。詩歌にすぐれ、その和歌は「新古今和歌集」などに収録された。長元七年(一〇三四年)杭州(浙江省)で没した。

遵式(じゅんしき)
(九六四年~一〇三二年)。中国・宋代の天台宗の僧。寧海(ねいかい)(浙江省台州府)の人。 姓は葉氏。字(あざな)は知白。天竺懺主(てんじくせんしゅ)、慈雲尊者とも呼ばれた。はじめ禅を学んだが、二十歳の時、禅林寺で具足戒を受け、二十二歳の時、国清寺に入り、普賢菩薩の像の前で一指を燃やし、天台の教法の流布を誓ったといわれる。雍熙元年(九八四年),四明(しめい)の宝雲寺に入って義通に師事したが、智解にすぐれ、わずか三、四年で奥義をきわめた。義通が没すると、いったん天台山に帰るが、ふたたび宝雲寺に入り、二十八歳で法華経、維摩経、涅槃経、金光明経を講説した。至道二年(九九六年)、僧俗を集めて浄土の行を修し「誓生西方記」を著す。乾興元年(一〇二二年)慈雲の尊号を授けられ、以後、慈雲尊者と称された。天聖二年(一〇二四年)には、彼自身の上奏で天台教部(章疏)を大蔵経中に編入することを許された。著書に「往生淨土懺願儀(おうじょうじょうどさんがんぎ)」、「金園集」三巻、「天竺別集」三巻、「大乗止観釈要」四巻等がある。

遵式(じゅんしき)の云く「始め西より伝う……」
 日本の天台僧・寂照が源信僧都の使として入宋したとき、中国で久しく失われていた南岳大師の「大乗止観」を渡したことについて遵式が「天竺別集」の上巻にある「南岳禅師止観後序」の中で述べた言葉である。

講義
 この章では、月氏(インド)にはもはや仏法はなく、漢土(中国)には大乗教だけがわずかに残っているが、それらも形骸を残すのみで、すでにそれを伝持する人がいない、ということを述べられている。すなわち、次の第六章で、末法には日蓮大聖人の大仏法が日本より全世界へと弘まっていくことが明かされるが、この章はその伏線となっているのである。

 仏法も又以て是(か)くの如し。正像には西より東に向い、末法には東より西に往(ゆ)く

 釈尊は大集経(だいじっきょう)において、未来の時を予言して次のように定めている。
  第一の五百歳 ─── 解脱堅固 ───┬― 正法千年
  第二の五百歳 ─── 禅定堅固 ───┘
  第三の五百歳 ─── 読誦多聞堅固 ─┬― 像法千年
  第四の五百歳 ─── 多造塔寺堅固 ─┘
  第五の五百歳 ─── 闘諍堅固 ────― 末法の始め
 今日われわれが、インド、中国、日本の三国における仏法流布の歴史をながめるとき、この大集経に説かれた予言が、見事に的中していることを知るのである。二千年の時代の隔たりを超越した、仏法に説く予言の偉大さに、誰人も目を見張らずにはおれないであろう。
 第一の解脱堅固の時とは、釈尊滅後五百年において、衆生が小乗教を修し、戒律をたもって解脱(げだつ)を求めた時代である。この時代には、付法蔵の二十四人のうち、摩訶迦葉から付法蔵第十の富那奢(ふなしゃ)までが小乗教を弘めた。また四回にわたって仏典の結集が行なわれ、阿闍世王、阿育王、迦弐志加王(かにしかおう)などの守護のもとに、仏法は大いに興隆したのであった。
 次に正法千年のうち、後半の五百年間には、権大乗教が弘められ、衆生は大乗を修して深く三昧に入り、心を静めて思惟(しい)の行を行なった。この時代には、付法蔵第十一の馬鳴(めみょう)から第二十四の師子尊者にいたるまで、大乗教を弘めたのである。その中で、特に小乗を破して大乗を宣揚した論師としては、馬鳴、竜樹、無著(むじゃく)、天親(てんじん)などが有名である。
 次の像法の時代に入ると、後漢の明帝の永平十年(西暦六七年)に、仏教はインドから中国に伝えられた。これをきっかけとして、読誦多聞堅固の名の示すとおり、経典の翻釈事業や講説、解釈などがひんぱんに行なわれた。経典の翻釈で特筆すべきは、法華経の名訳で知られる鳩摩羅什である。また、この時代の終わり頃、五三八年に荊州で生まれた天台大師は、南岳大師に師事して法華経の深義を悟り、後に有名な法華文句、法華玄義、摩訶止観の法華三大部を講述して、理の一念三千の法門を打ち立てた。
 像法時代の後半の五百年に入ると、玄奘がインドから経典を持ち帰って、翻釈した。これを新訳という。以後、法相宗、三論宗、華厳宗、真言宗が中国全土に広まり、多数の寺塔が建立された。したがって、表面上は仏法が大いに興隆しているように見えたが、事実は仏法の堕落であり、次第に混迷の度を濃くしていった。
 この頃になると、仏法の中心は日本に移った。すなわち、五五二年(五三八年の説も)、欽明天皇の時代に、百済より仏教が伝来し、聖徳太子が仏教を鎮護国家の法と定めて以後、寺や仏像が盛んに造立された。またこの時代には、苦労して来日した鑑真が小乗の戒壇を建立し、平安の桓武天皇の代には伝教大師が南都六宗の邪義を破り、八二七年、遺弟によって叡山に大乗戒壇が建立されたのである。
 だが、仏滅後二千年が過ぎて末法に入ると「闘諍言訟・白法隠没(とうじょうごんしょう・びゃくほうおんもつ)」の予言どおり、釈迦仏法の実義は失われ、ただ形骸を残すのみとなってしまった。衆生は、法華経二十八品をもってしても救済することのできない、本未有善(ほんみうぜん)の衆生であり、ついに釈迦仏法の命脈は完全に尽きてしまったのである。もはや末法の時代に相応した仏法を、インド、中国に求めようとしても、見い出すことはできない。実にこの時こそ、末法適時(ちゃくじ)の大仏法、すなわち日蓮大聖人の三大秘法の南妙法蓮華経が、この東土の日本より、東洋また全世界へと流布していくのである。
 ここで「月は西より出でて東を照し」と釈迦仏法を月に譬え、「日は東より出でて西を照す」と、日蓮大聖人の大仏法を太陽に譬えられているのは、深い意味がある。
 大聖人の仏法こそ、東洋仏法の真髄であり、究極の実体である。あたかも、太陽が自らの熱核反応によって、莫大な光と熱を発しているように、大聖人の仏法は、全民衆、全生命、全宇宙に、その生命力と法則性を及ぼしている本源なのである。
 これに対し、釈迦仏法は、この本源の大聖人の大仏法、すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経の光と熱を受けて、これを反射している月のごとき存在にすぎない。釈尊一代の教え、いわんや竜樹、天親、天台、伝教等の教えは、ことごとくこの三大秘法の仏法の反映に他ならないのである。
 さらに「月は西より出で」というのは、月が第一日は西の空から輝き始め、次の日は、やや東寄りの空から、さらに次の日は、またさらに東寄りの空から輝き始めることをいう。それは、太陽が、東の空から出て西へ移り、沈むのとは違う。
 その姿は、釈迦仏法が、インドから中国、朝鮮、日本へと移ってきた方程式の中に、見事に示されている。インドに流布し終わって、中国に伝えられ、中国で興隆したときには、すでにインドの仏教は凋落していた。同様にして、中国から朝鮮を経て日本に流布したときも、中国における仏教の勢威は、滅亡していったのである。
 今、日蓮大聖人の仏法は、太陽のごとき仏法であり、日本に興り、全世界に流布するとともに、末法万年尽未来際、すなわち末法永遠にわたって、衰滅することなく輝きわたっていくのである。
 日蓮大聖人御在世から現代にいたるまで、七百年の歳月が流れた。この広布の夜明けを迎えるまで、思えば、苦悩の民衆にとっては、長い闇であった。だが、それも、末法万年の広宣流布の盤石の基礎をつちかうための準備期間であったともいえよう。
 今日、創価学会の出現によって、広宣流布の幕は切って落とされた。まさに、七百年間、否、仏教三千年史の上において、一貫して希求されてきた、最も光輝ある時代が到来したのである。この時に生まれあわせ、この偉大なる事業に参加しえた身の福運を感ずるならば、誰人といえども、不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)の実践をせずにはいられないであろう。

 東洋文明と西洋文明

 末法の大白法が東の日本より、西の中国、インドへと流布していくことを仏法西還(せいかん)という。これは仏法東漸(とうぜん)に対する言葉である。だが、元意は、たんに日本から、中国、インドへと還って、そこで終わりになるのではなく、全世界に流布することをいうのである。
 近世における西洋文明の台頭、そして近代に入ってからのヨーロッパ人による世界の植民地化、西欧文明の世界制覇という、西洋優位の波のなかにあって、とかく、文明といえば、西洋のそれ以外にないかのような考え方がなされがちであるが、これは、大なる誤りであるといわなければならない。
 少なくとも、有史以来の幾多の文明の生成、発展、推移をかえりみるならば、創造的で、人間生命の本質にかかわる偉大な文明の光は、つねに東洋よりあらわれ、西洋を照らしてきたというべきであろう。
 農業に始まる最初の文明の発祥の地は、エジプト、メソポタミア、インド、中国黄河流域の四つが挙げられる。これらは、いずれも、今日、AA諸国と呼ばれる地域であり、現在、先進地域とされているヨーロッパ、アメリカは、当時、全くの未開地域であった。
 このエジプト、メソポタミア、それにインドの文明の恩恵を受けながら、西洋文明の幼児が成長を始めた。それがギリシャ文明である。これは、母親の乳を呑みながら育つ子供に似ている。
 ギリシャ人はペルシャの大軍を破って、西洋文明の最初の興隆の波をつくった。ギリシャの後継者ローマは、三次にわたるポエニ戦役など幾多の戦争で、地中海世界における武力的勝利をかちとった。しかし、武力による勝利は、文明の勝利に直結するものではない。
 ローマの中には、ペルシャのミトラ信仰、エジプトのオシリス・イシス信仰など、東洋的な精神文明が流入し、浸透していった。政治体制それ自体も、アジア的な帝政に変わってしまった。最後にローマを征服したのは、ユダヤ教の流れを汲んだキリスト教である。
 ヨーロッパの二本の柱として、ギリシャに発するヘレニズムと、キリスト教のヘブライズムとがあげられるが、このローマ末期から中世末に至る約千年間は、ヘブライズムがヨーロッパを支配した時代なのである。
 近世の始まりもまた、東洋からの光によってもたらされた。十字軍の遠征によるサラセン文明との接触により、ヨーロッパ以外の世界に対する眼が開かれ、サラセン人によって保存されて、研究され伝えられていたギリシャの文化が、ヨーロッパに流入して盛んに研究されるようになったのである。
 以来、ルネッサンス、宗教改革、市民革命、地理的発見時代、産業革命と、各部面における飛躍的な発展がなされ、ヨーロッパ人の世界征服、西洋文明優位の時代へと入っていく。しかし、十九世紀末ごろから、すでに、西洋文明の合理主義、主知主義的思想のみには飽き足りない人々は、東洋の思想、哲学を求めるようになってきた。ニーチェ、ショーペンハウアー等がそれであるが、この風潮は、西洋文明の帰結である物質文明の増長にしたがって、ますます強くなっている。
 かつて、西洋文明が東洋文明を母胎として生育してきたように、いま、行き詰まりの壁に直面した西洋文明は、ふたたび、その新しい生命力の源泉を母なる東洋文明に求めているといえないだろうか。
 いうまでもなく、東洋文明の最高峰であり、その真髄をなすものは仏教哲学である。しかして、その実体は、三大秘法の南無妙法蓮華経である。
 西洋の物質文明のもとにあって、その人間疎外、生命軽視の風潮に対し、生命哲学による真の人間解放と、人間主体性の確立を求めるに至ったことは、むしろ時代の必然の趨勢(すうせい)というべきであろう。

 伝持の人無ければ、猶木石(もくせき)の衣鉢(えはつ)を帯持せるが如し

 およそ仏法の真髄は、人間対人間の生きた関係、すなわち、師匠から弟子へと受け継がれていくものである。たとえいかに勝れた教えであろうとも、令法久住(りょうぼうくじゅう)の精神をもった「伝持の人」がいなければ、その根本精神を後世に伝えることはできない。
「令法久住」とは「法をして久しく住せしめん」と読み、三大秘法の御本尊を永遠に守り、伝持し、弘宣していくことをいう。
 宝塔品には「又(ま)た我(わ)が分身(ふんじん) 無量の諸仏は 恒沙(ごうしゃ)等の如く 来(きた)り法を聴(き)き 及び滅度せる 多宝如来を見たてまつらんと欲して 各(おの)おの妙土 及び弟子衆 天人竜神 諸の供養の事(じ)を捨てて 法をして久しく住せしめんが 故に此(ここ)に来至(らいし)したまえり」(『妙法蓮華経並開結』三八七㌻ 創価学会刊)とある。
 この文について、日蓮大聖人は開目抄下に「夫れ法華経の宝塔品を拝見するに釈迦・多宝・十方分身の諸仏の来集はなに心ぞ『令法久住・故来至此(こらいしし)』等云云、三仏の未来に法華経を弘めて未来の一切の仏子にあたえんと・おぼしめす御心の中をすいするに父母の一子の大苦に値(あ)うを見るよりも強盛にこそ・みへたるを」(二三六㌻)云云と述べられている。すなわち、釈迦・多宝・十方分身の諸仏が法華経の会座に来集したのは、ひとえに令法久住のためであるとの仰せである。
 日蓮大聖人の御一生は、実に、われらの想像を絶する苦難の連続であった。すなわち、文応元年八月二十七日の松葉ケ谷の法難、翌弘長元年五月十二日の伊豆流罪、文永元年十一月十一日の小松原の法難、文永八年九月十二日の竜の口の法難、続いて佐渡流罪等々、三類の強敵は大聖人に容赦なく襲いかかったのである。
 開目抄上にいわく「法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとを(殆)ど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪(こおうざい)にも堕ちぬべし」(二〇二㌻)と。
 日蓮大聖人は権力に屈することなく、立正安国論、十一通の書状等をもって国家諌暁をなされ、本門の本尊を建立なされたのである。
 このように、日蓮大聖人の一生は、末法万年にわたって一切衆生を救済するための、死身弘法の生涯であり、大聖人の行住坐臥ことごとくが、令法久住の慈悲のお振舞いであった。
 報恩抄にいわく「日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)・未来までもなが(流布)るべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(三二九㌻)と。
 日蓮大聖人から、この令法久住の精神を正しく受け継ぎ、奉持したのは、日興上人である。日興上人は、身に影の添うがごとく、二十年間にわたって日蓮大聖人に常随給仕し、流罪先の伊東や佐渡へもお供をしたのである。また熱原の法難に際しては、大聖人の御心を体して、獅子奮迅の戦いを展開されたのであった。
 一方、他の五老僧は、大聖人が入滅されると、時の権力者からの弾圧を免れるため天台沙門(しゃもん)と名乗って師の法門を破ったため、日興上人はただ一人、正義を守って戦われたのである。このことは五人所破抄、富士一跡門徒存知の事等に明らかである。
 やがて日興上人は、地頭波木井実長(はきいさねなが)によって謗法の山と化した身延を離山し、また、最期に臨み「二十六か条の遺誡置文」を遺され、末法万年、未来永遠にわたって、信心のあり方を教示されたのである。
 日興遺誡置文にいわく「後学の為に条目を筆端(ひったん)に染むる事、偏(ひとえ)に広宣流布の金言を仰がんが為なり」(一六一七㌻)またいわく「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」(一六一八㌻)と。
 また、創価学会の戦いも、まさに令法久住のための活動にほかならない。そして、いかなる困難に直面しようとも、絶対に日蓮大聖人の正法正義を厳護しきっていくというのが、創価学会の歴代会長の根本精神である。牧口先生は、国家神道に狂った当時の軍部政権に対して、堂々と国家諌暁を叫び、獄中でその生涯を閉じた。また、戸田先生は、第二次大戦による荒廃の真っただ中に、不死鳥のごとく立ち上がり、見事に七十五万世帯の折伏を達成し、妙法流布のレールを敷かれた。今、創価学会は、世界広宣流布という壮大な目標を掲げて、ばく進し続けているのである。
 各人が生涯、創価学会の中に生ききり、広布への責任感に立って、この令法久住の精神を貫き通していきたいものである。
             顕仏未来記

    第四章 日蓮大聖人は末法出現の御本仏なるを論ず

本文(五〇七㌻一〇行~五〇七㌻一八行)
 疑って云く、何を以て之を知る。汝を末法の初めの法華経の行者なりと為すと云うことを。
 答えて云く、法華経に云く「況(いわん)や滅度の後をや」。又云く「諸(もろもろ)の無智の人有って悪口罵詈等(あっくめりとう)し、及び刀杖(とうじょう)を加うる者あらん」。又云く「数数擯出(しばしばひんずい)せられん」。又云く「一切世間怨(あだ)多くして信じ難し」。又云く「杖木瓦石(じょうもくがしゃく)をもって之を打擲(ちょうちゃく)す」。又云く「悪魔・魔民・諸の天・竜・夜叉(やしゃ)・鳩槃荼(くはんだ)等其の便(たよ)りを得ん」等云云。
 此の明鏡(みょうきょう)に付いて仏語を信ぜしめんが為に、日本国中の王臣・四衆の面目に引き向えたるに、予よりの外(ほか)には一人も之無し。時を論ずれば末法の初め一定(いちじょう)なり。然(しか)る間若(も)し日蓮無くんば仏語は虚妄(こもう)と成らん。
 難じて云く、汝は大慢(だいまん)の法師にして大天(だいてん)に過ぎ、四禅比丘にも超えたり、如何(いかん)。
 答えて云く、汝日蓮を蔑如(べつじょ)するの重罪、又提婆達多に過ぎ、無垢論師(むくろんじ)にも超えたり。我が言(ことば)は大慢に似たれども、仏記を扶(たす)け如来の実語を顕さんが為なり。然りと雖(いえど)も日本国中に日蓮を除いては誰人を取出(とりいだ)して法華経の行者と為さん。汝、日蓮を謗(そし)らんとして仏記を虚妄にす。豈(あに)大悪人に非ずや。

通解
 疑っていうには、あなたを末法の初めの法華経の行者であると決定することは、何をもって知ることができるのであるか。
 答えていうには、法華経に次のように説かれている。法師品には「釈尊在世でさえも怨嫉(おんしつ)が多い。まして、滅後末法に法華経を持ち弘める者には、それにもまさる大怨嫉がおこるであろう」と。勧持品には「滅後末法において法華経を弘める者には、多くの無智の人が、必ず悪口をいったりののしったりなどし、さらに刀で切りつけたり、杖で打ったりする者がいるであろう」と。
 同じく勘持品には「一度ならず二度までも法華経の行者は権力者や大衆に迫害されて所を追い出されるであろう」と。また、安楽行品には「世間のあらゆる人は仏に怨嫉し、正法を信じようとしない」と。また不軽品には「法華経を説けば、増上慢の民衆は、杖木や、瓦、石などをもってこの人を打ちたたき迫害する」と。また前に述べた薬王品にも「悪魔、魔民、諸天竜、夜叉(やしゃ)、鳩槃荼(くはんだ)等の悪鬼、魔神がつけこんで、さまざまな災いをなすであろう」等と説かれている。
 これら法華経の文証という明鏡について、仏語を信じさせるために、日本国中の王と臣下および四衆の行為に当てはめてみるに、この経文に符合するのは予(日蓮大聖人)よりほかに、まったく一人も見当たらない。時を論ずれば、まさしく末法の初めで、まさに「その時」にあたっており、それ故、もし日蓮が出なかったならば、仏語は虚妄となってしまうであろう。
 非難していうには、あなたは大慢の法師であって、その慢心ぶりは、大天に過ぎ、四禅比丘にも超えていると思うが、どうであろうか。
 答えていうには、あなたがこの日蓮を軽蔑する重罪こそ提婆達多の犯した逆罪に過ぎ、無垢論師の罪にも超えている。わが言葉は、大慢に似ているように聞こえるかもしれないが、それは、仏の未来記を立証し、仏の実語を顕わすためなのである。しからば日本国中において、日蓮を除いてほかに、誰人を選び出して法華経の行者ということができようか。それ故、あなたこそこの法華経の行者である日蓮を誹謗しようとして、仏の未来記を虚妄にするものである。これこそ、まさに大悪人ではないか。

語訳
大天(だいてん)
 梵名マハーデーヴァ(Mahādeva)、音写して摩訶提婆(まかだいば)。大天と訳す。釈尊滅後二百年(一説に百年)ごろに末土羅国(まとらこく)の商家に生まれた。「大毘婆沙論」によると、父母および阿羅漢を殺すという三逆罪を犯した。その罪を滅するために摩訶陀国(まかだこく)の鶏園寺(けいおんじ)で出家した。言葉巧みに人々の尊敬を得たことを良いことにして、悪見を起こし、また慢心を生じて自ら阿羅漢を得たと称した。ところが、阿羅漢にも煩悩が起こるなどといった阿羅漢を低く見る説(五事)を唱えたことで、激しい論争が起こり、それにより仏教教団が大きく二つに分裂したと伝えられる。ただし仏教教団の大分裂(根本分裂)は、一説によると、律に関わる見解の相違が起こったことを機に、ヴァイシャーリーで行われたと伝えられる、第二結集の頃に起こったと考えられている。臨終の時は悲惨であったという。

四禅比丘
 梵名シュナサットラ(Sunakṣatra)、音写して修那刹帝羅。善星比丘(ぜんしょうびく)、善宿とも訳す。釈尊存命中の出家者の一人。一説に釈尊の出家以前の子とされる。出家して仏道修行に励み、欲界の煩悩を断じて、四禅を得たので四禅比丘という。しかし悪知識である苦得外道(くとくげどう) に親近し、四禅を失い邪見を生じた。苦得外道は、涅槃経巻三十三には「釈尊を毀謗(きぼう)して、予言どおり七日後に死んで食吐餓鬼(じきとがき)になるが、その時にいた善星比丘は、その事実を知りながら、三十三天(忉利天(とうりてん))に生まれたといった」(取意)とある。食吐餓鬼は、人が吐き出したものを食らうという。それでも善星比丘は仏法の正義を信ずることができず、釈尊の教えを誹謗し、ついに生身で無間地獄に落ちたといわれる。

無垢論師(むくろんじ)
 梵名ヴィマラミトラ(Vimalamitra)、音写して毘末羅蜜多羅、漢訳した無垢友(むくう)の略。五、六世紀ごろの人。大唐西域記巻四によると、インドの迦湿弥羅国(かしみらこく)の論師。説一切有部に属し、広く衆経・異論を学んだ。世親菩薩の倶舎論に論破された衆賢(しゅげん)(梵名サンガバドラ(Saṃghabhadra))の教義を再興し、大乗の名を絶やして世親の名声を滅ぼそうと誓いを立てた。しかし、その誓願の終わらぬうちに舌が五つに裂け、熱血を流して後悔しながら無間地獄に堕ちたという。

講義
 日蓮大聖人こそ末法に出現された、御本仏であることを明かされたところである。
 初めに、なぜ大聖人が末法の法華経の行者であるかとの問いに対し、法華経の文を引用され、もし日蓮大聖人が御本仏として末法に出現されなかったならば、釈尊の経文は、すべて虚妄になることを厳然と言いきったところである。
 そのためさらに、こうしたことを述べるのは大慢の法師ではないかと問う。しかし、日本国に日蓮大聖人を除いて他の誰人も法華経の行者とはならない。故に大聖人を謗(そし)れば、仏記を虚妄にする大悪人となると、大聖人こそ御本仏であることを断言せられている。

 此の明鏡に付いて仏語を信ぜしめんが為に……若し日蓮無くんば仏語は虚妄と成らん

 もし、日蓮大聖人の出現なくば仏法は虚妄になるとの大確信である。釈尊の法華経はことごとく日蓮大聖人の予言書であり、証明の書にほかならない。悠久と二千余年にわたり、大河の流れのごとく西より東に向かった仏法は、ここに日蓮大聖人の大仏法の大海に注がれたのである。
 開目抄上にいわく「いよいよ重科に沈む、還つて此の事を計りみれば我が身の法華経の行者にあらざるか、又諸天・善神等の此の国をすてて去り給えるか・かたがた疑はし、而(しか)るに法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとを(殆)ど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪(こおうざい)にも堕ちぬべし」(二〇二㌻)と。
 そしてさらに「今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈(あっくめり)せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は 妄語となりぬ」(二〇二㌻)と仰せられている。
 また法華取要抄にいわく「問うて云く法華経は誰人の為に之を説くや(中略)滅後の衆生を以て本と為す在世の衆生は傍(ぼう)なり滅後を以て之を論ずれば正法一千年像法一千年は傍なり、末法を以て正と為す末法の中には日蓮を以て正と為すなり、問うて曰く其の証拠如何、答えて曰く況滅度後(きょうめつどご)の文是なり、疑つて云く日蓮を正と為す正文如何、答えて云く「諸の無智の人有つて・悪口罵詈等し・及び刀杖を加うる者」等云云」(三三三㌻)とも仰せられている。
 仏の入滅後、広宣流布の予言は虚しく崩れ去るところであった。もしそのような事態になるならば、釈尊の説いた最高の法華経の予言も、三世諸仏の証明も、天台の出現も、伝教の出現も、なんの意味もなくなるところであった。
 思うに日蓮大聖人は、三大秘法の御本尊を建立なされて、広宣流布の基礎を築かれた。そして、後の広宣流布は、未来の弟子にご遺命されたのである。
 しかるに、この予言を虚妄とすることなく、日本の広宣流布のために、さらに世界広布の実現のために、創価学会は立ち上がったのである。すなわち、創価学会の今日の姿こそ、大聖人の予言が正しかったことを示す証明である。
 されば創価学会の出現、またその行動は、本仏の未来記を現実にあらわしているのである。

 日蓮を蔑如(べつじょ)するの重罪又提婆達多に過ぎ無垢論師にも超えたり

 これは日蓮大聖人が末法の本仏であるとの内証の上から、大聖人を御本仏と拝さない者に対して、その迷妄を破した箇所である。
「仏記を扶(たす)け如来の実語を顕さんが為なり」との言は、まさに仏の未来記を虚妄とせず、末法出現の御本仏であるとの大確信に立ったものである。
 戸田先生はこの文について「この御文意、じつに壮絶で浄光輝き、世に獅子吼(ししく)とは真にこのことであろうか。この声にひとたびひびいて百獣おののく、(中略)すなわち大聖人は、末法の御本仏としての御内証に立って、大聖人を法華経の行者にあらずという者を大声叱咤(たいせいしった)したのである」と述べている。
 開目抄下に「日蓮といゐし者は去年(こぞ)九月十二日子丑(ねうし)の時に頚(くび)はねられぬ、此れは魂魄(こんぱく)・佐土の国にいたりて」(二二三㌻)と述べているように、大聖人の凡夫の身は、そのまま久遠元初の自受用身と顕われたのである。
 

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