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        太田入道殿御返事(業病能治事)

       第二章 病気を治すための良薬を明かす

本文(一〇〇九㌻一〇行~一〇一〇㌻六行)
 竜樹菩薩の大論に云(いわ)く「問うて云く若(も)し爾(しか)れば華厳経乃至般若波羅蜜は秘密の法に非(あら)ず而(しか)も法華は秘密なり等、乃至譬えば大薬師の能(よ)く毒を変じて薬と為すが如し」云云、天台此の論を承(う)けて云く「譬えば良医(ろうい)の能く毒を変じて薬と為すが如く乃至今経の得記(とっき)は即ち是れ毒を変じて薬と為すなり」云云、故に論に云く「余経は秘密に非ず法華を秘密と為すなり」云云、止観に云く「法華能く治(じ)す復(また)称して妙と為す」云云、妙楽云く「治し難きを能く治す所以(ゆえ)に妙と称す」云云、大経に云く「爾(そ)の時に王舎大城の阿闍世王(あじゃせおう)其の性弊悪(へいあく)にして乃至父を害し已(おわ)つて心に悔熱(げねつ)を生ず乃至心悔熱するが故に徧体(へんたい)瘡(きず)を生ず其の瘡臭穢(しゅうえ)にして附近(ふごん)すべからず、爾の時に其の母韋提希(いだいけ)と字(なづ)く種種の薬を以て而も為(ため)に之を傅(つ)く其の瘡遂に増して降損(こうそん)有ること無し、王即ち母に白(もう)す是(か)くの如きの瘡は心よりして生ず四大より起るに非ず若(も)し衆生能く治する者有りと言わば是の処(ことわり)有ること無けん云云、爾の時に世尊・大悲導師・阿闍世王のために月愛三昧(がつあいさんまい)に入りたもう三昧に入り已(おわ)つて大光明を放つ其の光り清凉にして往(ゆ)いて王の身を照すに身の瘡即ち愈(い)えぬ」云云、平等大慧妙法蓮華経の第七に云く「此の経は則ち為(こ)れ閻浮提の人の病の良薬(ろうやく)なり若し人病有らんに是の経を聞くことを得ば病即ち消滅して不老不死ならん」云云。

通解
 竜樹菩薩の大智度論に「問うていう。もしそうであれば、華厳経や般若波羅蜜経は秘密の法ではない。しかも法華経は秘密の法である。(中略)たとえば大薬師がよく毒を変じて薬とするようなものである」とある。
 天台大師はこの論をうけて「たとえば良医がよく毒を変じて薬とするように(中略)今経(法華経)の記別を得ることは毒を変じて薬とすることである」と述べている。故に大智度論に「他の経は秘密ではない。法華経を秘密とするのである」とある。摩訶止観に「法華経はよく治す。また妙と称するのである」とある。妙楽大師は「治し難いのをよく治すために妙と称する」と述べている。涅槃経に「その時にマガダ国の首都・王舎城の阿闍世王はその性質が悪く(中略)父を殺害した後、心に後悔の熱を生じた。心が後悔の熱に冒(おか)される故に、全身に瘡(きず)を生じた。その瘡は臭く汚くて近寄ることができなかった。その時に、阿闍世王の母は韋提希(いだいけ)という名であったが、種々の薬を阿闍世王につけたが、瘡はいよいよ増して軽減することがなかった。阿闍世王は母にいった。このような瘡は心から出たものである。地・水・火・風の四大から起こったものではない。もし衆生がよく治す者がいるというならば、それは偽りであるといった。その時に大慈悲の導師である世尊は阿闍世王のために月愛三昧(がつあいさんまい)に入られた。三昧に入りおわった時に大光明を放った。その光は清凉であり、王の身に届いて照らすと、身の瘡は即座に愈(い)えた」とある。平等大慧の妙法蓮華経の第七に「この経は閻浮提(全世界)の人の病に効く良薬である。もし人が病になっている時に、この経を聞くことができるならば、病は直ちに消滅して不老不死になるであろう」とある。

語訳
竜樹菩薩
 梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)。生没年不明。二世紀から三世紀にかけての南インドの大乗論師。付法蔵第十三祖(一説には第十四祖)。八宗の祖と称される。バラモンの出身で、初め小乗経を学んだが雪山で一老比丘から大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。晩年は南インドのキストナ(Kistna)川上流・黒峰山(吉祥山)に住んで弟子を育成し、提婆菩薩(迦那提婆(かなだいば))に法を付嘱して没したという。著書に「中観論」四巻、「十二門論」一巻、「十住毘婆沙論」十七巻等がある。

大論
 大智度論の略称。百巻。竜樹造と伝えられる。姚秦(ようしん)の鳩摩羅什(くまらじゅう)訳。摩訶般若波羅蜜経釈論ともいう。内容は摩訶般若波羅蜜経(大品般若経)を注釈したもので、序品を第一巻から第三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。大品般若経の注釈にとどまらず、法華経などの諸大乗教の思想を根底に置いて般若空観を解釈し、大乗の菩薩思想や六波羅蜜などの実践法を解明しており、単に般若思想のみならず仏教思想全体を知るための重要な文献であるとともに、後の一切の大乗思想の母体となった。

天台
(五三八年~五九七年)。中国・南北朝から隋代にかけての人で、中国天台宗の開祖。天台大師、智者大師ともいう。諱(いみな)は智顗(ちぎ)。字(あざな)は徳安。姓は陳氏。荊州華容県(湖南省)に生まれる。十八歳の時、湘(しょう)州果願寺で出家し、次いで律を修し、方等(ほうどう)の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(五六〇年)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにしている。

妙楽
(七一一年~七八二年)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の教義を宣揚(せんよう)し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(けいけい)(江蘇省)の人。諱(いみな)は湛然(たんねん)。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元十八年(七三〇年)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝七年(七四八年)三十八歳の時、宿願を達成して宜興浄楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴(ぶつろう)道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」十巻、「法華文句記」十巻、「止観輔行伝弘決」十巻、また「五百問論」三巻等多数ある。

阿闍世王(あじゃせおう)
 梵名アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨(みしょうおん)と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ(摩掲陀国)国の王。父は頻婆沙羅王(びんばしゃらおう)、母は韋提希夫人(いだいけぶにん)。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人が化身したうさぎを殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王の怨(あだ)となるであろう」と予言した。やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世を別名、婆羅留枝(ばらるし)、折指(しゃくし)ともいう。阿闍世太子は長じて提婆達多に親近(しんごん)し、父を殺し、母を幽閉し、釈尊を酔象で殺そうとした。だが全身に悪瘡(あくそう)ができて臨終に近づいた。釈尊は阿闍世のために月愛三昧(がつあいさんまい)に入り涅槃経を説いた。その結果、悪瘡は癒(い)えて寿命を延ばした。そのことで阿闍世は心から釈尊に帰依し、仏滅後経典の結集に力を尽くしたといわれる。

降損(こうそん)有ること無し
 降は負ける、退く、損は失うの意。すなわち瘡(きず)が退き少なくなることがなかった、快方に向かわなかったことをいう。

講義
 さらに論釈を引かれて、法華経こそ治し難い病を治すための最高の良薬であることを明かされている。
 初めに、竜樹菩薩の大智度論にある「般若波羅蜜は秘密の法に非ず、而るに法華等の諸経は阿羅漢の受決作仏(じゅけつさぶつ)を説き、大菩薩は能く受持し用いるは、譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」の文が要約して挙げられている。
 阿羅漢の受決作仏が説かれているとは、舎利弗等の二乗が仏から成仏の記別を受けて劫・国・名号が決定(けつじょう)したことをいうので、法華経こそが妙であり、比べるものがないほど勝れていることを明かしているのである。その意味から「華厳経乃至般若波羅蜜(般若部の諸経の意)は秘密に非ず而(しか)も法華は秘密なり」と記されているのであろう。秘密とは内容の深い法門をいい、秘法という意味である。
 天台大師は法華玄義で、大智度論の文意を承(う)けて、譬えば良医が能く毒を変じて薬とするように、法華経において二乗が成仏の記別を受けたことは、すなわち毒を変じて薬とするようなものである、と釈している。諸経で永不定仏(ようふじょうぶつ)とされていた二乗が、法華経において成仏を許されたことは、毒を変じて薬とするようなものである、との意である。
 また、摩訶止観には、法華経はよく二乗や闡提(せんだい)を治すので、また妙と称するのであると説き、妙楽大師は他経では治せない者をよく治すので、妙と称するのであると述べている。法華経のみが、諸経では永く成仏できないとしている二乗や一闡提をも成仏できるとしているので、妙というのである、との意である。「秘密」も「妙」も、凡夫の知恵・理解の及ばないことを意味しているのである。
 次に、涅槃経の阿闡世王の故事が引かれている。阿闡世王は中インドのマガダ国の王で、太子であった時に提婆達多に唆(そそのか)されて、仏教の外護者であった父・頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)を監禁して死に至らせた。王位についてからは、マガダ国を当時のインド第一の強国にしたが、そのために近隣の国々を滅ぼしたり苦しめたうえ、強大な力を使って仏教を弾圧した。また、提婆達多を新仏にするため、象に酒を飲ませて放し、釈尊を踏み殺させようとしたという。
 マカダ国の王舎城の阿闡世王は、その性分が極悪だったが、父王を殺害したことへの強い後悔の念から熱を生じて、全身に瘡(できもの)ができ、悪臭を放つため人々が近づくこともできない状態となった。母の韋提希夫人(いだいけぶにん)が種々の薬をつけたが、かえって悪瘡が増えるだけで、少しも軽くはならなかった。王は母に対して、この悪瘡は心から生じたものであって、四大の不調和から起こったものではないから、世間の者がこの病を治せるといっても、その道理はない、と語った。その時、世尊であり大慈悲の導師である仏が、阿闡世王のために月愛三昧に入って大光明を放ち、その清涼な光が王の身を照らすと、悪瘡がたちまち治った――というのが涅槃経の文の要旨である。
 月愛三昧の月愛とは、仏の慈悲を月の光のさまざまな働きに譬えたもので、大光明とは仏の大慈悲が阿闡世王を包んだことをいったものであろう。阿闡世王は、自分を唆(そそのか)した提婆達多が生きながら地獄に堕ちたことを知り、また悪業への悔いから、全身に悪瘡(あくそう)を生じ、寿命も尽きようとしたのを、耆婆(ぎば)大臣に諌められて、仏法に帰依し、仏の慈悲の力によって救われ、その後、四十年も寿命を延ばして仏教を外護しているのである。
 次に、法華経の薬王菩薩本事品第二十三に説かれた、法華経こそ一閻浮提の人の病の良薬であり、病の人がこの経を聞くことができれば、病が即、消滅して不老不死となるであろう、との文が引かれている。
 平等大慧妙法蓮華経とは、妙法蓮華経こそ一切衆生を平等に利益(りやく)する仏の智慧であることを示すために、このように書かれたと拝される。
 なお、この薬王品の文について、御義口伝には、「是は滅後当今の衆生の為に説かれたり、然(しか)らば病とは謗法なり、此の経を受持し奉る者は病即消滅疑無きなり、今日蓮等の類(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり」(七七四㌻)と述べられている。法華経の大良薬にしてはじめて謗法という最も重い悪業に起因する病などの苦悩が癒されるのであり、妙法を受持した者は病即消滅となり、謗法の罪障を消滅して成仏することは疑いない、と示されているのである。
        太田入道殿御返事(業病能治事)

      第一章 病気について述べた経釈を挙げる

本文(御書全集一〇〇九㌻初~一〇〇九㌻一〇行)
 貴札(きさつ)之を開いて拝見す、御痛みの事一たびは歎き二たびは悦びぬ、維摩詰(ゆいまきつ)経に云く「爾(そ)の時に長者維摩詰自ら念ずらく寝(い)ねて牀(とこ)に疾(や)む云云、爾の時に仏・文殊師利に告げたまわく、汝維摩詰に行詣(ぎょうけい)して疾(やまい)を問え」云云、大涅槃経に云く「爾の時に如来乃至身に疾有るを現じ、右脇にして臥(ふ)したもう彼(か)の病人の如くす」云云、法華経に云く「少病少悩」云云、止観の第八に云く「若(も)し毘耶(びや)に偃臥(えんが)し疾に託(つ)いて教を興す、乃至如来滅に寄せて常を談じ病に因つて力を説く」云云、又云く「病の起る因縁を明すに六有り、一には四大順ならざる故に病む・二には飲食(おんじき)節ならざる故に病む・三には坐禅調わざる故に病む・四には鬼(き)便りを得る・五には魔の所為(そい)・六には業の起るが故に病む」云云、大涅槃経に云く「世に三人の其の病治(じ)し難き有り一には大乗を謗(ぼう)ず・二には五逆罪・三には一闡提(いっせんだい)是くの如き三病は・世の中の極重なり」云云、又云く「今世(こんぜ)に悪業成就し乃至必ず地獄なるべし乃至三宝を供養するが故に地獄に堕せずして現世に報を受く所謂(いわゆる)頭と目と背との痛(なや)み」等云云、止観に云く「若し重罪有つて乃至人中に軽く償(つぐな)うと此れは是れ業が謝せんと欲する故に病むなり」云云。

通解
 あなたのお手紙を開いて拝見した。お痛みのことについて、ひとたびは歎き、ふたたびは悦んだ。維摩詰経に「その時に長者の維摩詰自らが念じた。寝込んで病床に伏そうと。その時に仏が文殊師利に告げられた。汝よ、維摩詰のところに見舞いに行って病状を問いなさい、と」とある。大涅槃経に「その時に如来は(中略)身に病がある姿を現じ、右脇を下にして伏された。彼(か)の病人のようにされた」とある。法華経に「少く病み少く悩む」とある。摩訶止観の第八に「維摩詰が毘耶梨(びやり)城の自邸に倒れ伏し、病に寄せて教えを説き起こしたのと同じように(中略)如来は入滅に寄せて常住を談じ、病によって功力(くりき)を説いた」とある。また「病の起こる因縁を明かすのに、六種ある。一には地・水・火・風の四大が順調でない故に病む。二には飲食(おんじき)が節制されていない故に病む。三には坐禅が正しく調わない故に病む。四には鬼(き)が便りを得る。五には魔の為すところ。六には業の起こる故に病む」とある。大涅槃経に「世に病の治(じ)し難い三種の人がある。一には大乗教を誹謗する人。二には五逆罪を犯す人。三には一闡提の人。このような三種の病は世の中の病のうちで極めて重い」とある。また「今世に悪業を成就し(中略)必ず地獄に堕ちるだろう(中略)仏・法・僧の三宝を供養する故に地獄に堕ちることなく現世に報を受ける。いわゆる頭と目と背との痛み」等とある。摩訶止観に「もし重罪を犯して(中略)人の中で軽く償うと。これは悪業が消滅しようとする故に病むのである」とある。

語訳
維摩詰(ゆいまきつ)経
 維摩経・維摩詰所説経(ゆいまきつしょせっきょう)・浄名経・不可思議解脱経ともいう。梵本は失われ、大乗集菩薩学論の中に引用文として断片的に残っているだけである(※追記参照)。在家の大信者である維摩詰が、偏狭な二乗の弟子を啓発し、般若の空理によって不可思議な解脱の境涯を示し、一切万法に帰することを説いている。後漢の厳仏調(ごんぶっちょう)以来、七回漢訳されたとされるが、現存するのは三訳である。①呉代の支謙訳「維摩詰経」(「仏法普入道門三昧経」ともいう)二巻、②姚秦(ようしん)代の鳩摩羅什訳「維摩詰所説経」三巻、③唐代の玄奘訳「説無垢称経」六巻。また注釈書には天台大師の維摩経疏(「維摩経玄疏」六巻と「維摩経文疏」二十八巻」)、聖徳太子の「維摩経義疏」三巻など多数ある。
〈追記〉
 一九九九年、チベットのポタラ宮殿で維摩経のサンスクリット原典が発見された。これにより『梵漢和対照・現代語訳 維摩経』(二〇一一年 植木雅俊著 岩波書店刊)が著された。

長者維摩詰
 長者である維摩詰。長者とは①金持ち・富豪・資産家。②氏族の統率者。③年長者・長老。④徳のすぐれた人。⑤東寺(真言宗)の座主。ここでは①と④を合わせた意。維摩詰は梵名ヴィマラキールティ(Vimalakīrti)の音写。毘摩羅詰(びまらきつ)などとも書き、浄名(じょうみょう)・無垢称などと訳す。維摩居士ともいわれる。中インド・毘耶梨(びやり)(毘舎離(びしゃり)・ヴァイサーリー)城の長者で在家の仏教者。維摩経によると、ある時、維摩詰が病気になり、仏が誰か見舞いに行くよう勧めたが、舎利弗・目連・大迦葉等は論破されることを恐れて辞退した。そこで文殊師利が舎利弗等を伴って見舞いに行き、維摩詰と大乗の妙理について法論を行ったという。

偃臥(えんが)
 腹ばいに伏すこと。

講義
 本抄は、建治元年(一二七五年)十一月三日、日蓮大聖人が五十四歳の時、身延で著(あらわ)されて、下総国の大田乗明(おおたじょうみょう)に送られた御消息である。大田乗明が、病にかかったことを大聖人に手紙でご報告したのに対する御返事で、別名を「業病能治事(ごうびょうのうじのこと)」という。
 この建治元年の四月には、蒙古の使者・杜世忠(とせいちゅう)が長門(山口県)の室津(むろつ)に着いている。幕府は一行を鎌倉へ連行したうえで、九月七日に竜の口の刑場で処刑している。これによって、蒙古軍の再度の襲来は確実になったといえる。また、この年に、駿河国富士郡熱原郷(現在の静岡県富士市)の天台宗滝泉寺(りゅうせんじ)の住僧、日秀・日弁・日禅らが日興上人の化導によって大聖人の門下となっている。そのため、六月には院主代の行智(ぎょうち)による迫害が起こり、三河房頼円(らいえん)は退転し、日秀・日禅は滝泉寺を退去、日秀は寺に留まって熱原の農民に対して弘教を進めている。後の熱原の法難の萌芽がこの年に芽生えているのである。
 本抄の内容は、経釈の文を引いて病気の原因に六つあることを明かされ、その中でも第六の業病(ごうびょう)が最も治(じ)し難いこと、業病の中でも法華経誹謗の業病が最も重いことを示されている。次に、大田乗明の病気の原因が謗法によるものであったとしても、妙法を持(たも)っているので病気を治すことができて、長寿を招くことは疑いないとされ、病気の平癒を強く祈るように信心を励まされている。
 初めに、大田乗明が病気になったことについて、一度は嘆いたが、再びは悦んでいるとされ、悦んでいる理由として、経論の文を引かれ、これにより仏法をさらに深く学ぶことができるからであると仰せられている。維摩詰経には、在家の信徒でありながら大乗仏教に通達していた毘耶離(びやり)城の長者・維摩詰(ゆいまきつ)が、自ら念じて病を現して床についたのに対し、釈尊が文殊師利菩薩に維摩詰の所へ赴いて病気を見舞うように命じた、と説かれている。維摩詰は、見舞いにきた文殊に、衆生を憐れむ故に病を現じたのであると述べ、仏法の大慈悲について説くのである。大涅槃経には、釈尊が涅槃に入る時に際し、身に病を現して、右脇を下にして臥したが、これも衆生に仏の少病少悩を示すためで「仏には真実の疾病(しっぺい)というものはない」と説いているのである。また、法華経の従地涌出品第十五では、地涌の菩薩が仏に向かって、「世尊よ。少病少悩にして、安楽に行(ぎょう)じたまうや不(いな)や」(『妙法蓮華経並開結』四五五㌻ 創価学会刊)と問うたのに対して、仏は「如来は安楽にして、少病少悩なり」(同・四五六㌻)と答えている。
 次に、これら二つの事例の意義について、天台大師が摩訶止観の中で釈した文が引かれている。摩訶止観巻八で天台大師は、維摩詰が毘耶離城の邸で倒れ伏し、病気によせて教えを説き起こしたように、仏は入滅によせて常住を語り、病気によってその力を説いたのである、と釈している。
 摩訶止観では、さらに病の起こる因縁に六つあることを明かし、一には人体や自然の構成要素である地・水・火・風の四大の調和が崩れること(四大不順)によって病み、二には飲食(おんじき)の不節制によって病み、三には坐禅が整わないために病み、四には悪鬼が便(たよ)りを得ることによって病み、五には天魔が悩ますために病み、六には前世に造った業によって病むのである、と説いている。
 第一の四大不順とは、仏教では宇宙の構成要素を地水火風の四大ととらえており、人体を構成する四大の不順によって病気が起こるとしている。仏医経では、これをさらに詳しく、四大の不順によって四百四病が起こることを説いている。竜樹の大智度論では、人体が四大によって構成されていることについて、血・肉・筋・骨・骸・髄等が地大にあたるとしており、水大とは、血液やリンパ液等がそれにあたると考えられる。火大とは体温がそれであり、風大とは呼吸がそれにあたるとしている。
 したがって、これら四大それぞれに異常をきたして病が起きるのであるが、また環境世界を構成している四大の調和が乱れることによって病がもたらされる場合もある。いずれにせよ、これらは「身の病」として括(くく)ることが可能で、中務左衛門尉殿御返事には、「一には身の病所謂(いわゆる)地大百一・水大百一・火大百一・風大百一・已上四百四病・此の病は治水(じすい)・流水(るすい)・耆婆(ぎば)・偏鵲(へんじゃく)等の方薬をもつて此れを治す」(一一七八㌻)と述べられている。
 二の飲食(おんじき)の不節制による病とは、食べすぎや飲みすぎ、偏食や栄養失調などが原因となって起こる病気といえよう。
 三の坐禅が整わないために起こる病気とは、坐禅は結跏趺坐(けっかふざ)とか半結跏趺坐といった身体の姿勢を調えることによって心の乱れるのを防ぎ、法性・仏性を求める修行法をいうところから、広い意味で、日常の姿勢の悪さや、さらにいえば運動不足、逆に肉体を酷使することなどによって起こる病気を指すと考えられる。
 四の鬼(き)が便(たよ)りを得ることによって起こる病気とは、鬼は人の功徳や生命を奪う働きとされていることから、現在でいえば病原菌等によって起こる病気と考えられる。
 五の魔の所為(そい)によって起こる病とは、魔は衆生の心を悩乱させる働きをいうことから、本能的欲望や感情が乱れることによる病気を指すものと考えられる。
 六の業が起こることによる病とは、前世の悪業を原因として起こる難病をいう。この病の六種の因は、病の起こる原因の違いによって立て分けたものと考えることができる。そして、この原因が潜む深さによって対処法も異なってくるのである。
 特に悪業が原因となる病は深く重い。その悪業すなわち悪い行いにもさまざまあるが、最も深い悪業が、次の大涅槃経に説かれている三種である。ここでは、世の中に最も治し難い病人が三人おり、第一は大乗経を誹謗する者であり、第二は五逆罪を犯すものであり、第三は一闡提(いっせんだい)、すなわち断善根・信不具足と訳し、正法を信ぜず、悟りを求める心がなく、成仏する機縁を持たない衆生であり、それによって起こる病は極重病である、と説かれている。これらの罪業はきわめて深く重いために、それを滅することは難しく、その悪業を原因として起こる業病もまた治し難いために極重病となるのである。また、同経には、今世に悪業をなせば来世には必ず地獄に堕ちて大苦悩を受けなければならないが、仏・法・僧の三宝を供養することによって地獄には堕ちず、現世にその報いを受けて頭と目と背の痛みとなって現れるのである、とも説いている。正法誹謗などの悪業を行えば、来世に地獄に堕ちることは間違いないが、正法を信受して三宝を供養するならば、地獄に堕ちるべき悪業の報いを現世に軽く受けることができて、それが頭や目や背の痛みなどとして現れて罪業を滅するのである、との転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)の法理を明かしているのである。
 摩訶止観には、もし重罪があっても、今生に軽く償う場合には、悪業を消滅させるために病気になる、と説かれている。正法を持った場合には、過去の悪業の報いが病気となって現れ、今世に軽く受けて罪業を償うことができるのである。
 これらの文は、病気という角度から、人間の不幸、苦しみの起こる原因と、それを治す原理を明かしているもので、さまざまな他の苦悩にも当てはめて考えることができる。
        太田殿女房御返事(即身成仏抄)

      第六章 仏法違背が亡国の因となるを示す

本文(一〇〇八㌻六行~一〇〇八㌻終)
 外典三千余巻は政当(せいどう)の相違せるに依つて代(よ)は濁ると明(あか)す、内典五千・七千余巻は仏法の僻見(びゃっけん)に依つて代濁るべしとあかされて候、今の代は外典にも相違し内典にも違背せるかのゆへにこの大科一国に起りて已(すで)に亡国とならむとし候か、不便(ふびん)不便。
  七月二日               日 蓮  花 押
   太田殿女房御返事

通解
 儒教等の三千余巻の書籍には、政道に相違すれば世の中が濁ると明かし、仏教の五千、七千余巻の経典には、仏法の誤った考えによって世の中が濁ると明かされています。今の世は儒教等の教えにも相違し、仏教の経典にも違背しているが故に、大きな罪が一国に起こって、すでに国が亡びようとしているのです。まことに不憫(ふびん)なことです。
  七月二日               日 蓮  花 押
   太田殿女房御返事

語訳
外典三千余巻
 中国の儒教と道教の書に三千余巻あること。前漢書によれば秦の始皇帝の焚書の後に漢代に集めた群書は三千一百二十三巻とあり、白虎通によれば黄帝以来の書は三千二百四十編とあり、また太平記には三千七百六十余巻とある。
〈追記〉
『前漢書』は『漢書』の異称。百二十巻。後漢の班固(はんこ)(三二年~九二年)が撰し、妹の班昭(はんしょう)が補修。漢の歴史については司馬遷による『史記』が武帝のなかばまでで終わっているため、班固の父の班彪(はんひょう) がそれ以後の歴史を記した後伝六十五編を著わした。班固は、これに武帝以前の歴史を加えて前漢一代および王莽(おうもう)の簒奪とその滅亡に至るまでの歴史を、二十年余を費やして著述し、西暦八十年ないし八十二年頃成立。「四人の手を経て、三、四十年を閲(へ)て始めて完成した」(清朝の趙翼)の言にあるとおり、班彪(父)と班固の親子二代にわたる遺志が成就したものであり、班固の死後は、班昭(妹)、馬続(ばしょく)(弟子)が未完部分を書いた。
『白虎通』は後漢の班固の編。後漢の章帝は建初四年(七九年)、前漢の宣帝が甘露三年(紀元前五一年)に石渠閣で五経の異同を議論させ正統な解釈を定めたことにならい、白虎観に学者を集めて経典の解釈について議論させ、その結果を班固に編纂させた。当時、儒教経典の解釈につき、今文と古文の学が対立していたことが背景にあったと考えられている。語訳の数字は、白虎通德論巻八の五経にある。
 日本の『太平記』巻第二十六には「三墳五典史書全経、総て三千七百六十余巻、一部も天下に不残(のこらず)、皆焼捨られけるこそ浅猿(あさまし)けれ」(二二三 妙吉侍者事付秦始皇帝事 より一部抜粋)とある。

内典五千・七千余巻
 一切経の意。智昇が唐の開元十八年(七三〇年)に撰述した、経論の目録である『開元釈教録』には、それまでに中国に伝来したと記録されるすべての経論を五千四十八巻とし、貞元十六年(八〇〇年)に唐の円照が撰述した『貞元釈教録』では七千三百八十八巻とある。この収録された巻数を略して五千七千といい、一切経の巻数を表すとされた。
〈追記〉
『開元釈教録』は智昇編による訳経目録。智昇は中国・唐代の西崇福寺の僧で、後漢の明帝永平十年(六七年)から開元十八年(七三〇年)までの仏教経典目録(経録)を編纂した。中国史上、幾多の経録が編纂されたが、後世の経録の範とされた。漢訳経典二千二百七十八部・七千四十六巻を収録、うち現蔵入蔵目録(大乗・小乗入蔵録=大蔵経に編入すべき仏典)は一千七十六部・五千四十八巻である。

講義
 世が乱れ国が亡びる原因を外典(世法の教え)と内典(仏法の教え)の両面から明かされ、当時、日本一国が蒙古に責められて、亡国となろうとしている原因を、仏法に違背している故である、と指摘されている。
 本抄が著された建治元年(一二七五年)の四月には、蒙古の国使(宣諭使)・杜世忠(とせいちゅう)の一行が長門(ながと)(山口県)の室津に着き、鎌倉へ護送されている。幕府は一切の交渉をせず、九月七日に竜の口の刑場で国使五人の首を切ってしまった。蒙古の国使を処刑したことで、蒙古軍が襲来することは必至となったため、幕府は執権北条時宗の弟宗頼(むねより)・実政(さねまさ)等を鎮西(ちんぜい)に派遣し、博多湾の沿岸に防塁(当時は石築地(いしついじ)と称した)を築き始めるなど、九州防衛のための軍備の強化を図っている。
 しかし、先の文永の役で蒙古軍の強さは身にしみていたから、前回よりも強大な蒙古軍が再び襲来した場合、日本国は亡ぼされてしまうのではないか、と多くの人々が危惧していたのである。
 大聖人は、このように世が乱れる原因を、儒教等の外典では政道を誤ったためであると説き、仏典では仏法を誤って正法を信ぜず邪法が広まっているからであると説いている、と指摘されている。
 政道とは政治の道のことで、施政の方法やまつりごとの道義や道理をいう。儒教では、世を治め人民の苦しみを救うことを目的とする経世済民(けいせいさいみん)の道を説いており、為政者が道理に背いた悪政を行うと世が乱れるとしている。仏典では、金光明経等の諸経に、人々が正法を信ぜずに悪法を信ずる故に世が乱れて種々の災難が起こると説かれている。立正安国論で大聖人は、そうした諸経の文を引かれて「倩(つらつ)ら微管(びかん)を傾け聊(いささ)か経文を披(ひら)きたるに世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来(きた)り鬼(き)来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず」(一七㌻)と述べられ、競い起こる三災七難の原因は人々が正法を誹謗し悪法を信ずるからである、と明かされた。そして、安国論の中で、為政者がこのまま邪法への帰依を続けるならば必ず起こるであろうと予言された他国侵逼難が、現実になったのが蒙古の襲来だったのである。今の蒙古が襲来するというような大きな科(とが)は、為政者に説かれた政道の法にも仏法にも背いているから起きたことで、そのため国が亡びようとしているのである、と明かされている。
 この点については下山御消息にも「今の世も又一分もたがふべからず日蓮を賎(いやし)み諸僧を貴び給う故に自然(じねん)に法華経の強敵(ごうてき)となり給う事を弁(わきま)へず、政道に背きて行はるる間・梵釈.日月・四天・竜王等の大怨敵となり給う、法華経守護の釈迦・多宝・十方分身(ふんじん)の諸仏・地涌千界・迹化他方・二聖(にしょう)・二天・十羅刹女・鬼子母神・他国の賢王の身に入り代りて国主を罰し国をほろぼさんとするを知らず」(三六二㌻)と述べられている。為政者が讒言(ざんげん)を信じ、政道の法に背いて何の罪もない大聖人を不当に死罪・流罪にし、法華経の敵となったために、蒙古に責められて国が亡びようとしているのである、とのこの御文は、本抄と同じ趣旨をより具体的に示されているといえよう。ともあれ、四箇の格言でも「真言亡国」と述べられているように、謗法の諸宗いずれにも亡国の罪があるが、特に真言の邪法が亡国と関連しているというのが大聖人の一貫した主張であり、本抄でも真言の邪義を厳しく破折されたうえで、蒙古軍の再度の来襲が取り沙汰される時世に触れて、このように結ばれたと拝される。

出典『日蓮大聖人御書講義』第十八巻上(編著者 御書講義録刊行会 発行所 聖教新聞社)

             太田殿女房御返事(即身成仏抄)―了―
        太田殿女房御返事(即身成仏抄)

      第五章 即身成仏の法は法華経のみと明かす

本文(一〇〇七㌻一六行~一〇〇八㌻五行) 
 即身成仏の手本たる法華経をば指(さし)をいて・あとかたもなき真言に即身成仏を立て剰(あまつさ)え唯の一字を・をかるる条・天下第一の僻見(びゃっけん)なり此れ偏(ひとえ)に修羅根性の法門なり、天台智者大師の文句(もんぐ)の九に寿量品の心を釈して云く「仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」とかかれて候、此れこそ即身成仏の明文(みょうもん)にては候へ、不空三蔵此の釈を消さんが為に事を竜樹に依せて「唯真言の法の中にのみ即身成仏するが故に是の三摩地(さんまじ)の法を説く諸教の中に於て闕(か)いて書(しる)せず」とかかれて候なり、されば此の論の次下(つぎしも)に即身成仏をかかれて候が・あへて即身成仏にはあらず生身得忍(しょうしんとくにん)に似て候、此の人は即身成仏は・めづらしき法門とはきかれて候へども即身成仏の義はあへて・うかが(窺)わぬ人人なり、いかにも候へば二乗成仏・久遠実成を説き給う経にあるべき事なり、天台大師の「於諸教中秘之不伝(おしょきょうちゅうひしふでん)」の釈は千且(せんしゃ)千且恐恐。

通解
 即身成仏の手本である法華経をさしおいて、その片鱗すら明かしていない真言に即身成仏を立て、そればかりか、「唯」(ただ真言に限る)の一字を置いたことは、天下第一の誤った考えです。これは、ひとえに修羅根性から出た法門なのです。
 天台大師の法華文句の九の巻に法華経寿量品の真意を釈して「仏は三世において等しく三身を具えているが、(法華経以外の)諸教には、これを隠して伝えていない」と書かれています。これこそ法華経に即身成仏が説かれているという明らかな文です。不空三蔵はこの釈を打ち消すために、竜樹にことよせて「唯真言の法の中にのみ即身成仏できるが故にこの三摩地の法を説いた。他の諸教の中には書かれていない」と記したのです。
 したがって、この論の次に即身成仏のことを書いていますが、まったく即身成仏ではなく、華厳経等の菩薩の「生身得忍」に似たものにすぎません。
 この人(不空菩薩)は、即身成仏が尊い法門であるとは聞いていましたが、即身成仏の実義はまったくうかがい知ることのない人だったのです。まことに、即身成仏は、二乗の成仏と仏の久遠実成を説かれている経(法華経)だけにあるべきことなのです。天台大師の「諸教の中には隠して伝えていない」との釈がありますが、(法華経の即身成仏は)栴檀の香りのように他に抜きん出た勝れた法門なのです。

語訳
天台智者大師
(五三八年~五九七年)。中国・南北朝から隋代にかけての人。天台宗開祖(慧文、慧思に次ぐ第三祖でもあり、竜樹を開祖とするときは第四祖)。天台山に住んだので天台大師といい、智者大師とも尊称される。姓は陳氏。諱(いみな)は智顗(ちぎ)。字(あざな)は徳安。荊(けい)州華容県(湖南省)の人。父の陳起祖は梁の高官であったが、梁末の戦乱で流浪の身となった。その後、両親を失い、十八歳の時、湘州果願寺の法緒(ほうしょ)について出家し、慧曠(えこう)律師から方等・律蔵を学び、大賢山に入って法華三部経を修学した。陳の天嘉元年(五六〇年)光州の大蘇山に南岳大師慧思(えし)を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日(しゃくにち)、霊山(りょうぜん)に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復(また)来る」(隋天台智者大師別伝)と、その邂逅(かいこう)を喜んだ。南岳は天台に普賢道場を示し、四安楽行を説いた。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏(ごちゅうしょぶつ)、同時讃言(どうじさんごん)、善哉善哉(ぜんざいぜんざい)。善男子(ぜんなんし)。是真精進(ぜしんしょうじん)。是名真法供養如来(ぜみょうしんほうくようにょらい)」(『妙法蓮華経並開結』五八五㌻ 創価学会刊)の句に至って身心豁然(しんじんかつねん)、寂として定に入り、法華三昧を感得したといわれる。これを大蘇開悟(だいそかいご)といい、後に薬王菩薩の後身と称される所以となった。南岳から付属を受け「最後断種の人となるなかれ」との忠告を得て大蘇山を下り、三十二歳(あるいは三十一歳)の時、陳都金陵の瓦官寺に住んで法華経を講説した。宣帝の勅を受け、役人や大衆の前で八年間、法華経、大智度論、次第禅門を講じ名声を得たが、開悟する者が年々減少するのを嘆いて天台山に隠遁を決意した。太建七年(五七五年)天台山(浙江省)に入り、翌年仏隴峰(ぶつろうほう)に修禅寺を創建し、華頂峰で頭陀を行じた。至徳三年(五八五年)に陳主の再三の要請で金陵の光宅寺に入り仁王経等を講じ、禎明元年(五八七年)法華文句を講説した。開皇十一年(五九一年)隋の晋王であった楊広(のちの煬帝)に菩薩戒を授け、智者大師の号を受けた。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じたが、間もなく晋王広の請いで揚州に下り、ついで天台山に再入し六十歳で没した。彼の講説は弟子の章安灌頂(かんじょう)によって筆記され、法華三大部などにまとめられた。

生身得忍(しょうしんとくにん)
 華厳経などに説かれる、現実の身のままで無生法忍(むしょうほうにん)という悟りの極果を得ること。生身とは父母から生じた肉体を指し、忍とは忍可・認知の意。無生法忍とは三法忍の第三で、一切のものが不生不滅であると悟ること、すなわち涅槃の法理に安住し心が動じない位のこと。

千且(せんしゃ)千且
 御真筆には「千旦千旦」と記されている。千旦(せんたん)は栴檀のことで、栴檀は種々の悪臭を除き去るといわれる。ここでは真言の邪義を悪臭にたとえ、栴檀が悪臭を除き去るのと同じく、法華経が真言の邪義を破折し、唯一の成仏の教えであることを現す意で仰せられたと考えられる。

講義
 真言法の中にのみ即身成仏が説かれているとする不空の邪説を破折し、法華経のみに即身成仏の実義があることを明かされている。
 経文の根拠もなしに即身成仏を立て、しかも唯真言に限るとした不空の説は、即身成仏の法である法華経を否定したもので、天下第一の僻見(びゃっけん)であり、誤りであると指摘され、これは修羅根性の法門である、とされている。
 修羅根性とは、猜疑(さいぎ)の心や嫉妬(しっと)の心が強く、常に他に勝ることを望み、他と争うことを好む心をいい、不空が即身成仏を説いた法華経を差し置いて、真言のみが即身成仏の法であるとした根底にあるのは、嫉妬と勝他の念以外の何ものでもない、と指摘されたのである。
 そして、天台大師の法華文句巻九に、寿量品の如来秘密の句を釈して、「仏三世に於いて等しく三身有り諸教の中に於いて之を秘して伝えず」と述べている文を引かれている。仏は過去・現在・未来の三世にわたって、常に報身・法身・応身の三身を具えているが、法華経以外の諸教には、これを秘して説いていない、との意である。
 法身・報身・応身の三身は爾前の諸経にも説かれているが、この三身を一身に具えた仏が久遠常住であることを明かされたのは法華経のみである。しかし、法華経でも迹門における釈尊は、三身を具えているといっても始成正覚の仏なので三世常住の仏ではない。如来寿量品第十六で久遠実成が明かされ、久遠の昔から三世にわたって三身を具足する仏の本地が明かされたのである。
 三世常住に三身を具えた仏こそ真の仏なので、この文句の文こそ、真の即身成仏を明かした明文である、とされているのである。
 不空は、この天台の文が念頭にあり、これに対抗するために、竜樹の著作にかこつけて、唯、真言の法の中だけに即身成仏ができるから、三昧の行法を説いているので、その他の諸経にはまったく即身成仏の義は欠けていて説かれていない、と書いたのである、と指摘されている。不空は、真言の諸経には即身成仏の明文がないため、竜樹の著作という権威を借りて、真言にのみ即身成仏の法が説かれているという偽りの文言を作り、人をたぶらかしたのである。
 さらに、菩提心論のその後の部分で即身成仏について述べているが、それは真の即身成仏ではなく、せいぜい華厳経などの菩薩の生身得忍に近いものにすぎない、と指摘されている。生身得忍とは、現実のこの身(生身)のままで無生法忍といって一切の諸法は不生不滅であるという真理を悟って心が安住する位をいい、不退の位に入った華厳経の菩薩の境地をいう。しかし、生身得忍に似ているとされているのは、生身得忍ですらないということにもなり、即身成仏どころか菩薩の悟りを得られるにすぎないことを示しているのである。
 なお、菩提心論の即身成仏の文とは「今、真言の行人(ぎょうにん)、既に人法の二執を破り、能(よ)く真実を正見する智と雖(いえど)も、或は無始の間隔(けんきゃく)を為し、未だ能く如来の一切智智に於いて証せず、妙道を欲求し、次第に修持(しゅじ)し、凡より仏位に入るは、即この三摩地の者で、能く諸仏の自性(じしょう)に達し、諸仏の法身を悟り、法界体性(たいしょう)の智を証し、大毘廬遮那仏と成る」とある文と思われる。
 そして、不空は即身成仏は珍しく尊い法門であるとは学んでいたようだが、即身成仏の実義は究めていなかった人であり、その理由は、即身成仏の実義は二乗作仏・久遠実成を説かれた法華経に限られるからである、と破折されている。
 そして、前に挙げられた「諸教の中に於いて之を秘して伝えず」との天台大師の法華文句の釈こそ、香り高く尊いものである、とされているのである。
 なお、妙一女御返事には、弘法大師が即身成仏はただ真言に限る文証として引いた経文を挙げ、「此等の経文は大日経金剛頂経の文なり、然(しか)りと雖(いえど)も経文は或(あるい)は大日如来の成正覚(じょうしょうかく)の文・或は真言の行者の現身(げんしん)に五通を得るの文・或は十回向(じゅうえこう)の菩薩の現身に歓喜地(かんぎじ)を証得する文にして猶(なお)生身得忍に非ず何(いか)に況(いわん)や即身成仏をや、但し菩提心論は一には経に非ず論を本とせば背上向下(はいじょうこうげ)の科(とが)・依法不依人の仏説に相違す」(一二五六㌻)と述べられている。
 また「いかにも純円一実の経にあらずば即身成仏は・あるまじき道理あり、大日経・金剛頂経等の真言経には其の人なし・又経文を見るに兼(けん)・但(たん)・対(たい)・帯(たい)の旨分明(ふんみょう)なり、二乗成仏なし久遠実成あとをけづる」(一二五七㌻)とも述べられている。
        太田殿女房御返事(即身成仏抄)

    第四章 真言の即身成仏義は不空の偽りと明かす

本文(一〇〇六㌻一六行~一〇〇七㌻一五行)
 而(しか)るを漢土唐の中(なかごろ)・日本弘仁已後の人人の悞(あやまり)の出来(しゅったい)し候いける事は唐の第九・代宗皇帝の御宇(ぎょう)不空三蔵と申す人の天竺より渡して候論あり菩提心論と申す、此の論は竜樹の論となづけて候、此の論に云(いわ)く「唯真言法の中にのみ即身成仏する故に是れ三摩地(まじ)の法を説く諸教の中に於て闕(かい)て書(しる)せず」と申す文あり、此の釈にばか(誑)されて弘法・慈覚・智証等の法門はさんざんの事にては候なり、但し大論は竜樹の論たる事は自他あらそう事なし、菩提心論は竜樹の論・不空の論と申すあらそい有り、此れはいかにも候へ・さてをき候ぬ、但不審なる事は大論の心ならば即身成仏は法華経に限るべし文と申し道理きわまれり、菩提心論が竜樹の論とは申すとも大論にそむいて真言の即身成仏を立つる上唯の一字は強(つよし)と見へて候、何(いずれ)の経文に依りて唯の一字をば置いて法華経をば破し候いけるぞ証文尋ぬべし、竜樹菩薩の十住毘婆娑論(じゅうじゅうびばしゃろん)に云く「経に依らざる法門をば黒論(こくろん)」と云云自語相違あるべからず、大論の一百に云く「而(しか)も法華等の阿羅漢の授決作仏(じゅけつさぶつ)乃至譬えば大薬師の能(よ)く毒を以て薬と為すが如し」等云云、此の釈こそ即身成仏の道理はかかれて候へ、但菩提心論と大論とは同じ竜樹大聖(だいしょう)の論にて候が水火の異をば・いかんせんと見候に此れは竜樹の異説にはあらず訳者の所為(そい)なり、羅什は舌やけず不空は舌やけぬ、妄語はやけ実語はやけぬ事顕然(けんねん)なり、月支より漢土へ経論わたす人一百七十六人なり其の中に羅什一人計(ばか)りこそ教主釈尊の経文に私の言(ことば)入れぬ人にては候へ、一百七十五人の中・羅什より先後・一百六十四人は羅什の智をもつて知り候べし、羅什来(きた)らせ給いて前後一百六十四人が悞(あやまり)も顕れ新訳の十一人が悞も顕れ又こざかしくなりて候も羅什の故なり、此れ私の義にはあらず感通伝(かんずうでん)に云く「絶後光前」と云云、前を光らすと申すは後漢より後秦までの訳者、後を絶すと申すは羅什已後・善無畏・金剛智・不空等も羅什の智をう(受)けて・すこしこざかしく候なり、感通伝に云く「已下の諸人並びに皆俟(ま)つ事」されば此の菩提心論の唯の文字は設(たと)い竜樹の論なりとも不空の私の言なり、何(いか)に況(いわん)や次下(つぎしも)に「諸教の中に於て闕(か)いて書(しる)せず」と・かかれて候・存外のあやまりなり。

通解
 ところが、中国では唐代の中ごろ、日本では弘仁時代以後の人々に誤りが出てきたのは、唐の第九代・代宗皇帝の時代に不空三蔵という人がインドから伝えた論があり、それを菩提心論といいました。
 この論は竜樹の論といわれています。この論には「ただ真言法の中においてのみ即身成仏するので三摩地の法を説いたのである。他の諸経には欠けて書かれていないものである」という文があります。
 この釈にだまされて、弘法・慈覚・智証等の法門はひどいものとなったのです。ただ大論が竜樹の論であることはだれもあらそいませんが、菩提心論については竜樹の論であるとするのと不空の論であるとするのとのあらそいがあります。これはいずれにしても、今は言及しないことにいたします。
 ただ不審に思うことがあります。それは大論の精神からいえば、即身成仏は法華経に限ります。これは文にも明白で、道理も尽くされています。菩提心論が竜樹の論であったとしても、それならば大論に背いて真言でも即身成仏できるとしていることになるうえ、(菩提心論にある)「唯」の一字、つまり真言だけが即身成仏の法というのは強引な説にみえます。どの経文によって「唯」の一字を真言において、法華経の即身成仏を破しているのか、その証文を尋ねるべきです。
 竜樹菩薩の十住毘婆娑論には「経文によらない法門は邪論」とあります。自語相違はあってはならないのです。また大論の百の巻には「法華等で阿羅漢に成仏の記別を授けられたことは(中略)たとえていうと、大薬師がよく毒をもって薬とするようなものである」等とあります。この釈こそ(法華経の)即身成仏の道理が書かれたものです。
 ただし菩提心論と大論は、同じ竜樹菩薩の論であるとすれば、水火のようなこの違いはどう考えたらよいのだろうかと思って、よく見ると、これは竜樹が異なる説を説いたのではなく、訳者のせいなのです。
 羅什の舌は焼けませんでしたが、不空の舌は焼けてしまいました。うその訳者の舌は焼け、真実を伝えた舌は焼けなかったということは明らかです。
 インドより中国に経論を訳出して伝えた人は百七十六人いました。その中で羅什一人だけが、教主釈尊の経文に自分の考えを入れなかった人でした。(羅什を除いた)百七十五人の中で、羅什の前後の旧訳(くやく)の百六十四人は羅什の智をもって推し量ることができます。
 羅什が来たことによって、その前後の百六十四人の誤りがあらわれ、新訳の十一人の誤りもあらわれました。また訳者が利口げになってきたのも羅什の存在があったゆえです。
 これは私の説ではなく、感通伝に「(羅什のような訳者は)後代には絶えてなく、前代を光り輝かす」とあります。前代を光らすとは後漢の代から後秦の代までの間の訳者のことで、後代に絶えていないとは、羅什以後の善無畏、金剛智、不空などが、羅什の智を受けて少しばかり訳が巧みになったということです。感通伝には「(羅什)以後の訳者は、皆、羅什を拠りどころにした」とあります。
 それゆえ、この菩提心論はたとえ竜樹の論であっても、「唯」の文字は不空が勝手に加えた私の言葉です。ましてや、その次の文に「(真言以外の)諸経には(即身成仏の義が)欠けていて書かれていない」と述べているのは、とんでもない誤りなのです。

語訳
代宗皇帝
(七二六年~七七九年)。中国・唐朝第八代皇帝。粛宗の長子。安禄山の乱では天下兵馬元帥となって軍功をあげた。粛宗の死後即位したが、国政は不安定で皇帝の権力は分断されていった。粛宗と同じく不空三蔵に帰依し、山西省清涼山に華厳・大暦法華・清涼・金閣・玉花の各寺院を建てた。

不空三蔵
(七〇五年~七七四年)。梵名アモーガバジュラ(Amoghavajra)、音写して阿目佉跋折羅(あもきゃばしゃら)、意訳して不空金剛。不空はその略。中国・唐代の真言宗三三蔵(善無畏、金剛智、不空)の一人で、中国密教の完成につとめた。十五歳の時、唐の長安に入り、金剛智に従って出家。開元二十九年(七四一年)、金剛智死去後、南天竺に行き、師子国(スリランカ)に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、六年後、ふたたび唐都の洛陽に帰った。玄宗皇帝の帰依を受け、尊崇が厚かった。「金剛頂経」三巻など多くの密教経典類を翻訳し、羅什、玄奘、真諦(しんだい)と共に中国の四大翻訳家の一人に数えられている。

菩提心論
 一巻。正しくは金剛頂瑜伽中発阿耨多羅三藐三菩提心論(こんごうちょうゆがちゅうほつあのくたらさんみゃくさんぼだいしんろん)といい、発菩提心論ともいう。仏乗を修するために菩提心を起こすべきであるとし、菩提心の行相を行願・勝義・三摩地の三種に分けて説明している。そしてこの三摩地法を説かない顕教では即身成仏はできないとしている。弘法は、本論が作者名を記していないことをいいことに勝手に本論を竜樹の造とし、これを根拠に真言のみが即身成仏の法であるとしている。しかし現在では、本論に七世紀ごろの成立とされる大日経や金剛頂経を引用していることから、二~三世紀ごろの人とされる竜樹の造でないことは明らかとなっている。また弘法当時であっても、中国・唐代の一行筆記の大日経疏を引いていることから、本論は竜樹造ではなく不空の造ではないかとされていた。

三摩地(まじ)の法
 密教の法の総称。三摩地(三昧(さんまい)と同義)に入る修行法のこと。菩提心論などにある。

十住毘婆娑論(じゅうじゅうびばしゃろん)
 十住毘婆沙論とも書く。十七巻。竜樹の著とされる。鳩摩羅什訳。華厳経十地品(十地経ともいう)に説かれている菩薩の十地のうち初地(歓喜地(かんぎじ))と二地(離垢地(りくじ))を注釈したもの。十住とは十地と同意で、毘婆娑(毘婆沙)は広説・広解の意。三十五品からなり、このうち発菩提心品(ほつぼだいしんぼん)第六から阿惟越致相品(あゆいおっちそうほん)第八まで難行道が説かれ、易行品(いぎょうぼん)第九では易行道が説かれている。すなわち菩薩が十地の第一、不退地(初地、歓喜地ともいう)に至るのに、自ら勤苦精進して行く道を陸路の歩行にたとえて難行道とし、ただ仏力を信ずる道を水路の船行にたとえて易行道としている。故に難易二行を立て分けて易行道を重んじる浄土宗では特に重視している。

授決作仏(じゅけつさぶつ)
 受決作仏ともいう。仏から成仏の記別を受けて劫(こう)・国(こく)・名号(みょうごう)が決定することをいう。すなわち成仏の印可を与えられること。授決は授記の古い訳で、授記は仏が仏記(当来成仏の事を記すの意)を授けること。作仏は仏に作(な)ることで、成仏・得仏とも、成道・得道ともいう。

羅什は舌やけず
 羅什の訳文は内容の秀抜と文体の簡潔とによって後世まで重用された。羅什は死に際して、その訳経の正しさを証明するため、我が身を焼いて舌が焼けたら我が経を捨てよと遺言し、その予言通り舌だけは焼けなかったと伝えられる。高僧伝、開元釈教録等にある。撰時抄には「羅什三蔵の云く我漢土の一切経を見るに皆梵語のごとくならずいかでか此の事を顕すべき、但し一の大願あり身を不浄になして妻を帯すべし舌計(ばか)り清浄になして仏法に妄語せじ我死なば必やくべし焼かん時舌焼けるならば我が経をすてよと常に高座にしてとかせ給しなり、上一人より下万民にいたるまで願じて云く願くは羅什三蔵より後に死せんと、終(つい)に死し給う後焼きたてまつりしかば不浄の身は皆灰となりぬ御舌計り火中に青蓮華(しょうれんげ)生て其の上にあり五色の光明を放ちて夜は昼のごとく昼は日輪の御光をうばい給いき、さてこそ一切の訳人の経経は軽くなりて羅什三蔵の訳し給える経経・殊に法華経は漢土にやすやすとひろまり給いしか」(二六八㌻)とある。

感通伝(かんずうでん)
 一巻。「律相感通伝」の略。中国・唐の南山律宗の祖・道宣(どうせん)の撰述。戒律の事相等について天人との問答を記した書。しかし内容は寺の縁起やそれにまつわる奇縁や不可思議な事象に関するものが多い。

「絶後光前」
 律相感通伝の文。「後に絶え、前を光らす」と読む。羅什以前には彼ほどの正しい訳者はいず、以後も、訳者は皆、羅什を頼りにしたとたたえている。

講義
 真言の諸経のみに即身成仏の教えがあるとする根拠が、不空訳の菩提心論にあり、これは竜樹著とされているが、もしそうとしても不空の訳に疑問があることを指摘されている。
 真言教によってのみ即身成仏できるという誤りは、中国では唐の代宗皇帝が不空に帰依して以後、日本では嵯峨天皇の弘仁七年(八一六年)に弘法が高野山に金剛峯寺を建てて密教を弘通し始めて以来のことで、その元凶が不空のもたらした菩提心論にあることを明らかにされている。
 竜樹の著とされた菩提心論の「諸仏菩薩、昔因地(いんじ)に在(あ)って是の心を発し已(おわ)って、勝義行願三摩地を戒と為す。乃(すなわ)ち成仏に至るまで時として暫(しばら)くも忘るること無し。唯真言法の中にのみ即身成仏するが故に是れ三摩地の法を説く。諸経の中に於いて闕(か)いて書(しる)せず」という文である。
 不空は、同じく中国・唐代の真言僧・金剛智の弟子で、善無畏・金剛智とともに三三蔵と称されている。密教経典を求めてスリランカへ渡り、金剛頂経系の経典を中国へ伝え、翻訳している。
 菩提心論とは、金剛頂瑜伽中発阿耨多羅三藐三菩提心論(こんごうちょうゆがちゅうほつあのくたらさんみゃくさんぼだいしんろん)の略称で、竜樹(真言宗では竜猛(りゅうみょう))の造ということになっているが、不空の論すなわち不空が勝手に持論を展開したものという疑いもある論述である。
 大聖人は、歴史学的な検討はさておいて、述べられている内容面から、竜樹造とするには根本的に疑わしさがあると指摘されるのである。すなわち竜樹は、大智度論では変毒為薬の譬えによって即身成仏は法華経に限ると断じているのに、菩提心論ではその反対に真言に即身成仏を立て、しかも「唯真言法の中にのみ」と断じているのに、菩提心論ではその反対に真言に即身成仏を立て、しかも「唯真言法の中にのみ」と断じて、法華経には即身成仏はないとする言い方をしていることである。この点については、何という経文によって真言のみが即身成仏できると立てたのか、その文証を知りたいものである、と述べられている。
 そして、竜樹は十住毘婆沙論の中で「経に依らざる法門をば黒論(こくろん)」と述べているのであるから、経文の裏付けを示さないのは、その主張とも自語相違することになるではないか、と指摘されている。黒論とは邪論をいう。経文に根拠のない勝手な説は邪論であり黒論なのである。
 そして、大智度論の変毒為薬の文を再び引かれて、この釈こそ即身成仏の道理を書かれたもので、大智度論と菩提心論が同じ竜樹菩薩の説とするなら、この水と火のような違いをどう見たらよいのかと考えた結果、竜樹が矛盾したことをいっているのではなく、訳者である不空が作り上げたものである、と断じられている。不空が訳し誤ったというよりも、故意に文理(もんり)のない邪論を付け加えたものなのである。
 さらに、経典の翻訳について、鳩摩羅什と対比させ、羅什は死後、その翻訳に誤りがなかった証拠として、舌が焼けなかったといわれているのに、不空の舌は焼けたことを指摘されている。そして、インドより中国へ経典を渡し、翻訳した百七十六人の中で、羅什一人だけが釈尊の仏意を正しく訳し伝えたのであり、羅什を基準として見たときに、旧訳(くやく)の百六十四人の誤りも、玄奘以後の新訳の十一人の誤りも顕れたとされている。とくに、羅什よりあとの人々のなかには、羅什の訳に習って少し小賢(こざか)しい者も出た、と指摘されている。
 このように羅什こそ翻訳者として最高峰とするのは、大聖人一人の言ではないとされ、中国・唐代の道宣律師が律相感通伝の中で、「絶後光前」と述べている例を挙げられている。詳しくは「什師(鳩摩羅什)一代に翻ずる所の経は、今に至るも新たな受持の転(うたた)盛んなるは何(いか)なるや。答えて曰く、その人聡明にして善(よ)く大乗を解し、以下の諸人並びに皆俊艾(しゅんがい)(※)にして、一代の宝なり。絶後にして光前なり」とある。(※俊艾=賢才。才知のすぐれた人)
 絶後とはその後にまたと同じ例がないと思われるほど勝(すぐ)れていることで、光前とは前に訳されたものも光を当てたように明らかになるということである。この場合には、前を光らすとは後漢より後秦までの羅什以前の仏経の訳者を指し、後に絶つとは羅什以後の訳者をいい、善無畏・金剛智・不空などは羅什とは比較にならないが、その智慧を受けて少し小賢(こざか)しくなったのであるとされ、そのことを、感通伝には、「已下の諸人並びに皆俟(ま)つ事」としているのである、と述べられている。俟つとは、うかがう、待つという意味で、羅什以後の人々が皆、羅什の訳から教えを受け、拠りどころにしたとの意であろう。
 そうしたことから、「唯真言法の中にのみ即身成仏す」とある「唯」の文字は、菩提心論が竜樹の書だとしても、不空が勝手に付け加えた言葉であり、さらに「諸教の中に於て闕(か)いて書(しる)せず」と書いてあるのはもってのほかの誤りである、と糾弾されている。即身成仏がただ真言教にのみ説かれ、その他の諸教には欠けていて説かれていないと断じているのは、即身成仏の明文がある法華経を否定したもので、大きな誤りなのである。
 以上のように、菩提心論を根拠にして真言に即身成仏を立てることは、経文に根拠がなく、しかも法華経に背き、ないがしろにする誤りであり、不空が偽ったものなのである。
 なお、一代五字継図でも「菩提心論一巻七丁竜猛(りゅうみょう)菩薩の造・不空の訳・或は不空の造」(六六五㌻)とあり、竜樹の作で不空の訳とされているが、あるいは不空自身の作であろう、とされている。
 

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