02 -<< 2017-03 -  12345678910111213141516171819202122232425262728293031  >>03 -
 
              十章抄

        第一章 止観に対する曲解を破す

本文(御書全集一二七三㌻初~一二七三㌻六行)
 華厳宗と申す宗は華厳経の円と法華経の円とは一なり而(しか)れども法華経の円は華厳の円の枝末と云云、法相・三論も又又かくのごとし、天台宗・彼の義に同ぜば別宗と立てなにかせん、例せば法華・涅槃は一つ円なり先後に依つて涅槃尚をと(劣)るとさだむ、爾前の円・法華の円を一とならば先後によりて法華豈(あに)劣らざらんや、詮ずるところ・この邪義のをこり此妙彼妙(しみょうひみょう)・円実不異(えんじつふい)・円頓義斉(えんどんぎせい)・前三為麤(ぜんさんいそ)等の釈にばか(魅)されて起る義なり、止観と申すも円頓止観の証文には華厳経の文をひきて候ぞ、又二の巻の四修三昧(ししゅさんまい)は多分は念仏と見へて候なり、源濁れば流清からずと申して爾前の円と法華経の円と一つと申す者が止観を人によませ候えば但念仏者のごとくにて候なり。

通解
 華厳宗という宗では、華厳経の円と法華経の円とは同一であるが、法華経の円は華厳経の円の枝末であるといっている。法相、三論の二宗もまた同様である。天台宗が彼等の義に同じであるとするならば、別宗を立てる必要があるだろうか。例えば、法華経、涅槃経は同じ円教であるが、先後の関係によって、後のほうの涅槃経は劣ると定められている。(もし)爾前の円も法華の円も同一であるとすれば、(法華経と涅槃経の例で)先後によって法華経の円が劣ることになる、というのであろうか。所詮、この邪義は此妙彼妙・円実不異・円頓義斉・前三為麤等の解釈に迷って起こったものである。摩訶止観といっても、円頓止観の証文には華厳経の経文を引いている。また、二の巻の四修三昧は、多くは念仏の修行のこととみえる。源濁れば流れ清からずといって、爾前の円と法華の円が同じであると考えている者が止観を講じ、人に読ませているから、(聞くものはみな)念仏者のようになってしまうのである。

語訳
四修三昧(ししゅさんまい)
 四種三昧のこと。常坐三昧、常行三昧、半行半坐三昧、非行非坐三昧をいう。三昧とは梵語サマーディ(Samādhi)の音写で「定」等と訳し、心を一所に定めて動じないこと。四種三昧は、種々の経典に説かれた修行法を実修形態のうえから四種に分類し、統合化したもの。後世、伝教大師が立てた止観、遮那の二業のうち止観業はこの四種三昧を中心としたものである。①常坐三昧は一行三昧ともいう。文殊説般若経と文殊問般若経に基づき九十日間、もっぱら坐禅のみを行ずること。②常行三昧は仏立三昧ともいう。般舟三昧経(はんじゅざんまいきょう)に基づき九十日間、阿弥陀仏を本尊とする道場の周りを巡り、口に阿弥陀仏の名を称念すること。③半行半坐三昧は大方等陀羅尼経に基づく七日間の方等三昧、法華経に基づく三七日(二十一日)間の法華三昧をいい、ともに懺悔滅罪を主として行と坐を兼ね修するもの。④非行非坐三昧は覚意三昧(仏意を覚(さと)る三昧)、随自意三昧ともいい、方法(行住坐臥)、期間を問わない。約諸経観と約三性(さんしょう)(善・悪・無記)観の二種がある。

講義
 はじめに、本抄全体の背景と大意について述べておきたい。
 本抄は、文永八年(一二七一年)五月、比叡山留学中の三位房日行にあて、したためられた御消息である。御述作の意図については、本文全体から拝されるとおり、天台大師の摩訶止観を購読し学問するにあたっての心構えと取り組み方とを三位房日行に教えようとされたことが明白である。当時、日行は比叡山にあって、叡山の学生達と摩訶止観の講読会を催していたようで、日行が叡山の学風に流されることを心配された日蓮大聖人は、大聖人門下としての止観の読み方について注意を与えて正道を踏み外さぬように配慮されたのであろう。同時に、本抄の終わりで「この文(ふみ)を止観よみあげさせ給いて後ふみ(文)のざ(座)の人にひろ(弘)めてわたらせ給うべし」と仰せのように、単に三位房日行への注意としてだけではなく、末法における正しい止観のとらえ方を〝ふみのざの人〟、すなわち同学の人々にも知らしめようとされたと推察される。
 なお、御真筆は中山法華経寺に現存している。
 次に、本抄の大意を簡潔に述べておくと、まず、摩訶止観に対する当時の比叡山の学徒達の誤った見解を記述される。
 その見解とは、爾前の円と法華の円とが同一であるとするもので、当時の叡山は、これによって止観のなかに説かれた念仏行を正行として修行していたのであった。それについて大聖人は、止観のなかには、爾前の諸経が引用され、念仏その他の諸行の修行が述べられているが、その正意は法華経にあることを示され、法華の円が爾前の円に勝れていることを強調されている。
 次に、十章からなる摩訶止観全体の構成とその主要な内容を明らかにして、止観の中心である一念三千の観法は、第七章・正観章の十境・十乗の観法にあることを示される。
 更に、法華経の本門・迹門の関係を明かされつつ、一念三千の法門は法華本門に限ることを示され、法華経の正しい修行はあくまで一念三千の観法と南無妙法蓮華経を唱えることであると強調されている。
 以上のごとく止観の正しいとらえ方を述べられた後、再び、叡山の学徒達が止観を曲解して立てた念仏行の邪義をさまざまな観点から破折された後、以上のような大聖人の主張を講読会の人々に伝えるよう命じられている。
 そして、最後に、鎌倉において生じた訴訟問題について述べられている。
 以上が十章抄の大意であるが、本抄の大部分は、末法今時における摩訶止観の正しいとらえ方を御教示されることに費やされている。ここから、本抄の題号も摩訶止観の構成である「十章」からとられているのである。
 さて、本章は、当時の日本天台宗・比叡山の学生達が陥っていた摩訶止観への誤った理解を挙げ、教学の思想面と念仏行の修行実践面との二つの観点から述べられて破折されている。
 本文中に「止観と申すも円頓止観の証文には華厳経の文をひきて候ぞ、又二の巻の四修三昧は多分は念仏と見へて候なり」とある。ここにあるように、摩訶止観には、華厳経をはじめ般若経、維摩経などの法華経以外の爾前の諸経が引用されていたり、また、第二巻で四種三昧を説示するところで、爾前諸経に説く各種の三昧行や阿弥陀仏を念想する行などが含まれている。
 しかし、これらの爾前諸経の経文や修行は、どこまでも法華経の開会のうえに立てられたものであって安易にそれらの経文や修行を善とし、肯定して説いたわけではないのである。にもかかわらず、叡山の学徒達は止観に爾前諸経の経文が引用されていることから、爾前経と法華経とを一体視して爾前経でもよいとし、また同じ理由から、爾前経の修行、とくに念仏行に専心するに至ったのである。
 以上が、教学思想面と修行実践面からの止観に対する叡山の誤れる見解であるが、この邪見の由来する根本に「爾前経の円と法華経の円とは一つ」とする邪義がある。
 本章の冒頭は、この邪義を述べることから始められている。
 まず、華厳宗は「華厳経の円と法華経の円とは同一であるが、しかし法華経の円は華厳経の円の枝末である」から華厳経のほうが勝れているとする邪義を立てている。また、同じ論法で、法相宗や三論宗も、爾前の円と法華経の円とを同一としたうえで、自らのほうが勝れているとの邪義を立てている。
 これらの諸宗の邪義に対して、破折すべき立場にある比叡山・天台宗が破折するどころか、逆に諸宗の邪義に賛同して、法華経の円と爾前経の円と同一としていたことは、法華経を中心とする宗旨を別に立てる必要がないことになる。またこれにとどまらず、法華と爾前の円とが同一ならば、法華の円のほうが劣るという邪論まで展開したのである。その理由として、法華経と涅槃経とは同じ円教であるが、五時の次第(華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃)からいえば、先に説かれた法華経のほうが勝れ、後に説かれた涅槃経が劣ることになる、この考えを延長すると、先に説かれた爾前経のほうが勝れ、後に説かれた法華経が劣ることになるのである。
 以上のような幼稚な理論がはびこっていたのが、日蓮大聖人御在世当時の仏教界の実情であったといえよう。
 このような邪見をもとにして摩訶止観を講読するから、誤って把握することとなったのである。
 そのことを「源濁れば流清からずと申して爾前の円と法華経の円と一つと申す者が止観を人によませ候えば但念仏者のごとくにて候なり」と厳しく破折されている。
 すなわち、当時の叡山学徒が止観を自ら読んだり人に読んで聞かせたりすると、全く念仏者と同じような姿になってしまい、摩訶止観の真意に背く結果になってしまうと仰せである。

 爾前経の円と法華経の円について

 中国の天台大師は、釈尊の一代聖教を分類するにあたり五時八教説を立てた。
 五時(部)は、仏の説法の順序次第に即して分類したもので、華厳時(部)、阿含時(部)、方等時(部)、般若時(部)、法華・涅槃時(部)である。
 また、五時の説法の内容面から化法の四教(蔵・通・別・円)を分類し、同じく説法の形式面から化儀の四教(頓・漸・秘密・不定)を分類して、合して八教としている。
 さて、爾前の円と法華の円との問題は、五時(部)と化法の四教との関係から生じてくる。五時のそれぞれに説法の内容としての化法の四教が説かれているとするからである。
 すなわち、華厳時には別教と円教を兼ねて説き、阿含時は但蔵教のみを説き、方等時には蔵・通・別・円の四教を対比して説き、般若時には別円二教に通教を帯びて説き、法華涅槃時には純粋の円教のみを説く、としている。
 これから明らかなように、円教は華厳時、方等時、般若時、法華涅槃時の四時(すなわち阿含時のみを除く)にそれぞれ説かれていることになる。言い換えれば、円教は、阿含部を除く爾前経と、そして、法華経とに説かれていることになる。
 その結果、爾前の円と法華の円とは同一なのか異なっているのかという問題が生じてくるのは当然の理であろう。
 ところで、円教というのは、煩悩と菩提、生死と涅槃、衆生と仏、などを対比させ隔別のものとはせず、煩悩即菩提、生死即涅槃、衆生即仏、九界即仏界、三諦円融などの教理に明らかなごとく円融円満を明かすのである。成仏論としては円教はだれびとも例外なく成仏が可能であるという、万人成仏の理論的根拠を与えることとなる。それゆえ、円教は仏の教説内容としては最高究竟の説法であり、仏教のどの宗派にとっても自らの宗旨の依処である経典に円教を含むか否かが重大な問題となるのである。そこからまた、本章で大聖人が破折されたように、諸宗派や比叡山天台宗のような邪義が生じてくるのである。
 さて、中国天台宗の妙楽大師は、その法華玄義釈籤(しゃくせん)巻二において、この爾前の円と法華の円との関係につき見事な解決を与えている。
 妙楽大師はまず、化法の四教、化儀の四教、すなわち八教に約せば、爾前経の円と法華経の円とはともに円融相即を説くゆえに同一とするのである。これは、教に約した場合には爾前の円に与えて法華の円と同一であるとする。これは、教に約した場合には爾前の円に与えて法華の円と同一であるとするので、〝約教与釈〟ともいう。
 これに対し、五部(時)に約すと、法華部(時)にのみ純粋の円教が説かれているが、爾前においては兼(華厳部)、対(方等部)、帯(般若部)というように別教や通教と並んで説かれているので純粋の円教ではない。
 それゆえに、法華経の円が勝れ、爾前の円は劣るのである。これは、部(時)に約す場合には、爾前の円を奪って法華の円より劣るとするので〝約部奪釈〟ともいう。
 当然、妙楽大師は、法華の円が勝れているとする立場であることはいうまでもない。
 更に、日蓮大聖人は、一代聖教大意において次のように仰せられている。
「次に円教とは此の円教に二有り一には爾前の円・二には法華・涅槃の円なり……爾前の円とは華厳経の法界唯心の法門・文に云く『初発心の時便(すなわ)ち正覚を成ずと』又云く『円満修多羅(しゅたら)』文、浄名経に云く『無我無造にして受者無けれども善悪の業敗亡せず』文……此は皆爾前の円の証文なり……凡夫も位を経ずとも仏にも成り又往生するなり、煩悩も断ぜざれども仏に成る障(さわ)り無く一善一戒を以ても仏に成る少少開会(かいえ)の法門を説く処もあり、所謂(いわゆる)浄名経には凡夫を会(え)し煩悩悪法も皆会す但し二乗を会せず、般若経の中には二乗の所学の法門をば開会して二乗の人と悪人をば開会せず、観経等の経に凡夫一毫(ごう)の煩悩をも断ぜず往生すと説くは皆爾前の円教の意(こころ)なり」(三九六㌻)と。
 ここに仰せのように、爾前の円を表わす具体的な経文を挙げられた後、爾前の円教の内容について、凡夫も五十二位などの数多くの修行の階位を経ずして成仏・往生することを説いたり、煩悩を断じなくとも仏と成ることが可能であるとする教えであるとされている。この点ではたしかに法華経の円――煩悩即菩提、生死即涅槃、九界即仏界など――にほぼ同一であるが、しかし、爾前の円の場合はどこまでも言葉だけであって、実際には二乗や悪人、女人などの成仏を許さなかったのである。ここにおいて、爾前の円は単に理のみにとどまって、実際にはだれびとも成仏できないということになるのである。つまり、爾前の円は言葉と実際との間に大きな矛盾を有していることになる。
 これに対し、法華経の円は、十界互具の理が明かされ、具体的に二乗や悪人、女人に成仏が許されていて、矛盾と限界を有さない真実の円融円満の完璧な教えといえよう。
 以上のごとく、爾前の円と法華の円とは、勝劣が明らかにもかかわらず、大聖人当時の、爾前諸経を依処とする仏教諸宗は、自分達に都合のいい〝約教与釈〟に基づいて、爾前の円と法華の円とを同一として、自らの宗旨を正当化したばかりでなく、逆に、法華経を爾前に劣るとした。爾前諸経を依処とする宗派ならある意味で当然であろうが、比叡山天台宗までが、諸宗派に同調していたのである。

 此妙彼妙(しみょうひみょう)・円実不異(えんじつふい)・円頓義斉(えんどんぎせい)・前三為麤(ぜんさんいそ)

 まず「此妙彼妙」とは、天台大師の法華玄義巻二上で、妙法の二字を解釈するなかの〝妙〟の字について明かす段の相待妙を説く文の一節である。すなわち「此の妙と彼の妙は、妙の義殊なること無し。但方便を帯すると、方便を帯せざるとを以って異と為(す)る耳(のみ)」と。ここに〝此の妙〟とは法華経の妙であり、〝彼の妙〟とは華厳・法等・般若の妙をさしている。〝妙〟それ自体の意義は異ならないが、しかし、彼の妙には、乳、生蘇、熟蘇の味を方便として帯びているのに対し、この妙は全く方便はなく、純粋な醍醐味である、という点が異なっていると述べている。
 次に「円実不異」とは、妙楽大師の法華文句記巻一上で「問う諸経の中の円と此(の円)と何の別あって必ず開して方に是仏慧と云うべけん。答う円実異ならず。但未だ開顕せざる初心の人、円は偏を隔つと謂(い)う、須(すべから)く開顕の諸法実相を聞くべし。若(も)し已に実に入れば、但増進を論ず、権人此に至って一向に開すべし」とある文をさしている。
 ここで、妙楽大師は、諸経(すなわち爾前経)の中の円と此の法華経の円とはどこに別異があるのかとの問いを設けて、その答えとして、まず、ともに円の真実であることに異なりはないとしている(しかし、それは爾前の円を法華の円で開顕した後に言い得るのであって、未だ開顕せざる間は異なりがあるとの意も暗示していることを忘れてはならない)。
 更に「円頓義斉」とは、天台大師の法華玄義巻十下で、別教を明かすなかの文で、この前後を引用すると、次のとおりである。
「初め成道の時純(もっぱ)ら円頓を説く、解せざる者は大機末だ濃(こまや)かならざるが為に、三蔵、方等、般若を以って洮汰淳熟す。根利障り除き、円頓を聞くに堪えれば即ち法華を説き、仏知見を開きて法界に入るを得ること華厳と斉(ひと)し。法性論の中入の者是なり。故に下の文に云く『始め我が身を見て如来の慧に入る。今、是の経を聞きて仏慧に入る』と。初後の仏慧、円頓の義斉し、故に般若の後に次いで華厳海空を説くは、法華と斉し」。
 ここでは、仏が成道の時に説いた華厳経の円頓の仏慧(仏智)も、後に機根を調機調養し終わって説いた法華経の円頓の仏慧も、ともにその義は斉(ひと)し、としている。
 また「前三為麤」とは法華玄義釈籤巻二に「今の文(玄義)の諸義、凡そ一一の科、皆先に四教に約して、以って麤妙を約す、則ち前三(蔵・通・別)を麤と為し、後一(円)を妙と為す」とある。
 以上、大聖人が挙げられた四つの文は、いずれも天台及び諸宗の輩が爾前の円と法華の円とを同一視する根拠とした天台大師、妙楽大師の釈である。これらの釈は、全体を把握したうえで読めば誤ることはないのであるが、当時の比叡山天台宗や諸宗は、皮相的で断片的に読んだために曲解した、と仰せになっている。

 止観と申すも円頓止観の証文には……四修三昧は多分は念仏と見へて候なり

 天台大師の摩訶止観のなかにも、たしかに爾前経の経文が引用されていたり、念仏の行を修することが説かれていたりするとの例を挙げられているところである。
 まず、円頓止観の証文として華厳経の文が引用されているというのは、第五巻第七章「正しく止観を修す」(正修止観、正観)のことである。
 ここで、円頓止観というのは、天台大師が師である南岳大師から相承した漸次(ぜんじ)、不定、円頓の三つの止観の一つである。
 そして、これら三種の止観は、天台大師の法門の観心門を構成するもので、法華円教の実践行として体系的に立てられている。
「止」(梵語シャマタ〈Śamatha〉、音写して奢摩他)は一般に散乱する想念を止息することであり、「観」(梵語ビパシャナ〔vipaśyanā〕、音写して毘鉢舎那)とは理法を観照することである。天台大師は、この止観の名のもとに、仏教全体の実践修行の在り方を統一したのである。三種止観のうち、漸次止観は、初め浅きより後深きへと漸次に進めていく止観行で、釈禅波羅蜜次第法門十巻に説かれている。次に、不定止観とは、前後の次第が定まっておらず、便宜にしたがってあるときは漸、あるときは頓と、その実践の在り方が不規則な止観行をさす。これは、六妙法門に説かれているものである。
 以上の漸次、不定の二種止観ともに、法華円教に基づく実践行なのであるが、天台大師自身が最も円教的な実践行として説いたのが、円頓止観である。これが、摩訶止観第五巻第七章「正修止観」に説かれる十境十乗の観法である。その詳細な解説は次章に譲るが、円頓止観については摩訶止観巻一上で「円頓とは、初めより実相を縁ず、境に造(いた)るにすなわち中(道)にして、真実ならざることなし。縁を法界に繫(か)け、念を法界に一(ひとし)うす、一色一香も中道にあらざることなし。己界および仏界、衆生界もまたしかなり」と説いている。すなわち、最初から念を法界に繫(か)け、念を法界と一にして、実相を縁ずるのであり、そこには、初めも後も二なく別なきがゆえに、円頓止観というのである。
 この円頓止観を正しく修する方法である十境十乗の観法を明かすなかで、天台大師は華厳経の文を引用している。
 その文とは、華厳経の巻十夜摩天宮菩薩説偈品第十六(旧訳)の偈文である。
 すなわち「心は工(たくみ)なる画師の如し。種々の五陰を画く。一切世界中、法として造らざる無し。心の如く仏も亦爾(しか)り。仏の如く衆生も然り。心仏及衆生、是の三差別無し」というものである。
 天台大師は、この文を用いて、一念三千を説明したのであるが、華厳経の文を引用しているといっても、あくまで法華経の諸法実相の理に基づいているのであって、華厳経の意図そのものに即して引用したものでないことは明らかである。後で大聖人が「法華経の開会(かいえ)の上に建立せる文なり」と仰せられているのは、このことである。しかし、当時の諸宗派は、これを爾前の円と法華の円とが一つであるとするための証拠としたのである。

 次に、摩訶止観に説く四種三昧であるが、これは第二巻で明かされる。すなわち、摩訶止観を五略十広と立て分けるうちの、五略の第二修大行のところで説いているのである。
 四種三昧とは「行法衆多なるも略してその四をいう」と摩訶止観に述べているように、古来、仏教の修行法には百八三昧といわれ、多くの三昧があるが、天台大師はとくに円教の三昧として代表的なものを選んで、四種にまとめたのである。
 その四種とは、常坐三昧、常行三昧、半行半坐三昧、非行非坐三昧である。
 まず、常坐三昧とは、文殊説般若経と文殊問般若経によって立てられたものである。
 その方法として、天台大師は、身・口・意の三業を説き、それぞれに関して詳細に記述しているが、ここでは、とくに身業(身体の行儀)を中心として紹介しておく。
 常坐三昧の〝常坐〟とは、九十日間、静かな室に縄牀(じょうしょう)(縄を張って作ったこしかけ)を設け、一仏に向かって結跏(けっか)正座し、経行、食事、便利(大小便)のほかはひたすら坐儀に従う。このようにただひたすら坐ることを身体の行義とする三昧なので、常坐三昧といい、また一行三昧ともいう。
 次に、常行三昧とは、般舟三昧経によって設けられたものである。これは、まず、道場を荘厳し、阿弥陀仏の像を本尊として安置し、九十日間外出せず、沐浴しつつ本尊の阿弥陀仏の周りを行道する。その際、同時に口に阿弥陀仏の名を称え、意に阿弥陀仏を念じて、歩々、声々、念々、阿弥陀仏を離れない修行をするのである。その結果、定中において十方諸仏が現前するのを見ることができるということから、この常行三昧を仏立三昧ともいうのである。
 また、半行半坐三昧とは、これに、方等三昧と法華三昧とがある。まず、方等三昧とは、大方等陀羅尼経の説により、閑静の処に道場を定め、香泥を室の内外に塗り、七日間を期し、ある時は端坐して実相を思惟し、ある時は旋繞(せんにょう)して陀羅尼を誦すものである。法華三昧とは、法華経の説により、礼仏、懺悔、旋繞、誦経、端坐、思惟等を次第に修していくものである。いずれの三昧も、座と行とが適度に折り込まれているので、半行半坐といい、その依処となる経典名に準じて、方等法華三昧ともいうのである。
 更に、非行非坐三昧とは、これまでの三つの三昧に属さない諸経の説によって立てられたもので、とくに大品般若経の覚意三昧、そして南岳大師慧思の随自意三昧などがこれに属している。この三昧は、行住坐臥等の一切の身儀や環境に応じて自由に実相真理を証悟することを目的とするもので、まさに随自意三昧である。より具体的にいえば、善・悪・無記の三種の日常心を随時随処に止観の対境とする行法といえるであろう。
 以上が四種三昧の概略の説明である。
 さて、本文で「四修三昧は多分は念仏と見へて候なり」と仰せなのは、四種ともに通じて、仏を本尊として安置し、その前で端坐して思惟したり、その周りを行道したりして、仏を観念することが多いからである。とくに、常行三昧は、徹底して阿弥陀仏を身、口、意にわたって、称え念ずることから、このように仰せられたのである。
 しかし、天台大師は、どこまでも、後に説く第五巻第七章の正修止観、十境十乗観法の方便助行として四種三昧を明かしたのである。
 したがって、法華経の実相の理を観得することが目的なのであって、阿弥陀仏を観念する念仏行はあくまでその手段にすぎない。ところが、大聖人御在世当時の日本天台宗では、この摩訶止観の本来の意を曲解して、阿弥陀念仏を肯定し勧める文としてとらえたのである。そのことを大聖人は「源濁れば流清からずと申して爾前の円と法華経の円と一つと申す者が止観を人によませ候えば但念仏者のごとくにて候なり」と破折されているのである。
  • このエントリーのカテゴリ : 十章抄
      法門申さるべき様の事(各宗教義事)

      第十七章 正直の者と安国の方途を示す

本文(一二七二㌻一一行~一二七三㌻終)
 先ず世間の上下万人云く八幡大菩薩は正直の頂(こうべ)にやどり給い別のすみかなし等云云、世間に正直の人なければ大菩薩のすみかましまさず、又仏法の中に法華経計(ばか)りこそ正直の御経にては・おはしませ、法華経の行者なければ大菩薩の御すみか・おはせざるか。
 但し日本国には日蓮一人計りこそ世間・出世・正直の者にては候へ、其の故は故最明寺入道に向つて禅宗は天魔のそい(所為)なるべしのち(後)に勘文もつてこれをつげしらしむ、日本国の皆人・無間地獄に堕つべし、これほど有る事を正直に申すものは先代にもありがたくこそ、これをもつて推察あるべし・それより外の小事曲(ま)ぐべしや、又聖人は言(ことば)をかざらずと申す、又いまだ顕れざる後をしるを聖人と申すか、日蓮は聖人の一分にあたれり、此の法門のゆへに二十余所を(追)われ結句流罪に及び身に多くのきず(疵)をかをほ(被)り弟子をあまた殺させたり、比干(ひかん)にもこえ伍しそ(子胥)にもをとらず、提婆菩薩の外道に殺され師子尊者の檀弥利(だんみり)王に頚(くび)をは(刎)ねられしにもをと(劣)るべきか、もししからば八幡大菩薩は日蓮が頂を・はなれさせ給いてはいづれの人の頂にかすみ給はん、日蓮を此の国に用いずば・いかんがすべきと・なげかれ候なりと申せ、又日蓮房の申し候・仏菩薩並びに諸大善神をかへ(還)しまいらせん事は別(べち)の術(すべ)なし、禅宗・念仏宗の寺寺を一つもなく失い其の僧らを・いましめ叡山の講堂を造り霊山(りょうぜん)の釈迦牟尼仏の御魂を請し入れたてまつらざらん外は諸神もかへり給うべからず、諸仏も此の国を扶(たす)け給はん事はかた(難)しと申せ。

通解
 まず世間の上下万人は「八幡大菩薩は正直者の頭(こうべ)に宿られ、そのほかに住まわれることはない」等と言う。世間に正直の人がいないときは八幡大菩薩の住まわれるところはないのである。また、仏法のなかで法華経のみが正直の御経であられる。法華経の行者がいないときは八幡大菩薩の住まわれるところがないことになろうか。
 ただし、日本国には日蓮一人だけが世間・出世間において正直の者である。そのわけは故最明寺入道(北条時頼)に向かって「禅宗は天魔の所為である」といい、後に立正安国論をもってこれを告げ知らせたのである。「日本国の人は皆、無間地獄に堕ちるであろう」と。これほどのことを正直に言う者は前代にもいなかったであろう。これをもって推察なさい。それ以外の小事を曲げて言うことがあろうか。また、聖人は言葉を飾らないという。また、未だ現れていない後の事を知るのを聖人というか。日蓮は聖人の一分に当たっている。この法門を説くがゆえに二十余所を追われ、しまいには流罪になり、身に多くの傷を受け、弟子を多く殺させてしまった。比干(ひかん)にも超え、伍子胥(ごししょ)にも劣らない。提婆菩薩が外道に殺され、師子尊者が檀弥利(檀弥羅)王に頚(くび)をはねられたのにも劣るであろうか。もしそうであれば、八幡大菩薩は日蓮の頭を離れて、いずれの人の頭に住まわれることがあろう。日蓮をこの国が用いないならば、どうしたらよいであろうかと嘆かれておられると言いなさい。また日蓮房は「仏や菩薩並びに諸大善神を呼び返すのに、別の方法はない。禅宗や念仏宗の寺々を一つも残らずなくし、その僧らを戒め、比叡山の講堂を造って霊鷲山の釈迦牟尼仏の御魂を請じ入れ奉るのでなければ諸神も帰られないであろうし、諸仏もこの国を助けられることは難しい」と申していると言いなさい。

語訳
最明寺入道
 北条時頼(一二二七年~一二六三年)のこと。最明寺で出家したので、最明寺殿、最明寺入道殿と呼ばれた。鎌倉幕府第五代執権。時氏の子。母は安達景盛(あだちかげもり)の娘(松下禅尼)。宝治元年(一二四七年)外舅(がいきゅう)の景盛と謀(はか)って幕府成立以来の豪族三浦氏を滅ぼし、建長元年(一二四九年)引付衆を設けて訴訟制度の能率化を図り、同四年将軍藤原頼嗣(よりつぐ)を廃して宗尊(むねたか)親王を京都から迎えるなど、幕政の刷新と執権北条氏の権力確立に努力を傾けた。宋僧蘭渓道隆について禅法を受け、建長五年(一二五三年)建長寺を建立。康元元年(一二五六年)執権職を重時の子長時に委(ゆだ)ね、最明寺に住んだが得宗(とくそう)として家長の権限を握り、幕府の最高権力者であるということに変わりはなかった。日蓮大聖人は文応元年(一二六〇年)七月十六日、宿屋入道を通じて立正安国論を時頼に上程された。

比干(ひかん)
 中国古代の殷王朝の人。殷の紂(ちゅう)王の叔父といわれる。殷の三仁(箕子(きし)、微子(びし)、比干)の一人。史記の殷本紀第三によると、紂王が妲己(だっき)を寵愛して酒色に耽り、悪政をしいていたので、比干は「人臣たる者は死を以て諌めざるを得ず」と強諫したが、紂王は怒って「吾れ聞く、聖人の心(むね)には七穴あり」といって殺し、その胸を裂いたという。殷の国はいよいよ乱れ、ついには周の武王に討たれ滅びた。

伍しそ(子胥)
(~前四八五年)。伍子胥(ごししょ)。中国・春秋時代の呉の重臣。名は員(うん)。初め楚に仕えたが、父と兄が楚の平王に殺されたため、楚を去って呉王・闔閭(こうりょ)に仕えた。そして楚を破り、平王の墓をあばいて屍に鞭打ったという。後、闔閭の子の夫差(ふさ)に仕え、呉が越を破ったとき後難を危惧して越王勾践(こうせん)を殺すよう夫差を諌めたが聞き入れられず、かえって讒言(ざんげん)によって自害させられた。後に伍子胥の言のとおり、呉は越王勾践によって滅ぼされた。

提婆(だいば)菩薩
 迦那提婆(かなだいば)のこと。提婆は梵語で天と訳し、迦那は片目の義。三世紀ころの南インドの伝灯者で、付法蔵第十四祖。提婆菩薩伝によると、バラモン出身で竜樹菩薩の弟子となった。昔、大自在天の請いによって一眼を供養したため片目となったという。各国を遊化(ゆうげ)して広く法を求め、南インドで外道の論師を破折したとき、外道の凶悪な弟子が怨んで提婆を殺害した。提婆はその狂愚をあわれみ、外道の救済を弟子に命じて死んだ。

師子尊者
 師子比丘ともいう。六世紀ころの中インドの人で、付法蔵の最後の伝灯者。付法蔵因縁伝巻六によると、師子尊者は罽賓国(けいひんこく)で法を説き弘めたが、国王檀弥利(檀弥羅)王は邪見の心が盛んで敬信せず、塔寺を壊し、衆僧を殺害した。そして利剣をもって師子尊者を殺害し、付法を断絶させた。景徳伝灯録巻二によると、王が師子尊者を切ったとき、王の右臂(ひじ)もまた地に落ち、七日にして死んだという。

霊山(りょうぜん)
 霊鷲山(りょうじゅせん)のこと。中インド摩竭提(まかだ)国(ガンジス川の下流域)の首都である王舎城の丑寅(うしとら)すなわち東北の方角にある。法華経の説処。梵語で耆闍崛山(ぎしゃくつせん)といい、その南を尸陀林(しだりん)といって、死人の捨て場になっていたため、鷲が飛来するので「鷲山」といい、三世諸仏成道の法である法華経が説かれたので「霊山」という。末法においては、御本尊のましますところが霊鷲山である。

講義
 諸天善神を呼び戻すためには、正直の頭(こうべ)がなければならない。その正直の頭は、法華経の行者である大聖人御自身以外にないことを述べられている。
 善神が正直の人の頭を住処(すみか)とすることについては、諫暁八幡抄にも「八幡の御誓願に云く『正直の人の頂を以て栖(すみか)と為し、諂曲(てんごく)の人の心を以て亭(やどら)ず』等云云」(五八七㌻)とある。
 八幡大菩薩は八幡宮の祭神・応神天皇(第十五代)をいう。日本を守る神として崇められてきたが、仏法のうえでは一個の実体をさすのではなく、妙法を持(たも)つ者を守護する働き、作用をいうのである。
 一般的に「正直」とは、うそ・偽り・ごまかしがないさまをいうが、仏法でいう「正直」については、諫暁八幡抄で「正直に二あり一には世間の正直……二には出世の正直と申すは爾前・七宗等の経論釈は妄語、法華経・天台宗は正直の経釈なり」(五八七㌻)とされ、本文でも「仏法の中に法華経計(ばか)りこそ正直の御経にては・おはしませ」と仰せになっているように、「正直の御経」である法華経(南無妙法蓮華経)のみを信受、行ずることが真の正直となる。
 この法華経の行者が存在しなければ、八幡大菩薩も自らの住処を失うことになるのである。
 そして、日蓮大聖人こそ日本におけるただ一人の法華経の行者、正直者であることを断言されるとともに、他国侵逼難の予言がすでに的中していることから「いまだ顕れざる後をしる」聖人にあたっている。と述べられている。
 忍難弘通の事跡を挙げられているのは、大聖人が諸宗を災いの根源であると訴えたのは我が身のためではない、あくまで仏法のため、国のためにいったのであると示されているのである。ゆえに、その真実の正直者である大聖人の頂(こうべ)に八幡大菩薩などの善神が住むことは間違いないのであり、大聖人を用いて仏神の守護を招来することこそ安国救民実現の方途であるということである。
 大聖人は、当時の鎌倉幕府の最高権力者であった北条時頼に向かって、彼が栄僧道隆について禅法を受け、建長寺を建立していたので「禅は天魔の所為である」と破折され、更に文応元年(一二六〇年)七月には「勘文」すなわち立正安国論を上呈し、背正帰悪のゆえに国中に三災七難が現出しているのであると直言し、諫められた。
 国主への諫暁は「忠言耳に逆らう」道理から、身命にかかわる弾圧を覚悟しなくては到底できないことであり、こうした重大事を単刀直入に、正直に言いきった人は前代未聞であり、このことから推察しても「それより外の小事曲(ま)ぐべしや」といわれ、「日本国には日蓮一人計りこそ」世間・出世間を通じて「正直の者」であると断言されているのである。

 日蓮は聖人の一分にあたれり

 聖人であることの条件として「聖人は言(ことば)をかざらずと申す、又いまだ顕れざる後をしるを聖人と申すか」と仰せられ、仏法の正義を言葉を飾らず訴えられたゆえ、また、蒙古襲来を正しく予知されていたゆえに、御自身が「聖人の一分」にあたることは間違いないといわれている。
 聖人とは、世間・出世間ともに通ずる言葉で、智慧と徳が優れた者のうち、賢人より優れた人をいう。聖とは本来、耳の穴がよく通って、普通の人には聞こえない声までよく聞くことができるという意味があるといわれる。
 世間でいう場合は「せいじん」と読み、儒教では、中国上古の帝王とされる唐堯(とうぎょう)や虞舜(ぐしゅん)等、また孔子・老子など、世間の人の師表(しひょう)となる智徳の優れた理想的な指導者をさしていっている。
 しかし、これらの聖人は過去・未来にわたる永遠の生命観を知らないために真の聖人ということはできない。それに対し、仏法においては仏を聖人といい、この場合は「しょうにん」と読む。
 御書にも「外典に曰く未萠(みぼう)をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という」(二八七㌻)、「委細に三世を知るを聖人と云う」(九七四㌻)と記されているように、とくに仏法では、過去・現在・未来の三世を、つぶさに正しく知っているところにその本質があるとされている。
「三世を知る」ということは、いわゆる通力ではない。事象の法則に通達しているということである。仏法は生命の正しい法理を見極めたものであるから、仏法に通達した聖人は「三世を知る」ことができるのである。
 したがって、仏法でいう聖人とは、一切の法門を究め尽くし、智慧が広大無辺で、慈悲心の深大な人格、すなわち仏を意味する。
 本文の「いまだ顕れざる後をしるを聖人と申す」とは、文永五年(一二六八年)正月、同翌六年九月の蒙古来牒によって、八年前(文応元年)に提出された立正安国論での他国侵逼難の予言が的中したことをさしていわれたものである。
 文永五年(一二六八年)四月八日御述作の安国論御勘由来にも「勘文(かんもん)を捧げて已後九ケ年を経て今年後の正月大蒙古国の国書を見るに日蓮が勘文に相叶うこと宛(あた)かも符契の如し」(三五㌻)と述べられ、また同年十月十一日の北条時宗への御状には「正月十八日・西戎(さいじゅう)大蒙古国の牒状到来すと、日蓮先年諸経の要文を集め之を勘(かんが)えたること立正安国論の如く少しも違わず普合しぬ、日蓮は聖人の一分に当れり未萠(みぼう)を知るが故なり」(一六九㌻)と仰せられている。
「此の法門のゆえに……」とは、仏法の正邪を明確にされ、禅宗などの邪法を邪法と言い切って破折されたがゆえに、ということである。また、日本の国を襲う災いを予知されたゆえに、人々を救おうとの大慈悲から諫暁されたことをさしておられるとも拝せられる。
「二十余所を(追)われ」とは、文永六年(一二六九年)以前であるから、立教開宗直後における安房・清澄寺の追放、松葉ヶ谷の夜討ちをはじめとして、折伏・弘教の先々で所を追われたことをいわれたと推される。
「流罪に及び」とは、本抄は文永六年御述作とすると、伊豆への流罪をさす。弘長元年(一二六一年)五月十二日、大聖人は念仏者によって幕府に訴えられ、伊豆国(静岡県の伊豆半島)伊東へ流された。
「身に多くのきず(疵)をかをほ(被)り弟子をあまた殺させたり」とは小松原の法難のことである。文永元年(一二六四年)十一月十一日、安房を訪問されていた大聖人は、壇越の工藤吉隆の招待を受け、華房(はなぶさ)の蓮華寺から工藤邸へ向かわれる途中の東条郷の小松原で東条景信の襲撃を受け、門下の鏡忍房はその場で討ち死に、駆けつけた工藤吉隆も重傷を負って死んだ。大聖人御自身も、前頭部に刀傷を受けられ、左腕を骨折されたのである。
 こうした諸難は「睡(ねむ)れる師子に手をつくれば大に吼(ほ)ゆ」(二三三㌻)と仰せのように、救国救民のため、時の権力者等に対し、謗法を訶責された結果、呼び起こされた難なのである。
 そして中国古代の忠臣とされ、国王を諌めたために殺された比干(ひかん)・伍子胥(ごししょ)、仏法流布のために難にあいながらも身命を惜しまなかったインドの提婆菩薩・師子尊者の例を挙げ、正法流布には受難は不可避であることを述べられ、大聖人の値難がこれら先人と比べ、はるかに超えていることを示唆され、真実の正直者であり法華経の行者であるとの証(あかし)とされているのである。
 それゆえに、聖人であり法華経の行者である日蓮大聖人の「頂(こうべ)をはなれ」て、八幡大菩薩の住処はどこにもないということができる。諫暁八幡抄の「今八幡大菩薩は……法華経の行者・日本国に有るならば其の所に栖(す)み給うべし」(五八八㌻)と仰せの御文と同意である。
 したがって、大聖人の教えを用いてこそ、日本国を守護するという八幡大菩薩の働きも盛んとなり、安国の実現も可能となるのであるから、もし大聖人を用いないようなことがあれば、八幡大菩薩はこの国をどのようにして守ったらよいのか嘆かれているであろうと、申し述べるよう命じられている。
 そして「仏菩薩並びに諸大善神をかへ(還)しまいらせん事は……禅宗・念仏宗の寺寺を一つもなく失い其の僧らを・いましめ」ることであり「叡山の講堂を造り霊山の釈迦牟尼仏の御魂を請し入れたてまつ」ることであると訴えるよう教えられている。ただし、これは寺々を破壊するということではなく、布施を断つ意であり、謗法の心を訶責する意にほかならない。
 撰時抄でも、平左衛門尉に向かって諫暁した言葉のなかに「一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばや(焼)きはらいて彼等が頚をゆひ(由比)のはま(浜)にて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」(二八七㌻)とあるが、この御文を承け、日寛上人は撰時抄愚記で、立正安国論に「釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖(いえど)も能忍(のうにん)の以後経説は則ち其の施を止む」(三〇㌻)とあるから、「頚をゆひ(由比)のはま(浜)にて切らずば……」というのは矛盾しないかとの批判に対して、「『則ち其の施を止む』とは、これ為人悉壇に約す。『頸を刎ぬべし』とはこれ対治悉壇に約す。本経の文に両辺あり。故に各(おのおの)一意に拠るなり」(文段集三〇三㌻)と釈されている。
「叡山の講堂を造り霊山の釈迦牟尼仏の御魂を請し入れ」とあるのは、一往、権実相対の立場から法華経を依経とする天台宗を宣揚されたものであり、日蓮大聖人の御内証の辺は「立正」、すなわち南無妙法蓮華経の御本尊の建立および流布にあることはいうまでもない。
 したがって「霊山の釈迦牟尼仏の御魂」とは、究極するところ久遠元初の自受用身、すなわち法華経寿量文底の事の一念三千の御本尊を意味しておられるのである。
 ゆえに「霊山の釈迦牟尼仏の御魂を請し入れたてまつらざらん外は」とは、前掲の「日蓮を此の国に用いずば」の御文の意に帰着するのであり、南無妙法蓮華経の御本尊を根本とすべきであるということである。
「諸神もかへり給うべからず、諸仏も此の国を扶(たす)け給はん事はかた(難)しと申せ」の結文には、日蓮大聖人を差し置いて日本の安国は絶対にありえないという御本仏の大慈悲と大確信が横溢し、「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ」(二三二㌻)と仰せられた御聖訓が彷彿(ほうふつ)としてくるのである。

出典『日蓮大聖人御書講義』第二十七巻(編著者 御書講義録刊行会 発行所 聖教新聞社)

           法門申さるべき様の事(各宗教義事)―了―
      法門申さるべき様の事(各宗教義事)

     第十六章 一国謗法が蒙古による国難招く

本文(一二七二㌻四行~一二七二㌻一一行)
 日本一州・上下万人・一人もなく謗法なれば大梵天王・帝桓(ていかん)並びに天照大神等・隣国の聖人に仰せつけられて謗法をためさんとせらるるか、例せば国民たりし清盛入道・王法をかたぶ(傾)けたてまつり結句は山王(さんのう)・大仏殿をやきはらいしかば天照大神・正八幡・山王等よりき(与力)せさせ給いて・源の頼義が末の頼朝に仰せ下して平家をほろぼされて国土安穏なりき、今一国挙(こぞ)りて仏神の敵となれり、我が国に此の国を領すべき人なきかのゆへに大蒙古国は起るとみへたり、例せば震旦(しんたん)・高麗(こうらい)等は天竺につ(次)いでは仏国なるべし、彼の国国・禅宗・念仏宗になりて蒙古にほろぼされぬ、日本国は彼の二国の弟子なり二国のほろぼされんにあに此の国安穏なるべしや、国をたすけ家ををも(思)はん人人はいそぎ禅・念がともがら(輩)を経文のごとくいまし(禁)めらるべきか、経文のごとくならば仏神・日本国にましまさず、かれ(彼)を請しまいらせんと術(すべ)はおぼろげならでは叶いがたし。

通解
 日本全国の上下万人が一人も漏れなく謗法なので、大梵天王や帝釈天並びに天照大神等が隣国の聖人に命じられて、謗法を改め正そうとなされているのであろうか。例えば、日本国の民であった平清盛入道が王法を傾け、更には日吉神社や大仏殿を焼き払ったので、天照大神や正八幡大菩薩や山王権現等が加勢されて源頼義の子孫の頼朝に命じて平家を滅ぼされ、国土は安穏となった。今、一国こぞって仏神の敵となってしまい、我が国にこの国を治めるべき人がいないがゆえに大蒙古国は起こってきたものと思われる。例えば、中国や高麗等はインドに次いで仏教が栄えた国である。彼の国々は禅宗や念仏宗になって蒙古に滅ぼされてしまった。日本国は彼の二国の弟子である。二国が滅ぼされているのに、どうしてこの国が安穏であることがあろうか。国を助け家を思う人々は急いで禅宗や念仏宗の輩を経文にあるように禁ずるべきであろう。経文のとおりであるならば、仏神は日本国にいらっしゃらない。その仏神をお招きしようとしても、その方法は通り一遍ではかないがたい。

語訳
帝桓(ていかん)
 帝釈天のこと。梵語シャクローデーヴァーナームインドラハ(Śakro Ⅾevānām Indraḥ)、音写して釈提桓因因陀羅、略して釈提桓因。諸天の中の王の意で、ヴェーダ神話上の最高神で雷神であった。漢訳して帝釈天。帝桓はインドラハの漢訳(=帝)とシャクローの音写(=釈)とを合わせた語。

山王(さんのう)
 山王権現のこと。滋賀県大津市坂本にあり、比叡山の本麓に鎮座する日吉神社をいう。比叡山の地主神であり、延暦寺が創建されると神仏習合思想の影響を受けて法華経守護の神とされ、山王と称して崇敬された。天台宗の隆盛にともなって平安時代から栄え、平安末期には延暦寺の僧が日吉の神輿をかついで京へ押しかけていた。治承四年(一一八〇年)十二月十一日、平清盛から遣わされた平清房によって攻められ、延暦寺の堂舎とともに焼き払われた。
〈追記〉
 日吉は当時「ひえ」と読んだが、現在では日枝神社との区別のためか「ひよし」と読むのを正式としている。

大仏殿
 大仏を安置している殿堂のことで、ここでは東大寺大仏殿をいう。天平勝宝四年(七五二年)に大仏開眼供養が行なわれたが、治承四年(一一八〇年)十二月二十八日、平清盛から遣わされた平重衡によって焼かれた。なお、東大寺の鎮守として大仏殿の近傍に祀られていた東大寺八幡宮も、その時に焼亡した。

震旦(しんたん)
 中国の歴史的呼称。梵語チーナスターナ(Cīna₋sthāna)の音写。真旦・真丹とも書く。チーナは秦の音写。スターナは地域・場所の意。秦(中国)人の住んでいる地域との意。古代インドで中国をさした呼称。おもに仏典のなかで用いられた。

高麗(こうらい)
 朝鮮半島の王朝(九一八年~一三九二年)。開城の豪族・王建が後高句麗の弓裔(きゅうえい)を倒して朝鮮北部に建国、国を高麗と称した。さらに九三五年に新羅を併合し、翌年に後百済(こうひゃくさい)を滅ぼし、朝鮮を統一した。その後、蒙古の侵略を受けて属国となり、一三九二年に李成桂が政権を掌握、李氏朝鮮を興し高麗は滅びた。

講義
 念仏や禅のために謗法の国となってしまったがゆえに、日本は蒙古に攻められようとしているのであると述べられ、その先例として、仏神を焼いて滅亡した平清盛や、中国・朝鮮に念仏・禅宗が流布して蒙古に侵略されたことを挙げ、救国の方途は、これらの謗法を禁じて正法に帰依する以外にないことを強調されている。
 日本一国が正法に背き、悪法に帰しているために、この謗法を改め、正すべく大梵天王・帝釈天などの諸天善神が隣国の聖人(蒙古)に仰せつけて、日本を責めさせているのだといわれ、亡家亡国の先例として初めに平清盛(一一一八年~一一八一年)を挙げられている。
 平清盛は平氏一門の棟梁として活躍し、保元・平治の乱に勝利したあと、源義朝を討って実権を握り、勢威を振るった。
 仁安二年(一一六七年)には太政大臣となり、承安元年(一一七一年)には娘・徳子を第八十代高倉天皇の中宮とし、権力の伸張を図った。一門の公卿十六人、殿上人三十余人を数え、「平氏にあらざれば人にあらず」との繁栄を誇ったのである。
 一時、病気で辞任し、出家(入道)して福原(今の神戸市兵庫区)に隠棲したが、治承元年(一一七七年)に平家討伐の策謀を知ると、急遽帰京し、反平家勢力の一掃に力を注いだ。
 また徳子に皇子が誕生するや、治承三年(一一七九年)に後白河法皇(第七十七代)を幽閉。翌年正月、高倉天皇の崩御とともに、三歳の皇子を第八十一代安徳天皇として立てるなど、権勢をほしいままにしたのである。「王法をかたぶ(傾)けたてまつり」とはこのことをいわれている。その後、源平の戦いが激しくなったさなか、熱病を患って死んだ。
「山王・大仏殿をやきはらい」とは、清盛が、源氏に加担したことを理由に叡山・南都の衆徒の鎮圧を重衡に命じた際、重衡が勢いにまかせて「山王・大仏殿」を焼き討ちしたことをいう。
 こうした平清盛の仏法破壊の暴挙に対して、天照大神・正八幡等が源頼義(九八八年~一〇七五年)の子孫の頼朝(一一四七年~一一九九年)の挙兵に加勢して平氏を滅ぼし、ひとまず国土の安穏をもたらしたのだと仰せである。
 頼朝が開いた鎌倉幕府も、次第に念仏・禅を保護するようになって、日本は一国挙げて仏神の敵となったため、天変地夭による乱れが甚だしく、立正安国論に「善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず」(一七㌻)と仰せのように、種々の災難が起こり、更に蒙古の襲来で苦しむようになったのである。
 更に、念仏や禅宗の邪教に陥ったため国が滅びた前例として中国、高麗を挙げられている。
 仏教はインドから中国・高麗に伝えられ、そこから日本に伝わってきたのであるから、日本は中国・高麗二国の弟子の立場といえる。
 その中国・高麗で念仏・禅宗が広まって、蒙古に滅ぼされたのであるから、どうして同じく念仏や禅に侵された日本が安穏でいられようかと警告され、「いそぎ禅・念がともがら(輩)を経文のごとくいまし(禁)めらるべきか」と国を救う道は、災いを招いた原因である念仏や禅などの謗法を禁ずることであると示されている。
「経文のごとく」と仰せの「経文」とは、立正安国論(二七㌻)に引用されている涅槃経大衆所問(だいしゅしょもん)品などの諸品と仁王経受持品をさしている。
 その結論として「早く天下の静謐(せいひつ)を思わば須(すべから)く国中の謗法を断つべし」(三〇㌻)と述べられている。本文の「いまし(禁)めらるべきか」とはこの意である。
 続いて「経文のごとくならば仏神・日本国にましまさず」と仰せである。その「経文」もやはり立正安国論(一八㌻)で引用されている金光明経・大集経等である。
 その内容は「世皆正に背き人悉(ことごと)く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼(き)来り災起り難起る」(一七㌻)と仰せのように、正法に背く国には諸天善神は住まず、これを捨て去るということである。
仏菩薩を含む諸天善神が「なぜ謗法の国を捨離するか」について、日寛上人は報恩抄文段で「多くの所以(ゆえん)あり」とされながら、大別して三意あるとしている。
 すなわち「一には仏前の誓約(法華経の行者の守護)に依る故なり……二には(妙法の)法味を嘗(な)めざるに依る故なり……三には住処(正直の人の頂)なきに依る故なり」(文段集三九三㌻)と示されている。
 それゆえに捨離した仏神を呼び戻すためには並大抵の方法では叶いがたいとされ、その方途はただ一つ、正直の法たる法華経とその信受による以外にないことを明かされるのである。
      法門申さるべき様の事(各宗教義事)

    第十五章 念仏・禅に下った台密の非法を糾す

本文(一二七一㌻一三行~一二七二㌻三行)
 又王臣等・天台・真言の学者に問うて云く念仏・禅宗等の極理は天台・真言とは一つかととはせ給へば、名は天台真言にかりて其の心も弁(わきま)えぬ高僧・天魔にぬかれて答えて云く、禅宗の極理は天台真言の極理なり・弥陀念仏は法華経の肝心なりなんど答え申すなり、而るを念仏者・禅宗等のやつばらには天魔乗りうつりて当世の天台真言の僧よりも智慧かしこきゆえに全くしからず、禅は・はるかに天台真言に超えたる極理なり、或は云く「諸教は理深我等衆生は解微(げみ)なり、機教相違せり得道あるべからず」なんど申すゆへに、天台・真言等の学者・王臣等・檀那皆奪いとられて御帰依なければ現身に餓鬼道に堕ちて友の肉をはみ・仏神にいかりをなし檀那をすそ(呪詛)し年年に災を起し或は我が生身の本尊たる大講堂の教主釈尊をやきはらい或は生身の弥勒菩薩をほろぼす、進んでは教主釈尊の怨敵(おんてき)となり・退いては当来弥勒の出世を過(あやま)たんとくる(狂)い候か、この大罪は経論にいまだとかれず、又此の大罪は叡山三千人の失(とが)にあらず公家武家の失となるべし。

通解
 また、王臣等が天台真言の学者に「念仏宗や禅宗等の極理は天台・真言と同一か」と質問すると、名前は天台真言を名乗っていながらその本義もわきまえていない高僧が天魔に魂を抜かれて「禅宗の極理は天台真言の極理であり、弥陀念仏は法華経の肝心である」などと答えて言うのである。しかしながら、念仏者や禅宗等の輩には天魔が乗り移って当世の天台真言の僧よりも智慧が賢いがゆえに「全くそうではない。禅宗は天台真言にはるかに勝れた極理である」とか、あるいは「諸教は法理が甚深で、我ら衆生はほんのわずかしか理解できない。機根と教えとが相違しており、得道することはできない」などと言うので、天台真言等の学者は王臣等の檀那を皆奪い取られて御帰依がないので現身に餓鬼道に堕ちて友の肉を食い、仏や神に怒りをぶつけ、檀那を呪い、年々に災を起こし、あるいは自分達の生身の本尊たる大講堂の教主釈尊を焼き払い、あるいは生身の弥勒菩薩を滅ぼしているのである。進んでは教主釈尊の怨敵となり、退いては未来の弥勒菩薩の出世を妨げようと狂っているのか。この大罪は経論に未だ説かれていない。また、この罪は比叡山三千人の過失でなく、公家や武家の過失となろう。

語訳
餓鬼道
 餓鬼は梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇に苦しめられる境界。大智度論巻三十に「餓鬼は腹は山谷の如く、咽(のど)は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何(いか)に況んや見ることを得んや」とある。また正法念処経巻十六には、餓鬼の住所として「一には人中に住し二には餓鬼世界に住するなり。是の人中の鬼は、若し人夜行かば、則ち見る者有り。餓鬼世界は閻浮提の地下五百由旬に住す」とあり、さらに業の果報によって三十六種の餓鬼のあることが述べられている。

大講堂
 比叡山延暦寺の堂塔の一つ。天長五年(八二八年)義真が東塔の地に創建(『天台座主記』巻一)。文永元年(一二六四年)三月、延暦寺僧徒によって火を放たれ、戒壇院などとともに消失した。

講義
 歴史と権威を誇る天台宗・真言宗が、新興宗教である念仏や禅宗に浸食された根源がどこにあるかを示される段である。
 すなわち天台真言(台密)の僧達は「念仏・禅宗等が説く極理は、天台真言の極理と同一か」との質問に対し、「禅宗の極理は天台真言の極理なり・弥陀念仏は法華経の肝心なり」等と答える。
 ところが念仏・禅宗等の徒輩は、天魔が乗り移って台密の僧よりも悪智慧に長(た)けているから「自宗の極理は天台真言と同じである」などとは決していわない。
 禅宗の徒は「禅は天台真言よりはるかに勝れた極理である」と主張する。
 念仏者は、中国浄土宗の道綽(どうしゃく)が著した安楽集に基づいて、法華経等の諸経は「道理が深くて衆生の愚鈍な智慧では理解が困難であり、衆生の機根と教法が相違しているため、一人も成仏する者がいないから、法華経等の聖道門を捨てて、浄土門の阿弥陀仏を信じよ」と強弁したのである。
 そのため天台真言の叡山は権威を失墜し、帰依していた王臣等の檀那を、皆、念仏・禅宗等に奪い取られてしまったのである。
 布施する檀那が皆無となったため「現身に餓鬼道に堕ち」る羽目になり、「友の肉をはみ」といわれるように、慈覚門下〈山門派=延暦寺〉と智証門下(寺門派=園城寺)が争乱を繰り返すこととなったのである。
 園城寺は今の滋賀県大津市の西北にあり、地名を三井(みい)というところから三井寺(みいでら)ともいう。第五代座主・智証がこの寺を本拠にしてから比叡山と長年にわたって勢力争いが続き、互いに兵戦や焼き打ちをたびたび繰り返してきた。
 大聖人御在世当時も、正嘉二年(一二五八年)四月の抗争に続き、文応元年(一二六〇年)一月四日には、園城寺に三摩耶戒壇が勅許されたが、延暦寺の僧徒が朝廷に強訴したため、勅許が停止される事件が起きている。
 延暦寺の山僧が朝廷に強訴するときには、叡山の鎮守である日吉(ひえ)神社の神輿(みこし)をかつぎ、京都へ繰り返すなど横暴を極めた。日吉神社は第七十一代後三条天皇が行幸して以来、皇族等の参詣も盛んに行われてきたので、叡山の僧徒はその権威をかさにきて強訴の手段に悪用したのである。自分達の要求が入れられないときは朝廷や貴族を「呪咀」した。これが「旦那をすそ(呪詛)し」である。
「仏神にいかりをなし……大講堂の教主釈尊をやきはらい」とは、延暦寺の強訴により戒壇勅許を停止した代償として、朝廷は文永元年(一二六四年)三月、天王寺(延暦寺の末寺)の別当職を園城寺に付したが、これにまたも反発した延暦寺の僧徒は、強訴のため、教主釈尊を本尊として祀ってあった延暦寺大講堂に自ら火を放つという愚行に出た事実をさしている。
「生身の弥勒菩薩をほろぼす」とは、園城寺中院の金堂に弥勒菩薩が本尊として安置されていたが、文永元年(一二六四年)五月、延暦寺の衆徒が園城寺を襲い、諸堂とともに焼き払ったことをいう。
 こうした叡山の非法の狂態をさして「進んでは教主釈尊の怨敵(おんてき)となり・退いては当来弥勒の出世を過(あやま)たんとくる(狂)い候か」と仰せられているのである。
「当来弥勒の出世」とは、弥勒は未来に釈尊の仏位を継ぐとされたことから、このようにいわれたのである。
 弥勒菩薩は釈尊の弟子となったが、釈尊に先立って入滅し、天界の都率(とそつ)天に生じて、現在は弥勒の浄土である都率の内院で天人のために法を説いているとされる。そして人寿八万歳・釈尊滅後五十六億七千万年の時、再びこの世に下生して竜華樹の下で成仏し、三会(え)にわたって法を説き、釈尊の説法に漏れた衆生を済度するという。
 ここでは、弥勒菩薩を焼き払ったことは、未来世における衆生救済のための出世を妨げるつもりか、との意である。
「此の大罪は経論にいまだとかれず」とは、「教主釈尊をやきはらい」「弥勒菩薩をほろぼす」という罪は、五逆罪のなかに「出仏身血」とは説かれていても、仏の焼滅までは言及されていないということと拝される。
 またこの大罪は、叡山三千人の過失ばかりでなく、狂態を生じさせる機縁をつくった朝廷や武家すなわち鎌倉幕府にとっても罰となってあらわれてくるであろうと断じられている。
      法門申さるべき様の事(各宗教義事)

     第十四章 叡山の謗法が正法の滅失を招く

本文(一二七一㌻四行~一二七一㌻一二行)
 又念仏宗は法華経を背いて浄土の三部経につくゆへに阿弥陀仏を正として釈迦仏をあなづる、真言師大日をせん(詮)とをもうゆへに釈迦如来をあなづる、戒にをいては大小殊(こと)なれども釈尊を本とす余仏は証明なるべし、諸宗殊なりとも釈迦を仰ぐべきか、師子の中の虫・師子をくらう、仏教をば外道はやぶりがたし内道の内に事いできたりて仏道を失うべし仏の遺言なり、仏道の内には小乗をもつて大乗を失い権大乗をもつて実大乗を失うべし、此等は又外道のごとし、又小乗・権大乗よりは実大乗・法華経の人人が・かへりて法華経をば失はんが大事にて候べし、仏法の滅不滅は叡山にあるべし、叡山の仏法滅せるかのゆえに異国・我が朝をほろぼさんとす、叡山の正法の失(う)するゆえに大天魔・日本国に出来(しゅったい)して法然大日等が身に入り、此等が身を橋として王臣等の御身にうつり住み、かへりて叡山三千人に入るゆえに師檀中(なか)不和にして御祈祷しるしなし、御祈請しるしなければ三千の大衆等檀那にすてはてられぬ。

通解
 また、念仏宗は法華経に背いて浄土の三部経に依るゆえに阿弥陀仏を正として釈尊を侮(あなど)っている。真言師は大日如来を中心と思うがゆえに釈迦如来を侮っている。(仏教は)戒律においては大乗と小乗と異なっても、釈尊を根本とするのであり、他の仏はその証明役であるはずである。諸宗は異なっても釈尊を仰ぐべきではないか。師子の身中の虫が師子を蝕(むしば)むというとおり、仏教を外道は破りがたい、仏教の内部に事が起こってきて仏道を滅ぼすであろう、というのは仏の遺言である。仏道の内部にあっては、小乗教をもって大乗教を滅ぼし、権大乗教をもって実大乗教を滅ぼすであろう。これらは、まだ外道のようなものである。また、小乗や権大乗よりも実大乗や法華経の人々が、かえって法華経を滅ぼそうとすることが重大事であろう。仏法が滅びるか滅びないかは比叡山にあるといえよう。比叡山の仏法が滅失したがゆえに異国が我が国を滅ぼそうとしているのである。比叡山の正法が失われたがゆえに大天魔が日本に出来(しゅったい)して法然や大日能忍等の身に入り、これらの身を橋渡しとして王臣等の御身に移り住み、更に比叡山の三千人の大衆の身に入るがゆえに師と檀那の仲が不和になって御祈禱に効験がないのである。御祈禱に効験がないので、三千人の大衆等は檀那に完全に見捨てられてしまったのである。

語訳
法然
(一一三三年~一二一二年)。平安時代末期、日本浄土宗の開祖。諱(いみな)は源空。美作(みまさか)(岡山県北部)の人。幼名を勢至丸といった。九歳で菩提寺の観覚の弟子となり、十五歳で比叡山に登って功徳院の皇円に師事し、さらに黒谷の叡空に学び、法然房源空と改名した。二十四歳の時に京都、奈良に出て諸宗を学んだ。再び黒谷に帰って、大蔵経を閲覧した。承安五年(一一七五年)四十三歳の時、善導の「観経散善義」及び源信の「往生要集」を見るに及んで専修念仏に帰し、浄土宗を開創した。その後、各地に居を改めつつ教勢を拡大。建永二年(一二〇七年)に門下の僧が官女を出家させた一件が発端となって、勅命により念仏を禁じられて土佐(高知県)(実際には讃岐)に流された。同年十一月に大赦があり、しばらく摂津(大阪府)の勝尾寺に住した後、建暦元年(一二一一年)京都に帰り、大谷の禅房(知恩院)に住して翌年、八十歳で没した。著書に、念仏の一門のみが往生成仏の正行であるとし浄土三部経以外の一切の経を捨閉閣抛(しゃへいかくほう)すべきだと説いた「選択集(せんちゃくしゅう)」二巻をはじめ「浄土三部経釈」三巻、「往生要集釈」一巻等がある。

大日
 生没年不明。大日能忍のこと。鎌倉時代初期、臨済宗の僧で日本達磨宗の祖。当時、中国で全盛の南頓禅を取り入れた。摂津国の水田(現在の大阪府吹田市)に三宝寺を建てて弘めた。畿内で多くの帰依者を得たが、大日能忍の禅には師承がないと謗るものが出たため、文治五年(一一八九年)弟子の練中と勝弁を宋に遣わして、当時全盛を誇っていた臨済禅の楊岐宗(ようぎしゅう)大慧派の拙庵徳光(一一四四年~一二〇三年)から印可を受けて帰国させた。以後、日本達磨宗と号して南頓禅を日本に弘めた。南頓禅は教外別伝・不立文字・直指人心(じきしにんしん)・見性成仏(けんしょうじょうぶつ)を強調する禅の一派。大聖人御在世当時、禅の中でも大日能忍とその弟子の仏地房覚晏(かくあん)の禅が盛んであった。大日能忍は、甥の平景清(かげきよ)に誤って刺殺されたと伝えられる。

講義
 師子(ライオン)の身中の虫が師子を食らうように、仏法を破る者は仏弟子であり、謗法と化した叡山はまさしく師子身中の虫となって、正法を滅失させていると指摘され、それが蒙古の来牒という国難を招来し、また祈禱の効験もないことを述べられている。
 念仏宗は阿弥陀仏を、真言宗は大日如来をそれぞれ本尊として崇め、主師親三徳具備の釈尊を侮っているが、およそ、仏教というからには、戒に大小の差はあったとしても、釈尊を根本とするのが当然であり、余仏はその証明役にすぎないはずである。ゆえに釈尊をないがしろにして阿弥陀等を中心にしているのは、本末転倒といわなければならないのである。

 師子の中の虫・師子をくらう

 師子身中の虫とは、師子の身中に宿り、体内を食(は)み、死に至らしめる虫のことで、仏法を内部から破壊する者を譬える。
 師子は百獣の王で、無敵とされるが、仏法も同様で、外道によっては破られない。だが、師子も身中の虫に食い破られるように、仏弟子と称する者によって内から破られるということである。これは、釈尊が後世のために厳しく戒めていたことなのである。
 この戒めの経文としては守護経と蓮華面経があり、日蓮大聖人は撰時抄(二八五㌻)でも引用されている。
 すなわち、守護経巻十の「彼の釈迦牟尼如来所有の教法は、一切の天魔・外道・悪人・五通の神仙皆乃至少分をも破壊(はえ)せず、而るに此の名相の諸の悪沙門皆悉く毀滅(きめつ)して余り有ること無からしむ」の文である。
 文意は、釈尊の教法は仏法外の敵には破ることはできない。しかし、名前だけ出家したという僧の姿をした悪人がことごとく仏法を破滅して、何も残らなくするであろうということである。
 蓮華面経巻上は「譬えば師子の命絶し身死せんに、若しは空、若しは地、若しは水、若しは陸所有(しょう)の衆生敢(あ)えて師子の身の肉を食わず、唯師子自ら諸の虫を生じて、還って自ら師子の肉を噉(くら)うが如し。阿難、我が之の仏法は余の能く壊(やぶ)るに非ず是れ我が法の中の諸の悪比丘猶毒を刺す如く、我が三大阿僧祇劫の積行勤苦(しゃくぎょうごんく)し集むる所の仏法を破らん」という文である。
 死んだ師子でさえ、ほかの動物は寄り付かないほど、師子は力もあり権威もあるとされる。しかし自らの身中に発生する種々の虫によって食い尽くされてしまうという。仏法もまた同様で、外部からは破られないが、仏法中の悪僧が、仏が三大阿僧祇劫にもわたって行を積み、勤苦して集めたところの仏法を破るであろう、という意味である。
 同抄で、伝教大師が南都六宗を〝六匹の虫〟とされたことに対し、大聖人は真言・禅・念仏宗の元祖を〝三虫〟とし、また天台宗の慈覚・安然・慧心を〝三匹〟として、仏法の内から仏法を破った師子身中の虫であると破折されている。
 また、末法の大法である日蓮大聖人の仏法のなかから生ずる師子身中の虫については、日興遺誡置文に「偽書を造つて御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心得可(べ)き事」(一六一七㌻)と述べられている。
 大聖人は、同じく仏法のなかに生じた師子身中の虫といっても、大乗仏法にとっての小乗教や、法華宗にとっての権教は、厳密にいえば身の外であり、さほど恐れるに足りない、と仰せられている。今、叡山の天台宗についていえば、叡山の僧のなかから、法華経より大日経が勝れると主張する者が出てきたことこそ、天台仏法を内部から食い破る師子身中の虫であると仰せられている。
「又小乗・権大乗よりは実大乗・法華経の人人が・かへりて法華経をば失はんが大事にて候べし」との仰せを心して拝すべきである。
 そして「仏法の滅不滅」は法華経を依経としてきた「叡山にあるべし」とされ、全山謗法と化して、実質的に正法が失われたために、蒙古の来牒という未曾有の国難を招来したのだと仰せられている。
 日蓮大聖人が一往、文面で過去の仏法である比叡山天台宗を立てられたことについて、日享上人は安国論御勘由来の解題で「此の如く叡山を尊重せられる等の事は仏教国史の常説であるが、其の裏面には権教の題目(弥陀念仏)の流布するは実経の題目(法華経の題目)の流布する先序である」といわれている。
 また、叡山の正法が滅失したために、第六天の魔王が便りを得て、念仏の法然や禅宗の大日房能忍等の身に入り、宗教に無知な上下万民を誑惑したことによって、天変地夭が相次いでいるのであり、そして、法然・大日房等を橋渡しとして、大天魔が王臣並びに叡山三千人の大衆の身に入っているから、師壇の仲が不和となり、どんなに祈禱しても効験なく、祈禱の結果が現れないから、結局、叡山三千人の大衆は、朝廷をはじめとした壇家から完全に見捨てられてしまったと仰せである。
 

プロフィール

墨田ツリー

Author:墨田ツリー

 
 
 

最新トラックバック

 
 

カテゴリ

 

検索フォーム

 
 
 

ブロとも申請フォーム

 

QRコード

QR