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              破良観等御書

       第十章 宗祖自らの就学時代を回顧

本文(一二九二㌻一七行~一二九三㌻八行)
 予はかつしろしめされて候がごとく幼少の時より学文に心をかけし上・大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給へ、十二のとしより此の願を立つ其の所願に子細あり今くはしく・のせがたし、其の後先(ま)ず浄土宗・禅宗をきく・其の後叡山・薗城(おんじょう)・高野・京中・田舎等処処に修行して自他宗の法門をならひしかども・我が身の不審はれがたき上・本(もと)よりの願に諸宗何(いず)れの宗なりとも偏党執心あるべからず・いづれも仏説に証拠分明に道理現前ならんを用ゆべし・論師・訳者・人師等にはよるべからず専ら経文を詮とせん、又法門によりては設(たと)い王のせめなりとも・はばかるべからず・何(いか)に況(いわん)や其の已下の人をや、父母・師兄等の教訓なりとも用ゆべからず、人の信不信はしらず・ありのままに申すべしと誓状を立てしゆへに・三論宗の嘉祥(かじょう)・華厳宗の澄観(ちょうかん)・法相宗の慈恩(じおん)等をば天台・妙楽・伝教等は無間地獄とせめたれども・真言宗の善無畏三蔵・弘法大師・慈覚・智証等の僻見(びゃっけん)は・いまだ・せむる人なし、善無畏・不空等の真言宗をすてて天台による事は妙楽大師の記の十の後序(こうじょ)並に伝教大師の依憑集(えひょうしゅう)にのせられたれども・いまだ・くはしからざればにや慈覚・智証の謬悞(びゅうご)は出来(しゅったい)せるかと強盛にせむるなり。

通解
 日蓮のことは、よくご存知のとおり、幼少のころから学問に心がけ、そのうえ十二歳から大虚空蔵菩薩の御宝前で「日本第一の智者となし給え」との願いをかけたのである。この願いにはさまざまな理由があるが、今は詳しく書くことができない。その後、まず浄土宗・禅宗の法門を聴聞し、さらに比叡山延暦寺、園城寺、高野山で研鑚し、京の都や田舎などを巡って修行して自宗・他宗の法門を習学したが、我が身の不審は晴れなかった。 もともとの願いに「諸宗のいずれの宗に対しても偏った心や執着はもつまい。いずれの宗であっても仏説に証拠があって、道理が分明であるものを用いよう。論師、訳者、人師等によってはならない。ひたすら仏の経文を第一としよう。また法門の上では、たとえ、国主の責めを受けてもはばかることはない。まして、それより以下の人々をや。父母、師匠、兄弟等の教訓であっても用いることはない。人の信ずるとか信じないとかにかかわらず、ただ経文のままに言い通していこう」との誓状を立てたのである。
 そして、三論宗の嘉祥、華厳宗の澄観、法相宗の慈恩等については、天台大師、妙楽大師、伝教大師等が無間地獄と責めたけれども、真言宗の善無畏三蔵、弘法大師、慈覚、智証等の僻見については、いまだに責める人がいない。善無畏、不空等が真言宗を捨てて、天台大師の法門によったことは、妙楽大師の法華文句記の巻十の後序ならびに伝教大師の依憑集に載せられているが、いまだ詳しくないので伝教大師の末流から慈覚、智証の誤りがでてきたのであろうかと、日蓮は強盛に責めているのである。

語訳
大虚空蔵菩薩
 梵名アーカーシャガルバ(Âkâśagarbha)の訳。智慧と福徳の二蔵が虚空にも似て広大無辺であるがゆえに、そしてそれを衆生の願いにしたがって施すのに尽きることがない菩薩であるがゆえに虚空蔵菩薩という。その形像は、蓮華座に坐して五智宝冠を戴き、右手に智慧の利剣、左手には福徳の蓮華と如意宝珠を持っている等さまざまである。大聖人が修学・出家された清澄寺の本尊が虚空蔵菩薩であった。

三論宗
 中国十三宗の一つ。竜樹の中論、十二門論と提婆(だいば)の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什(くまらじゅう)が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に吉蔵(きちぞう)(嘉祥大師(かじょうだいし))によって大成された。教義は、大乗の空理によって、自我を実有とする外道や、法を実有とする小乗を破し、さらに成実(じょうじつ)の偏空をも破している。究極の教旨として八不(はっぷ)(不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不来・不去)をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道をとなえた。日本には推古天皇三十三年(六二五年)一月一日、吉蔵の弟子の高句麗僧・慧灌(えかん)が伝えたのを初伝とする。奈良時代には南都六宗の一派として興隆したが、以後、次第に衰え、聖宝(しょうぼう)が東大寺に東南院流を起こして命脈をたもった以外は、法相宗に吸収された。

嘉祥(かじょう)
(五四九年~六二三年)。中国・隋から唐代の僧。中国三論宗の祖。姓は安氏。金陵(南京)の人。幼時父に伴われて真諦(しんだい)に会って吉蔵と命名された。祖父または父が安息(パルチア)人(胡族)であったことから胡吉蔵と呼ばれ、嘉祥寺(浙江省紹興市会稽)に住したので嘉祥大師と称された。十二歳で法朗に師事し三論(中論・百論・十二門論)を学ぶ。隋代の初め、開皇年中に嘉祥寺で八年ほど講義をはって三論、維摩等の章疏を著わし、三論宗を立て般若最第一の義を立てた。著作に「三論玄義」一巻、「中観論疏」十巻、「大乗玄論」五巻、「法華玄論」十巻、「法華遊意」一巻など数多くある。法華遊意では「二乗作仏を明かすことについては般若経よりも法華経が勝れているが、もし菩薩のために実恵と方便の二恵を明かす点では、般若経が勝れ法華経が劣る」(取意)として、般若経の智慧を最勝としている。また法華玄論で法華経を讃歎したが、後年、妙楽から「法華経を讃歎しているようにみえても、毀(そし)りがそのなかにあらわれている。どうして弘讃といえようか」と破折されている。後に天台大師に心身ともに帰伏し、七年間仕えたという。法華文句輔正記(ほっけもんぐふしょうき)(唐の道暹著)巻三には、吉蔵が天台大師に帰依して身を肉隥(にくとう)として高座に登らせた、とある。隥とは、はしごの意。

華厳宗
 中国十三宗の一つ。華厳経を所依とする宗派。中国・唐代の杜順(とじゅん)によって開かれ、法蔵によって大成された。教義は、一切万法は融通無礙(ゆうずうむげ)であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立て、華厳経を最第一としている。日本には天平八年(七三六年)唐の道璿(どうせん)が華厳宗の章疏を伝え、天平十二年(七四〇年)新羅の審祥(しんじょう)が講経し、その教えを受けた良弁(ろうべん)が東大寺で宗旨を弘めた。南都六宗の一つ。

澄観(ちょうかん)
(七三八年~八三九年)。中国・唐代の僧。中国華厳宗の第四祖。浙江省会稽の人。姓は夏侯(かこう)氏、字(あざな)は大休。清涼(しょうりょう)国師と号した。十一歳の時、宝林寺で出家し、法華経はじめ諸経論を学び、大暦十年(七七五年)蘇州で妙楽大師から天台の止観、法華・維摩等を習うなど、多くの名師を訪ねる。その後、五台山大華厳寺(清涼寺)で請われて華厳経を講じた。多くの書を著し、華厳宗の興隆に努めた。著作に「華厳経疏」六十巻、「華厳経随疏演義鈔」九十巻等多数ある。華厳経随疏演義鈔巻一には、「法華は余経を摂して華厳に帰す。是れ則ち法華亦(また)華厳を指して根本と為す」と説いて、法華経をはじめとする一切経の帰すべき根本の教えが華厳経であるとしている。同巻十九では、華厳経の「心如工画師(しんにょくえし)」の文を、天台大師の一念三千の法門が説かれてはじめて可能な性悪性善の法門を用いて解釈している。

法相宗
 中国十三宗の一つ。解深密経(げじんみつきょう)、瑜伽師地論(ゆがしじろん)、成唯識論(じょうゆいしきろん)などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘(げんじょう)がインドから瑜伽唯識(ゆがゆいしき)の学問を伝え、窺基(きき)(慈恩)によって大成された。教義は、五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、諸法はすべて衆生の心中の根本識である阿頼耶識(あらやしき)に含蔵(ごんぞう)する種子(しゅうじ)から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の邪説を立てている。日本伝来については四伝あり、孝徳天皇白雉四年(六五三年)道昭(どうしょう)が入唐し、玄奘より教えを受けて、斉明天皇六年(六六〇年)帰朝して元興寺で弘通したのを初伝とする。南都六宗の一つ。

慈恩(じおん)
(六三二年~六八二年)。窺基(きき)のこと。中国・唐代の僧。中国法相宗の開祖(玄奘を開祖と立てる場合は第二祖)。長安の慈恩寺に住んだので慈恩大師と称された。陝西省西安府長安県の人。姓は尉遅(うっち)氏、字(あざな)は供道。十七歳のとき玄奘三蔵がインドから帰ると、その弟子として出家。玄奘のもとで多くの翻訳に従事し、経論疏を撰述して中国法相宗を立てた。著書には「成唯識論述記」二十巻、「成唯識論掌中枢要」四巻、「大乗法苑義林章(だいじょうほうおんぎりんじょう)」七巻、「法華玄賛(妙法蓮華経玄賛)」十巻など数多くあり、百本の疏主・百本の論師と称された。三乗真実・一乗方便の説を立て、法相宗の依経・解深密経(げじんみつきょう)を真実の教えとし、方便である法華一乗の教えよりも勝るとしている。

妙楽大師の記の十の後序(こうじょ)
 法華文句記巻十下にある文。妙楽大師が不空三蔵の弟子・含光(がんこう)と会見した折の、西域における仏法弘伝の様子が語られている文を指すと思われる。
「適(たまたま)、江淮(こうわい)の四十余僧と往きて台山に礼す。因りて不空三蔵の門人含光の勅を奉じ、山に在りて修造するを見る。云わく『不空三蔵と親しく天竺に遊ぶ。彼に僧有り、問うて曰く〔大唐に天台の教迹(きょうしゃく)有り、最も邪正(じゃしょう)を簡(えら)び偏円を暁(あきら)むるに湛(た)えたりと。能(よ)く之を訳して将(まさ)に此の土に至らしむ可(べ)けんや〕と』。豈(あに)、中国に法を失い之を四維(しい)に求むるに非ずや。而も此の方に識(し)ること有る者は少なし、魯人(ろひと)の如きのみ。故に、徳に厚く道に向かう者は之を仰がざる莫(な)かれ。敬(つつし)んで願(ねがわ)くは、学者・行者は力に随って称讃せよ」
〈追記〉
(たまたま、妙楽大師が江淮(江蘇省)から来た四十余人の僧と五台山(山西省)に参詣した。そこでは、不空の門人・含光が勅を奉じて寺院を修造しているところを見た。含光がいうには「不空三蔵と親しく天竺(インド)を訪れたことがあった。天竺の僧がいて、問うていうには『大唐には天台大師の教迹(論釈)があって、最も仏法の正邪を立て分け、偏円を明らかにしているとのこと。よくこれを翻訳し、此の土(インド)に伝えてもらえないだろうか』」と。中国(=仏教の中心地、インド)では仏教が廃(すた)れ、これを四維(=天地の四隅、唐)に求めているではないか。しかも、此の方(唐)では天台大師の偉大さを識(し)る人は少なく、魯人(ろひと)のごとき者ばかりである(孔子の故国・魯の国の人々は、孔子の偉大さを知らず、尊重することがなかった)。ゆえに、徳が厚く求道心ある者は、これ(天台法華)を仰がなくてはならない。つつしんで願うには、学者、修行者は、その持てる力に随い、称讃すべきである)(取意)

講義
 これまで展開されてきた真言宗の破折に関連して、日蓮大聖人御自身の御半生を簡潔に回顧されている。
 日蓮大聖人が幼少の時に「大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給へ」と回顧された御文は、本抄の他に二編ある。
 すなわち清澄寺大衆中に「生身(しょうしん)の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事を不便(ふびん)とや思(おぼ)し食(め)しけん明星(みょうじょう)の如くなる大宝珠を給いて右の袖(そで)にうけとり候いし故に一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣粗(ほぼ)是を知りぬ」(八九三㌻)と述べられている。
 善無畏三蔵抄には「幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云、虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給いて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給いき」(八八八㌻)と仰せである。
 虚空蔵菩薩とは、その智慧、功徳、慈悲が虚空のように無尽蔵にあり、すべての衆生が求めるところのものを自在に与える能力を所有するところから、この名があるといわれる。
 大聖人が修学のため天福元年(一三三三年)「十二のとし」より登られた千光山清澄寺には、この寺の創建者・不思議法師の刻印と伝えられる虚空蔵菩薩が安置されていた。
 その菩薩に「日本第一の知者となし給へ」と祈願されたところ、明星のような智慧の法珠を授かるという不思議な体験をされたのである。
「其の所願に子細あり今くはしく・のせがたし」と仰せられているが「この事実はまさに一切衆生を救わんとされる蓮長の誓願と、本然に具わるところの智徳が内薫してもたらされた法界の妙用」(日蓮大聖人正伝)と拝される。
 そして修学と思索に努めるなかで、幾つかの不審にぶつかる。それは諸御抄によれば、
 ①鎮護国家の大法とされた真言密教をもって祈禱しながら、なぜ承久の乱で朝廷側が臣下である鎌倉幕府に敗れ、三上皇が遠島流罪されたのか。祈りとは逆の現象が出ている。
 ②念仏宗等の行者らが、なぜ臨終に悪相を現ずるのか。
 ③真言等の諸宗はそれぞれ「我が宗こそ仏意にかなえり」としているが、釈尊所説の本意にかなう宗旨は一つであり、最勝の経はただ一経のはずである。
 等々の疑念であった。
 しかし清澄寺は安房第一の名刹といっても「遠国なるうへ寺とはなづけて候へども修学の人なし」(三七〇㌻)という状態で、所蔵の経釈も十分になく、指導を受けるべき学匠もいなかったようであり、師の道善房も「愚癡におはする上念仏者」(八八八㌻)で、それらの根本的不審を晴らす力は到底なかったのである。
 その不審を晴らすべく、鎌倉をはじめ諸国遊学の旅に発たれたのである。延応元年(一二三九年)の春、御年十八歳であられた。
 そのころの鎌倉は、すでに仏教隆昌の機運が盛んで、諸宗諸派が競い合い、大寺巨刹が相次いで建立されつつあった。
「其の後先ず浄土宗・禅宗をきく」と仰せのように、大聖人が初めに着目されたのは浄土宗と禅宗の法義であった。浄土宗は庶民の間に、禅宗は武士階級に、最も盛んに信仰されていたからである。
 鎌倉での四年の遊学を終えた後、更に諸宗諸経の勝劣浅深を確かめ、仏法の奥義を見極めるために、仁治三年(一二四二年)二十一歳の御時、日本仏教の中心ともいうべき比叡山延暦寺へ向かわれたのである。
 それはたんに台家を修学するだけではなく、法華一乗の奥旨と経証を確認し、あわせて当時の叡山の実態をまのあたりに知見するためであった。
 更に叡山を、いわば拠点として諸宗の肝要を修学すべく、近国の諸宗の諸寺を歴訪されている。本文に「其の後叡山・薗城・高野・京中・田舎等処処に修行して自他宗の法門をならひしかども」と述べられているとおりである。
 こうして真剣な修学研鑽に精励されたものの、諸宗の法義では「我が身の不審はれがたき上」といわれるように、おおむね予測なされていたこととはいえ、大きな失望を覚えられたことがうかがえる。
 修学にあたっては本来の誓願として、次のごとく決意されたことを述べられている。
 ①いずれの宗に対しても偏った執心をもたない。
 ②いずれの宗であれ、経証が明らかで、道理が判然としているものを用いる。
 ③論師・訳者・人師等の言説によらず、もっぱら釈尊の説いた経文を根本とする。いわゆる依法不依人の金言を依処とされた。
 ④法門の正邪・勝劣に関しては、たとえ国主(最高権力者)の責めを受けても屈しない。迎合もしない。「其の已下の人」においてはなおのことである。
 ⑤同様に、大恩ある父母・師兄等から翻意を促す教訓があっても用いない。
 ⑥人々が信ずると否とにかかわらず、ただ真実をありのままに説く。
 この御誓言には、仏法者の基本姿勢である「仏説・経典を根本の依処とする」との厳然たる態度が拝される。
 既成・新興を問わず諸宗諸派が乱立する現代社会にあっても、正法正義を選択するうえで、これにまさる明快な基準、原理はない。また毅然として揺るぎない正法受持の姿勢を教示されているともいえる。
 日蓮大聖人がこの二十年間にわたる修学研鑽によって自得されたことは、一つには「後五百歳白法隠没」(大集経)の的中と「法華最為第一」(法華経)の確信であった。
 つまり叡山は真言の邪義に誑惑されて、開祖伝教大師の本意たる法華一乗の正義を滅失し、真言は歴代天皇の庇護のもと、加持祈禱のみに執して、主師親の三徳具備の釈尊を否定する悪法を世間に定着させつつある。
 その他の諸宗はことごとく時機を忘失し、いずれも釈尊の本義に違背している。これらの邪法邪義の横行が一切の災禍の根源であり、安国への道は釈尊出世の本懐たる唯一無上の法華経の広宣流布以外にない、ということであった。
 二つには、大聖人御自身こそ、法華経に予言された本化上行菩薩の再誕であり、法華経の肝要である南無妙法蓮華経を弘通する使命をもつ者であるとの自覚に、深く立たれたと拝される。
 諸宗への破折は、過去の像法時代において、正師である天台・妙楽・伝教大師等が、三論宗の嘉祥、華厳宗の澄観、法相宗の慈恩、南都六宗の碩学(せきがく)等に対して、諸宗は無間地獄の業因と厳しく責め、なかには法華の正義に帰伏した者もいたが、善無畏らの僻見についてはこれまで「いまだ・せむる人なし」だったのである。
 ただ、妙楽大師の「記の十の後序(こうじょ)」と、伝教大師の「依憑集(えひょうしゅう)」のなかに、真言宗を捨てて天台法華宗によるべきことが記述されているが、真言が一宗として成立していなかった時代背景もあり、わずかに勝劣に触れる程度だったのである。
 そうした事情から「いまだ・くはしからざればにや」といわれ、そのために「慈覚・智証の謬悞(びゅうご)は出来(しゅったい)せるか」と、大聖人はその実態を見極められたのである。

 妙楽・伝教大師の真言破折

 妙楽大師の法華文句記巻十の末の内容というのは、中国真言の三三蔵の一人である不空の弟子の含光(がんこう)が、真言宗は天台宗に及ばないと悔いたという話を書き記していることをいわれている。
 この含光の話は「宋高僧伝」に大要次のように出ている。
 含光は不空三蔵の弟子となり、不空が西域に帰るときに従ったが、後に不空とともに再び中国へ帰った。たまたま妙楽大師と会ったときに、西域での求法の状態を尋ねられ「彼の国の僧らは天台の教法を慕っており『縁があって再び来ることがあれば、天台の教法を翻訳して持ってきてもらいたい』と、大変丁重に頼まれた」と答えた。
 この含光の語った内容を、伝教大師は依憑集という書で引用しているのである。
 伝教大師は南都六宗を破して、法華経が諸経のうちで第一であることを明らかにしたが、それだけでは世間の人々の疑いを晴らすことができなかったので、延暦二十三年(八〇四年)に中国へ渡り、天台宗の奥義を受け、真言の教義を学んで帰朝し、天皇には法華経の極理を授け、六宗の僧には真言を習わせている。しかし、理同事勝というのは善無畏の誤りであることを以前から見抜いていたので、天台宗が勝れ、真言が劣るということを明らかにして、依憑集を著したのである。
 この依憑集は依憑天台集といって、天台の義を規範とし、依憑(よりどころ)としながら、真言・三論・華厳・法相などの諸宗が仏法の正義からはずれていることを示したものであり、その序文においても「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯(みん)し、旧到(きゅうとう)の華厳家は則ち影響(ようごう)の軌模(きも)を隠す……」と破折している。
 この「筆授の相承を泯し」とは、元天台僧であった一行の著した大日経疏は、天台法華宗の立場で大日経を解釈して、大日経と法華経の理は同じとしたものであり、日本の真言宗が大日経第一・華厳経第二・法華経第三と立てることは、この筆授の相承を無視し、背いていることになるとの意味である。もとより大日経疏も誤りだが、弘法はそれに輪をかけて誤りを広げたわけである。
 伝教大師はそれのみならず、真言宗の〝宗〟の一字を削って一宗として認めることはせず、真言を天台の一分科としたのである。
 このことについては聖密房御書に「伝教より慈覚たまはらせ給いし誓戒の文には天台法華宗の止観・真言と正(まさし)くのせられて真言宗の名をけづ(削)られたり」(八九九㌻)と仰せである。
 伝教大師が真言宗をはっきり破折しなかったのは、報恩抄(三〇四㌻)によると、一つには当時、出世の大事たる大乗別受戒の大戒壇を我が国に建立するため、これをめぐって、諸宗との諍論が激しい時代であったこともあり、真言との争いにとりかかっては、大事な目的である円頓戒壇の建立に支障をきたす恐れがあると考えられたのであろうか、天台・真言の二宗の勝劣については、弟子達にもはっきり教えなかったようである。二つには末法の時代に譲られたものと思われる。
             破良観等御書

         第九章 真言堕地獄の現証を示す

本文(一二九二㌻一一行~一二九二㌻一六行)
 事の心を案ずるに彼の大慢ばら門がごとく無垢論師(むくろんじ)にことならず、此等は現身に阿鼻(あび)の大火を招くべき人人なれども強敵のなければ・さてすぐるか、而(しか)りといへども其のしるし眼前にみへたり、慈覚と智証との門家等・闘諍(とうじょう)ひまなく・弘法と聖覚が末孫が本寺と伝法院・叡山と薗城(おんじょう)との相論は修羅と修羅と猿と犬とのごとし、此等は慈覚の夢想に日をい(射)るとみ・弘法の現身妄語のすへか、仏末代を記して云く謗法の者は大地微塵よりも多く正法の者は爪上(そうじょう)の土よりすくなかるべし、仏語まことなるかなや今日本国かの記にあたれり。

通解
 このことを考えてみると、真言師等の姿は、外道の三神と釈迦像とを高座の足に作って我が徳は四聖よりも勝れていると言った大慢婆羅門や、世親菩薩を誹謗した無垢論師と同じである。真言師等は生きながら阿鼻地獄の大火に焼かれるべき人々であるが、強敵がないのでその謗法の罪があらわれずに無事にいるのであろうか。しかし、彼らが阿鼻地獄に堕ちる証拠は眼前にある。
 慈覚と智証との門家等は闘諍が絶えず、弘法が開いた高野山金剛峯寺と聖覚房覚鑁(かくばん)の開いた根来伝法院、比叡山延暦寺と園城寺との争いはちょうど修羅と修羅、猿と犬との闘諍のようなものである。これらのことは慈覚が夢に日輪を射たことや、弘法が在世中に妄語を続けたからであろうか。
 仏はこうした末代悪世を予言して「謗法の者は大地微塵より多く、正法を信ずる者は爪上の土よりも少ないだろう」と説いている。仏語まことなるかな。今、日本国はまさにこの仏記に合致している。

語訳
大慢ばら門
 大慢婆羅門のこと。南インドのバラモン僧。大唐西域記巻十一によると、外典・暦法等に通じ、国王・国の人々に尊敬されていた。しかし、慢心を起こして外道の三天(大自在天・婆籔(ばそ)天・那羅延(ならえん)天)と釈尊像を作って高座の四足とし、これに登って、我が徳は四聖に勝れていると説法していた。時に西インドからきた賢愛論師は、法論をしてその邪見を破折した。国王は民衆を誑惑していた大慢を処刑しようとしたが、賢愛は制してその罪を減じ、これをなぐさめた。しかし大慢は、なお論師を罵り、三宝を毀謗(きぼう)したので、大地が裂け、たちまちに地獄へ堕ちたという。

無垢論師(むくろんじ)
 五、六世紀頃の小乗の論師。梵名はヴィマラミトゥラ(Vimalamitra)といい、無垢友(むくゆう)と訳す。大唐西域記巻四によると、インドの迦逕弥羅(かしゅみら)国の人。説一切有部に属し、広く衆経・異論を学んだ。世親の倶舎論に論破された衆賢(しゅげん)の教義を再興し、大乗の名を絶やして世親の名声を滅ぼそうと誓いを立てた。しかし、その誓願の終わらぬうちに舌が五つに裂け、後悔しながら無間地獄に堕ちたといわれる。

阿鼻(あび)の大火
 阿鼻地獄の大火のこと。観仏三昧海経、正法念処経等によると、阿鼻地獄では、一切の毛孔から猛火を出す狗、牙の頭から火を出す獄卒、毒を吐き火を吐く大蛇、嘴(くちばし)の頭から火を出す五百億の虫などが罪人を苦しめるのである。また、阿鼻地獄の十六の別処の一つの「鉄野干食処(てつやかんじきしょ)」では、炎の牙のある野干が罪人を食い噉うという。また、「閻婆叵度処(えんばはどしょ)」では、嘴から炎を出す象のような大きな閻婆という悪鳥が、罪人をくわえて高空から落とし、地面には無数の鋭い刃が出ており、炎の歯をもつ狗が罪人の身を齧(か)むという。

聖覚
(一〇九五年~一一四四年)。新義真言宗の祖、聖覚(正覚)房覚鑁(かくばん)のこと。諡(おくりな)は興教大師。仁和寺の寛助僧正について得度し、密教の奥義を学ぶ。大治五年(一一三〇年)高野山に伝法院を建立し、天承元年(一一三一年)鳥羽上皇の勅願によって堂宇を拡充し大伝法院と称した。長承三年(一一三四年)大伝法院と金剛峯寺(こんごうぶじ)の両座主を兼ねた。のち、金剛峯寺衆徒と対立し、一門を率いて根来山(ねごろさん)に移り円明寺(えんみょうじ)を建立した。死後、その門流が大伝法院を根来山に移し、新義真言宗として分立、覚鑁はその開祖とされる。覚鑁は密教の即身成仏を基にして浄土思想を取り入れて理論的に統一した。著書には「五輪九字明秘密釈(ごりんくじみょうひみつしゃく)」、「密厳諸秘釈(みつごんしょひしゃく)」十巻などがある。

弘法の現身妄語
 弘法が生きている間についた嘘を指す。後段の追記参照。

講義
 弘法の流れを引く東密にせよ、慈覚・智証のながれを汲む台密にせよ、法華誹謗の真言密教の僧らが無間地獄に堕ちる瑞相として、修羅闘諍に明け暮れている現状を指摘されている。
 日蓮大聖人は真言の大謗法の本質を見極められたうえで、真言師は古代インドにおける大慢婆羅門や、小乗をもって大乗をそしり、天親(世親)菩薩を排そうとして狂乱し、舌が五つに裂けたとされる無垢論師と同一であるとされている。
 彼らが生身に堕獄したように、真言師らも「現身に阿鼻の大火を招くべき人人」だが、これまでその非法を糾弾する人がいなかったから、謗法の罪科が明らかにされないままできたといわれている。
 しかし「其のしるし眼前にみへたり」と、真言末流の間断なき対立・相克・闘諍の様相を示し、歴然たる現証とされているのである。

 慈覚と智証門家の闘諍
 
 その一つは慈覚門家(山門派=比叡山延暦寺)と智証門家(寺門派=園城寺)との争乱である。
 園城寺は今の滋賀県大津市の西北にあり、地名も三井(みい)というところから三井寺(みいでら)ともいう。智証がこの寺の出身だったため、比叡山と長年にわたって勢力争いが続き、兵戦や焼き討ちをたびたび繰り返した。
 発端は、第六十四代円融天皇の天元四年(九八一年)に、比叡山第十九代の尋禅(じんぜん)座主(慈覚系)が引退し、第二十代座主に智証系の余慶が任命されたことに、慈覚門下が怒って讒訴したことによる。
 以来、まさに「闘諍ひまなく」、おもに比叡山側からの三井寺焼き討ちなどが続いた。そのため「園城寺をやき叡山をやく」(三一一㌻)結末を招き、智証と慈覚の本尊も焼け、叡山大講堂も焼失してしまったのである。

 本寺と伝法院の抗争

 もう一つは弘法と聖覚房の末孫による本寺・金剛峯寺(こんごうぶじ)と根来の伝宝院との不和・対立である。
 本寺の高野山金剛峯寺は、弘法が弘仁十年(八一九年)に金堂を建てたのが始まりで、真言密教の根本道場となってきた。
 伝法院とは聖覚坊覚鑁(かくばん)が建立した寺院。現在の和歌山県岩出市根来にある。地名から根来寺(ねごろじ)ともいう。天承元年(一一三一年)に聖覚房が鳥羽上皇の勅許を得て高野山に開基した伝法院が始まりである。
 聖覚房はここで伝法会を修していたが、長承三年(一一三四年)に金剛峯寺の座主を兼任したため、金剛峯寺衆徒の反対にあい、保延六年(一一四〇年)に焼き討ちを受け、現在地に逃れた。
 両者の抗争はその後も続き、根来の衆は鎌倉中期に独立して新義真言宗を立てた。ここに、いわゆる真言宗古義派と新義派の分裂が生じ、現在では古義が七派、新義が二派に分かれている。
 このように台密のほうは山門と寺門、東密のほうは本寺と伝法院というように内部抗争を繰り返し、まさに「修羅と修羅と猿と犬」のごときありさまであった。これを、大聖人は報恩抄でも「現身に無間地獄をかん(感)ぜり」(三一一㌻)といわれている。そして「此等は慈覚の夢想に日をい(射)るとみ・弘法の現身妄語のすへか」と、元祖の非法ゆえの当然の結末であろうとされている。

「慈覚の夢想に日をい(射)る」

「慈覚の夢想に日をいる」といわれている意味は、慈覚は漢土から帰国して、真言三部経のなかの金剛頂経の疏七巻と蘇悉地経の疏七巻の計十四巻を著したが、中身は理同事勝の邪義で、漢土における善無畏らの邪説を下敷きにしたものにすぎなかった。
 この十四巻が、慈覚自身にも、はたして仏意にかなうものか否かに自信がなかったらしく、比叡山東塔の総持院の本尊・大日如来の前にこれを安置して「此の疏仏意に叶へりやいなや」(三五三㌻)と祈ったのである。
 するとある夜、太陽を矢で射落とした夢を見て「深く仏意に通達せりと悟り後世に伝うべし」(二八一㌻)と決意したという説を指していわれている。
 日輪を射落とすというのは、ふつうは凶夢とされるが、慈覚は自分の智慧が大日如来の心に通じたものと解釈して吉夢とし、この夢をもって真言が法華経より勝れているという確信を得たというのである。
 慈覚が夢を判断の根拠にしたことについて、日蓮大聖人は諸御抄で、日輪を射たのは諸仏に弓を引いたもので、亡国の先兆となる凶夢にほかならないとされ、また依法不依人の金言を引かれて「夢を本(もと)にはすべからず……経論の文こそたいせちに候はめ」(二八二㌻)と仰せになっている。
 そして「日輪を射るとゆめにみたるは吉夢なりというべきか」(同㌻)と難じられ、いにしえの数々の事例を挙げて「此の夢をもつて法華経に真言すぐれたりと申す人は今生には国をほろぼし家を失ひ後生にはあび(阿鼻)地獄に入るべし」(同㌻)と破折されている。

 弘法の現身妄語

「弘法の現身妄語」は多くあり、第八章でも述べたが、それ以外では、弘仁九年(八一八年)の春、国中に疫病が流行したとき、弘法が般若心経で祈ったところ、疫病がやんだとともに、夜中に太陽が赫々(かっかく)と輝いたなどといっている。
 弘任九年春に疫病が流行したという歴史の記録はなく、まして夜中に太陽が出たという記録などどこにもない。もしこれが事実なら、万人が見たはずであり、歴史の記録に載せられないわけがないのである。
 また弘法が中国から帰って真言宗を開こうとしたとき、朝廷に各宗の僧を集め、智拳の印を結んで南方へ向かったところ、面門が俄(にわか)に開いて金色の毘廬遮那(びるしゃな)になったという。
 面門とは口のことであり、口をあけたら法身如来になったなどということは全く意味がなく、大聖人は、おそらく眉間白毫(みけんびゃくごう)がにわかに開いて成仏の姿を現したと書くつもりで、誤って〝面門〟と書いたのであろうが「ぼう(謀)書をつくるゆへに・かかるあやまりあるか」(三二〇㌻)と虚事(そらごと)たる所以を指摘されている。
 結論として「いわうや弘法は日本の人かかる誑乱(おうらん)其の数多し此等をもつて仏意に叶う人の証拠とはしりがたし」(三二一㌻)とされ、そうした妄語・妄説は仏意にかなう証拠とは、とうていできないと断じられている。
 涅槃経には、魔が仏の形を現し、世間の人を信用させておいて、しかも仏法を破ると説かれているが、まさしく弘法・慈覚らはこれにあたるといえよう。
 結局、慈覚・智証以後、叡山における法華経の正義は完全に失われ、真言密教の邪義に汚染されて「此の四百余年が間は叡山・園城・東寺・奈良・五畿・七道・日本一州・皆謗法の者となりぬ」(三〇九㌻)という事態となったのである。
 このことを本文で「仏末代を記して云く謗法の者は大地微塵よりも多く……」と仰せられている。法華経の流通分である涅槃経で、釈尊は滅後末法濁世の姿を「是等の涅槃経典を信ずるは爪上の土の如く……是の経を信ぜざるは十方界所有の地土の如し」(取意)と予言しているが、仏語に虚妄はなく「かの記」すなわちこの涅槃経の未来記どおり、一国謗法と化した日本の現状は、まさしくそれに符合するといわれている。

〈追記〉
弘法の現身妄語(詳細)
 弘法による般若心経の注釈書『般若心経秘鍵(ひけん)』(一巻)に記している。
「時に弘仁九年の春天下大疫す、爰(ここ)に皇帝自ら黄金を筆端(ひったん)に染め紺紙(こんし)を爪掌(そうしょう)に握りて般若心経一巻を書写し奉り給う予講読の撰に範(のっと)りて経旨の宗を綴る未だ結願の詞(ことば)を吐かざるに蘇生の族(やから)途(みち)に彳(たた)ずむ、夜変じて而も日光赫赫(かくかく)たり是れ愚身の戒徳に非ず金輪(こんりん)御信力の所為なり、但し神舎に詣(もう)でん輩(ともがら)は此の秘鍵を誦し奉れ、昔予鷲峰(じゅぶ)説法の筵(むしろ)に陪(ばい)して親(まのあた)り其の深文を聞きたてまつる豈其の義に達せざらんや」
(弘仁九年の春、天下に大疫病が流行した。ここに天皇は、自ら黄金を筆端に染め、紺紙を掌に握って、金泥の般若心経一巻を書写せられた。自分は、この般若心経を講読する命をうけて、経旨の趣を書きつづった。しかも、いまだ結願の詞(ことば)をのべ終わらぬのに、この大疫病の流行はとまり、蘇生した人たちは道にたたずんでいる。また夜変じて世中に太陽が赫々(かくかく)と輝いている。これ、自分がごとき愚かな身の戒徳のゆえにあらず、ひとえに金輪聖王(こんりんじょうおう)たる天皇の御信力のたまものである。ただし、今後は、神社に参詣する者たちも、この般若心経秘鍵の文を読みたてまつるべきである。昔、自分が霊鷲山の説法の座に列していたとき、眼前に、その深意を聞いたのである。ゆえに、どうして、この経の意義に達しないわけがあろうか)
 しかし、弘仁九年春に疫病が流行したという記録はなく、夜中に日輪が出たという史実があるわけがない。大聖人は「夜中に日輪の出現せる事如何・又如来一代の聖教にもみへず、未来に夜中に日輪出ずべしとは三皇五帝の三墳・五典にも載せず」(三一九㌻)と、その虚構を弾呵されている。
 さらには、弘法自身、釈尊の霊鷲山における説法を目の当たりに聞いた、などと虚言を並べている。

 弘法の弟子、真済(しんぜい)が書いたとされる『孔雀経音義序』(三巻。九五六年成立)に記している。
「弘法大師帰朝の後真言宗を立てんと欲し諸宗を朝廷に群集(ぐんじゅう)す即身成仏の義を疑う、大師智拳(ちけん)の印を結びて南方に向うに面門(めんもん)俄(にわか)に開いて金色(こんじき)の毘盧遮那(びるしゃな)と成り即便(すなわち)本体に還帰(げんき)す、入我・我入の事・即身頓証の疑い此の日釈然たり、然るに真言・瑜伽(ゆが)の宗・秘密曼荼羅の道彼の時より建立しぬ」「此の時に諸宗の学徒大師に帰して始めて真言を得て請益(しょうやく)し習学す三論の道昌・法相の源仁・華厳の道雄・天台の円澄等皆其の類なり」
(弘法大師は、唐より帰朝の後、真言宗を立てんと思われ、諸宗の代表を朝廷に集めて論議した。みな真言宗の即身成仏の義を疑っていた。そのとき、弘法大師は、智拳の印を結んで南方に向かったところが、弘法大師の面門(口のこと)がにわかに開いて金色の毘盧遮那と化し、すなわち毘盧遮那の本体にたち還った。これによって、入我、我入の教意、すなわち、諸仏をわが身中に引入し、また、わが身を諸仏に引入すること、即身に仏果を証することが明らかになったので、衆人の疑いは、たちまちに氷解したのである。しかして真言瑜伽の宗、秘密曼荼羅の道は、この時から建立されたのである。……この時に諸宗の学徒は、弘法大師に帰依して初めて真言を得て、請益(しょうやく)し、習学したのである。すなわち三論宗の道昌、法相宗の源仁、華厳宗の道雄、天台宗の円澄などが、みなこのたぐいであった)
 しかし、面門とは口であり、口を開いたら法身如来になったなどということは全く意味がなく、おそらく眉間白毫がにわかに開いて成仏の姿をあらわしたと書くつもりで、誤って面門と書いたのであろう、そもそもが偽書たるゆえんである。また、検証によれば『孔雀経音義序』は真済(八〇〇年~八六〇年)の作ではなく、後世に観静(九〇一年~九七九年。東寺長者・高野山座主・西院僧正)が真済に仮託して書いたものであり、いよいよ根拠のない虚事(そらごと)と知れるのである。

弘法の伝に記している。
「帰朝泛舟(はんしゅう)の日発願して云く我が所学の教法若(も)し感応の地有らば此三鈷(さんこ)其の処に到るべし仍(よっ)て日本の方に向て三鈷を抛(な)げ上ぐ遥かに飛んで雲に入る十月に帰朝す」「高野山の下に入定(にゅうじょう)の所を占(し)む乃至彼の海上の三鈷今新たに此に在り」
(いよいよ中国から帰朝のために舟を出す日、弘法大師が発願していうのには、わが学んだところの教法をひろむるに適した感応の地があるならば、いまから投げ上げるこの鈷(こ)がかならず、その地に落ちるであろうと。そして日本の方に向かって鈷を抛(な)げ上げた。三鈷は、はるかに飛んで、雲の中にはいった。しかして、その年の十月に帰朝した。……高野山の下に弘法大師が入定すべき場所を決定した。乃至かの海上で投げ上げた三鈷が、いま、あらたにここに落下してあった)
 しかし報恩抄(三一八㌻・取意)には――仏法の邪正は、けっして、このような「不可思議の徳」によって決まるものではない。昔のインドのバラモン外道は、あるいは恒河の水を耳に十二年間とどめ、あるいは大海を一日にして吸い干したとかいうが、これに対し天台大師は、法華玄義に「名聞名利をもとめるもので、見愛(けんない)の煩悩を増したにすぎぬ」と記した。また、仏教においてもそのような類はあったが、妙楽大師は「なるほど、感応はかくのごとくあったけれども、なお理にかなわざるものだ」と書いた。日本の伝教大師は三日間のうちに甘露の雨をふらせたが、それをもって仏意にかなったのだとは言わなかった。それでも、与えて、弘法大師に、いかなる徳があったとしても、法華経を戯論(けろん)の法と定めたり、釈迦仏を無明の辺域と書いた筆跡を、智慧すぐれた人は、絶対に用いてはならない――と指導されている。
             破良観等御書

        第八章 真言の元祖等の誑惑を破す

本文(一二九一㌻一五行~一二九二㌻一一行)
 而(しか)るを天台宗・出来(しゅったい)の後・月氏よりわたれる経論並(ならび)に天竺・漢土にして立てたる宗宗の元祖等・修羅心を・さしはさめるかのゆへに或は経論にわたくし(私)の言をまじへて事を仏説によせ・或は事を月氏の経によせなんどして・私の筆をそへ仏説のよしを称す、善無畏三蔵等は法華経と大日経との勝劣を定むるに理同事勝と云云、此れは仏意にはあらず、仏説のごとくならば大日経等は四十余年の内・四十余年の内にも華厳・般若等には及ぶべくもなし、但(ただ)阿含・小乗経にすこしいさてたる経なり、而るを慈覚大師等は此の義を弁(わきま)えずして善無畏三蔵を重くをもうゆへに理同事勝の義を実義とをもえり、弘法大師は又此等には・にるべくもなき僻人(びゃくにん)なり、所謂(いわゆる)法華経は大日経に劣るのみならず華厳経等にも・をとれり等云云、而を此の邪義を人に信ぜさせんために或は大日如来より写瓶(しゃびょう)せりといゐ或は我まのあたり霊山にして・きけりといゐ或は師の慧果和尚(けいかわじょう)の我をほめし或は三鈷(さんこ)をなげたりなんど申し種種の誑言(おうげん)をかまへたり、愚(おろか)な者は今信をとる、又天台の真言師は慈覚大師を本とせり、叡山の三千人もこれを信ずる上・堕つて代代の賢王の御世に勅宣を下す、其の勅宣のせん(詮)は法華経と大日経とは同醍醐・譬へば鳥の両翼・人の左右の眼(まなこ)等云云、今の世の一切の真言師は此の義をすぎず、此等は螢火(けいか)を日月に越ゆとをもひ蚯蚓(きゅういん)を花山より高しという義なり、其の上一切の真言師は潅頂となづけて釈迦仏を直ちにかきてしきまんだら(敷曼荼羅)となづけて弟子の足にふませ、或は法華経の仏は無明に迷える仏・人の中のいぞ(夷)のごとし真言師が履(くつ)とりにも及ばずなんどふみ(文)につくれり、今の真言師は此の文を本疏(ほんしょ)となづけて日日・夜夜に談義して公家武家のいのりと・がうして・ををくの所領を知行し檀那をたぼらかす。

通解
 しかるに、中国に天台宗が成立した後に、インドから渡ってきた経論ならびにインド、中国で開かれた諸宗の元祖等は、修羅心をさしはさんだからであろう、あるいは経論に自らの言葉を加えながら、事を仏説に寄せ、あるいは事をインドの経に寄せなどして、自分の説を付け加えて仏説であるなどと称したのである。善無畏三蔵等は法華経と大日経との勝劣を定めるのに理同事勝と言った。しかし、これは仏意ではない。仏説のとおりに従えば大日経等は四十余年の内の経教であり、四十余年の経教のなかでも、華厳経、般若経等にも及ばない教えなのである。ただ阿含経等の小乗経には少し勝れているという程度の経である。それを慈覚大師等はこのことをわきまえずに、善無畏三蔵を重んじて理同事勝を実義と思い込んだのである。
 弘法大師はまた慈覚等とは全く比べることもできないほどの僻人(びゃくにん)である。弘法は「法華経は大日経に劣るのみならず、華厳経等にも劣る」と言っている。そのうえこの邪義を人々に信じさせるために、あるいは大日如来から相承した法門であるとか、あるいは霊鷲山でまのあたりに聴いた法門であるとか、あるいは師匠の慧果和尚が自分を褒めたとか、あるいは唐から日本に投げた三鈷の金剛杵(こんごうしょ)が高野山にあった等のさまざまな嘘の話をつくったのである。それを愚かな人々は今でも真実であると思っているのである。
 日本の天台宗のなかの真言師等は慈覚大師を源としている。比叡山の三千人の大衆が慈覚を信じたのみならず、また代々の天皇もその治世に勅宣を下した。その勅宣の所詮の意は「法華経と大日経とは同じ醍醐味の教えであって、たとえば鳥の二つの翼、人の左右の眼のようなものである」ということである。現在の世の中の一切の真言師はこの義を出ないのである。これはあたかも螢を日月より明るいと思ったり、ミミズの作る山が華山より高いと思うのと同じ義である。そのうえ一切の真言師は潅頂と名づけて、釈迦仏を描き、敷曼荼羅と名づけて弟子の足で踏ませるのである。あるいは「法華経の仏は無明に迷う仏にすぎず、人のなかでいえば夷(えびす)のようなものであり、真言師の履(くつ)取りにも及ばない」と書いたのである。現在の真言師はこの文を本疏と名づけて日夜に談義し、公家・武家のために祈禱するといって多くの領地をもらい、檀那をたぶらかしているのである。

語訳
慧果和尚(けいかわじょう)
(七四六年~八〇六年)。中国・唐代の僧。照応(陝西省臨潼(りんどう)県)の人で、俗姓を馬(ば)という。真言宗東寺派では、大日如来から法を受けついだ第七祖とする。不空の弟子。唐の代宗、徳宗、順宗の三朝に国師として尊敬された。永貞元年(八〇五年)弘法に教えを伝えた。

花山
 華山のこと。中国の名山。秦嶺山脈の支脈である終南山脈の峰(二二〇〇㍍)。古来より西岳と呼ばれ、五岳の一つに数えられている。

講義
 大日経等は小乗阿含経に少し勝れているという程度の、大乗教のなかでは最も劣った経であるにもかかわらず、善無畏が法華経に比べて理同事勝と立てたのは全く我見にすぎない。
 ところが慈覚はこれを鵜呑みにし、次いで叡山の三千も皆これに同じたため、日本歴代の天皇もこれを信じてしまったことを述べられている。弘法はこれにいやます邪見で種々の妄説を構え、人々を欺いてきたと、その誑惑ぶりを破されている。
 法華経は後秦の弘始八年(四〇六年)に羅什三蔵が訳したものであり、大日経は唐の玄宗皇帝の開元四年(七一六年)に善無畏三蔵が天竺(インド)から伝えたもので、三百余年もの時代差がある。
 しかもその間、隋代に天台大師智顗(五三八年~五九七年)が出現し、法華経を依経として天台宗を開創。釈尊一代の諸経を教相のうえで五時八教に立て分けて法華経が釈尊一代の極説であることを明瞭にし、観心の法門として一念三千を説いている。
 それゆえに大日経などは「天台宗・出来の後・月氏よりわたれる経論」なのである。
 並びに「天竺・漢土にして立てたる宗宗の元祖」達は「修羅心を・さしはさめるかのゆへに」と仰せのように、勝他の念盛んなところから「経論にわたくし(私)の言をまじへて事を仏説によせ・或は事を月氏の経によせなんどして・私の筆をそへ」て、自らの所依の経典を、さも仏説であるかのように詐称してきたのである。
 とりわけ善無畏らは法華経と大日経との勝劣を判釈するのに「私の筆をそへ」て理同事勝の釈をつくり、一念三千の理は法華経も大日経も同じであるが、法華経には印と真言がないので、事法では大日経に劣っているとしたのである。
 まさしく「此れは仏意にあらず」で、己義以外のなにものでもない。しかも「理同」とするのは、天台大師の一念三千の法門を盗み入れたものであった。
 大日経等には二乗作仏・久遠実成が説かれていないのであるから、一念三千の法理など、もともと存在しないのである。
 このことを大聖人は、開目抄で「真言・大日経等には二乗作仏・久遠実成・一念三千の法門これなし、善無畏三蔵・震旦に来つて後・天台の止観を見て智発し大日経の心実相・我一切本初の文の神(たましい)に天台の一念三千を盗み入れて」(二一五㌻)と述べられている。
 したがって「理同」などというのは、まことにおこがましいかぎりであり「天下第一の僻見(びゃっけん)なり此れ偏(ひとえ)に修羅根性の法門」(一〇〇七㌻)にほかならないのである。
 また大日経に印と真言があり、法華経にはないから勝れるとする「事勝」についても、善無畏三蔵抄では「法華経の荘厳として説かれて候・大日経の印真言を彼の経の得分と思へり」(八八八㌻)と簡単にしりぞけられている。
 印とは、仏・菩薩の悟りの内容を表示する手つきや器具のことで、真言とは仏・菩薩の誓いや徳を示す秘密語である。
 たしかに大日経には印・真言が数多く説かれているが、それは法華経の荘厳として説かれていたものにすぎないのである。
 更に法華真言勝劣事では「法華経には二乗作仏・久遠実成之有り大日経には之無し印真言と二乗作仏・久遠実成とを対論せば天地雲泥なり」(一二三㌻)として、二乗作仏・久遠実成を説かない大日経には成仏の義が成立しないことになり、印・真言の事相があるといっても、所詮は虚妄であり、内容のない飾り物にすぎないと喝破されている。
 むしろ、逆に印・真言があるということによって、仏教本来の精神から離れ、修行が形式的になったり、呪術的になるという弊害を生じたといっても過言ではないだろう。
 事実、真言が密教として仏教に秘密の色彩を与え、真言の隆盛によって仏教界全体に教義の合理的把握や実践の追究が薄れていったのは、後代の歴史が示すところであり、その責任ははなはだ重いといわなければならない。
 仏説に従うならば、無量義経で「四十余年には未だ真実を顕さず」(『妙法蓮華経並開結』二九㌻ 創価学会刊)と説かれるように、大日経等は爾前の方便権教に属し、また「四十余年」の経教の内でも華厳経や般若経にも及ばない経であり、ただ阿含小乗経と比べて、わずかに勝れる程度の経でしかないのである。
 にもかかわらず、日本天台宗の座主・慈覚や智証等は、善無畏をあまりにも重視・重用したために、理同事勝という謬釈を真実義と信じ込んでしまい、叡山の大衆もこれにしたがったので、歴代の天皇も、この邪義を正しいと信じて勅宣にこれを謳(うた)うに至ったのである。

 弘法大師空海の誑言(おうげん)

 大聖人は「此等には・にるべくもなき僻人(びゃくにん)なり」として、日本真言宗の開祖・弘法大師空海が慈覚等よりはるかに邪悪な師であると指摘され、その種々の誑言を挙げられている。
 すなわち「法華経は大日経に劣るのみならず華厳経等にも・をとれり」とは、彼が自著「十住心論」のなかで、大日経の住心品によって十住心を論じ、第八法華、第九華厳、第十真言と立てたことをいう。
 しかも彼は、この邪義を人々に信じさせるためにさまざまな虚言を構え、さも自身が大徳ある人物であるかのように画策したのである。
「大日如来より写瓶(しゃびょう)せり」とは、瓶(かめ)の水を他の瓶に移し替えるように、大日如来から真言の秘法を直接伝承されたと吹聴(ふいちょう)したことをいう。
「我まのあたり霊山にして・きけり」とは、自著「般若心経秘鍵」のなかで、「昔予鷲峰(じゅぶ)説法の筵(むしろ)に陪(ばい)して、親(まのあた)りその深文を聞く」といった妄語を指す。
「師の慧果和尚の我をほめし」とは、入唐の折の修学の師である長安・青竜寺の慧果から「褒(ほ)められた」と自賛したことである。
「三鈷(さんこ)をなげたり」とは、経範(けいはん)(一〇三一年~一一〇四年)の著した「大師御行状集記」(一〇八九年作)に「伝に曰く、本朝に赴くに、船を泛(うかべ)るの日、海上において祈誓発願して曰く、所学の教法、秘蔵に依って処を択(えら)び、吾が朝において若(も)し感応の地有らば、此の三鈷点に到るべしと、日本の方に向って三鈷を抛げ上ぐなり。遙かに飛んで雲の中に入る」とあることをいわれている。
 三鈷とは真言密教の祈禱に用いる道具で、三鈷杵(さんこしょ)のこと。鈷は古代インドの武器であったが、仏教では煩悩を破るとの意義から法具とされた。手杵(てぎね)の形に似て先端が三つに分かれている。
 弘法は漢土から日本へ帰るとき、この三鈷を日本の方角へ向けて投げたところ、三鈷がはるか雲の中に隠れ、後日、紀州(和歌山県)高野山でそれが発見され、高野山こそ感応の地であるとして寺院を建立したという、まことにたわいない戯言(ざれごと)のことである。
 日蓮大聖人は「又三鈷の事・殊に不審なり漢土の人の日本に来りてほ(掘)りいだすとも信じがたし、已前に人をや・つか(遣)わして・うづ(埋)みけん」(三二一㌻)と、そのからくりを指摘し、覆されている。
「愚な者は今信をとる」と仰せのように、宗教に無知な後世の人々は弘法のこうした誑言にたぶらかされて、俗に〝大師といえば弘法〟といわれるように、弘法を生き仏のごとく尊崇してきた。
 現代でも真言宗の実態に無知なまま、四国四十八か所巡りなど真言寺院へ足を運ぶ人が少なくない現状をみると、折伏による覚醒の必要性を痛感せずにはいられない。

 慈覚・智証の真言転落

 日本天台宗が真言密教に堕したのは、第三代座主・慈覚以降である。
 法華経を大日経より劣るとの邪義を唱える真言宗に対し、本来ならば天台宗は厳然と破折すべきであるのに、逆に天台宗の座主自ら、真言は法華経に勝ると、邪義に同調したのであるから、その影響は甚大である。
 比叡山延暦寺の三千人の学僧党が、その邪義に帰伏したのもしごく当然のなりゆきであろう。
 日蓮大聖人は三大秘法抄で「叡山に座主(ざす)始まつて第三・第四の慈覚・智証・存(ぞん)の外(ほか)に本師伝教・義真に背(そむ)きて理同事勝の狂言(おうげん)を本(もと)として我が山の戒法をあなづり戯論(けろん)とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染(しょうじょうむぜん)の中道の妙戒なりしが徒(いたずら)に土泥(どてい)となりぬる事云(い)うても余りあり歎(なげ)きても何かはせん」(一〇二三㌻)と、その汚濁ぶりを嘆かれている。
 しかも、慈覚は時の第五十四代仁明(にんみょう)天皇に対し、鎮護国家の法を、これまでの法華経等の三部経を捨て、真言の三部経とする旨の奏問をし、真言密教の全国流通を企図したのである。
 しかし慈覚はそれから間もなく疫病にかかって死んだ。「代代の賢王の御世」とは第五十五代文徳天皇、第五十六代清和天皇と続くが、第五代座主・智証は慈覚の強い影響を受けたこともあり、慈覚の遺言にしたがって宣旨を願い、允可(いんか)されて下されたのが「法華経と大日経とは同醍醐・譬へば鳥の両翼・人の左右の眼等云云」という内容の勅宣だったという。
 智証はまた弘法の甥(おい)でもあったから、弘法の教えにも相当影響されたと考えられる。
 宣旨にみられる「法華経と大日経とは同醍醐」とは、弘法が顕密二教論で、爾前の六波羅蜜経によって五蔵教判を立てて「総持(真言)を醍醐と称し四味を四蔵に譬う」とした僻見にもとづくものであろう。
 法華経を醍醐味とするのは、天台大師が涅槃経聖行品によって、五時を五味にたとえ、五時八教の教判を立てるなかで、法華・涅槃時を醍醐味なりと決定(けつじょう)したものであり、仏説である。
 それを弘法は「振旦(しんたん)の人師等諍(あらそ)って醍醐を盗み各自宗に名づく」と、天台大師があたかも真言宗から盗み取ったかのように主張したのである。
 事実は逆で、真言宗が盗人なのである。大聖人は諸御抄で、天台大師は陳隋の時代の人であり、六波羅蜜経の渡来は天台大師入滅百九十二年後の唐の時代であって、まだ渡来していない経典から、どうして盗むことができようかと指摘されている。
 慈覚は貞観六年(八六四年)、智証は寛平三年(八九一年)の没とされているから、大聖人御出現時には、すでに四百余年を経ていることになるが、当今の一切の真言師は「此の義をすぎず」といわれているように、慈覚、智証の義を妄信していたのであった。
 このように慈覚らは天台宗を堕落させてしまっただけでなく、日本全体に真言の邪義を弘める素地をつくった点で、この上ない大罪を犯したといえるのである。

 真言の灌頂の儀式

「其の上一切の真言師は潅頂となづけて……」といわれている灌頂とは、頂上に水を灌(そそ)いで一定の資格を得たことを証明する儀式のことである。
 真言密教では結縁灌頂と称し、仏縁を結んで印と真言を授け、頭から水を灌ぐ儀式を行う。この儀式の際、壇上に「敷曼荼羅」と称するものを敷く。
 それは「釈迦仏を直ちにかきて」と述べられているように、釈尊等の一切の仏を集めて描いた曼荼羅で、これを敷いて弟子達の足で踏ませたのである。
 高橋入道殿御返事には「一切の真言師は灌頂と申して釈迦仏等を八葉の蓮華にか(書)きて此れを足にふみて秘事(ひめごと)とするなり」(一四六二㌻)と述べられている。
 更に弘法は秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)のなかで「法華の仏」すなわち釈尊は「無明に迷える仏」であると下し、新義真言宗の祖である聖覚房は、密厳諸秘釈第二巻「舎利供養式」で、大日如来に対すれば釈尊は「真言師が履(くつ)とりにも及ばず」(取意)と蔑(さげす)んでいる。
 これらの文書が、いずれの経文にも根拠のない邪説にすぎないことはいうまでもない。
 当今の真言師はこの文書を本疏、すなわち一宗の根本とする疏(経論の解釈)として信奉し、日夜に談論しているのだから哀れとしかいいようがない。
 しかも朝廷や将軍家等の武士階級に取り入り、へつらい、天下泰平・国土安穏の祈禱と称して、多くの布施・所領をまんまとせしめ、その威光をかさに無知な壇信徒を巧みにたぶらかしてきたと、真言師の実態を糾明されている。
             破良観等御書

        第七章 法華経と真言三部経の勝劣

本文(一二九一㌻七行~一二九一㌻一五行)
 問うて云く法華経と大日の三部経の勝劣は経文如何、答えて曰く法華経には諸経の中に於て最も其の上(かみ)に在りと説かれて此の法華経は一切経の頂上の法なりと云云、大日経七巻・金剛頂経三巻・蘇悉地経三巻・已上十三巻の内・法華経に勝ると申す経文は一句一偈もこれなし、但蘇悉地経計(ばか)りにぞ三部の中に於て此の経を王と為すと申す文候、此れは大日の三部経の中の王なり全く一代の諸経の中の大王にはあらず、例せば本朝の王を大王といふ・此れは日本国の内の大王なり・全く漢土・月支の諸王に勝れたる大王にはあらず、法華経は一代の一切経の中の王たるのみならず・三世十方の一切の諸仏の所説の中の大王なり、例せば大梵天王のごときんば諸の小王・転輪王・四天王・釈王・魔王等の一切の王に勝れたる大王なり、金剛頂経と申すは真言教の頂王・最勝王経と申すは外道・天仙等の経の中の大王・全く一切経の中の頂王にはあらず、法華経は一切経の頂上の宝珠なり、論師・人師をすてて専(もっぱ)ら経文をくらべば・かくのごとし。

通解
 問うていうには法華経と大日経等の真言三部経との勝劣を説いた経文は、どのようなものか。
 答えていうには法華経には安楽行品第十四に「諸経の中に於いて、最も其の上(かみ)に在り」と説かれて、この法華経が一切経のなかで頂上の法であると述べられている。大日経七巻、金剛頂経三巻、蘇悉地経三巻の以上十三巻のなかに法華経に勝るという経文は一句一偈もないのである。
 ただ蘇悉地経だけに、三部経の中に於いて此の経を王と為すという経文がある。これは大日の三部経のなかでの王ということであって、釈尊一代の諸経のなかでの大王ということではない。例えば、日本国の王を大王という。これは日本国の中の大王のことであって、中国、インドの諸王に勝(まさ)った大王ということでは全くない。
 法華経は釈尊一代の一切経のなかの王であるのみならず、三世十方の一切の諸仏のなかの大王なのである。例えば、大梵天王が、あらゆる小王、転輪聖王、四天王、帝釈天王、魔王等の一切の王の中で最も勝れた大王であるようなものである。
 金剛頂経というのは真言教のなかの頂王であり、最勝王経というのは外道・天仙等の経のなかの大王であり、一切経のなかの頂王ではない。法華経は一切経の頂上の宝珠である。論師・人師の説を捨て、もっぱら経文を比べるならばこのように明白なのである。

語訳
大梵天王
 梵名マハーブラフマン(Mahābrahman)の訳。バラモン教では万物の生因である根本原理、すなわち梵(ブラフマン)の神格化されたものとし、宇宙の造物主として崇拝する。仏法では色界の初禅天の主で、娑婆世界を支配する善神。仏が出世して法を説く時には必ず出現し、帝釈天とともに仏の左右に列なり仏法を守護するとしている。

最勝王経
 金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)の略。十巻。中国・唐代の義浄訳。この経は諸経の王であり、護持する者は護世の四天王をはじめ一切の諸天善神の加護を受けると説かれている。逆に、国王が正法を護持しなければ、諸天善神が国を捨てるため、三災七難が起こると説かれている。

天仙
 二天三仙のこと。古代インドのバラモン教で特に崇拝された二天人と三仙人のこと。二天は摩醯首羅天(まけいしゅらてん)と毘紐天(びちゅうてん)をさし、三仙は迦毘羅(かぴら)(数論(すろん)学派の祖)・漚楼僧佉(うるそうぎゃ)(勝論(かつろん)学派の祖)・勒娑婆(ろくしゃば)(尼乾子(にけんし)外道の祖)をいう。(後段の追記参照〉

講義
 法華経と真言三部経との勝劣を説いた経文はあるかとの問いに答えられている。
 まず、法華経が一切経の頂上の法である証文として、法華経安楽行品の文を挙げられている。
 すなわち同品には「諸経の中に於いて最も其の上(かみ)に在(あ)り」(『妙法蓮華経並開結』四四三㌻ 創価学会刊)とある。他に同趣旨の文として薬王品には「諸経の中に於いて、最も為(こ)れ其の上(かみ)なり」(同・五九四㌻)「此(こ)の経も亦復(ま)た是(かく)の如く、諸経の中の王なり」(同・五九五㌻)とある。
 更に法師品には「我が説く所の経典は無量千万億にして、已(すで)に説き、今(いま)説き、当(まさ)に説くべし。而(しか)も其の中に於いて、此の法華経は最も為(こ)れ難信難解(なんしんなんげ)なり」(同・三六二㌻)とある。
 このように已今当の一切経のなかで法華経が最第一であると宣言されているのである。
 これに対し、真言三部経が法華経に勝るとの文はどこにもない。ただ蘇悉地経だけに「三部の中に於いて此の経を王と為す」という文がみられる。それも蘇悉地経そのものの文ではなく、蘇悉地羯羅経略疏巻一という慈覚の釈の文(取意)である。
 これは「三部の中に於いて」と断わられているように、真言三部経の中での王であって、一切諸経中の王でないことは明らかである。
 それに対して法華経は先述の経文が示すように、釈尊一代諸経中の王であるのみならず、三世十方の諸仏所説の一切経中の大王なのである。
 金剛頂経についても、真言宗では胎蔵界の大日経に対して金剛界の大経としているが、あくまで「真言教の頂王」にすぎない。
 最勝王経もまたしかりである。正しくは金光明最勝王経というが、外道や天人・仙人等の所説の経と相対したうえでの最勝王というにすぎない。
 法華経以外の経典は、文中でたとえ王であるといっても、それはある範囲内での王であるにすぎず、部分的なものでしかない。法華経のように一切経のすべてと自経とを比較して「頂王」であると説いた経文は他経には全くないのである。
 このように経文自体を直接に検討し比較すれば明白なのであるが、諸宗の人々は論師・人師の説に振り回されて正しい判断ができないでいるのである。
 もとより仏法は「依法不依人」と涅槃経に説かれるように、善無畏ら三三蔵や弘法などの論師・人師の主張や所論を捨てて、もっぱら経文を根本として判釈すべきなのである。

〈追記〉
〔二天〕
摩醯首羅天(まけいしゅらてん)
 もとはインドのバラモン教の神、シヴァ(Śiva)の別称。破壊の恐怖と万病を救う両面を兼ねた神とされていた。梵名マヘーシュヴァラ(Maheśvara)、音写して摩醯首羅。仏教では大自在天と訳されてあらわれた。摩訶止観輔行伝弘決巻第十によると、摩醯首羅天は色界の頂におり、三目八臂(目が三つで臂(ひじ)が八本)で天冠をいただき、白牛に乗り、三叉戟(さんさげき)を執(と)る。大威力があり、よく世界を傾覆するというので、世を挙げてこれを尊敬したという。

毘紐天(びちゅうてん)
 もとはインドのバラモン教の神。世界の維持を司る神とされていた。梵名ヴィシュヌ(Viṣṇu)、音写して毘紐。仏教では遍聞と訳された。摩訶止観輔行伝弘決巻第十によると、毘紐天は大梵天王の父で、同時に一切衆生の親であるとされていた。

〔三仙〕
迦毘羅(かぴら)
 梵名カピラ(Kapila)の音写。黄夫(こうふ)・黄頭(こうとう)・黄髪(こうはつ)・金頭(こんとう)などと訳す。髪や顔面が赤黄色なので迦毘羅と名づくという。インド六派哲学の一つ、数論(すろん)学派(サーンキヤ学派・Sāṃkhya)の開祖。因中有果説を説いた。止観輔行伝弘決巻十の一に「迦毘羅……身の死せんことを恐れて自在天に往きて問う。天、頻陀山(ひだせん)に往きて余の甘子(かんし)を取らしむ。食して寿を延ぶべし。食し已って林中に於て化して石と為る」とある。同じく弘決に、迦毘羅は石となり、陳那菩薩がその義を破折するために石の上に偈を説くと、石が裂けたとある。一千年後に破折されてその失(とが)があらわれたのである。

漚楼僧佉(うるそうぎゃ)
 優楼僧佉とも書く。梵名カナーダ(Kaṇāda)の異称、ウルーカ(Ulūka)の音写。拘留(くる)、倶留(くる)、休留(くる)などと書く。インド六派哲学の一つ、勝論学派(バイシェーシカ学派・Vaiśeṣika)の開祖。因中無果説を説いた。止私記(ししき)(止観私記)巻十には「真諦(しんだい)云く、休留仙人成劫の末に出でて長生の薬を服し、変じて石と為る、形・牛の臥(ふ)せるが如し。仏前八百年の中に在りて石消融(しょうゆう)すること灰の如し、門人皆称して涅槃に入ると称す」とあり、大聖人も報恩抄(三一一㌻)に「拘留外道は石となつて八百年・陳那菩薩にせめられて水となりぬ」と述べられている。

勒娑婆(ろくしゃば)
 梵名ニガンタ=ナータプッタ(Nigaṇṭha Nātaputta)の音写、尼犍陀若提子(にけんだにゃくだいし) の異称。尼犍(にけん)、尼乾子(にけんし)、尼乾とも書き、苦行と訳す。釈尊在世中の六師外道の一人。ジャイナ教の開祖。因中亦有果亦無果(いんちゅうやくうかやくむか)と説いた。裸形外道ともいい、苦行禁欲によって物質界から解脱し、常満精神を得ようとして裸で灰や棘(いばら)のなかに寝るなど、さまざまな苦行を行なった。釈尊の出家前の子で、仏の弟子となりながら外道に近づいて退転し、現身に地獄の大苦を受けた善星比丘も、この勒娑婆の一派とされる。
             破良観等御書

        第六章 善無畏の堕獄の相を示す

本文(一二九一㌻一行~一二九一㌻六行)
 問うて云く三大師の地獄へ堕つる証拠如何(いかん)、答えて云く、善無畏三蔵は漢土日本国の真言宗の元祖なり彼の人すでに頓死(とんし)して閻魔(えんま)のせめにあへり、其のせめに値(あ)う事は他の失(とが)ならず法華経は大日経に劣ると立てしゆへなり、而(しか)るを此の失を知らずして其の義をひろめたる慈覚・智証・地獄を脱るべしや、但し善無畏三蔵の閻魔のせめにあづかりし故をだにも・たづねあきらめば此の事自然(じねん)に顕れぬべし・善無畏三蔵の鉄の縄七すぢつきたる事は大日経の疏(しょ)に我とかかれて候上・日本醍醐の閻魔堂・相州鎌倉の閻魔堂にあらわせり、此れをもつて慈覚・智証等の失をば知るべし。

通解
 問うていうには弘法等の三大師が地獄に堕ちているという証拠はあるのか。
 答えていうには善無畏三蔵は中国、日本国の真言宗の元祖であるが、彼は頓死した時に地獄で閻魔王の責めにあったのである。善無畏が責められたのは、他の罪ではなく、法華経は大日経に劣るとの義を立てたからである。
 そうであるのに、この失(とが)を知らないでその義を弘めた慈覚、智証も、地獄を免れるわけがない。善無畏三蔵が閻魔王の責めにあった理由を少しでも明らかにしていくなら、三大師が地獄に堕ちたことは自然に明らかになる。善無畏三蔵が閻魔王の責めにあって鉄縄七筋で縛られたことは、大日経の疏(しょ)に自分で書いているうえ、日本の山城国醍醐寺の閻魔堂、相模国鎌倉の閻魔堂に懸かっている画に明らかである。このことによって、その流れをくむ慈覚、智証等の失を知るべきである。

語訳
閻魔のせめ
 善無畏が講述し、一行が筆記した大日経疏巻五に「阿闍梨(善無畏)の言く、少(わか)かりし時、嘗(かつ)て重病に因(よ)りて、神識を困絶せしに、冥司に往詣して、此の法王(閻魔)を覩たり(中略)因りて放(ゆる)されて、此に却還せらる。蘇るに至りて後、その両臂の縄に繄持せられし処に、猶(な)お瘡痕あり、旬月にして癒(いえ)たりき」とある。

大日経
 大毘盧遮那成仏神変加持経の略。中国・唐代の善無畏三蔵訳。七巻。一切智を体得して仏果を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経、蘇悉地経と合わせて大日の三部経、また三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。

大日経の疏(しょ)
 二十巻。中国・唐代の善無畏述、一行記。開元十三年(七二五年)に成る。大日経七巻三十六品中、前の六巻三十一品についての注釈である。日本において、東密では弘法の伝えた大日経疏を用い、台密では慈覚、智証の伝えた大日経義釈(大日経疏を智儼・温古が校訂したもの)を用いている。

日本醍醐の閻魔堂
 京都市伏見区にある真言宗醍醐派総本山醍醐寺の閻魔堂のこと。醍醐寺第十一世成賢の建立。仏師・安阿弥作の閻魔像を本尊としている。
〈追記〉
 仏師・安阿弥は安阿弥陀仏といい、快慶のこと。貞応二年(一二二三年)十二月に醍醐寺閻魔堂の諸像の制作に従事している。

相州鎌倉の閻魔堂
 もと鎌倉の由比ケ浜にあった新居の閻魔堂のこと。現在は円応寺といい、宝永元年(一七〇四年)に現在地の鎌倉市山ノ内に移った。本堂に閻魔像があり、その頭部は鎌倉時代の作とされている。寛文十三年(一六七三年)の閻魔像修理の際、胎内文書が発見され、それには「建長二年(一二五〇年)出来、永正十七年(一五二〇年)再興」云々とあったという。

講義
 日本真言宗の元祖である弘法ら三大師が無間地獄に堕ちているというが、その証拠を示せとの問いに答え、弘法らの元祖というべき中国真言宗の善無畏三蔵が、地獄で閻魔大王の責めを受けたことを挙げられている。
 このことは善無畏自らが記していることであり、その理由を尋ね明らかにしていくならば、弘法ら三大師が地獄へ堕ちたことは、おのずから分かるであろうと説かれている。
 本文で「彼の人すでに頓死(とんし)して閻魔のせめにあへり」と仰せられているのは、善無畏はあるとき、一時に頓死して、再び生き帰って語るには、地獄に堕ちて、二人の獄卒に鉄縄で七重に縛られ、閻魔大王の前へ連れていかれた。そのとき、これまで修行した真言を思い出して唱えたが、獄卒の責めはますます激しくなるばかりだった。かろうじて法華経の題目を念じたところ、首の縄がゆるみ、今度は法華経譬喩品第三の「今此三界(こんしさんがい)」(『妙法蓮華経並開結』一九一㌻ 創価学会刊)の文を声高く唱えたところ、鉄縄が切れ、この世に帰されたというのである。
 このことを日蓮大聖人は善無畏三蔵抄で「而るに此の三蔵一時(あるとき)に頓死ありき数多(あまた)の獄卒来つて鉄繩七すぢ懸けたてまつり閻魔王宮に至る此の事第一の不審なり」(八八六㌻)と述べられている。
 この話は、真言の教えによっては救われず、法華経こそ地獄の苦から救う法であることを示しているとともに、彼ほど仏教を修行した高僧がなぜ地獄に堕ちなければならなかったかを明かしている。
 この善無畏が閻魔の責めにあった理由は「他の失(とが)ならず法華経は大日経に劣ると立てしゆへ」だった。釈尊が説いた一代の諸経典中、最第一の法華経より大日経のほうが勝れているとし、法華経を下した謗法のためだったのである。
 しかし、その後も密教を弘めた善無畏の臨終の様子は、彼の弟子の記録によると、身がふやけ、小さく縮まって、色が黒くなり、骨が現れたとある(報恩抄・三一六㌻)。
 この善無畏の〝失〟を知らずして天台宗に取り入れ、理同事勝の邪義を弘めた慈覚・智証等も、同様に堕地獄を免れることは不可能である。
 ましてや弘法の場合は、法華経を大日経に比べて三重に劣ると誹謗したのであるから、その罪の大きさはひときわであることを知らなければならない。
 善無畏が閻魔の責めにあったことは、本文で「大日経の疏(しょ)に我とかかれて候」と述べられているように、ほかならぬ善無畏自らが大日経疏巻五のなかで告白していることなのだから、真言宗の側としても否定のしようがない。
 このことは鎌倉時代、世間にかなり広く知られた話だったらしい。「日本醍醐の閻魔堂・相州鎌倉の閻魔堂にあらわせり」の御文、及び下山御消息の「眼前に閻魔堂の画を見よ」(三六一㌻)との仰せから推察すると、当時、京都の醍醐寺と鎌倉の閻魔堂には、これを題材とした絵が掲げられていたのではないかと思われる。
 こうした事実からも、善無畏の流れをくむ弘法・慈覚・智証等の堕地獄は全く疑いをはさむ余地はないと言われているのである。
 特に三大師のなかでも「慈覚・智証等の失(とが)をば知るべし」と訶責されているのは、比叡山延暦寺の座主でありながら、真言の邪義にかぶれて、伝教大師以来の天台法華宗の清流を真言の濁流に変えてしまった張本人だからであろう。教義的には弘法のほうが誹謗の度が重いが、立場からいうと慈覚・智証のほうが責任重大である。
 大聖人は、彼らを善無畏・弘法・聖覚房に比べて「これよりも百千万億倍・信じがたき最大の悪事はんべり」(二七九㌻)と仰せられ、「されば東寺第一のかたうど(方人)慈覚大師にはすぐべからず」(同㌻)として「師子の身の中の虫の師子を食(くら)う」(二八〇㌻)ものであると断じられている。
 

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