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            強仁状御返事

        第三章 亡国の元凶・真言を破す

本文(一八五㌻二行~一八五㌻一〇行)
 夫(そ)れ以(おもんみ)れば月支・漢土の仏法の邪正は且(しば)らく之を置く大日本国・亡国と為る可き由来之を勘(かんが)うるに真言宗の元祖たる東寺の弘法・天台山第三の座主慈覚・此の両大師法華経と大日経との勝劣に迷惑し日本第一の聖人なる伝教大師の正義を隠没してより已来(このかた)・叡山の諸寺は慈覚の邪義に付き神護・七大寺は弘法の僻見(びゃっけん)に随う其れより已来王臣邪師を仰ぎ万民僻見に帰す、是くの如き諂曲(てんごく)既に久しく四百余年を経歴し国漸く衰え王法も亦(また)尽きんとす。
 彼の月支の弗沙弥多羅王(ほっしゃみつたらおう)の八万四千の寺塔を焚焼し無量仏子の頸(くび)を刎ねし、此の漢土の会昌天子(かいしょうてんし)の寺院四千六百余所を滅失し九国の僧尼還俗せしめたる此等大悪人為りと雖(いえど)も我が朝の大謗法には過ぎず。
 故に青天は眼を瞋(いか)らして我が国を睨(にら)み黄地は憤(いきどおり)を含んで動(やや)もすれば夭孼(ようげつ)を発す、国主聖主に非(あらざ)れば之を知らず諸臣儒家に非れば事之を勘えず、剰(あまつさ)え此の災夭(さいよう)を消さんが為に真言師を渇仰し大難を卻(しりぞ)けんが為に持斎等を供養す、譬えば火に薪を加え冰に水を増すが如く悪法は弥(いよいよ)貴まれ大難は益々来る只今此の国滅亡せんとす。

通解
 そもそも考えてみるにインドや中国における仏法の邪正については、しばらく別にして、日本国の亡びる原因を勘えてみると、これは真言宗の元祖である東寺の弘法と、比叡山第三代の座主・慈覚との両大師が法華経と大日経との勝劣に迷って、日本第一の聖人である伝教大師の正義を隠して以来、比叡山の諸寺は慈覚の邪義に従い、神護寺や七大寺は弘法の誤った考えに従うようになった。それ以来、国王や臣下らは邪師を仰ぎ、万民がこの誤った考えに帰依した。このように邪義にこびへつらうことになって、すでに久しく四百余年を経て、国は次第に衰え、王法もまた滅びようとしているのである。
 かのインドの弗沙弥多羅王(ほっしゃみつたらおう)が八万四千の寺塔を焼き払い、無量の仏子の頸(くび)を切ったのも、中国の武宗皇帝が四千六百余所の寺院を破壊し、九か国(全中国)の僧尼を還俗させたのも、これらは大悪人には違いないが、我が日本国の大謗法には及ばない。
 それゆえに天は眼を瞋(いか)らして我が国をにらみ、地は怒って、ややもすれば地夭を起こすのである。国主は聖主でないのでその原因を知らず、もろもろの臣下も儒家ではないので、この原因を勘えない。そればかりか、この災難を消滅させようとして真言師を仰いだり、大難を除くために持斎等を供養している。これは、譬えば火に薪を加え、氷に水を増すようなもので、悪法は尊べば尊ぶほど、国の大難はますます起こり、ただ今にもこの日本国は滅亡しようとしているのである。

語訳
弘法
(七七四年~八三五年)。平安時代初期の僧。日本真言宗の開祖。諱(いみな)は空海。弘法は諡号(しごう)。姓は佐伯氏、幼名は真魚(まお)。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦十二年(七九三年)勤操(ごんそう)の下で得度。延暦二十三年(八〇四年)留学生(るがくしょう)として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果(けいか)に密教の灌頂を禀(う)け、遍照金剛(へんじょうこんごう)の号を受けた。大同元年(八〇六年)に帰朝。弘仁七年(八一六年)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁十四年(八二三年)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰(さんごうしいき)」三巻、「弁顕密二教論」二巻、「十住心論」十巻、「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」三巻等がある。

天台山
 ①中国浙江省東部にある山。天台大師智顗が入山した。天台山国清寺(こくせいじ)は中国天台宗の中心地とされ、日本からも多くの僧が遣唐使として訪れた。②比叡山の別称。ここでは②の意。

慈覚
(七九四年~八六四年)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野(しもつけ)国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生(みぶ)氏。十五歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和五年(八三八年)入唐(にっとう)して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同十四年(八四七年)に帰国。仁寿四年(八五四年)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経(そしつじきょう)は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏(しょ)」七巻、「蘇悉地経略疏」七巻等がある。

伝教大師
(七六七年~八二二年)。日本天台宗の開祖。諱(いみな)は最澄。伝教大師は諡号(しごう)。根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。父は三津首百枝(ももえ)。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬[万]貴(とまき)で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(七六七年)近江(滋賀県)滋賀郡に生まれ、幼時より聡明で、十二歳のとき近江国分寺の行表(ぎょうひょう)のもとに出家、延暦四年(七八五年)東大寺で具足戒を受け、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦二十三年(八〇四年)、天台法華宗還学生(げんがくしょう)として義真を連れて入唐し、道邃(どうずい)・行満(ぎょうまん)等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦二十五年(八〇六年)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「守護国界章」九巻、「山家学生式」等がある。

弗沙弥多羅王(ほっしゃみつたらおう)
 弗舎密多羅王とも書く。梵名プシャミトラ(Puṣyamitra)の音写。紀元前二世紀ごろのインドの王。仏典によるとマウリヤ朝最後の王で、阿育王の末孫(ばっそん)にあたるとされる。雑阿含経巻二十五に「王はその名徳を世に令(し)こうとして群臣にこれを諮ったところ、賢善の臣は阿育王のように仏塔を建て三宝を供養すべきことを勧めたが、王はこれを喜ばず、かえって悪臣の言をいれて、仏塔を破壊し多くの僧侶を殺害した」(取意)とあり、阿育王の名声をねたみ、仏教に敵対したためにマウリヤ朝が滅びたという。しかし考古学的な発見によれば、マウリヤ朝最後の王ではなく、出自について明らかではない。伝説ではマウリヤ朝最後の王に仕える将軍であったが、閲兵式の際に王を殺害してマウリヤ朝を滅ぼし、シュンガ朝を建国したという。プシャミトラはバラモン姓であり、バラモン教の復興に努め、仏教を弾圧した。

会昌天子(かいしょうてんし)
 中国・唐の第十五代皇帝、武宗のこと。会昌は武宗の治世の年号(八四一年~八四六年)。武宗は道教に傾倒し仏教を斥け、道士趙帰真(ちょうきしん)等を用いて、会昌五年(八四五年)に天下の仏寺を破り僧尼を還俗させた。会昌の廃仏といい、三武一宗の法難の一つにあたる。その翌年、武帝は、道教で不老不死の薬とされた丹薬の中毒のために死んだ。宣宗が即位すると復仏の詔が出され、趙帰真は捕縛されて斬殺された。

九国
 ここでは中国のこと。中国古代に全土を九か国に分けて総称したもの。
〈追記〉
 中国・戦国時代の九つの国。斉・楚・燕(えん)・趙(ちょう)・韓・魏・宋・衛(えい)・中山(ちゅうざん)。

講義
 ここでは、日本の亡国の因をつくったのは真言にあることを強調されている。すなわち、インド、中国における仏法の邪正はさておき、日本の亡国をもたらしている原因は、弘法と慈覚が「法華経と大日経との勝劣に迷惑し」た邪義を弘め、日本中の人々がそれを信じ崇めているためであると仰せられている。弘法は東密の師、慈覚は台密の師である。
 弘法は秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)巻下で「此(かく)の如きの乗乗、自乗に仏の名を得れども、後に望むれば戯論と作(な)る」と法華経等を「戯論(けろん)」と蔑称し、また顕密二教判を立て、法身の大日如来が自受法楽のために内証秘密の境界を示し真実の秘法を説いた密教であるのに対して、法華経はじめ諸経は応身の釈尊が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教にすぎないと下している。
 また、弘法は十住心論のなかで、第八・一道無為心は法華経にあたり、第九・極無自性心は華厳経にあたり、第十・秘密荘厳心が大日経にあたるとし、大日経こそ最も勝れる経で、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。
 慈覚は日本天台宗の第三祖であるが、法華経と大日経を比較すると、理は同一であるが事においては大日経が法華経に勝れているとする善無畏の大日経義釈の説を基に、金剛頂経疏、蘇悉地経略疏のなかで顕密二教判を立てて、天台宗に真言密教を取り入れた。
 そこで慈覚は、一切経に顕示教と秘密教があり、秘密教に理秘密と亊理俱密があって、法華経は理秘密、真言は亊理俱密で真言が勝れるという説を立てた。
いずれも、法華経を大日経に劣るとしている点で「法華経と大日経との勝劣に迷惑し」ているのである。
 この慈覚の影響で、天台宗はそれ以後ことごとく密教化したのであり、また弘法の影響を受けて神護寺と南都(奈良)の七大寺がことごとく弘法の誤った教えに従うようになった、との仰せである。神護寺は真言宗東寺派の別格本山であるから当然であるが、南都七大寺は東大寺が華厳宗、興福寺・法隆寺・薬師寺が法相宗、大安寺が三論宗、元興寺が三論・法相宗であったが、当時は浄土信仰を集め、西大寺が真言律宗と、宗派がそれぞれ異なる。にもかかわらず、七大寺はいずれも、弘法の影響を受けて、真言の教えを取り入れていったのである。
 大聖人は次に、インド、中国の仏教破壊の例を挙げ、弘法・慈覚の謗法は、それよりはるかに仏法上の罪が大きいとされている。
「彼の月支の弗沙弥多羅王(ほっしゃみつたらおう)の八万四千の寺塔を焚焼し無量仏子の頸(くび)を刎ねし」はインド・マウリア王朝最後の王を殺し、シュンガ王朝最初の王となったプシャミトラ(Puṣyamitra)の仏教破壊で、プシャミトラは多くの僧侶を殺し、鶏頭摩寺(けいずまじ)(鶏林精舎)等を破壊したとされている。鶏頭摩寺はアショカ王が八万四千の寺塔を建立する誓いを立て、その根本とした寺院であるから「八万四千の寺塔を焚焼し」といわれているのである。
 また「此の漢土の会昌天子の寺院四千六百余所を滅失し九国の僧尼還俗せしめたる」は中国・唐代の第十五代武宗皇帝の仏教破壊である。道教を信奉していた武宗は、会昌五年(八四五年)に廃仏令を出して多数の寺院破壊と僧尼の還俗を強行した。これを「会昌の廃仏」といい、北魏の太武帝、北周の武帝、後周の世宗とともに「三武一宗の廃仏」として有名である。
 これらの仏教破壊は仏教にとって大きな難であったが、大聖人はこれほどの「大悪人」でも「我が朝の大謗法には過ぎず」と仰せられている。
 弘法や慈覚は暴虐な行為で仏法破壊をしたわけではない。むしろ、形だけ見れば、各地に寺を建て、仏法の興隆に尽くしたように見える。にもかかわらず、はるかに大きな罪であるといわれているのは、「弗沙弥多羅」「漢土の会昌天子」ともに仏教の教えを知らず権力・暴力で寺を破壊したり僧尼を還俗させたのに対し、弘法・慈覚は邪義を立てて、人々に教え、正法の隠没を招いたからである。行敏訴状御会通では、弗沙弥多羅や武宗の名を挙げ「此等の悪人は仏法の怨敵には非ず三明六通の羅漢の如き僧侶等が我が正法を滅失せん」(一八二㌻)といわれ、守護経、涅槃経を挙げられている。仏法は外から破壊されるものではなく、内部に生じた邪義こそ仏法破壊の元凶なのである。
 国にこの大謗法があるゆえに、諸天善神はこの国を治罰するのであり、それが近年の天変地異である。ところが、国主はこれが、単なる世法・国法からきた災いでなく、仏法の誤りからきたもので、しかも国主自身、仏法を弁(わきま)えた「聖主」でないため、これらの災夭のいわれを知らず、また臣下も「儒家」でないから、この原因を考えようともしない、と仰せである。
 なお、「国主聖主に非れば謂(いわ)れ之を知らず」は、御真筆では「国主世の禍(わざわい)に非ざれば之を知らず」となっている。「世の禍に非ざれば」といわれているのは、この災難が世間の因によって起こったのでなく、謗法という仏法の因によって起こったものであるゆえに、仏法を弁(わきま)えない「国主」は(仏法を弁えた国主を「聖主」という)その因を知ることができない、との意である。また「諸臣儒家に非れば事之を勘えず」と仰せられているのは、「儒家」とは、国のこと、天下のことを憂えるのがその特質であるとの視点から、このように言われたと考えられる。
 そして、日本の王臣は、ただ災難の原因を知らないだけでなく、これらを消そうとして、真言師や持斎を供養して加持祈禱を行わせているゆえに、かえって「火に薪を加え冰に水を増す」ように、逆に災いを増大させている、と仰せられている。ここで「持斎」とは斎戒を持(たも)つ僧で、普通は律宗の僧をいうが、当時、鎌倉幕府に取り入って最も権勢を振るっていた良観が真言律宗の僧であることから、代表として「持斎等」と言われたと考えられる。
「大難は益々来る只今此の国滅亡せんとす」と仰せられているのは、この書状が建治元年(一二七五年)十二月の御執筆とすると、ほぼ一年前の文永十一年(一二七四年)の十月から十一月にかけての時期、文永の役があったばかりである。
 しかし、明けて建治元年の春には、蒙古から再度襲うとの国書がきていたから、大聖人のこのお言葉は厳しい警告と受け止められたであろう。
            強仁状御返事

     第二章 自他叛逼二難の予言と逢難を述べる

本文(一八四㌻五行~一八五㌻二行)
 就中(なかんずく)当時我が朝の体為(ていた)る二難を盛んにす所謂自界叛逆難と他国侵逼難となり、此の大難を以て大蔵経に引き向えて之を見るに定めて国家と仏法との中に大禍有るか、仍(よ)つて予正嘉・文永二箇年の大地震と大長星とに驚いて一切経を開き見るに此の国の中に前代未起の二難有る可し所謂自他叛逼(ほんぴつ)の両難なり、是れ併(しかし)ながら真言・禅門・念仏・持斎等・権小の邪法を以て法華真実の正法を滅失する故に招き出す所の大災なり。
 只今他国より我が国を逼(せ)む可(べ)き由・兼ねて之を知る故に身命を仏神の宝前に捨棄して刀剣・武家の責(せめ)を恐れず昼は国主に奏し夜は弟子等に語る、然りと雖(いえど)も真言・禅門・念仏者・律僧等・種種の誑言(おうげん)を構え重重の讒訴(ざんそ)を企つるが故に叙用せられざるの間・処処に於て刀杖を加えられ両度まで御勘気を蒙る剰(あまつさ)え頭を刎ねんと擬(ぎ)する是の事なり。

通解
 ことに今、我が国の現状は二難が盛んであり、いわゆる自界叛逆難と他国侵逼難である。この大難の原因を大蔵経に引き照らしてみると、たしかに国家と仏法とのなかに大いなる禍があるように思われる。
 日蓮は正嘉と文永の二か年に現れた大地震と大彗星とに驚き、一切経を調べてみたところ、この国のなかに未だかつて起こったことのない二難があると説かれていた。いわゆる自界叛逆難と他国侵逼難の両難である。これは、真言・禅門・念仏・持斎等の権大乗経や小乗経の邪法をもって、法華経という真実の正法を滅ぼすことによって惹き起こされたところの大きな災難である。
 今にも、他国から我が国が攻められることを前もって知っていたゆえに、日蓮は我が身命を仏神の宝前に捧げ、刀剣をもって斬られることも、幕府から罰せられることも恐れず、昼は国主に訴え、夜は弟子たちに語り聞かせたのである。ところが真言・禅門・念仏者・律僧等が、いろいろと偽りごとを言って、たびたび讒訴をするので、日蓮の諌言が用いられないばかりか、行く先々で刀や杖で打たれたり、切られたり、二度(伊豆・佐渡)までも御勘気を蒙って流罪に処せられ、そのうえ頭までも刎ねられようとしたのがこのことである。

語訳
我が朝の体為(ていた)る
〈追記〉
 講義録の本文をそのまま転載した。これに対し、御書全集には「我が朝の為体(ていたらく)」とある。講義録の編著者が、御真筆のとおり訂正したものか、詳細は不明。

自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)
 薬師経に予言された、謗法の国に起こる七難の一つで、同士討ち、内乱をいう。日蓮大聖人は「立正安国論」(三一㌻)で、謗法を禁じ正法を用いなければ、七難のうちまだ起こっていない自界叛逆難と他国侵逼難が起こることを予言された。しかし鎌倉幕府は大聖人に対して文永八年(一二七一年)に竜の口の法難・佐渡流罪という命に及ぶ迫害を加えた。その後ほどない同九年(一二七二年)二月、北条一族の争いである二月騒動(北条時輔の乱)が起こり、自界叛逆難の予言が的中した。

他国侵逼難(たこくしんぴつなん)
 薬師経に予言された、謗法の国に起こる七難の一つ。外国からの侵略をいう。日蓮大聖人は「立正安国論」で、謗法を禁じ正法を用いなければ、七難のうちまだ起こっていない自界叛逆難と他国侵逼難が起こることを予言された(三一㌻)。文永九年(一二七二年)二月、北条一族の争いである北条時輔の乱(二月騒動)が起こり、自界叛逆難の予言が的中。同十一年(一二七四年)十月に蒙古が襲来し、他国侵逼難も現実のものとなった。

正嘉・文永二箇年の大地震と大長星
 正嘉元年(一二五七年)八月、鎌倉地方を襲った大地震と、文永元年(一二六四年)七月に現れた大彗星のこと。正嘉の大地震については、吾妻鏡に「廿三日 乙巳(きのとみ) 晴る。戌(いぬ)の尅(こく)、大地震。音あり。神社仏閣一宇として全きことなし。山岳頽崩(たいほう)、人屋顚倒(てんどう)し、築地(ついじ)皆ことごとく破損し、所々地裂け、水涌き出づ。中下馬橋の辺、地裂け破れ、その中より火炎燃え出づ。色青しと云云」とある。文永の大彗星について、安国論御勘由来に「文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり」(三四㌻)とある。

講義
 ここでは、今、日本国に自界叛逆難と他国侵逼難が起こっているのは国家と仏法のなかに大きな誤りがあるからであると言われ、このことについては、大聖人は必ずこの大難が日本に起こることを予知され、我が身をも惜しまず訴えてこられたが、真言等の邪僧がたばかって讒言したためかえって大聖人に次々と迫害が加えられたのであると仰せられている。

 就中(なかんずく)当時我が朝の体為(ていた)る二難を盛んにす……前代未起の二難有る可し所謂自他叛逼(ほんぴつ)の両難なり

 ここで「大蔵経に引き向えて之を見るに」「一切経を開き見るに」と言われているのは、立正安国論に引かれている四経の文が、その代表的なものといえよう。これらの四経すなわち金光明経、大集経、薬師経、仁王経の文には、一国の王はじめ為政者が正法に背いているならば、種々の災いが起きると記されている。大聖人は「此の大難を以て大蔵経に引き向えて之を見るに……」と仰せのように、自界叛逆と他国侵逼の二難が起きてくる原因を経文に照らして見ると「定めて国家と仏法との中に大禍有るか」つまり、国家と仏法の両方に大きな誤りがあり、それが原因であることが分かると言われている。仏法自体、正法に背いてしまっており、その正法に背く邪法を国家が信じ供養していることである。
 そして、「仍(よ)つて予正嘉・文永二箇年の大地震と大長星とに驚いて」云々と仰せられているが、立正安国論奥書に「去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の尅(こく)の大地震を見て之を勘(かんが)う」(三三㌻)とあるように、大聖人が正嘉の大地震を見て同書を考えられたことは明らかである。
 文永の大長星の場合は、立正安国論御述作の後に現れたもので、同じく奥書に「其の後文永元年太歳甲子七月五日大明星の時弥(いよいよ)此の災の根源を知る」(三三㌻)とあるように、文永の大長星の出現によって、ますます御自身の主張の正しかったことを確信されたのである。
 これらは皆、「真言・禅門・念仏・持斎」すなわち、四宗の誤りによると仰せであるが、立正安国論では、念仏のみを「一凶」(二四㌻)とされている。この点については、災難の根源はすべての謗法にあることは、安国論に引証されている経文から明らかで、一つの典型として念仏一宗を特に指摘されたのであった。したがって、元意は、ここで仰せのように四宗すべてが災難興起の因ということにある。
 そして、安国論では「只今他国より我が国を逼(せ)む可き由・兼ねて之を知る」と仰せのごとく、必ずや他国からの侵逼の難があると見通されていたので、それを未然に防ぐため、明確に予言・警告されたのであり、その後も、幾度となく公場対決を訴え、また門下にも、話された。
 しかし、真言・禅門・念仏者・律僧らが、種々の讒言をしたため、この大聖人の訴えは用いられず、そればかりか、民衆からも権力者からも種々の迫害が加えられたと仰せられている。
「処処に於て刀杖を加えられ」について、上野殿御返事では、刀の難として文永元年(一二六四年)十一月十一日の小松原法難と文永八年(一二七一年)九月十二日の竜の口の法難を挙げられ、杖の難としては特に竜の口の法難で少輔房(しょうぼう)に法華経第五の巻で打たれたことを挙げておられる。
「両度まで御勘気を蒙る」とは、弘長元年(一二六一年)の伊豆流罪と、文永八年(一二七一年)の佐渡流罪である。また「剰(あまつさ)え頭を刎ねんと擬(ぎ)する」が佐渡流罪の直前の竜の口の法難であることはいうまでもない。
            強仁状御返事

       第一章 勘状に対し公場対決を促す

本文(御書全集一八四㌻初~一八四㌻五行)
 強仁上人・十月二十五日の御勘状・同十二月二十六日に到来す、此の事余も年来欝訴(うつそ)する所なり忽(たちまち)に返状を書いて自他の疑冰(ぎひょう)を釈(ひら)かんと欲す、但し歎ずるは田舎に於て邪正を決せば暗中に錦を服して遊行し澗底(かんてい)の長松・匠(たくみ)を知らざるか、兼ねて又定めて喧嘩出来(しゅったい)の基なり。
 貴坊本意を遂げんと欲せば公家と関東とに奏聞を経て露点を申し下し是非を糾明せば上一人咲(えみ)を含み下万民疑を散ぜんか、其の上大覚世尊は仏法を以て王臣に付属せり世・出世の邪正を決断せんこと必ず公場なる可(べ)きなり。 

通解
 強仁上人から送られた十月二十五日付の論難の書状は、同十二月二十六日に到着した。このこと(法論)は、日蓮も多年の間、しばしば鬱憤(うっぷん)を訴えてきたことであるから、早速に返事を書いて貴殿や世の人々の疑問を冰解したいと思う。
 しかし、田舎で仏法の邪正を決しても、錦を着て闇の中を遊行するようなものであり、長い松でも谷底にあっては良匠に知られないのと同じである。併せてまた、こうした個人の法論は、喧嘩の起こる原因ともなる。
 御坊が法論の本意を遂げようと思われるのであれば、朝廷と幕府とに訴え出て、公の命を申し受けて法の是非を糾明しよう。そうすれば上一人も喜ばれ、下万民も疑いが晴れることだろう。
 そのうえ、教主釈尊は仏法の弘通を国王や王臣に付属された。世間一般の善悪や仏法の邪正を決断することは、必ず公場ですべきである。

語訳
強仁上人
 生没年不明。鎌倉時代、真言宗の僧。読み方は不明。

暗中に錦を服して
 錦を着て闇の中を歩いても人には分からないことの意。闇中(あんちゅう)の錦衣(きんい)。

澗底(かんてい)の長松・匠(たくみ)を知らざるか
 立派な長い松でも谷底にあっては良匠に見いだされない、との意。
〈追記〉
 中国で松は君子の樹、すなわち有用な人材の比喩とされた。六朝より初唐にかけて作られた詠松詩には、為政者に顧みられない不遇な我が身を松に仮託したものが多い。また松・竹・梅は歳寒三友といい、松と竹は寒中にも色褪せず、梅は寒中に花開くことから、清廉潔白また節操の象徴となった。

講義
 本抄は建治元年(一二七五年)十二月二十六日、日蓮大聖人が強仁の問答要求の勘状に対し、身延においてしたためられた返答の書である。御真筆は京都妙顕寺に存する。
 強仁がいかなる人物であったかについては詳細はわからない。本抄に「大日本国・亡国と為る可き由来之を勘うるに真言宗の元祖たる東寺の弘法・天台山第三の座主慈覚・此の両大師法華経と大日経との勝劣に迷惑し」と真言を破折されているところから、真言僧である可能性が強い。
 御述作年次については、御真筆に「十二月廿六日」とあるだけで、年号の記載がない。一応、建治元年(一二七五年)説がとられているが、他に弘安二年(一二七九年)とする説もある。
 ただし、建治二年(一二七六年)一月十一日御述作の清澄寺大衆中に「十住心論・秘蔵宝鑰二教論等の真言の疏を借用候へ、是くの如きは真言師蜂起の故に之を申す、又止観の第一・第二・御随身候へ東春・輔正記なんどや候らん……今年は殊に仏法の邪正たださるべき年か」(八九三㌻)とあり、真言師が蜂起していることが述べられ、本抄と時期的に符合することから、ここでは旧来の説に従い、建治元年の御述作ということにしておきたい。
 さて、本文に入り、強仁からの十月二十五日の勘状が十二月二十六日に到着したと仰せられ、末尾に「十二月二十六日」と日付があることから、その日のうちにしたためられた返書であることが分かる。その強仁の勘状に対して「此の事余も年来鬱訴する所なり」と言われ、公場での対決を提案されているところから、強仁の状が仏法の正邪を決しようとの勘状であったことが分かる。しかし、このような「田舎」で論争しあっても、ちょうど錦の衣を暗闇のなかで見ていては分からず、立派な松も谷底にあっては、見いだされないようなもので、むだになるのではないか、とやんわりと拒否されている。
「田舎」での問答とあり、強仁の勘状とされる書に「近日、当国来住の由、承り……」とあって、これが真書だとすると、大聖人と同じ甲斐に住する僧であった可能性が強い。
 ほかに、駿河国(静岡県)の実相寺ゆかりの僧とする説もあるが、これは根拠に乏しい。ただ、大聖人の近くにいたにしては、大聖人に勘状が届くまで二か月もかかっているのが不自然だが、なんらかの理由で大聖人のもとに遅れたのであろう。
 このような田舎での問答は、どちらが勝つにせよ、公的な判定者がいないことから、正式に決着がつきにくい。したがって、お互いに勝ちを主張し、「喧嘩」のもとになると仰せられている。そして、もし本意を遂げようと思うならば、公家(朝廷)と武家(幕府)に訴えて、是非を明らかにすれば、みんなが納得するであろうと、公場での対決を促しておられるのである。
 同様の御文は行敏への御返事においても、「私の問答は事行き難く候か、然れば上奏を経られ仰せ下さるるの趣に随つて是非を糾明せらる可く候か」(一七九㌻)とあって、私的な問答を拒否されている。行敏の場合は、背後に良観らが付いていた。強仁の場合はそうした背後はないようだが、それでも、問答はあくまでも公場で行うべきであるとの大聖人の御立場に変わりはない。
 もちろんこのように言われるのは、これを機に、一国謗法を排し、立正安国を目指されてのことであることはいうまでもない。
 もとより、大聖人からすれば、一真言僧の強仁との問答の決着はたやすいことにちがいない。それは、文永九年(一二七二年)の佐渡・塚原での諸宗の僧俗との問答で明らかである。この時も「真言師は面面に色を失ひ天台宗ぞ勝つべきよしを・ののしる」(九一八㌻)と、真言・台密の僧もきていた。しかし、「鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりも・はかなきものども」(九一八㌻)であったから、「ちやうとはつ(詰)めつめ・一言二言にはすぎず」(九一八㌻)の状態であった。強仁とて佐渡での真言師らと大した違いはないから、勝敗は初めから明らかである。
 しかし、清澄寺大衆中にみられるように、大聖人は真言・天台の資料を集められ、問答に備えられている。これは、公場対決を期しておられたゆえであり、また、問答を行うことにはそれだけ慎重であられたということである。
「大覚世尊は仏法を以て王臣に付属せり」とは、守護付嘱のことである。付嘱には弘宣(ぐせん)付嘱、伝持付嘱、守護付嘱の三義がある。弘宣は総じての付嘱であり、その中で出家の僧に対する伝持の付嘱と、在家に対する守護の付嘱とがある。守護付嘱は帝王付嘱ともいい、在家に教団を外護し仏法弘通を推進するの使命を付嘱するのである。
 仁王経巻下受持品第七には、「仏波斯匿王(はしのくおう)に告げたまわく(中略)是の故に諸の国王に付属して比丘、比丘尼、清信男、清信女に付属せず。何を以ての故に。王力無きが故に付属せず」とある。
 出家は王のような力がないゆえに、仏法を守れないことがある。仏法を破壊する者から仏法を守護するためには在家の力が必要である。
 日本の国にさまざまな災いが起きて民衆が苦しんでいる原因は、天皇・幕府をはじめ為政者たちが仏法に迷って悪法を信じているゆえであり、これを正法に目覚めさせ、正法守護の王へと転じさせることによって、一国の安穏を実現したいということが立正安国論以来の大聖人の念願なのである。したがって仏法の正邪に関して、王臣らに見分けられる形で対決が行われなければ無意味であるとされ、この強仁からの挑戦に対しても、大聖人はあくまでも公場での対決にするよう促されているのである。
             一昨日御書

      第二章 平左衛門尉に国を安んぜよと諌める

本文(一八三㌻八行~一八四㌻終)
 夫(そ)れ未萠(みぼう)を知る者は六正(ろくせい)の聖臣なり法華を弘むる者は諸仏の使者なり、而るに日蓮忝(かたじけな)くも鷲嶺(じゅれい)・鶴林(かくりん)の文を開いて鵝王(がおう)・烏瑟(うしつ)の志を覚り剰(あまつさ)え将来を勘えたるに粗(ほぼ)符合することを得たり先哲に及ばずと雖(いえど)も定んで後人には希(まれ)なる可き者なり。
 法を知り国を思うの志尤(もっと)も賞せらる可きの処・邪法邪教の輩・讒奏讒言するの間久しく大忠を懐いて而も未だ微望を達せず、剰え不快の見参(げんざん)に罷り入ること偏(ひとえ)に難治の次第を愁(うれ)うる者なり。
 伏して惟(おもん)みれば泰山(たいざん)に昇らずんば天の高きを知らず深谷に入らずんば地の厚きを知らず、仍(よっ)て御存知の為に立正安国論一巻之を進覧す、勘え載する所の文は九牛の一毛なり未だ微志を尽さざるのみ、抑(そもそも)貴辺は当時天下の棟梁なり何ぞ国中の良材を損ぜんや、早く賢慮を回(めぐ)らして須(すべから)く異敵を退くべし世を安じ国を安ずるを忠と為し孝と為す、是れ偏に身の為に之を述べず君の為仏の為神の為一切衆生の為に言上せしむる所なり、恐恐謹言。
  文永八年九月十二日         日 蓮  花 押
   謹上 平左衛門殿

通解
 さて、未萠を知る者は、六正の聖臣である。法華経を弘める者は、諸仏の使者である。しかるに日蓮は、かたじけなくも法華経・涅槃経の文を開いて、仏の本意を覚った。そればかりか日本国の将来を勘えたところ、それがほぼ符合している。これは先哲に及ばないと雖(いえど)も、後人には希(まれ)な者である。
 法を知り、日本国を思う志は、もっとも賞されるべきところであるのに、邪法・邪教の輩が讒奏・讒言するので、久しい間、大忠を懐いていても、未だ小さな望みも達することができないでいるのである。そればかりか、一昨日の(貴殿にとって)不快の見参においては、国を救うことはひとえに難治の次第であると、憂えた次第である。
 伏して思えば、泰山に登らなければ、天の高いことが分からない。深い谷に入らなければ、地の厚いことが分からない。よって(我が志を)承知してもらうために、立正安国論一巻を進覧する次第である。この書に勘え載せたところの文は、九牛の一毛であり、未だ微志を尽くしていない。
 そもそも貴殿は、当今の天下の棟梁である。その人がどうして国中の良材を損するのか。早く賢明な考えをめぐらして、異敵の蒙古を退治すべきである。世を安んじ、国を安んずるのが忠であり、孝である。
 これは偏(ひとえ)に我が一身のために申すのではなく、君のため、仏のため、神のため、一切衆生のために、申し上げるのである。恐恐謹言。
  文永八年九月十二日         日 蓮  花 押
   謹上 平左衛門殿

語訳
未萠(みぼう)
 未来の出来事。萠は萌の俗字で、きざす・おこる・あらわれるの意。未萠は未だ起こらないこと。
 
六正(ろくせい)の聖臣
 六正は「りくせい」とも読む。儒家で正しい臣下の標準を六種に分類した六正(聖臣・良臣・忠臣・智臣・貞臣・直臣)のうちの最高の臣下・聖臣のこと。いまだ現れない事柄や存亡の機・得失を予知して、常に主君を安泰にしておく臣下をいう。
〈追記〉
 出典は中国・唐の呉兢(ごきょう)の編著になる貞観政要(じょうがんせいよう)巻第三の論擇官第七で、前漢末の説苑(ぜいえん)からの引用。「人臣の行いに、六正・六邪有り。六正を行えば則ち栄え、六邪を犯せば則ち辱められる。何をか六正・六邪と謂(い)う」云云とある。六正は上述したとおりで、六邪は具臣・諛臣・奸臣・讒臣・賊臣・亡臣である。

鷲嶺(じゅれい)
 霊鷲山(りょうじゅせん)のこと。摩掲陀国(まかだこく)(現在のベンガル州)の首都である王舎城(ラージャグリハ、現在のラージギル)の東北にある山。サンスクリットのグリドゥラクータの訳。音写語は耆闍崛山(ぎしゃくっせん)。法華経の説処。ここでは、法華経を指す。

鶴林(かくりん)
 沙羅双樹(さらそうじゅ)の林のこと。拘尸那掲羅国(くしながらこく)跋提河(ばつだいが)のほとりにある。釈尊は沙羅双樹に四方を囲まれたこの林において八十歳の二月十五日に入滅した。その時、沙羅双樹がことごとく白くなり、沙羅林は白一色につつまれ、あたかも白鶴のように美しかったという。涅槃経の説処。ここでは、涅槃経を指す。

鵝王(がおう)
 仏の異称。鵞王とも書き、鵞は鵞鳥(がちょう)のこと。応化の仏の三十二相の中に手足指縵網相(しゅそくしまんもうそう)といって、手足の指の間に水かきがあり、鵞鳥の足に似ていることから仏の異称とされたもの。

烏瑟(うしつ)
 梵語ウシュニーシャ(uṣṇīṣa)の音写。烏瑟膩沙(うしつにしゃ)の略。仏頂・無見頂・肉髻(にくけい)と訳す。仏の三十二相のひとつ。頂骨が隆起し、髻(もとどり)のようなさまをなす。

泰山(たいざん)
 中国・山東省にある名山。中国五岳の一つ。標高一五二四㍍。古くから民間信仰の中心地となり、歴代王朝によって国家的祭祀が行われた。特に秦の始皇帝、漢の武帝、唐の玄宗などが道家の説を受けて国家的宗教儀礼を行ったことで有名。

九牛の一毛
 多くの牛の毛の中の一本の毛。多数の中のほんのわずかをいう。

平左衛門
(~一二九三年)。平頼綱(たいらのよりつな)のこと。平盛時の子。執権北条時宗・貞時の二代に仕え、北条得宗家の家司(けいし)(執事)、侍所の所司(次官)として軍事・警察・政務を統轄し、鎌倉幕府の実力者として権勢をふるった。極楽寺良寛など諸宗の僧と結びつき、文永八年(一二七一年)九月十二日には、軍勢をつれて松葉ヶ谷の草庵を襲い、竜の口で大聖人の頸を斬ろうとしたが果たせず、佐渡に流罪した。文永十一年(一二七四年)四月八日、佐渡から帰られた大聖人と対面し、蒙古の来襲の時期を尋ねている。弘安二年(一二七九年)には捕えられて鎌倉へ連行されてきた熱原の農民信徒に拷問を加え、三人を斬殺、他を追放処分にしている。弘安七年(一二八四年)貞時が執権となった時、内管領となり、翌年、評定衆の秋田城介の安達泰盛(あだちやすもり)を滅ぼし(霜月騒動)、権力を独占したが、永仁元年(一二九三年)四月、長男・宗綱(むねつな)の訴えにより、貞時によって次男の資宗(すけむね)と共に滅ぼされ、宗綱も佐渡流罪となった。

講義
 平左衛門尉が幕府の実力者として、大聖人の言を用いるよう、強く諌められている。
 初めに、未来に起きる出来事を知る者は、儒教で正しい臣下の基準を六種に分類した六正のなかでも、最高の「聖臣」とされている、と指摘されている。
 そして、法華経を弘める者は、諸仏の使者なのであるとされ、大聖人御自身が、釈尊が霊鷲山で説いた法華経や、入滅の前に鶴林(沙羅双樹林)で説いた涅槃経の文を開いて、仏の真意を覚り、それによって未来を勘えたところ、符合したのである、と仰せになっている。
 大聖人が、世間的にいえば未来を知って国を救う聖臣にあたり、仏法のうえでは仏の使いであり、立正安国論の予言が、経典を根拠とし、仏の本意に依ったものであるゆえに的中したことを明かされ、したがって、人々は大聖人の言を信じ、用いるべきことを示されているのである。
 更に、未来の予言が的中したことは、先哲には及ばないかもしれないが、後人には希(まれ)な者であろうとされ、その意義の大きいことを示されている。
 なお、聖人知三世事には、「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う……委(くわし)く過未を知るは聖人の本(もと)なり……後五百歳には誰人を以て法華経の行者と之を知る可きや予は未だ我が智慧を信ぜず然りと雖(いえど)も自他の返逆(ほんぎゃく)・侵逼(しんぴつ)之を以て我が智を信ず敢(あえ)て他人の為に非ず又我が弟子等之を存知せよ日蓮は是れ法華経の行者なり不軽(ふきょう)の跡を紹継(しょうけい)するの故に軽毀(きょうき)する人は頭(こうべ)七分に破(われ)・信ずる者は福を安明(あんみょう)に積まん」(九七四㌻)と述べられている。
 過去・現在・未来の三世を知るのが仏であり、大聖人が立正安国論で、自界叛逆・他国侵逼の二難を予言され、それが的中したことが、末法の法華経の行者、すなわち仏である証拠である、とされていることからも、予言的中の意義の大きさを知ることができるのである。
 ところが、本来なら、法を知り、国を思って諌暁した大聖人の志を、幕府は高く評価し、賞すべきであるのに、邪法・邪教の輩の讒言(ざんげん)に妨げられて、残念ながらその望みを達することができないでいる、と仰せである。
「大忠」と仰せられているのは、根本的には、国を思い、民衆を思う大聖人の真心、大慈悲をこのように言われたのであるが、「忠」とは、主君に対して臣下が本分を全うすることをもいうので、大聖人の諌暁が、国のためであるとともに、幕府のためであり、北条家のためであることを表しているとも拝される。
 謗法の輩の讒言によって、大聖人の真心が通じなかったとの仰せは、反面では、幕府の為政者が讒言を信じて、大聖人に対し不当な迫害を加えてきたことが誤りである、と示唆されているのである。
 また、当時、良観ら諸宗の僧尼が、しきりに大聖人を幕府の要人や夫人たちに讒言して、処分を求めていた事実を知っておられ、讒言を用いて謗法を犯さないよう戒められたのであろう。
 そのうえ、一昨日の平左衛門尉との対面で、頼綱が怒り狂うという不快な思いを強く現したことから、大聖人の諫めを用いられることが、いかに困難であるかを改めて知り、そのため民衆が更に苦しむことを思うと深く憂えられてならない、と仰せなのである。
 そして、高山に登らなければ天の高さが分からず、深い谷に入らなければ地の厚さが分からないとされ、大聖人の深い志を知ってもらうため、立正安国論一巻を進呈するが、この書に書きのせたことは、我が志のほんの一部にすぎない、と仰せである。
 立正安国論には、文応元年(一二六〇年)七月十六日に、最明寺入道時頼に提出されており、それから十一年経っているため、おそらくその提出された原本の所在は不明になっていたであろう。そこで、改めて平左衛門尉に安国論を与え、その蒙を啓(ひら)こうとされたのである。
 安国論は、時頼に提出されたもののほかに、大聖人の手元にその写し、あるいは原本ともいうべき本があり、それをさらに写した本を、平左衛門尉に進呈されたものであろう。大聖人が自ら執筆されたのか、日興上人等の門下に書写させたものかは、明らかではない。
 そして、貴辺は当今の天下の棟梁であり、その人がどうして国中の人材を失おうとするのかと戒められ、早く賢慮を回らして、異敵の蒙古を退けるべきであると仰せられ、世を安んじ、国を安んずることを、忠とし、孝とするのであると平左衛門尉を諌められている。
 平左衛門尉を「天下の棟梁」と呼ばれたのは、幕府の実権を掌握している立場を認められ、為政者としての責任に訴えて、正しい判断を下すことを期待されたものであろう。
 文永五年(一二六八年)十月の、平左衛門尉頼綱への御状でも、「貴殿は一天の屋梁為り万民の手足為り」(一七一㌻)と仰せになっている。
「国中の良材を損せんや」との仰せは、為政者として、国のためになる有為の人材を損なうようなことがあってはならない、との意であり、国を安穏に保つためには、大聖人を「良材」として、その教えを用いるべきである、との御文である。
 大聖人は、最後に、このように述べるのは、我が身のため私心によるものではなく、君のため、仏のため、神のため、一切衆生のために申し上げるのである、と述べられ、本抄を結ばれている。
 しかし、大聖人の至誠の諫言は通じることなく、同日夕刻、平左衛門尉は自ら大聖人逮捕の指揮をとって、竜の口の法難を起こしたのである。

出典『日蓮大聖人御書講義』第四巻下(編著者 御書講義録刊行会 発行所 聖教新聞社)

                      一昨日御書 ―了―
            一昨日御書

     第一章 立正安国論の予言の的中を挙げる

本文(御書全集一八三㌻初~一八三㌻八行)
 一昨日見参(げんざん)に罷入(まかりいり)候の条悦び入り候、抑(そもそも)人の世に在る誰か後世を思わざらん仏の出世は専(もっぱ)ら衆生を救わんが為なり、爰(ここ)に日蓮比丘(びく)と成りしより旁(かたがた)法門を開き已に諸仏の本意を覚り早く出離の大要を得たり、其の要は妙法蓮華経是なり、一乗の崇重・三国の繁昌の儀・眼前に流る誰か疑網を貽(のこ)さんや、而るに専ら正路に背いて偏(ひとえ)に邪途を行ず然る間・聖人国を捨て善神瞋(いかり)を成し七難並びに起つて四海閑(しず)かならず。
 方今世は悉く関東に帰し人は皆士風を貴ぶ、就中(なかんずく)日蓮生を此の土に得て豈(あに)吾が国を思わざらんや、仍(よ)つて立正安国論を造つて故最明寺入道殿の御時・宿屋の入道を以て見参に入れ畢(おわ)んぬ。
 而るに近年の間・多日の程・犬戎(けんじゅう)浪を乱し夷敵(いてき)国を伺う、先年勘え申す所・近日符合せしむる者なり、彼の太公が殷の国に入りしは西伯の礼に依り張良が秦朝を量りしは漢王の誠を感ずればなり、是れ皆時に当つて賞を得・謀(はかりごと)を帷帳(いちょう)の中に回(めぐ)らし勝つことを千里の外に決せし者なり。

通解
 一昨日(九月十日)、見参したことを喜ばしく思っている。
 そもそもこの世に生きている人で、誰か後世を思わない者があろうか。仏が世に出られたのは、専ら衆生を救うためであった。ここに日蓮は比丘となってからこのかた、種々の法門を学び、すでに諸仏の本意を覚り、早く出離の大要を得たのである。その要とは妙法蓮華経である。法華一乗の妙法は、三国にわたって崇重され、したがって三国が繁昌したことは眼前に明らかなことであって、誰かこれを疑う者があろうか。
 しかるに(人々は)専ら法華経の正しい路に背いて、偏(ひとえ)に法華経以外の邪な途(みち)を行っている。したがって、聖人は国を捨て去り、善神は瞋(いか)りをなし、七難が並び起こって、四海は穏やかでない。
 今、世はことごとく関東に帰し、人々は皆、武士の風(ふう)を貴んでいる。とりわけ日蓮はこの国に生を受けて、どうして我が国のことを思わないでいられようか。そのために立正安国論を述作して、故最明寺入道殿(北条時頼)に、宿屋入道を通して見参に入れたのである。
 しかるに近年の間、しばしば西戎蒙古国は牒状を届けて、我が国を窺(うかが)っている。先年(文応元年)に勘え提出した立正安国論の予言と全く符合したのである。
 かの太公望が殷の国に攻め入ったのは、西伯が礼をもって迎えたからであり、張良が謀(はかりごと)をめぐらして秦の国を亡ぼしたのは、漢の高祖の誠意に感じたからである。これらの人は皆、その当時にあって、賞を得ている。謀を帷帳の中に回(めぐ)らし、千里の外に勝利を決した者である。

語訳
七難
 七種の災難のこと。仁王経、薬師経、金光明経等に説かれる。仁王経巻下には、①日月失度(にちがつしつど)難(太陽や月の異常現象)②星宿失度(しょうしゅくしつど)難(星の異常現象)③災火難(大火が国土を焼き、一切を焼き尽くす)④雨水難(大水が人々を漂没させる)⑤悪風難(大風が吹いて人々が死に、山河や樹木が一時に滅没する)⑥亢陽(こうよう)難(旱魃のため草は枯れ、穀物が実らず人々は滅尽する)⑦悪賊難(他国からの侵略、国内の賊によって戦乱が起こる)の七種が説かれる。また、薬師経には①人衆疾疫(にんしゅしつえき)難(伝染病等がはやり、多くの人が死ぬ難)、②他国侵逼(たこくしんぴつ)難(他国から侵略される難)、③自界叛逆(じかいほんぎゃく)難(仲間同士の争い、同士打ち)、④星宿変怪(しょうしゅくへんげ)難(天体の運行に異変があったり、彗星があらわれたりする)、⑤日月薄蝕(にちがつはくしょく)難(日蝕月蝕をいう)、⑥非時風雨(ひじふうう)難(季節はずれの暴風や強雨)、⑦過時不雨(かじふう)難(雨期にはいっても雨が降らない天候の異変)の七難が説かれている。三災七難の起こる原因は、国に邪法が横行し、正法の行者を弾圧することにある。

立正安国論
 文応元年(一二六〇年)七月十六日、日蓮大聖人が三十九歳の時、鎌倉幕府の実質的な最高権力者である北条時頼に提出された国主諫暁の書(一七㌻)。五大部の一つ。諫暁とは諫(いさ)め暁(さと)す、すなわち相手の誤りを指摘して正しい道に導くという意。本抄御執筆当時、日本では飢饉・疫病・災害によって多くの民衆が苦悩にあえいでいた。本抄では種々の経典を引用しながら、こうした災難の根本原因は謗法であると明かし、その元凶は、浄土教の教え以外を捨閉閣抛(しゃへいかくほう)せよと主張する法然(源空)の専修念仏(せんじゅねんぶつ)であるとして、これをもっぱら破折されている。そして謗法の教えへの帰依をやめて正法に帰依しなければ、三災七難のうち、残る「自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)(内乱)」と「他国侵逼難(たこくしんぴつなん)(外国からの侵略)」が起こると予言し警告された。しかし幕府はこの諫言を用いることなく、謗法の諸宗の僧らを重用した。その結果、二難はそれぞれ文永九年(一二七二年)の二月騒動(北条時輔の乱)、文永十一年(一二七四年)と弘安四年(一二八一年)の蒙古襲来として現実のものとなった。本抄の構成としては、災難を嘆きその根本原因を尋ねる客(=北条時頼を想定)に対して、主人(=日蓮大聖人)が立正安国(正を立て、国を安んず)を説くという十問九答の問答形式で展開されている。なお、「広本(こうほん)」と呼ばれる身延入山後に再治された本には、真言などの諸宗を破折する文が添加されている。

最明寺入道
(一二二七年~一二六三年)。北条時頼のこと。最明寺で出家し法名を道崇と称したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれる。鎌倉幕府第五代執権。時氏の子、母は安達景盛の娘(松下禅尼)。初め五郎と称し、のち左近将監(さこんのしょうげん)・相模守に任じられた。宋僧道隆について禅法を受け建長寺を建立。出家の前日執権職を重時の子長時に委(ゆだ)ね、最明寺を山内に造りそこに住んだが依然として幕政にたずさわっていた。日蓮大聖人は、文応元年(一二六〇年)七月十六日に、宿屋入道を通じて、立正安国論を最明寺時頼に上書し、為政者の自覚をうながし、治国の者が邪宗に迷い正法を失うならば、必ず国の滅びる大難があると、大集(だいしつ)経、仁王(にんのう)経、金光明経、薬師経等に照らされて訴えられた。しかし時頼は反省せず、かえって弘長元年(一二六一年)五月十二日に、長時により大聖人は伊豆に流罪される。同三年に赦(ゆる)されたが、聖人御難事(一一九〇㌻)に「故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍(とが)なかりけるを人のざんげん(讒言)と知りて許ししなり」とあるように、時頼の意図であったことがわかる。

宿屋の入道
 生没年不明。鎌倉時代の武士。北条氏得宗家被官である御内人。日蓮大聖人の立正安国論を時頼に取り次いだ人。宿屋左衛門入道・宿屋禅門とも呼ばれる。諱(いみな)は光則(みつのり)。法名は最信。鎌倉幕府の執権・北条時頼と時宗に側近として仕えた。吾妻鏡巻五十一には弘長三年(一二六三年)十一月、時頼の臨終に際して最後の看病のため出入りを許された七人の中に挙げられている。もと極楽寺良観に帰依し律と念仏を信仰していたが、後に大聖人の教えを信ずるようになったと伝えられる。
〈追記〉
 文永八年(一二七一年)九月、竜の口の法難で日蓮大聖人が捕縛されたとき、門下五人の身柄を預かり、邸内の土牢に幽閉した。五人の名については諸説があり、僧には日朗、日心等、俗には山城入道、坂部入道、伊沢入道、得業寺入道等が挙げられるが、明確ではない。日蓮大聖人が助命されると深く帰依するようになり、自邸を寄進し、日朗を開山として文永十一年(一二七四年)光則寺(こうそくじ)を建立した。現在の本堂は慶安三年(一六五〇年)のもので、神奈川県鎌倉市長谷にある。

太公
 太公望のこと。周代の斉(せい)国の始祖。姓は姜(よう)、氏は呂(りょ)、名は尚(しょう)。渭水(いすい)で釣りをしていて周の西伯(せいはく)(後の文王)に会い、請われてその師となる。文王の祖父太公が周に必要な人材として待ち望んでいた人という意味で、のちに太公望と称された。文王の死後、武王(文王の子)を助け、殷の紂王を滅ぼして斉(せい)国に封ぜられた。

西伯(せいはく)
 周の文王のこと。中国周王朝の基礎をつくった君主。理想の名君とされている。姓は姫(き)、名は昌。太公望をはじめ多くの名臣を集め、周囲の諸族を征服して都を鄷(鄷邑(ほうゆう))と定めた。生前は殷王朝に反旗をひるがえさなかったが、勢力は強大で、中国西部の支配をまかされて西伯と呼ばれた。

張良(ちょうりょう)
(~前一六八年)。中国・前漢代の建国の功臣。字(あざな)は子房。韓の出身。韓を滅ぼした秦の始皇帝を恨み、刺客を集めて始皇帝を殺そうとしたが果たせず、下邳(かひ)に隠れた。そこで黄石(こうせき)老人から兵法を学んだといわれ、劉邦(漢の高祖)の挙兵に呼応して軍師となって活躍した。後、秦を滅ぼし、鴻門(こうもん)の会において劉邦の危機を救い、漢の建国に貢献した。漢朝成立後は留侯に任ぜられた。

講義
 本抄は、文永八年(一二七一年)九月十二日に、日蓮大聖人が、鎌倉幕府の実力者、平左衛門尉頼綱に送られた書状である。
「一昨日御書」という題名は、「一昨日見参(げんざん)に罷入(まかりいり)候の条悦び入り候」と書き出されているところから名付けられたものである。御真筆は現存しない。
 文永八年九月十二日といえば、竜の口の法難の当日である。本抄は、この最大の法難にいたった経過を物語る、重要な一書となっている。
 平左衛門尉頼綱は、北条得宗(嫡流)家の家司(けいし)(執事)で、幕府の侍所の所司(次官。長官は執権)を兼ねており、幕府の軍事・警察・政務を統括していた実力者だった。大聖人が本抄をしたためられた二日前の九月十日に、大聖人と対面している。
 その際に、大聖人は毅然として諌暁されたが、平左衛門尉は受け入れる姿勢が全くみられなかったため、改めて本抄を著され、立正安国論を付して平左衛門尉に送られたのである。

 本抄の背景――竜の口の法難までの経過

 竜の口の法難の発端は、文永八年(一二七一年)六月十八日から七月四日まで行われた、極楽寺良観による雨乞いの祈禱である。同年五月頃から、全国的に旱魃が続いたため、幕府は良観に祈雨の修法を命じた。良観は、それまでにも、真言の祈禱をもって幕府の有力者に取り入ってきており、祈雨は得意とするところだった。
 良観が、六月十八日から七日間、雨乞いの祈禱をすることを聞かれた日蓮大聖人は、これを機に仏法の正邪を万人に知らせようと、良観の弟子周防房と入沢入道の二人を呼んで、次のように祈雨の勝負を申し入れた。
「七日の内にふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば彼の御房の持戒げ(気)なるが大誑惑なるは顕然なるべし(中略)又雨(ふ)らずば一向に法華経になるべし」(一一五七㌻)
 良観は喜んで、七日の内に雨を降らそうと、弟子百二十余人とともに一心に祈ったが、四、五日過ぎても雨の降る気配は全くなかった。そのため、更に多宝寺の弟子等数百人を加えて祈ったが、七日を過ぎても一滴の雨も降らなかった。
 大聖人は、六月二十四日までに三度の使いを遣わされて、「良観が雨のいのり(祈)して日蓮に支へられてふらしかね・あせ(汗)をながし・なんだ(涙)のみ下(ふら)して雨ふらざりし上・逆風ひまなくてありし事・三度まで・つかひ(使者)をつかわして、一丈のほり(堀)を・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか(中略)いかに二百五十戒の人人・百千人あつまりて、七日(なのか)二七日(になのか)せめさせ給うに雨の下(ふ)らざる上に大風(おおかぜ)は吹き候ぞ、これをもつて存ぜさせ給へ各各の往生は叶うまじきぞ」(九一二㌻)と良観を呵責され、民衆を苦しめることになる祈禱をやめるように伝えさせた。
 良観と弟子たちは泣いて悔しがり、七日間の期限の延長を願って、祈雨の修法を続けたが、前よりも旱魃が激しくなっただけで、良観の完全な敗北で終わった。しかし、良観は、大聖人との約束を守るどころか、増悪の念をつのらせて、諸宗の高僧らと策謀をめぐらし、行敏という念仏の僧に、大聖人と法論・対決させようとしたのである。
 文永八年七月八日、行敏は念仏無間、禅天魔などの大聖人の所説を非難し、対面して対決したいとの書状を送ってきた。それに対して大聖人は、私の問答では無意味であるから、公場において対決すべきである、と返答されている。
 そのため、良観らは、行敏に幕府の問注所(裁判所)へ大聖人を訴えさせた。行敏の訴状は、問注所から大聖人のもとへ回されて、答弁を求められた。大聖人は、直ちに陳状(答弁書)をしたためられ、行敏の訴訟が、良観・念阿良忠・道阿念空らの策謀であると指摘されたうえで、訴状の誤りを、一つ一つ具体的に破折された。そのため、良観は公場での対論に恐れをなし、この訴状はうやむやになってしまったのである。
 そこで良観らは、大聖人を誹謗・中傷する讒言(ざんげん)を、幕府の有力者や、その夫人等に対して執拗に行った。その様子を、大聖人は、「良観聖人折紙をささげて上(かみ)へ訴へ建長寺の道隆聖人は輿(こし)に乗りて奉行人にひざまづく諸の五百戒の尼御前等ははく(帛)をつかひてでんそう(伝奏)をなす」(一四一六㌻)と述べられている。
 良観らの讒言を信じた後家尼御前や夫人たちは、大聖人に対して、感情的に反発して、「天下第一の大事・日本国を失わんと咒そ(咀)する法師なり、故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり御尋ねあるまでもなし但須臾(しゅゆ)に頚(くび)をめせ弟子等をば又頚を切り或は遠国につかはし或は籠(ろう)に入れよ」(三二二㌻)と、大聖人と門下の処分を強く求めるに至ったのである。
 それを無視できなくなった幕府は、文永八年九月十日に、大聖人を召喚して、平左衛門尉頼綱が尋問にあたった。それが、本抄で「一昨日見参」と述べられていることにあたる。
 尋問は、大聖人が、故最明寺入道時頼と極楽寺入道重時を無間地獄に堕ちたといい、建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等を焼き払えと主張し、道隆や良観の頸をはねよと言ったのかどうか、というものだったようである。
 大聖人は「上(かみ)件(くだん)の事・一言もたがはず申す」(九一一㌻)としたためられた。ただし、最明寺殿・極楽寺殿が地獄に堕ちたと言ったということは、そらごとであり、謗法の悪法に帰依して正法を信じなければ地獄に堕ちるという法門は、最明寺殿・極楽寺殿が存命の時から申していたことである、と反論されている。
 そして「上(かみ)件(くだん)の事どもは此の国ををもひて申す事なれば、世を安穏(あんのん)にたもたんと・をぼさば、彼の法師ばらを召し合せて・きこしめせ、さなくして彼等にかわりて理不尽に失(とが)に行わるるほどならば、国に後悔あるべし」(九一一㌻)と、良観等との公場対決を求められ、それをせずに一方的に彼等の言い分を用い、大聖人を理不尽に迫害して、流罪・死罪にするようなことがあれば、必ず自界叛逆難と他国侵逼難が起こって後悔するであろう、と強く諌められた。
 それを聞いた平左衛門尉は、「太政入道のくる(狂)ひしやうに・すこしもはばかる事なく物にくるう」(九一一㌻)という状態で、平清盛が狂ったように、少しも周りをはばかることなく、怒り狂ったのである。
 本抄で、「不快の見参に罷り入ること」と仰せになっているのは、当時の平左衛門尉のそうした状態をさしてのことであろう。
 大聖人は、一日おいた九月十二日に、平左衛門尉の反省を促すために、本抄を書き送られたのであろう。
 本抄が、平左衛門尉の怒りの火に油を注ぐような結果となって、大聖人の処刑を決断させたものか、行き違って読まれなかったのかは、明らかではない。しかし、「御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし」(九一一㌻)と述べられているように、幕府の内部では、大聖人を処刑することは、既定の方針だったと思われる。
 そして、同じ九月十二日の夕方、平左衛門尉が自ら数百人の武装兵を指揮して、大聖人を逮捕し、謀叛人のように鎌倉市中を引回して、連行した。幕府は正式な取り調べも、裁判も行わず、一往は佐渡への流罪としておきながら、十二日の深夜に大聖人を引き出して、鎌倉郊外の竜の口で処刑しようと謀り、失敗したのである。

 立正安国論の予言の的中を指摘する

 本抄では、初めに、一昨日の九月十日に平左衛門尉と対面できたことは、喜ばしいことである、とされている。一往は、世間的な挨拶といってもよいが、再往は、平左衛門尉と直接、対話することによって、仏法の道理を教え、幕府の宗教政策の誤りを破折し、諌めることができる好機になったということから喜ばれたと拝せられる。
 そして、人として生をこの世に受けた者として、後世の大事を思わないことはないはずであり、仏の出世は民衆を救うことが目的である、と仰せである。衆生の願いは成仏することであり、それに応じて出世した仏の目的も、衆生を成仏させることなのである。
 大聖人御自身も、出家されて以来、いろいろな法門を学び、既に諸仏の本覚を悟り、生死を出離して成仏する道をほぼ得ることができた。その要は妙法蓮華経である――とされている。
 末法の成仏の要法が妙法蓮華経であることは、文永三年(一二六六年)正月に著された法華経題目抄に「只南無妙法蓮華経と計(ばか)り五字七字に限りて一日に一遍一月乃至一年十年一期生の間に只一遍なんど唱えても軽重の悪に引かれずして四悪趣におもむかずついに不退の位にいたるべしや、答えて云くしかるべきなり……法華経の題目は八万聖教の肝心一切諸仏の眼目なり」(九四〇㌻)と述べられている。
 そして――、一仏乗の妙法が崇重されて、天竺・漢土・日本の三国が繁昌(はんじょう)したことは眼前に明らかであり、だれがこれを疑うことができようか。ところが、人々は今、法華経の正しい道に背いて、専ら謗法の邪道を行じているために、聖人は国を捨て去り、諸天善神は瞋(いか)りをなして、経文に予言された七難が並び起こり、国内が不穏になっているのである――と指摘されている。
 当時、競い起こっていた三災七難は、一国がこぞって正法に背き、邪法に帰依していることによる、と立正安国論の趣旨を簡潔に述べられているのである。
 更に、当時の世が関東に帰し、鎌倉幕府に政治の実権が移っており、人々が皆、武士の風を貴んでいると仰せられているのは、幕府の中枢にいる平左衛門尉の、為政者としての責任が重いことを指摘されたものと拝される。
 そして、特に、日蓮は、この日本に生を受けた身として、我が国の安穏を思わずにいられないからこそ、立正安国論を著して、幕府の最高権力者であった故最明寺入道殿へ、側近の宿屋入道を通して提出したのである、と述べられ、その中で他国侵逼難が起きるであろうと予言された通り、蒙古からの国書が到着したことを重ねて指摘されている。
 蒙古のフビライ汗からの国書は、文永五年(一二六八年)の閏(うるう)正月十八日に、鎌倉に到着している。国書には、「冀(ねがわ)くば今より以往、通問して好(よしみ)を結び、以って相親睦せんことを。且(かつ)、聖人は四海を以って家となす。相通好せざるは豈(あに)一家の理ならんや。兵を用うるに至る、それ熟(いずく)んぞ好むところならん。王それ之を図れ」とあり、表面は通好を結ぶことを求めているようだが、実際は朝貢国となり、貢(みつ)ぎ物を持って蒙古(元)に入朝することを要求したもので、従わなければ兵を用いるぞ、と威嚇しているのである。
 幕府は、蒙古の要求を拒否する方針を決めたが、明確な回答を与えずに、蒙古の国書を伝えた高麗の使者・藩阜(はんぷ)を追い返している。
 蒙古からは、その後も、文永六年(一二六九年)、文永八年(一二七一年)と相次いで使者がきたが、幕府は明確な回答を与えなかった。その一方で、西国の御家人に対して、外敵への防備を指令し、特に九州地方の地頭や御家人を異国警固番役に当てて、筑前(福岡県)や肥前(佐賀・長崎県)の海岸の要衝を輪番で警固させる体制をとった。いうまでもなく、この蒙古襲来の危機は、日本の国始まって以来の最大の国難であり、幕府が対策に苦慮していた問題だったのである。
 大聖人は、中国の故事を引かれて、蒙古襲来に勝利する道を示唆されている。
 周の文王の師となった太公望呂尚(りょしょう)は、文王なきあと、文王の子・武王をその智謀で助けて、暴虐な殷の紂王(ちゅうおう)を倒している。それは、西伯(文王)が呂尚を師として礼を尽くした徳によるのである、と仰せられている。
 また、漢の高祖・劉邦の軍師となった張良は、秦王朝を滅ぼして、漢の建国に貢献している。それは、劉邦の誠実に感じたからである、とされている。
 大聖人は、この二人を、「謀(はかりごと)を帷帳(いちょう)の中に回(めぐ)らし勝つことを千里の外に決せし者なり」と、史記の高祖紀の意をとって称賛されている。呂尚も張良も、その智謀によって、作戦の段階で必勝の策を立て、戦わないうちから千里の外の勝利を決した、といわれているのである。
 大聖人は、文永五年(一二六八年)十月の極楽寺良観への御状に、「日蓮は日本第一の法華経の行者蒙古国退治の大将為り」(一七四㌻)と仰せであり、また、「大蒙古国簡牒(かんちょう)の事に就て鎌倉殿其の外へ書状を進ぜしめ候、日蓮去(いぬ)る文応元年の比(ころ)勘え申せし立正安国論の如く毫末(ごうまつ)計(ばか)りも之に相違せず候、此の事如何、長老忍性(にんしょう)速かに嘲哢(ちょうろう)の心を翻(ひるが)えし早く日蓮房に帰せしめ給え」(一七四㌻)と述べられている。
 こうした御文の意から、蒙古の襲来に必ず勝利する法は、邪法への帰依を止めて、正法を立て、大聖人に帰することであるが、そのためには、西伯が太公望を、劉邦が張良を厚く遇したように、鎌倉幕府は大聖人を遇するべきであると言われているのである。
 

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