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             開目抄上

        第二十四章 滅後の難信を結す

本文(一九九㌻一一行~二〇〇㌻一行)
 又、但在世計(ばか)りならば・さもあるべきに滅後に居せる論師・人師・多(おおく)は爾前づりにこそ候へ、かう法華経は信じがたき上、世もやうやく末になれば聖賢はやうやく・かくれ迷者はやうやく多し、世間の浅き事すら猶あやまりやすし何(いか)に況(いわん)や出世の深法悞(あやまり)なかるべしや。
 犢子(とくし)・方広(ほうこう)が聡敏(そうびん)なりし猶を大小乗経にあやまてり、無垢(むく)・摩沓(まとう)が利根なりし権実・二教を弁(わきま)えず、正法一千年の内、在世も近く月氏の内なりし・すでにかくのごとし、況(いわん)や尸那(しな)・日本等は国もへだて音もかはれり人の根も鈍なり寿命も日あさし貪瞋癡(とんじんち)も倍増せり、仏世を去ってとし久し仏経みなあやまれり誰れの智解(ちげ)か直かるべき、仏涅槃経に記して云く「末法には正法の者は爪上(そうじょう)の土・謗法の者は十方の土」とみへぬ、法滅尽経に云く「謗法の者は恒河沙・正法の者は一二の小石」と記しをき給う、千年・五百年に一人なんども正法の者ありがたからん、世間の罪に依つて悪道に堕(おち)る者は爪上の土・仏法によつて悪道に堕る者は十方の土・俗よりも僧・女より尼多く悪道に堕つべし。

通解
 釈尊在世においては、爾前の経々が多年にわたり多く説かれていたから、最後に説かれた法華経を智者は信じたとしても、その時の多くの人々は、爾前が勝(すぐ)れ法華経が劣れるように考えられたということもありうるであろうが、滅後に出現して仏法を弘通した論師・人師もまた多くは爾前に片寄っている、このように法華経は信じがたい上、世もしだいに末法時代に入れば、聖人・賢人と仰がれるべき人はようやくかくれて迷者がしだいに多くなってきた。世間の小さな問題すらなお誤りやすい。いわんや出世間の深法たる成仏得道の教法に誤りがないと言えようか、必ず宗教に誤りが多く出てきているはずである。
 ゆえに犢子(とくし)や方広(ほうこう)のごとき智慧のある人すら、なお大乗経と小乗経の区別に迷って破仏法の原因となった。無垢(むく)や摩沓(まとう)のごとき利根の人でさえ、権教と実教の区別に迷って謗法罪をつくり地獄へ堕ちている。これらの四人は正法時代一千年の人で、釈迦仏の在世にも近く、同じインドの国内においてすらこのような状態であった。まして中国や日本等は、国も遠くへだて、言語も変わり、人の根(こん)も鈍根で寿命も短命になってきており、貪・瞋・癡の三毒も倍増している。仏が世を去って永い年月を経過し、仏教はみな誤られている。だれの仏経の理解が正しいか、みな誤っているに違いない。釈尊は涅槃経に予言して「末法には正法を持つ者が爪の上の土ほど少数であり、謗法の者は十方世界の土ほど多数である」と言っている。法滅尽経には「謗法の者が恒河の沙(すな)ほど多く、正法の者は一、二の小石ほど少数である」と予言している。千年に一人か五百年に一人ほども正法の者があることはむずかしいであろう。世間の罪により、強盗や殺人をして悪道へ堕ちる者は、爪の上の土ほど少なく、仏法によって悪道へ堕ちる者は十方の土ほど多いのである。俗人よりも出家の僧が、女よりも出家した尼の方が仏法を誤り謗法の罪によって多く悪道へ堕ちるのである。

語訳
犢子(とくし)・方広(ほうこう)
 いずれも附仏教の外道。犢子は小乗の分派の一つである犢子部(とくしぶ)の部主で、外道より出て仏教に帰依したが、不可説我(※)を立て、無我の理に迷ったので、附仏教の外道と呼ばれる。方広は「一切法不生不滅、空にして所有なし」と説き、外道におちた。妙楽大師は弘決に「犢子は小乗により、方広は大乗によって、我見を立てた」と述べている。
〈追記〉
 犢子部の不可説我とは、無我説に、死後も存続する常住の主体を想定した輪廻説をつなげたもので、結果として仏教に事寄せて外道に回帰した説となっている。

無垢(むく)・摩沓(まとう)
 無垢は無垢論師。迦湿弥羅(かしみら)国の人で、小乗において出家し、五天竺の中を遊学した。三蔵教を学び、後に大乗を誹謗し、世親菩薩に反対した。そのため心に狂乱を起こし、舌は五つに裂け、血を噴き出して死んだといわれる。摩沓は摩沓婆。数論派の学者で、広学多聞であったが、徳慧菩薩によって破折され、六日目に血を吐いて死んだ、と西域記にある。

利根
 かしこい性質。鈍根の逆。

法滅尽経
 仏説法滅尽経。一巻。訳者不明。仏の涅槃が近づき、説法せず、また光明を現じなかった。そこで阿難が三回たずね、仏はそれに対し、末法法滅の時、魔が比丘となって現れ、非法の言動をすると説いている。

講義
 この章は在世と滅後を相対して、ますます法華経が信じがたくなり、正法はまったく失せ果てたと説かれている。
 爾前経と法華経とは宇宙の実相・生命の哲理を説くにあたって天地雲泥の差がある。爾前経は部分的に、あるいは前提的に宇宙の実相・生命の哲理を取り扱ったのに対し、法華経は全体的にかつ根本的にこれを説いている。
 現代においても、部分的にしてまた皮相的な宗教は一般に普及されている。しかし智者や学者がこれを信じないのはもちろんである。智者や学者がこれを聞いてもっともなりと信ずる、最高にして純一無雑な宗教は、なかなか大衆には入りがたいという事実から推して、この章の意味がよく了解されるであろう。

 世間の罪に依って悪道に堕る者は爪上の土云云

 このおことばは、仏法律の厳しさを申された、重大なご警告であると拝すべきであろう。われわれの人生において、幸・不幸を決定する、さまざまの法がある。大きく分けて、それは、三つに集約される。世間法、国法、仏法である。
 世間法とは、社会の風俗、習慣、慣習であって、これが規制するところは、相対的であり、ゆるい。ある地方では、禁じられていることでも、別の地方では許されることが多い。また、これに違反したことを行なっても、せいぜい、笑われたり、悪口をいわれたり、交際を禁じられたりするに留まる。
 国法は国家や地方自治体で定められた法律で、これに反したことを行なった場合、それがはっきりと認められれば、刑罰を受ける。これは罰金なり、体刑なりの実質的効果をもつもので、ある程度の情状酌量はあっても、法に定められた規則は曲げられない。しかし、これとて、つぎの仏法律に較べれば、きわめて目の粗い網といえよう。
 仏法は、自己の生命の因果律であって、仏法に反したことをすれば、絶対にその結果生ずる罰の現証をまぬかれることはできない。しかも、世間法、国法は、その正邪の判別が、かんたんであるが、仏法は、生命の本源を解明せられた深々の哲学である。しかも、これを修行する人を妨げんとする魔の働きも盛んである。したがって、これに迷い、罰をうけて、悪道におちる者は、世間、国法の罪によって悪道に堕ちる者より、比較にならないほど多いのである。
 真実の人生の幸福をめざすならば、世間法、国法を知り、守ることはとうぜんのこととして、もっとも根本的に幸、不幸を左右する仏法を知り、守るべきことを主張するものである。それを明示された文こそ、仏の言々句々であり、すなわち経文、大聖人の御書なのである。
             開目抄上

       第二十三章 華厳・真言の謬解を挙ぐ

本文(一九九㌻三行~一九九㌻一一行)
 華厳宗と真言宗は法相・三論にはにるべくもなき超過の宗なり、二乗作仏・久遠実成は法華経に限らず華厳経・大日経に分明なり、華厳宗の杜順(とじゅん)・智儼(ちごん)・法蔵・澄観(ちょうかん)・真言宗の善無畏・金剛智・不空等は天台・伝教には・にるべくもなき高位の人なり、其の上善無畏等は大日如来より系(けい)みだれざる相承あり、此等の権化(ごんげ)の人いかでか悞(あやま)りあるべき。
 随って華厳経には「或は釈迦・仏道を成じ已(おわ)って不可思議劫を経(へ)るを見る」等云云、大日経には「我れは一切の本初(ほんじょ)なり」等云云、何ぞ但(ただ)久遠実成・寿量品に限らん、譬へば井底(せいてい)の蝦(かわず)が大海を見ず山左(やまかつ)が洛中を・しらざるがごとし、汝但寿量の一品を見て華厳・大日経等の諸経をしらざるか、其の上月氏・尸那(しな)・新羅・百済等にも一同に二乗作仏・久遠実成は法華経に限るというか。されば八箇年の経は四十余年の経経には相違せりというとも先判・後判の中には後判につくべしというとも猶爾前づりにこそをぼうれ。

通解
(前項に述べた法相は低い教の宗であるが、)華厳宗と真言宗とは、法相や三論などと比較にならぬ勝れた宗である。二乗作仏と久遠実成は法華経のみに説かれているのではなく、華厳経・大日経にも明らかに説かれている。華厳宗の杜順(とじゅん)・智儼(ちごん)・法蔵・澄観(ちょうかん)等の人々や、真言宗の善無畏(ぜんむい)・金剛智・不空等の人々は、天台大師や伝教大師とは比較にならない高位の人であり、学徳ともに秀れた人たちである。その上、善無畏等の真言をひろめた人々は、大日如来より直系の乱れることのない相承がある。これらの仏菩薩の権化たる人にどうして誤りがあろうか。
 したがって、華厳経には「釈尊が仏道を成就しおわって不可思議劫の永い間を経るを見た」とある。また大日経には「われいっさいの本初(ほんじょ)なり」と説いている。どうして釈迦久遠の成道を説く経文が寿量品に限ろうか。たとえば井戸の底にいる蛙が大海を見ないがごとく、山奥に住む人が都を知らざるごとく、汝はただ寿量の一品を見るのみで、華厳や大日経等を知らないのではないか。その上インド・中国・朝鮮等の諸国においても、みな一同に二乗作仏と久遠実成は法華経に限るといっているか。このような意見から推して考えるならば、八箇年に説いた法華経は四十余年の経々に異なっているが、八箇年の教判と四十余年後の教判の中では、とうぜん後の八箇年の教判に依るべきである、すなわち法華経に説かれた勝劣の決定を用いるべきであるとはいいながらも、なお爾前経の論拠が強く、法華は薄弱のように考えられる。

語訳
杜順(とじゅん)
(五五七年~六四〇年)。中国華厳宗の開祖。帝心尊者ともいわれる。十八歳で出家し、僧珍(ちん)に仕えた。のちに唐の太宗に厚く信任され、華厳宗を弘めた。著書に「華厳法界観門」一巻などがある。

智儼(ちごん)
(六〇二年~六六八年)。中国華厳宗の第二祖。至相大師・雲華尊者ともいわれる。十四歳で杜順について出家し、四分律や涅槃などの諸経論を学んだが、のちに華厳経の研究に専念した。著書に「華厳経捜玄記(そうげんき)」五巻、「華厳孔目章(くもくしょう)」四巻などがある。

法蔵
(六四三年~七一二年)。華厳宗の第三祖。華厳和尚(わじょう)、賢首(げんじゅ)大師、香象(こうぞう)大師の名がある。智儼(ちごん)について華厳経を学び、実叉難陀(じつしゃなんだ)の華厳経新訳にも参加した。さらに法華経による天台大師に対抗して、華厳経を拠りどころとする釈迦一代仏教の教判を五教十宗判として立てた。「華厳経探玄記」「華厳五教章」「華厳経伝記」などの著があり、則天武后の帰依をうけた。

澄観(ちょうかん)
(七三八年~八三九年)。華厳宗の第四祖。清涼大師。十一歳のとき出家し、南山律、三論等を学び、妙楽湛然(たんねん)について天台の止観等を学んだ。五台山清涼寺に住して華厳宗を弘めた。「華厳経疏(しょ)」六十巻、「華厳経随疏演義鈔」九十巻等と著述が多い。

善無畏(ぜんむい)
(六三七年~七三五年)。梵名シュバカラシンハ(Śubhakarasiṃha)、音写して輸波迦羅(ゆばから)、善無畏はその意訳。中国・唐代の真言宗の開祖。東インドの烏荼(うだ)国の王子として生まれ、十三歳で王位についたが兄の妬(ねた)みをかい、位を譲って出家した。マガダ国の那爛陀(ならんだ)寺で、達摩掬多(だつまきくた)に従い密教を学ぶ。唐の開元四年(七一六年)中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられた。「大日経」「蘇婆呼童子経(そばこどうじきょう)」「蘇悉地羯羅経(そしつじからきょう)」などを翻訳、また「大日経疏(だいにちきょうしょ)」を編纂、中国に初めて密教を伝えた。とくに大日経疏で天台大師の一念三千の義を盗み入れ、理同事勝の邪義を立てている。金剛智、不空とともに三三蔵と呼ばれた。

金剛智
(六七一年~七四一年)。梵名バジラボディ(Vajrabodhi)、音写して跋日羅菩提、金剛智はその意訳。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。十歳の時那爛陀(ならんだ)寺に出家し、寂静智に師事した。三十一歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき七年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元八年(七二〇年)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。

不空
(七〇五年~七七四年)。梵名アモーガバジュラ(Amoghavajra)、音写して阿目佉跋折羅(あもきゃばしゃら)、意訳して不空金剛。不空はその略。中国唐代の真言宗三三蔵(善無畏、金剛智、不空)の一人で、中国密教の完成につとめた。十五歳の時、唐の長安に入り、金剛智に従って出家した。開元二十九年、金剛智死去後、南天竺に行き、師子国(スリランカ)に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、六年後、ふたたび唐都の洛陽に帰った。玄宗皇帝の帰依を受け、尊崇が厚かった。羅什、玄奘、真諦(しんだい)と共に中国の四大翻訳家の一人に数えられ「金剛頂経」など多くの密教経典類を翻訳した。

大日如来より系(けい)みだれざる相承あり
 真言宗では、大日如来が色究竟天法界宮において大日経を説き、金剛宮において金剛頂経を説いた。それらを金剛薩埵(こんごうさった)が結集して、南天の鉄塔においた。釈尊滅後七百年ごろ、竜猛(りゅうみょう)がその鉄塔を開き、経典を金剛薩埵より授けられて、さらにそれを竜智に伝付、竜智は大日経を善無畏に、金剛頂経を金剛智に授けた。これを不空が相承して慧果に伝え、慧果から弘法に伝えた、と主張している。
〈追記〉
 不空が著した金剛頂義訣によれば、竜猛は大日如来の真言を誦持して、封鎖された鉄塔を七日間めぐり、七粒の白芥子を塔の門戸に投げつけてみごとにその塔の扉を開け、塔内の諸仏菩薩から、密教の根本聖典である金剛頂経を授けられたという。竜猛とは旧訳の竜樹のこと。玄奘らの新訳では竜猛という訳を用いる。真言宗では「付法の八祖」の第三祖とされ、竜猛と呼ぶ。ただし、中国・日本において八宗の祖と位置づけられる竜樹は一五〇~二五〇年頃の人であり、金剛頂経を授かったという金剛智(六七一年~七四一年)との間には、五百年もの懸隔がある。その間、竜智(伝説上の僧)が竜樹より法を受けて数百年生き、金剛智に伝えたといわれる。

先判・後判
 譲与者から受取人に与えた譲状が同一物件につき二通ある場合、前(先)の譲状を先判といい、後の譲状を後判という。判とは、判形(はんぎょう)、すなわち花押のこと。御成敗式目第二十六条には「一、所領を子息に讓り、安堵(あんど)の御下文を給はるの後、その領を悔い還し、他の子息に讓り与ふる事 右、父母の意に任すべきの由、具(つぶさ)に以て先条に載せ畢んぬ。よって先判(せんぱん)の讓につきて安堵の御下文を給はると雖(いえど)も、その親これを悔い還し、他子に讓るに於ては、後判(こうはん)の讓に任せて御成敗あるべし」(日本思想体系二十一巻二三㌻)とある。ここでは、四十二年間の爾前権教の説法を先判とし、のち、「四十余年、未顕真実」「正直捨方便、但説無上道」「世尊法久後、要当説真実」として法華経を説いたことを後判としている。

講義
 この項では、華厳宗と真言宗の主張の上から法華経の難解(なんげ)を説かれている。
「釈迦・仏道を成じ已(おわ)って不可思議劫を経るを見る」との華厳経の文を釈して、華厳疏抄(じょしょう)八十にいわく「すでに多劫を経るを見るというからには、すなわち華厳が始成(しじょう)をいっていると定めるわけにはいかない」と。また「この文に依れば、天台が久遠実成は法華経に限るといった事の謬(あやま)りが判明する。すなわち天台が華厳は始成というといった難を遮(しゃ)するのである」と言っている。
 これに対し、天台宗の側では「華厳の文は或見(わっけん)というからには、衆生の機根によってあるいは見る者もあるという意ではないか。まして普賢菩薩のごとき九界の衆生が、どうして仏寿の久遠を知ることができよう」かと輔註(ふちゅう)に破しており、その他、これに対し重々の打破がある。要するに、華厳宗の主張は、華厳経は劣り法華は勝れているのを、なんとかして華厳の地位を引き上げようとするごまかしに過ぎないのである。
 また、「われはいっさいの本初なり」とは、大日経第三巻転字輪漫陀羅行品の文である。義釈九には「本初とはすなわち寿量の義である」といっている。これもまた大なる誤謬(ごびゅう)で「一切本初」とは法身本有(ほんぬ)の理に約していった言葉である。玄私七には「本有の理に帰す故に本初と云う、本有の仏性を名(なず)けて自覚となす」といっている。
 要するに、華厳・真言のやからが天台の教えをねたんで我見に執着して「あるいは釈迦・仏道を成じおわって不可思議劫を経るを見る」の文および「われはいっさいの本初なり」の文を、無理に一念三千の出処にして、一念三千の法門を盗み、法華経にすぐれたりと説かんとするのを明かされたのである。
             開目抄上

        第二十二章 法相宗の謬解を挙ぐ

本文(一九八㌻九行~一九九㌻三行)
 されば法相宗と申す宗は西天の仏滅後・九百年に無著(むじゃく)菩薩と申す大論師有(ましま)しき、夜は都率(とそつ)の内院にのぼり弥勒菩薩に対面して・一代聖教の不審をひらき・昼は阿輸舎(あしゅしゃ)国にして法相の法門を弘め給う、彼の御弟子は世親・護法・難陀・戒賢(かいげん)等の大論師なり、戒日大王・頭をかたぶけ五天幢(はたほこ)を倒して此れに帰依す。
 尸那(しな)国の玄奘三蔵・月氏にいたりて十七年印度百三十余の国国を見ききて諸宗をばふりすて此の宗を漢土にわたして太宗皇帝と申す賢王にさづけ給い肪(ほう)・尚(しょう)・光(こう)・基(き)を弟子として大慈恩寺並に三百六十余箇国に弘め給い、日本国には人王三十七代・孝徳天皇の御宇に道慈・道昭等ならいわたして山階寺(やましなでら)にあがめ給へり、三国第一の宗なるべし。
 此の宗の云く始め華厳経より終り法華・涅槃経にいたるまで無性有情(むしょううじょう)と決定性(けつじょうしょう)の二乗は永く仏になるべからず、仏語に二言なし一度・永不成仏(ようふじょうぶつ)と定め給いぬる上は日月は地に落ち給うとも大地は反覆すとも永く変改(へんかい)有べからず、されば法華経・涅槃経の中にも爾前の経経に嫌いし無性有情・決定性を正(まさし)くついさして成仏すとは・とかれず、まづ眼を閉じて案ぜよ法華経・涅槃経に決定性・無性有情・正く仏になるならば無著・世親ほどの大論師・玄奘・慈恩ほどの三蔵・人師これをみざるべしや此をのせざるべしやこれを信じて伝えざるべしや、弥勒菩薩に問いたてまつらざるべしや、汝は法華経の文に依るやうなれども天台・妙楽・伝教の僻見(びゃっけん)を信受して其の見(けん)をもって経文をみるゆえに爾前に法華経は水火なりと見るなり。

通解
(このように、釈尊一代の説法では、法華経のみ二乗作仏・久遠実成と説いて信じがたいがゆえに、古来、各宗派の開祖たちはみな法華を捨てて爾前経を本にしているのである。)
 されば、法相宗について見ると、インドの仏滅後九百年に無著菩薩という大論師がいた。夜は都率天(とそつてん)の内院に上り、弥勒菩薩に対面して釈尊一代の聖教について不審の点を聴聞し、昼はインドの阿輸舎(あしゅしゃ)国で法相の法門をひろめられた。かの御弟子には世親・護法・難陀・戒賢等の大論師がいたのである。当時インドで非常に善政を施いていた明主たる戒日大王もその檀那となって頭を下げ、五天竺(全インド)の者が、みなそれぞれの我見を捨てて無著に帰依した。
 中国の玄奘三蔵はインド各地へ行って、十七年の間、インドの百三十余の国々を訪ねて仏法を学んだ末、諸宗をば振り捨ててこの法相宗を中国に伝来し、当時は唐の太宗皇帝という賢王にこれを授けた。さらに神肪(しんほう)・嘉尚(かしょう)・普光(ふこう)・窺基(きき)等の大弟子を得て、大慈恩寺を始め、三百六十余箇国にこれを弘通した。日本国には、人王第三十七代孝徳天皇の御代に道慈・道昭等がこれを習い伝えて、山階寺(やましなでら)を建立して尊崇した。これこそ三国第一の宗教である。
 この宗のいわく、始め華厳経から終り法華・涅槃経にいたるまでのいっさいの経中で、声聞・縁覚・菩薩の三乗に進む性分のない、すなわち無性有情(むしょううじょう)の者と、二乗と決定(けつじょう)して永久に成仏することのない決定性(けつじょうしょう)の二乗は、永久に成仏できないと釈尊は説いている。仏語に二言はあるべきでないから、一度永久に成仏せずと定めた以上は、たとえ日月が地に落ちようとも大地が反覆して天になろうとも、これを変え改めて成仏するなどと説くわけがない。そうであるから法華経・涅槃経の中にも、爾前の経々が嫌う無性有情の者と決定性の者を正しく指して、成仏するとは説かれていない。まず眼を閉じて考えてみよ。法華経・涅槃経において、決定性の者と無性有情の者がまさしく成仏するならば、無著や世親ほどの大論師および玄奘や慈恩ほどの三蔵人師がこれを見ないわけがあろうか。これをその著書に載せないわけがあろうか。これを信じて伝えないわけがあろうか。弥勒菩薩に会って質問しないわけがあろうか。汝は法華経の文に依って二乗作仏と唱えるようであるが、じつは天台や妙楽や伝教の間違った独りよがりの見解を信受してその見解をもって経文を見るゆえに、爾前は二乗不作仏、法華は二乗作仏であって、その内容は水火のごとくあいいれないものと思っているのである、と。

語訳
無著(むじゃく)菩薩
 生没年不明。梵名をアサンガ(Asaṅga)といい、阿僧伽(あそうぎゃ)と音写し、無著、また無障礙(むしょうげ)と訳す。四世紀ごろ、北インド・健駄羅国(けんだらこく)のバラモンの家に生まれた。最初は化地(けじ)部(上座部仏教の一派)の僧として出家したが、空の教えに興味をもち、さらに弥勒に大乗の空観を教えられてから、大乗に帰して大乗の諸教義を研究し、瑜伽(ゆが)・唯識の教えを弘めた。小乗の論師であった弟の世親を教化して大乗に帰入させた故事は有名である。著書に「摂大乗論(しょうだいじょうろん)」三巻、「金剛般若論」二巻、「顕揚聖教論」二十巻、「順中論」二巻などがある。

都率(とそつ)
 六欲天の第四である都率天のこと。梵語トゥシタ(Tuṣita)の音写。兜率・覩史多(とした)とも書く。上足・妙足・知足・喜足・喜楽などと訳す。歓楽飽満し自ら満足を知るゆえにこの名がある。夜摩天(やまてん)の上空にあり、広さは縦横八万由旬である。内院と外院に分かれ、内院には都率天宮があって、釈尊に先立って入滅した弥勒菩薩が天人のために説法しているという。外院(げいん)は天の衆生の欲楽する処とされる。この天の寿命は人間の四百歳を一日一夜として、四千歳である。人間の寿命に換算すると、四〇〇歳×三六〇(日)×四〇〇〇(年)で、五億七千六百万歳にあたる。

弥勒菩薩
 弥勒に二義ある。①未来仏と信仰される菩薩。一生補処(いっしょうふしょ)の菩薩といわれ、兜率天(とそつてん)の内院に住み、釈尊滅後五十六億七千万年後に仏として再びこの世界に登場し衆生を救うとされる。②瑜伽唯識(ゆがゆいしき)の学問を基とする法相宗の開祖。梵名マイトレーヤ(Maitreya)。三~四世紀、または四~五世紀頃の人とされる。摂大乗論(しょうだいじょうろん)を著した無著は兜率天に上り弥勒菩薩に教えを受けたと伝えられ、弥勒は未来仏と信仰される弥勒菩薩と同じ存在とみられた。よって法相宗の本尊は唯識曼荼羅であり、弥勒菩薩でもある。

護法
 唯識十大論師の一人。世親(vasubandhu)の唯識三十頌を注釈した。のちに唐の玄奘がこの護法の釈を中心として、他の釈を取捨、合訳して唯識の義理・修行の位などを立てた。

難陀
 唯識十大論師の一人といわれる、六世紀のインドの仏教学者。

戒賢(かいげん)
 戒賢論師。梵名シーラバドラ(Śīlabhadra)の音写、尸羅跛陀羅(しらばつだら)の訳。東インド三摩呾吒(さまたた)国の王族の出身で、幼少のときから学問を好み、諸国を周遊して師を求めた。摩掲陀(まかだ)国那爛陀(ならんだ)寺にいたって護法論師に会い、護法を師として出家した。三十歳にして、南インドからきた外道を弁論で破り、国王はおおいに喜び、伽藍を建てて戒賢を迎えた。唐の玄奘が西遊して戒賢に会ったとき、戒賢は百余歳になり那爛陀寺の大長老として、大衆の帰依を集めていたといわれる。中国法相宗の祖・玄奘に「瑜伽」「唯識」を授けた。法相宗では、戒賢は遠く弥勒・無著に法を承(う)け、世親・護法につぐ第五祖といって尊んでいる。

戒日大王
 古代北インドのバルダナ朝を創始した王。梵名ハルシャ・バルダナ(Harsha Vardhana,)。曷利沙伐弹那(かりしばだな)と音写、喜増と訳す。兄王の跡をつぎ、名をシーラーディティヤ(Siilāditya)と改めた。この漢訳が戒日王である。この在位の時代(六〇六年~六四七年)に玄奘が入竺した。戒日王は即位後、グプタ朝末期に分立していた北インドを統一した。これより王が没するまでの三十年間は、兵乱がなく、王は内治に力を注いだ。政治の理想を阿育王(あそかおう)におき、また、自ら詩人として、仏教戯曲ナーガーナンダ(Nāgānanda)(「竜の歓喜」)等をつくり、文芸の復興につとめた。仏教に深く帰依し、はじめ小乗教を信じたが、のちに大乗を奉じて多くの寺塔を建立した。毎年、公場に全国から僧を集めて経釈を論議させ、五年に一度、無遮大会(むしゃだいえ)(聖俗貴賤を問わない布施の行事)を行い、入竺中の玄奘もこの大会に参加したことを記録にとどめている。戒日王みずから高僧に法を求め、その思想を根本として善政につとめた。しかし、王の死後、バルダナ朝の勢威は急速に落ち、北インドはふたたび分裂していった。

太宗皇帝
(五九八年~六四九年)。中国、唐の第二代皇帝(在位六二六年~六四九年)李世民のこと。太宗は廟号(びょうごう)。隋末、天下おおいに乱れたとき、父の李淵(りえん)とともに、太原に兵をあげ、天下を平定した。のち、李淵が帝位につくや秦王となり、皇太子を経て高祖より王位を受けた。房玄齢(ぼうげんれい)・杜如晦(とじょかい)・魏徴(ぎちょう)らの名臣を用いて「貞観(じょうがん)の治」を現出した。しかし、よき後継者に恵まれず、死後は則天武后の専制と革命(武周の建国)を許すことになった。

肪(ほう)・尚(しょう)・光(こう)・基(き)
 神肪(しんほう)・嘉尚(かしょう)・普光(ふこう)・窺基(きき)の略で、いずれも玄奘の弟子。窺基は慈恩大師で「法華玄賛」等をあらわし、名を馳せたが粗漏が多く、伝教大師は徳一にあてた「守護国界章」で、法相宗の謬解を破折している。

山階寺(やましなでら)
 奈良市にある法相宗の大本山、興福寺の古称。天智天皇八年(六六九年)、藤原鎌足の遺志により、夫人の鏡王女(かがみのおおきみ)が山城国(京都市)山階に創建した山階寺を起源とする。天武天皇元年(六七二年)飛鳥浄御原(きよみはら)に移し厩坂寺(うまやさかでら)と呼び、和銅三年(七一〇年)平城京遷都に伴い、鎌足の子不比等が現在地に移し、現名に改めた。

無性有情(むしょううじょう)
 法相宗の「五性各別(ごしょうかくべつ)」の法門から出た語。すなわち法相宗では、衆生が本来具えている性質を、阿頼耶識(あらやしき)に蔵する種子(しゅうじ)によって五種に分類し、それらは永久に区別されているとする。仏地経論巻二等に説かれる。五性とは①声門定性(じょうしょう)(阿羅漢果(あらかんか)を得ることに定まった者)、②緑覚定性(辟支仏果(びゃくしぶつか)を得ることに定まった者)、③菩薩定性(仏果を得ることに定まった者)、④不定性(三乗のいずれとも定まっていない者)、⑤無性(むしょう)(三乗の種がなく永遠に生死の苦界を免れることのない者)をいう。この第五は、声聞・縁覚・菩薩になる性(三乗性)がなく、成仏の因がないものとして、この者を無性有情という。有情とは衆生の意で、玄奘による新訳語。
〈追記〉
 五性について、上記は定性(じょうしょう)による分類であり、種子(しゅうじ)による名称は、①声聞種性、②独覚種性、③如来種性(菩薩種性)、④不定種性、⑤無有出世功徳種性である。この⑤は出世功徳の因を欠き、永久に成仏できない無性有情であるという。

決定性(けつじょうしょう)の二乗
 決定性とは、決定種性といって、爾前経で声聞・縁覚の二乗は、六道へも、菩薩・仏界へも絶対に出ることができないとした。この二乗をさして決定性とよんだ。法相宗はとくにこれを強調し、法華経とは全く逆に一乗方便、三乗真実と立てる。諸法実相を説いて十界の平等を説く法華経は方便と邪義を立てるのである。

講義
 第十一章の「此に予愚見をもって」より以下は、難信難解をもって法華の真実をあらわす段であり、本章以後は謬解(びゅうげ)を挙げて難信を結している。そのうち第一項は法相宗の謬解を挙げて、法華経は信じがたく、法相宗は三国に弘通されたがゆえに第一の勝れた教であるかのごとき錯覚に陥りやすきを述べられている。
             開目抄上

         第二十一章 難信の相を示す

本文(一九八㌻四行~一九八㌻八行)
 日蓮案じて云く二乗作仏すら猶(なお)爾前づよにをぼゆ、久遠実成は又にるべくも・なき爾前づりなり、其の故は爾前・法華相対するに猶爾前こわ(強)き上・爾前のみならず迹門十四品も一向に爾前に同ず、本門十四品も涌出・寿量の二品を除いては皆始成(しじょう)を存せり、雙林(そうりん)最後の大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)・四十巻・其の外の法華・前後の諸大経に一字一句もなく法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず、いかんが広博の爾前・本迹・涅槃等の諸大乗経をばすてて但涌出・寿量の二品には付くべき。

通解
(爾前四十余年の経教は法華経迹門に劣り、法華経においては迹門が本門に劣る。しかし)日蓮がここで考えるのに、世間一般の人々にとっては、迹門に説かれた二乗作仏でさえ、爾前経の方が強くて迹門は信じがたい。すなわち二乗作仏の根拠は薄弱のように見える。しかし本門寿量品の久遠実成は、また比較にならないほど爾前で説くインドで成仏したという始成(しじょう)思想が強くて寿量品を信じがたいのである。その理由は、爾前と法華を相対するに、なお爾前の方が説時も長く、経も多くて、法華経が薄弱のようである上に、始成正覚を説く点においては、迹門十四品も爾前経と同一である。本門十四品の中でさえ涌出品、寿量品の二品を除いては、みな始成正覚の思想が存している。最後に、釈尊が入滅する直前に説いた大般涅槃経四十巻をはじめ、そのほかの法華前後に説いたもろもろの大乗経に一字一句もなく法身の無始無終は説いている。しかし応身および報身の本地をあらわして三身常住とは説いていない。どうして多数の爾前経、法華の本門・迹門、涅槃経等の諸大乗経をば捨てて、わずかの涌出・寿量の二品を信ずることができようか。

語訳
爾前づよ・爾前づり
「づよ」は「強(づより)」で、「づり」も「づより」の略。

雙林(そうりん)最後
 釈尊は八十歳の二月十五日、一日一夜にわたって法を説き入滅した。これが涅槃経で、対告衆(たいごうしゅう)は鍛冶工・純陀、説処は拘尸那掲羅(クシナガラ)城外、跋提河(ばつだいが)のほとりの沙羅双樹(さらそうじゅ)の林であった。この説処をとって、涅槃の時を雙林最後という。

大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)
 涅槃経は、釈尊の入涅槃の様子とその時に説かれた教えを記した経。大・小乗で数種ある。大乗では、中国・北涼代の曇無讖(どんむしん)訳の「大般涅槃経」四十巻(北本)、それを修訂した中国・劉宋代の慧観・慧厳(えごん)・謝霊運訳の「大般涅槃経」三十六巻(南本)、異訳に中国・東晋代の法顕訳「大般泥洹経(だいはつないおんぎょう)」六巻がある。小乗では、法顕訳「大般涅槃経」三巻等がある。大乗の涅槃経では仏身の常住、涅槃の四徳である常楽我浄を説き、一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)を明かして、善根を断じた一闡提(いっせんだい)も成仏すると説いている。天台教学では、法華経の後に説かれた涅槃経は、法華経の利益に漏れた者を拾い集めて救う教え、捃拾教(くんじゅうきょう)と呼び、法華経の内容を補足するものと位置づける。また小乗の涅槃経では、釈尊の入涅槃から舎利の分配までの事跡を記している。

法身・報身・応身
 三身(さんじん)といい、仏としての本質的な三種の特性。①法身(ほっしん)(仏が覚った真実・真理)②報身(ほうしん)(最高の覚りの智慧をはじめ、仏と成った報いとして得た種々の優れた特性)③応身(おうじん)(人々を苦悩から救うためにそれぞれに応じて現実に現した姿、慈悲の側面)の三つをいう。

講義
 この章は、本迹相対中の第三・難信の相を示すのである。本項においては、法報応三身の顕本は寿量品にかぎり、もろもろの大乗経はもとより、法華経迹門にすら始成正覚を説いている。ゆえに法華経の本門はますます難信であると。
「法身の無始無終は説けども報身・応身の顕本は説かれず」とは、法身の無始無終は一往仮説的なものである。まだ生命の実相を説き切ったものとはいい切れない。宇宙は常住である事は、だれでも一応思う事であるが、その宇宙に仏が現象として常住するという事は観念的なものである。どれもこれも、涌出・寿量を除いた以外の経文は、涌出・寿量の二品の法報応三身常住を説く前提であって、まだ真実を説くものではない。この三身常住を哲学的に説くならば、つぎのごとくではあるが、これは、なかなか信じ得られないところのものである。信じられないからウソだともいえないし、知らないから、ないともいえないであろう。真実の仏教が説くところの三身常住は、生命の実相であって、これこそ真のわれらの生命の状態である。吾人が今ここに、この境涯を説くといえども、読者がこれを諒承(りょうしょう)するためには、日蓮大聖人の所立(しょりゅう)の三大秘法の仏法に帰依しなくては、絶対に、証得することができえないであろうということを附言して置く。
 結論的にいうならば、吾人が今持つところの肉体そのものが、子供の時より老人にいたるまで、ある傾向にしたがって変化するごとく、われらの今日の肉体と精神とが、永遠に変化して実在する事が、法報応三身の常住で、無始無終の生命観である。
 まずわれらの肉体の変化について観察してみよう。われわれは一瞬一瞬に、肉体的にも精神的にも変化しつつ、運命のコースをたどっている。精神的な問題と運命の問題は別にして、肉体の問題のみを論ずるならば、一瞬一瞬に細胞の増衰が行なわれて、そして七年間するならば生理学上、目の玉の芯から骨の髄の細胞まで一新するのである。
 この肉体の変化は、精神とか運命とかを根本として変化したものではなくして、われらの生命自体の働きによって変化してきたものである。その生命というものに、一貫した傾向を見ることができる。もし生命すなわち変化させる根本の原動力に定まった一つの傾向および本質がないとするならば、七年間の変化のうちに、長い指が短くなったり、目が小さくなったり、形が変わって鼻の低いのが高くなったりするはずなのに、だいたい赤ん坊の時を基準とした細胞の増衰にすぎない。しかも、三十の時に何かの事件を起こしたとして、それに対する責任は法律に関するとせぬとにかかわらず、四十になっても五十になっても、負わされていることは事実である。たんに肉体論からいうならば、三十七になれば,ぜんぜん別な肉体になっている。七年前の責任を追う必要がなくなるではないか。忘れたという事よりは没交渉(ぼつこうしょう)になってよいはずである。いかんとなれば脳の細胞も一変しているからである。しかるに、その責任はぜんぜん別個になった肉体がこれを負い、またその責任を感ずるのである。これは、生命の連続は肉体と精神活動とを同じく、その連続に関連を持たしているからである。生命とは心肉不二にして、肉体にもあらず心にもあらず、しこうして肉体と精神に絶えず反応を与えるものである。目に見ることもなくして存在し、しこうして、目に見える肉体と精神と運命とに強くはっきりとにじみ出るものである。
 われわれの生命は永遠であるとすれば、この世の中で死んで、またつぎの世で生命の活動がなければならぬ。他の宗教では、つぎの世の生命活動を、西方の浄土世界とか天上界とかいうような、架空の世界観をつくって、そこで生きているという。これは法身論の生命観であって、事実の生命観ではない。つぎの世に生まれてくる世界は、われらが今日生活していると同様の娑婆世界である。しからば、世間にいう生まれ変わってくるという、あのことかと思うであろう。事実はごく似たものであるが、生まれ変わるとなれば、ぜんぜん別個の人間とも考えられる。しかしぜんぜん別個ではあり得ないのである。では同じ人かというに、同じ人でもないのである。あたかも七歳のAなる人と四十歳のAなる人とは物質構成、精神活動、運命等はぜんぜん別個でありながら、七歳のAと四十歳のAとが、同一なりと断ずるがごときものなのである。今世のAと来世のAとは、生命の連続においては同一生命の連続であって、肉体にもせよ精神にもせよ運命にもせよ、今世のそのものではないことはもちろんである。それは七歳のAの場合と四十歳のAの場合と同様である。
 七歳のAが四十歳にいたるまで、生命の連続であると同様に、肉体も精神も運命も、変化の連続をなしたごとく、今世の生命が来世の生命にいたるとしても、今世の肉体・精神・運命が来世へと変化の連続をなすことは、当然なことである。
 ここに大きな疑問が一つ生じる。死んで火で焼いて粉にして、なくなった肉体が、死後までその肉体の連続であるということは、あり得ないではないかということである。
 そこで、肉体にもせよ精神にもせよ、目に見ることのできない、しかも厳然たる存在の生命の反映であると、さきに述べたことを記憶より呼び覚(さま)してもらいたい。さて、その前に、いかような状態において生命が来世に連続するかという問題を述べてみよう。われらが死ねば、肉体の処分にかかわらず、われらの生命が大宇宙の生命へとけ込むのであって、宇宙はこれ一個の偉大な生命体である。この大宇宙の生命体へとけ込んだわれわれの生命は、どこにもありようがない。大宇宙の生命それ自体である。これを「空(くう)」というのである。「空」とは、存在するといえばその存在を確かめることができない、存在せぬとすれば存在として現われてくるという実体をさしているのである。「有る」「無い」という、二つの概念以外の概念である。たとえてみれば「あなたは怒るという性分を持っていますか」と問われた時に「持っております」と答えたとする。それなら「その性分を現わして見せてください」といわれても、現わしようがないから「無い」と同様である。「ありません」と答えたとしても、縁にふれて怒るという性分が現われてくる。かかる状態の存在を「空」というのである。われわれの死後の生命も、この「空」という状態の存在である。されば縁にふれて五十年、百年または一年後に、ふたたびこの娑婆世界に前の生命の連続として出現してくるのである。さて、その生まれ出た肉体は、過去の生存、過去の死の状態を通して連続してきた生命を基として、宇宙の物質をもって構成されてくる。時間的の差異はあったとしても、生命が連続である以上、肉体も精神も運命も、過去世の生存の連続であると断ずることができるのである。あたかも碁(ご)を打つ人が、一日打って半局面しか打ち切れない。そして、あしたにしようということになって、碁石をバラバラにしてしまって、もとのように箱に収めてしまう。つぎの日、二人がまた碁盤を囲んで昨日打ち終わったところまで、昨日と同様に白黒の碁石を配置する。そして昨日のつづきを打ってゆくようなものである。
 生命が過去の傾向を帯びて世に出現したとすれば、その傾向に対応して、宇宙より物質を聚(あつ)めて肉体を形成するに過去世の連続とみなす以外にないのである。
 かくのごとく現在生存するわれらは死という条件によって大宇宙の生命へとけ込み、「空」の状態において業(ごう)を感じつつ変化して、なんらかの機縁によって生命体として発現する。かくのごとく、死しては生まれ生まれては死し、永遠に連続するのが生命の本質である。
             開目抄上

       第二十章 爾前迹門の二失を顕わす

本文(一九七㌻一一行~一九八㌻三行)
 此等の経経に二つの失(とが)あり、一には行布(ぎょうふ)を存するが故に仍(な)お未だ権(ごん)を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成(しじょう)を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり、此等の二つの大法は一代の綱骨(こうこつ)・一切経の心髄なり、迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失(とが)・一つを脱れたり、しかりと・いえども・いまだ発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)せざれば・まこと(実)の一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし・根なし草の波の上に浮べるにに(似)たり。
 本門にいたりて始成正覚(しじょうしょうかく)をやぶれば四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕(あらわ)す。此(こ)れ即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備(そなわ)りて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし、かうて・かへりみれば華厳経の台上十方・阿含経の小釈迦・方等般若の金光明経の阿弥陀経の大日経等の権仏等は・此の寿量の仏の天月しばらく影を大小の器にして浮べ給うを・諸宗の学者等・近くは自宗に迷い遠くは法華経の寿量品をしらず水中の月に実の月の想いをなし或は入って取らんと・をもひ或は縄を・つけて・つなぎとどめんとす、天台云く「天月を識(し)らず但池月(ちげつ)を観ず」等云云。

通解
 これらの爾前の経々には二つの失(とが)がある。一には十界の中に差別を設けて、二乗は作仏せず等と説くゆえに、いまだ権(ごん)を開せずといって、迹門の一念三千を隠している。法華経迹門にいたれば、法界はすべて一味平等となり、二乗も作仏(さぶつ)するゆえに権を開して実(じつ)を顕わすとなすのである。二にはインドに生まれて成仏したというゆえに、なおいまだ迹を発せずとて、本門の久遠・常住の生命観をかくしている。この二つの大法は、一代仏教の綱骨(こうこつ)であり一切経の心髄である。迹門方便品は一念三千を諸法実相に約して説き、また二乗作仏を説いて、爾前経の二種の失(とが)のうち一つを脱れた。しかりとはいいながら、いまだ迹門では、仏の本地をあらわしていないゆえに、本有常住(ほんぬじょうじゅう)の生命の実体を説き明かしていない。すなわち発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)していないから、生命の実体が不明で、真実の一念三千もあらわれず、二乗も作仏すべしと説かれたものの、本有常住の十界互具の生命が説かれていないから、仏の生命も九界の生命もその実体が不明で、したがって二乗作仏も不定である。たとえていえば、一念三千を説いたけれどもそれは理の上で説いたに過ぎないから、水面に浮かぶ月影のようなもので、形はそのとおりであるが、実体そのものではないのである。また二乗が作仏するといっても、仏界・九界ともにその本体を説かれてないので、根なし草が波の上に浮んでいるごとく、現在において成仏するというだけで、その原因も過去世の下種もわからないから、「定まらず」とおおせられるのである。
 さて、法華経の本門にいたりて、釈尊は五百塵点劫のその昔に成仏したと説いたので、それまでに多数の経々で説いて来た応身・報身等、すべての仏身はみな打ち破られたのである。なぜなら、それらの仏身は、いかに荘厳な姿に説かれていても、みなインドで修業し、この世で成仏したと説いているからである。このように、寿量品以前の経で説いてきた仏――因果に約すれば九界が因で仏界が果である――を打ち破ったのであるから、それらの経に説いている成仏のための修業すなわち因も打ち破られてしまった。爾前・迹門の十界の因果をこのように打ち破って、本門の十界の因果を説きあらわした。これすなわち無始無終の、永遠に存在する十界を説きあらわすところの、本因本果の法門である。地獄や菩薩等の九界も、無始常住の仏界に具わっており、仏界も別世界の存在ではなくて、無始常住の九界に具わって、これこそ真の十界互具・百界千如・一念三千である。
 かくて爾前経で説かれた仏はどうか、とかえりみるならば、華厳経で説く蓮華蔵世界の中台(ちゅうだい)とか十方台葉(だいよう)の化仏、阿含経で説く丈六(じょうろく)の小釈迦、あるいは方等・般若や金光明経や、阿弥陀経や大日経等に説かれている権仏(ごんぶつ)等は、この寿量品の本仏が迹を垂れて示現(じげん)しているのであって、天の月がしばらく大小の器の水に影を浮べているようなものである。しかるに、諸宗の学者等は、近くは自宗の開祖や先輩たちの邪言に迷い、遠くは法華経寿量品を知らないのである。そして、水にうつる月影が本物の月かと思い、あるいは、水の中へ入って月を取ろうとし、あるいは縄をつけてつなぎとめようとしている。天台は、このように本仏に迷って迹仏に執着する者をさして「天月を知らないで、ただ池の月を観ている」と言っている。

語訳
行布(ぎょうふ)
 差別の意。本来、行布とは菩薩の位を五十二位に分けて、次第に行列布置(ぎょうれつふち)して差別を設ける意味。転じて、ここでは、爾前経において、二乗が作仏(さぶつ)できないとして、二乗の衆生を差別していることをさす。日寛上人は、三重秘伝抄に 「行布とは即ち是れ差別の異名なり。所謂(いわゆる)昔の経経には十界の差別を存するが故に仍(なお)未だ九界の権を開せず。故に十界互具の義無し、故に迹門の一念三千を隠せりと云うなり」(『六巻抄』二十五㌻ 聖教新聞社刊)と釈されている。

発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)
「迹を発(ひら)いて本を顕す」と読み下す。迹(衆生を教え導くために現した仮の姿)を開いて、本地(ほんじ)(本来の境地)を顕すこと。①法華経如来寿量品第十六において、釈尊が始成正覚(しじょうしょうがく)という迹を開いて久遠実成(くおんじつじょう)という本地を顕したことを、天台大師智顗が説明した言葉。②さらに、日蓮大聖人の発迹顕本とは、御自身が竜の口の法難を機に、宿業や苦悩を抱えた凡夫という迹を開き、生命にそなわる本源的な慈悲と智慧にあふれる仏(久遠元初(くおんがんじょ)の自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい))という本地を凡夫の身のままで、顕されたことをいう。

華厳経の台上十方
 華厳経の仏をさして述べられたことば。すなわち華厳経では、盧舎那(るしゃな)報身仏が蓮華蔵世界の中台(ちゅうだい)に坐し、蓮華の千葉(せんよう)上に千釈迦、その葉中(ようちゅう)に百億の小釈迦がありとする。

講義
「一念三千もあらはれず」等の文について

 寛記には、迹門に一念三千を説くといえども二失があり、いわく本無今有(ほんむこんぬ)と有名無実(うみょうむじつ)であると。まず本無今有については、いまだ発迹(ほっしゃく)していない、すなわち迹を垂れているので今有(こんぬ)である。いまだ顕本(けんぽん)していない、すなわち本地下種等が不明であるがゆえ本無(ほんむ)である。仏界がすでに本無今有のゆえに九界もまたそうである。これについては、
 十法界事に
「迹門には但是れ始覚(しかく)の十界互具を説きて未だ必ず本覚本有(ほんがくほんぬ)の十界互具を明さず故に所化(しょけ)の大衆能化(のうけ)の円仏皆是れ悉く始覚なり、若し爾(しか)らば本無今有の失(とが)何ぞ免るることを得んや」(四二一㌻)
 この御文を合わせ拝すべきである。また迹門の一念三千はなぜ有名無実であるかといえば、迹門の中に一念三千の名を挙げているが、一念三千の義がない。ゆえに、
 十章抄に
「一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分(ぎぶん)は本門に限る・爾前は迹門の依義判文・迹門は本門の依義判文なり、但真実の依文判義は本門に限るべし」(一二七四㌻)
 以上によって、迹門には久遠実成をいまだ説かず、したがって真実の一念三千も顕われていないことを知るべきである。つぎに

「二乗作仏も定まらず」の文について

 同じく寛記に、日寛上人はつぎのごとくおおせられている。迹門の二乗作仏は本無今有(ほんむこんぬ)であり、また有名無実(うみょうむじつ)であるがゆえに「定まらず」とあそばされている。迹門の二乗作仏はなぜ本有今有であるかというに、種子を覚知するを作仏(さぶつ)と名づけるのであるが、迹門においては根源の種子を覚知していないがゆえに、すなわち、
 本尊抄に
「久種を以て下種と為し大通前四味迹門を熟と為して本門に至って等妙に登らしむ」(二四九㌻)
とおおせられたがごとく、迹門には久遠の下種を明かされてない。ゆえに本無である。しかるに、一方では二乗作仏すべしと説き示しているがゆえに今有である。寿量品の「本心を失う」とは籤(せん)六に「本所受(ほんしょじゅ)を忘る故に失心と曰(い)う」とあるごとく、迹門にはいまだ本心に還帰(げんき)しておらないのである。
 つぎに二乗作仏はなぜ有名無実であるかというに、三惑を断ずるを成仏となす。しかるに、迹門の二乗はいまだ見思(けんじ)を断じてないから、まして無明を断じていない。すなわち本源の種子に迷っているゆえに見思惑であり、かつ無明惑に陥っている証拠である。
 つぎの御文について「水中の月を見るがごとし」とは、真実の一念三千があらわれざるにたとえ、「根なし草の波の上に浮かべるににたり」とは二乗作仏の定まらざるにたとえられている。これについて、日寛上人はつぎの歌を引用している。すなわち天台は玄七にいわく、「天月を識(し)らず、ただ池月(ちげつ)を観ず」と。天月は本門で、池月を迹門にたとう。天月を識らずとは本無であり、ただ池月を観ずるとは今有(こんぬ)である。慧信僧都(えしんそうず)の歌に「手に結ぶ水に宿れる月影の、有るか無きかの世にも住むかな」と。つぎに根無し草とは浮草のことである。小野小町の歌にいわく「侘(わ)びぬれば身を萍(うきぐさ)の根を絶えて、誘う水有らんば往(い)なんぞと思う」と。すなわち二乗作仏がこのうきぐさのごとく浮浪(ふろう)して定まらないとのたとえ、また小野小町は「蒔(ま)かなくに何を種とて萍の、波の畝畝(うねうね)生い芿(しげ)るらん」と。上の句が本無であり、下の句は今有であると。このように日寛上人は古歌を引用されているが、小野小町といえば、平安朝の貴族社会を代表する妖麗淫蕩の美女で、しかも小町の心がわびしいから誘う水が有れば、どこへなりと往(ゆ)こうと思うとのごとき恋歌を引用して、迹門の二失をあらわされていることは、じつにおもしろいことではないか。(以上は三重秘伝抄にあり)
 ここにおいても、また古来幾多の謬解(びゅうげ)がある。日講(不受不施派であり教義は本迹一致)はその著・啓蒙(けいもう)に未だ発迹顕本せずの「未」の字は本迹一致の証拠である、すでに顕本しおわれば迹即(そく)本となるがゆえに、といっている。しからば「未顕真実」の「未」の字は権実一致の証拠であるのか。すでに真実があらわれおわれば権即実なるゆえに、という非難に対し、日講はかさねていわく「そのような権実の例難は僻案(びゃくあん)のいたりである。もし必ず一例ならば、宗祖はどうして予が読む所の迹門と名づけて弥陀経を読まないのか」と。すなわち本迹は一致であるが、権実は相違があると、強弁しているのである。このような日講の例難ははなはだ非である。権実・本迹はともに法体に約していうのであり、時代は異なっても、その法体はつねに定まって勝劣がある。読誦は修業に約すのであって、時にしたがい機にしたがって万差である。日講はこれをすら混同してしまったのである。
 また日講は、二乗作仏についても本迹一致を立てている。啓蒙にいわく「二乗作仏の下(しも)に多宝仏・分身仏がこれを真実であると証明しているから、いまだ発迹顕本しなくても、真の一念三千があらわれ二乗作仏も定まっているのである。しかるに今、開目抄で真の一念三千があらわれず二乗作仏も定まらずとおおせられるのは、久成をもって始成を奪うのであり、その元意(がんい)は天台過時(かじ)の迹を破られたのである」と。このような論議はまったく宗祖大聖人の教えに背く大罪である。なぜならば、迹門において多宝・分身が真実なりと証明したことは、権実相対の上に迹門真実と立てられたのである。ゆえに「此の法門は迹門と爾前と相対して云云」(一九五㌻)とのごとくおおせられたのである。「まこと(実)の一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず」とは本迹相対して迹門を破られた御文である。このように、同じ法門でも、所対にしたがって不同があるのである。ゆえに内外相対して論ぜられる時には「此の仏陀は三十成道より八十御入滅にいたるまで五十年が間・一代の聖教を説き給へり、一字一句・皆真言なり一文一偈・妄語にあらず……一代・五十余年の説教は外典外道に対すれば大乗なり大人の実語なるべし」(一八八㌻)等とおおせられるのである。爾前に対すれば、迹門は真実とおおせられるは当然のことである。
 また啓蒙の中に本迹相対を会(え)して「本化の菩薩の知見(ちけん)に約すれば元来が一致の妙法である。しかるに諸文の中には、本迹の起尽(きじん)を明かすは機情移転に約する一往の義である。再応は本迹一致である」と、これもまた大きな誤謬(ごびゅう)である。日寛上人はつぎの四義によってこれを破折されている。すなわち第一には、釈迦仏在世の弟子は遠近(おんごん)に迷っていたが、本化の菩薩は本迹ともに明らかに知っておられた。これは妙楽の釈に明らかである。第二に、大聖人は一代諸経の浅深勝劣はもっぱら法華経の明文によって判じられているのに、日講はなぜ本迹相対を機情昇進に約すというのか。第三に、宗祖大聖人はつぎのごとくおおせられている。(如説修行抄五〇二㌻の要旨)「日本国じゅうの諸人は、諸乗も一仏乗と開会(かいえ)すれば、いずれの法もみな法華経にて浅深勝劣はないといっている。日蓮がいわく仏法を修行せん人は仰いで仏の金言を守るべきである。無量義経には四十余年未顕真実」と、権実相対すら、かくのごとくおおせられている。まして本迹相対においても、大聖人の御正意は明らかである。寿量品には「如来誠諦之語(にょらいじょうたいしご)」「楽於小法(ぎょうおしょうぼう)」「我実成仏」等々とあって、すべて爾前・迹門を打ち破られた御文である。なぜ日講は機情移転というのか。第四に、たとえ開会(かいえ)した迹門といえども、なお体内の本門にはおよばない。ゆえに十章抄にいわく「設(たと)い開会をさとれる念仏なりとも猶(なお)体内の権なり体内の実に及ばず」(一二七五㌻)と。また十法界事にいわく「本門顕れ已(おわ)りぬれば迹門の仏因は即ち本門の仏果なるが故に天月水月本有(ほんぬ)の法と成りて本迹倶(とも)に三世常住と顕るるなり」(四二三㌻)と。すなわち三世常住の水月は三世常住の天月におよばずとの御意(こころ)である。顕本已後本迹一致なりというのか。

「本門にいたりて始成正覚をやぶれば」等の文について

 寿量品において「然善男子(ねんぜんなんし)・我実成仏(がじつじょうぶつ)」等の文が始成正覚を破る文である。十界の因果とは、十界各具の因果ではなくて、九界を因とし仏界を果とする因果である。蔵教・通教の中にも、依法はただ六界を明せども正報には十界を明かしているが、別円をも含めた四教の因果をことごとく破っているのである。

「九界も無始の仏界」等の文について

 寿量品に、本果の常住を説いて「我実成仏已来無量無辺」等といい、本因常住を説いて「我本行菩薩道所成寿命今猶未尽」等と、本有常住の十界互具を説いている。これが真の事の一念三千である。しかし、文底下種・直達正観の事行の一念三千に対する時は、文上の法華経は迹本二門ともに理の一念三千となるのである。本文の元意はじつにここにあり、詳しくは三重秘伝・種脱相対の項で論ずるごとくである。
 

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