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        金吾殿御返事(大師講御書)

     第四章 諌暁への反応なきを訝(いぶか)る

本文(九九九㌻七行~九九九㌻一二行)
 これほどの僻事(ひがごと)申して候へば流(る)・死(し)の二罪の内は一定(いちじょう)と存ぜしが・いままでなにと申す事も候はぬは不思議とをぼへ候、いた(至)れる道理にて候やらむ、又自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)の経文も値(あう)べきにて候やらむ、山門なんども・いにしへ(古)にも百千万億倍すぎて動揺とうけ給わり候、それならず子細ども候やらん震旦(しんたん)・高麗(こま)すでに禅門・念仏になりて守護の善神の去るかの間・彼(か)の蒙古に聳(したが)い候いぬ、我が朝も又此の邪法弘まりて天台法華宗を忽諸(ゆるがせ)のゆへに山門安穏ならず師檀違叛(しだんいはん)の国と成り候いぬれば十が八・九はいかんがと・みへ候。

通解
 これほどの、(為政者や諸宗の僧らにとってみれば)道理に合わないことを申し上げているのだから、流罪か、死罪か、その二罪のうちのいずれかには必ず処せられることは決まっている、と思っていたが、今まで何ということもないのは、不思議であると思う。(日蓮大聖人の主張が)最上・究竟の法理であるのではないだろうか。
 また、(他国侵逼難が起こるとの予言が的中したのであるから)自界叛逆難が起きるとの経文も符号するであろう。比叡山延暦寺なども、過去(の山門派と寺門派の抗争の時の動揺)よりも百千万億倍過ぎた動揺である、とうけたまわっている。
 それどころではない、深い理由などがあるのではないだろうか。震旦(中国)や高麗(朝鮮半島)は、すでに禅門(禅宗)・念仏(浄土宗)になって、守護する善神が去ってしまったので、かの蒙古に征服され、従えさせられてしまった。
 わが日本もまたこの邪法がひろまって天台法華宗を軽んじたり、なおざりにしている故に、山門(比叡山延暦寺)も安穏でなくなった。出家の師に対し檀那がそむく国となっているのであるから、十のうちが八、九はどうであろうか(日本国も蒙古に攻め滅ぼされてしまうのではないだろうか)とみえる。

語訳
震旦(しんたん)
 中国の歴史的呼称。梵語チーナスターナ(Cīna₋sthāna)の音写。真丹、真旦とも書く。チーナは秦の音写。スターナは地域・場所の意。古代インド人が秦(中国)を指した呼称。おもに仏典のなかで用いられた。

彼(か)の蒙古に聳(したが)い候いぬ
「聳」は、①そびえる、そびえ立つ、②おそれる、おそれおののく、との意味をもつ文字ではあるが、ここでは、したがう(従う)との意味で用いられている。かの蒙古に征服され、従えさせられ属国となってしまった、との意。

忽諸(ゆるがせ)
「忽(こつ)」は、軽んじたり、ゆるがせにすること。「諸」は助辞(漢文で、文の組み立てを助ける付属語)。「忽諸」で「こっしょ」と読み、忽とほぼ同意で、なおざりにあつかうこと。 

講義
 まず、大聖人がたびたび諌暁されたことについて「これほどの僻事(ひがごと)」といわれている。大聖人にとって「僻事」であるのではもちろんない。幕府要人や他宗の高僧らにとっての僻事である。他宗が主張してきた教義がすべて誤りであること、特に安国論では、念仏が今の日本の惨憺(さんたん)たる状況の根本原因であること、そして彼らを信じ、大聖人をないがしろにしてきた幕府が、その誤りを助長してきたことを、大聖人は指摘されたのである。したがって、これはまさに、彼らにとって「僻事」以外の何物でもない。その故に大聖人はこういわれているのである。
 鎌倉幕府は京都に文化的に対抗するためと、仏教尊崇が一国繁栄の基盤となると信じて、禅宗、真言宗、念仏宗等に手厚い保護を加えてきた。しかし、それこそ仏教混乱のもとであり、国内は混乱し、他国には攻められ、天災地変はその度を増して、日本は地獄に堕すること疑いないとまでいわれたのであるから、流罪、死罪にあうのは当然であろうと思ってきたのに、今まで何ということもなくきているのは、不思議という以外にないと仰せられている。流罪・死罪は必ずあると思ってきたといわれているのは、そうなることを覚悟されたということである。というより、それを予期されていたということである。
 ところが、案に相違して「いままでなにと申す事も候はぬ」状態であると仰せである。大聖人は弘長元年(一二六一年)に伊豆に流罪されている。ここでは伊豆流罪の後の諌暁(かんぎょう)、すなわち、本抄前年の十一通の書状をもっての諌暁、および本抄直前の、重ねての諌暁に対する幕府等の反応についていわれているのである。
 このように反応がない理由として、大聖人は「いたれる道理にて候やらむ」といわれている。すなわち、大聖人の主張がいちいちもっともで、かつ公場対決要求という正々堂々としたものであった故に、彼らもどう対応すべきか悩んでいるのであろうか、との仰せである。
 また安国論で予言された二難のうちの他国侵逼難(たこくしんぴつなん)は、蒙古からの国書到来で現実となったのであるから、残りの一難すなわち「自界叛逆難の経文も値(あう)べきにて候やらむ」といわれている。この予言も本抄御執筆後二年ほどして北条時輔(ときすけ)の乱が起こって現実となるのであるが、彼らにとって、他国侵逼が既に現実化しつつあるだけに、さらに自界叛逆難が起きたら大変だという恐怖にとらわれているのであろうとの御指摘と拝される。
「山門なんども・いにしへ(古)にも百千万億倍すぎて動揺とうけ給わり候」と、比叡山の天台宗も騒然としていた様子がうかがえる。「いにしへにも百千万億倍すぎて」の「いにしえ」とは、天台宗山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺)の争いで、天台宗は、智証のころから、慈覚派(山門派)と智証派(寺門派)に分かれて対立し、伝教大師滅後百五十年ぐらい経(た)つころには双方が武力をもって抗争を繰り返すなど、険悪な状態であった。教義のうえで、理同事勝という邪義に染まったばかりか、武力抗争に陥るという、まさに「土泥(どでい)(一〇二三㌻)」の状態となったのである。大聖人は祈禱抄で「叡山の僧徒の薗城(おんじょう)山門の堂塔・仏像・経巻数千万をやきはらはせ給うが、こと(殊)におそ(恐)ろしく、世間の人人もさわ(騒)ぎうと(疎)みあへる」(一三五二㌻)といわれている。それにも増して動揺しているというのであるから、かなりの動揺が起こっていたのであろう。そうした動揺の根底には、もっと深い子細(しさい)があるのであろう、と仰せである。大聖人は、その原因を禅宗・念仏等の邪法によるといわれている。
 天台宗は中国の天台大師智顗(ちぎ)によって確立された宗であるが、中国等では、禅宗や浄土教が広まった。法華経に基づく天台宗に背いた故に、守護の諸天善神は国土を捨て去り、中国は蒙古に従うはめになったとの仰せである。日本もまた、禅・念仏等の邪法が広まり、天台法華宗をないがしろにしている故に、比叡山は安穏でなくなった。大聖人は天台宗について、本抄御執筆以前にも、慈覚や智証によって伝教大師の正義(しょうぎ)は失われていると指摘されているが、ここでは法華経を受持する正統の宗として、禅や念仏と対比されておられるかのようである。しかし、これらの邪法が広まった故に比叡山も安穏でなくなったとの記述は、正統の宗でありながら、邪法の跋扈(ばっこ)を破ることができず、謗法と同じてしまっている故に、まず自らが安穏でなくなったと大聖人は指摘されているのである。さらにいえば、禅、念仏という当時の新興仏教そのものが比叡山天台宗から派生したもので、それらが在家の貴族や武士、庶民の間に広まり、天台法華宗への軽視を招いていたのである。
「師檀違叛(しだんいはん)」とは、直接的には、一往は天台法華の教えを「師」すなわち出家の僧たちは守ろうとしても、「檀」すなわち在家信徒たちが禅宗や念仏宗に心を移し、「師」と「檀」がばらばらになってしまっている、つまり「自界叛逆難」に遭(あ)っているということである。しかし、再往は、出家・在家ともに、正法「違叛」になっているため、「十が八・九はいかんがと・みへ候」と、日本は累卵(るいらん)の危うき(※)にいると、大聖人は警告されている。日本の行く末を案じられる大聖人の御心情が溢れている御文である。
(※いくつも積み重ねた卵の意で、危険な状態にあることの譬え)
        金吾殿御返事(大師講御書)

      第三章 十一通御書に続く再度の諌暁

本文(九九九㌻五行~九九九㌻七行)
 抑(そもそも)此の法門の事・勘文(かんもん)の有無に依つて弘まるべきか弘まらざるか・去年(こぞ)方方(かたがた)に申して候いしかども・いなせ(否応)の返事候はず候、今年十一月の比(ころ)方方(かたがた)へ申して候へば少少返事あるかたも候、をほかた人の心もやわらぎて・さもやとをぼしたりげに候、又上(かみ)のけさん(見参)にも入りて候やらむ。

通解
 そもそも、この法門(日蓮大聖人の仏法、南無妙法蓮華経)のことは、諌暁の書(立正安国論)での予言(大聖人の正法を用いなければ、他国侵逼難と自界叛逆難が起きる)が現実になるか、それとも現実にならないかによって、弘まるか、それとも弘まららないか(が決まる)。(蒙古から牒状が届いた)昨年(文永五年)、何人かの人に申し上げたが(十一通の書状を送って法論対決を求めたが)、拒絶とも承諾とも、いずれとも返事がない。(蒙古から再度の牒状が届いた)今年(文永六年)の十一月ごろに、何人かの人々に申したところ、少々、返事をくださる人もいる。ほとんど、人の心(大聖人に対する反発)も穏やかになって、そのとおりかもしれない、と思われたかのようである。また、執権殿の目にも入ったのかもしれない。

語訳
勘文(かんもん)
「かもん」「かんがえぶみ」とも読む。朝廷や幕府の諮問に対して、諸道の学者等が先例や故実などを調べ考えて意見を上申した書。大聖人にあっては、仏法の道理と実証の上から述べた意見・諌暁の書を指してもいう。具体的には立正安国論のこと。

いなせ(否応)
「いな」は否定、不承知。「せ」は「さ(然、然り)」の変化した語で、肯定、承知、承諾の意。

講義
「此の法門の事・勘文の有無に依つて弘まるべきか弘まらざるか」の「此の法門」とは、もちろん大聖人の文底独一法門である。末法の衆生は三毒強盛(ごうじょう)であるうえ一国謗法に染まっているから、大聖人の仏法を素直に信じる状況にない。そこで、予言の的中によって人々を正法に目覚めさせようとされたのである。「此の法門」が「弘まるべきか弘まらざるか」は「勘文の有無」によるとの仰せである。勘文とは、文応元年(一二六〇年)に出された立正安国論である。勘文は普通、朝廷とか幕府が諮問し、それに応じて出される「勘(かんが)えぶみ」である。しかし、大聖人の場合、幕府等の諮問の有無とは関係なく、一国を安穏ならしめるために自ら勘えられた文なのである。あえていえば、大聖人が一国ひいては閻浮提を安穏にする方途は何かを自らに諮問され、結論として出された文であるといえよう。
 大聖人は安国論のなかで「経文に照らしてみれば、一国が謗法をおかしている故に災難が起きていることが明らかである。ところが経文に記されている災難のなかで、たとえていえば、薬師経の七難のうち五難は既に起こっているが、残りの自界叛逆難、他国侵逼難はまだ起こっていない。一国謗法という根源を改めない限り、残りの二難が起こるのもまた必定(ひつじょう)である」として、この二難が起こることを予言されたのである。
 この二難が起こるか否か、すなわち勘文の「有無」が大聖人の仏法が広まるか否かの分かれ目となる。自界叛逆・他国侵逼の二難とも、一国にとっては大難である。特に、他国侵逼難は、日本にとって、開闢(かいびゃく)以来、経験したことのない難である。それだけに、人々にとっては信じがたい予言・警告であったと思われる。しかし、経文のとおりであるならば、仏法が正しいならば、必ず事実となるにちがいない。難の起こることを願うのではもちろんないが、一国を救うためには、仏法の正しさを実感させなければばらない。それをとおして、日本にいま広まっている諸宗は謗法の邪義であるとの大聖人の主張が受け入れられ、それによって大聖人の仏法が広まり、その立正によって安国となるのである――この思いから、大聖人は厳然として勘文のなかで二難の予言をされたのである。
 はたして、文永五年(一二六八年)閏(うるう)一月、蒙古の使者が太宰府に到着し、通交を要求してきた。形は通交要求であるが、実質は隷属を迫ってきたのである。日本は騒然とした。まさしく、大聖人の他国侵逼の予言が的中したのである。こうして大聖人の予言が的中したのであるから、すぐにでも大聖人への諮問があって当然であった。しかし、幕府は大聖人に対して黙殺の態度を変えなかった。大聖人は九月まで待たれ、十月十一日、北条時宗、平左衛門尉、極楽寺良観など、幕府要人、各宗の高僧らに十一通の諌状を出された。それをここでは「去年方方に申して候いし」と仰せである。
 ところが、またしても、大聖人の赤誠あふれる諌暁に、彼らは黙殺を続けた。「いなせ(否応)の返事候はず候」とあるように、大聖人の仰せを尊重するとか、検討するという返事がなかったばかりか、はっきりとした否定もしなかったのである。公場対決を迫られる大聖人に、たとえ拒絶にしても反応を示す以上、その理由をいわないわけにはいかない。良観らがそれに恐れをなし、自ら無視するのは当然、幕府高官らにも無視するよう働きかけたであろうことは、容易に想像できる。
 ところが、幕府が煮え切らない態度をとっているあいだに、翌文永六年(一二六九年)三月、蒙古の使者が再びきて、返事を要求し、さらに対馬の島民を拉致(らち)するという事件が起こった。続いて九月には高麗の使者がきて、この時、先に拉致した島民は返したが、最後通牃ともいうべき国書を伝えたのである。事ここに至って、大聖人は再度の諌暁(かんぎょう)を思い立たれた。それが本抄で述べられている「今年十一月の比(ころ)方方へ申して候へば」である。この諌暁については、本抄以外に具体的な記述が残されていず、どのような相手に出されたのかなども明確ではない。「十一月の此(ころ)」という時期と、「少少返事あるかたも候」という、前回に比べ、少しは反応があったということが分かるにすぎない。
 この、反応が少しはあったということが、だれからのものであるかはもちろん分からないが、度重なる蒙古の通牃が、大聖人の主張に耳を傾けさせることになったのであろう。「又上(かみ)のけさん(見参)にも入りて候やらむ」という記述からみると、上(かみ)、すなわち、北条時宗らへの取り次ぎ役であった宿屋左衛門光則(みつのり)などからの反応があったのかもしれない。ただし、そのような変化があったにもかかわらず、その後、大聖人に特別の、諮問や反論等があったという記録はない。心ある人は大聖人に対して素直になりかけていたのだろうが、良観等の策謀がそれが実を結ぶのを妨げたのであろう。
 ところで、大聖人は先(本抄第一章)に挙げた上野殿母尼御前御返事で「明年は世間怱怱(そうそう)なるべき」(一五一五㌻)と仰せられている。止観五の購読はそのためであったが、事実、大聖人が止観五を講じられている最中の、ちょうど文永七年(一二七〇年)一月十一日に、蒙古船が対馬までやってくるという事件が起こったのである。もし、国書を受け入れなければ、武力行使も辞さないという示威行為である。まさに「世間怱怱」が事実となったのである。
 こうして翌文永七年は波乱の度を増し、それにともなって大聖人およびその門下の弘教の戦いも激しさを増し、それに対する諸宗および幕府要人らの反応として文永八年(一二七一年)の竜の口法難・佐渡流罪へと事態は推移していくのである。
        金吾殿御返事(大師講御書)

        第二章 大師講への供養を謝す

本文(九九九㌻四行~九九九㌻四行)
 大師講に鵝目(がもく)五連給(たび)候い了(おわ)んぬ、此の大師講・三四年に始めて候が今年は第一にて候いつるに候。

通解
 大師講に際して、鵝目を五連、御供養として確かに頂戴した。この大師講は、三、四年前から始めたものであるが、今年は(そのなかでも)第一の盛大さである。

語訳
大師講
 天台大師の命日である十一月二十四日に営まれた法会(ほうえ)のこと。一往は、天台大師への報恩謝徳のための法会ではあるが、再往、日蓮大聖人は、法華経、摩訶止観を講ずるなかに正法の弘通を図るとの意義から、営まれたものと考えられる。佐渡流罪によって途絶えたが、文永十年(一二七三年)九月のころ、日昭に命じて再開され、身延入山後も行なわれたようである。大聖人の御入滅後は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぐ立場から、大師講を営む意義はなくなった、といえよう。

鵝目(がもく)
 鎌倉時代に使われていた通貨のこと。普通は銭といったが、鵞目(がもく)、鳥目(ちょうもく)、青鳧(せいふ)ともいった。当時流通していた孔(あな)のあいた通貨の形が鵞鳥(がちょう)の目のようであるところから、こう呼ばれた。日蓮大聖人御在世当時は、奈良・平安時代ころに輸入された唐宋銭が使用されていた。唐銭では開元通宝・乾元重宝(けんげんじゅうほう)、五代十国時代の後漢の漢元通宝・南唐の唐国通宝、宋銭では宋元通宝・太平通宝・景徳元宝・祥符元宝・祥符通宝等である。なお、御真筆には「鵞」とあり、鵝と鵞とは字体は異なるが同字である。

五連
「連」とは、一つに連ねたものなどを数える時の単位。鎌倉時代には、鵝目などの穴のある通貨は、ひもなどを通して、複数個をひとまとまりにする風習があったことが知られている。一連のほか、一結(ゆい)、一さし、ともいわれた。妙密上人御消息には、御供養として「青鳧(せいふ)五貫文給い候い(中略)青鳧五連の御志」(一二三七㌻・一二四一㌻)とある。この御文からすると、一連には青鳧(鵝目)が千枚(千文・一貫文)束ねられていたと考えられる。すなわち本抄では、五連で五千枚(五千文・五貫文)となる。また、「青鳧二結(ゆい)(中略)銅銭二千枚」(乗明聖人御返事・一〇一二㌻)、つまり青鳧(鵝目)が千枚で一結とする御文がある。ただし、これに対して、当時は一連に百枚ずつ束ねられていた、とする説もある。
〈追記〉
 昔の銭の数え方では、十文を「一疋(いっぴき )」といい、百文を紐で束ねて「一連」または「一結(ゆい)」と称した。「一貫文」は、百枚(百文)ごとに束ね、十束(一千文)としたもの。

講義
 大師講への「鵝目五連」の御供養を受け取った旨を最初に述べられている。大師講は、第一章でも述べたとおり、天台大師智顗(ちぎ)の命日である十一月二十四日に営まれた法会である。天台宗では伝教大師最澄が初めて行い、以後、定期的に、天台大師への報恩の意義を込めて法華経や止観等の講説や供養を行った。大聖人もこれを踏襲して行われたと思われるが、大聖人における大師講は、当然、天台宗で行っていたそのままとは異なり、下種仏法から天台仏法を捉えてのものであったと思われる。大師講を縁として末法に弘める法を教えていかれたのであろう。
 本抄では「此の大師講・三四年に始めて候が今年は第一にて候」と仰せられている。文永六年(一二六九年)の「三四年」前というと、文永二年(一二六五年)、文永三年ごろということになる。このころに大師講を始めたと仰せられているわけである。ただ本抄と同年の御著作とみられる富木殿御消息に「大師講の事今月明性房にて候が此月はさしあい候」(九四九㌻)とある。この書は日付が「六月七日」となっており、月一回、持ち回りで行われていたようである。この書からも、大師講がかなり定着して行われていたことがうかがわれる。本抄での大師講は「今年は第一にて候」との仰せからも分かるように、月例のものではなく、年一度の大師講で、しかも、これまでで最も盛大なものになったと仰せられているのである。年々、充実していったのであろう。蒙古の牃状がきて、立正安国論で予言された自界叛逆・他国侵逼の二難のうち他国侵逼の難が現実味を帯び、前年の十一通御書の提出等、大聖人の諌暁が次々と行われ、門下の弘教の活動も活発となっていたであろうことが、この御記述からも拝することができる。なお、この大師講は大聖人が入滅される直前まで行われていたと思われる。弘安四年(一二八一年)の地引御書に「二十四日に大師講並びに延年(えんねん)心のごとくつかまつりて」(一三七五㌻)とある。ちなみに「延年」とは法会のあと仏をたたえて僧が舞ったもので、「延年舞」ともいう。
 さて、この大師講に大田乗明が「鵝目(がもく)五連」を御供養したとある。「鵝目」は孔(あな)あき銭の通貨である。それを「五連」御供養されたということである。五連とは五つの連なりで、連は銭に紐を通して一塊(かたまり)にしたものである。百枚を連ねたもの、千枚のものなどがあったようである。これについては妙密上人御消息の冒頭に「青鳧(せいふ)五貫文給い候い畢(おわ)んぬ」(一二三七㌻)とあり、その御供養について「青鳧五連の御志」(一二四一㌻)と仰せられている。青鳧は鵝目(がもく)と同じ意である。すなわちこの場合「五連」は「五貫文」の意で、貫は千であるから、五千枚ということになる。他に乗明聖人御返事に「青鳧二結(ゆい)」(一〇一二㌻)とあってこの御供養について「銅銭二千枚」(同㌻)と注釈されているから、「連」も「結」も、大聖人の場合は千枚をあらわすことが多かったようである。門下からの金銭の御供養は他の御書を拝しても、「五連」は五貫文と考えてよさそうである。五貫文が現代の通貨でどの程度に相当するかは、当時の通貨価値の変動が激しく、かつ現代においても変動があるのは当然であるから、にわかに確定はできないが、かなりの高額になることは疑いない(※)。大師講に対してこのように多額の御供養がされていることから、大聖人門下は、この大師講を中心として一堂に会し、ここから各地に散って弘教と、在家の人々の指導に当たっていたことがうかがわれる。
〈追記〉
 百錬抄(百練抄とも書き、鎌倉時代後期に成立した公家方の歴史書)に「寛喜三年(一二三〇年)に米一石を銭一貫文に定む」とあり、凶作の年を除いて米一石(百五十㎏=百八十㍑=米二・五俵)が一貫文前後というのが大体の標準だったようである。今日の金額にすれば、鎌倉時代当時の一貫文は、およそ十万円に相当し、五貫文で五十万円ということになる。現在の米価から換算すれば高すぎる、との感があろうが、それは参考にならない。時代が下るにつれて農業技術が進み、作物の収穫量も増進し、米価も下がるのである。「室町時代から戦国時代にかけて、全国的に米価は低廉で、一石=五百-六百文で推移していたことが様々な古文書から判明している」との記述がある(ウィキペディア「米価」より一部抜粋)。
        金吾殿御返事(大師講御書)

        第一章 止観の五を読まれる

本文(御書全集九九九㌻初~九九九㌻二行)
 止観の五・正月(むつき)一日よりよみ候いて現世安穏後生善処(げんせあんのんごしょうぜんしょ)と祈請(きしょう)仕(つかまつ)り候、便宜(びんぎ)に給(たま)わり候本(ほん)・末(まつ)は失(うせ)て候いしかどもこれにすり(修理)させて候多く本(ほん)入るべきに申し候。

通解
 摩訶止観の巻五を、明年の初めの正月一日(元日)から読み始めて、「現世安穏にして、後に善処に生じ」(現世では安穏な境界(きょうがい)となり、未来世においては必ず善処に生まれる)との福徳があるように、と(仏に)祈り請(こ)わせていただこうと思う。
 お便りのついでにお送りいただいた本末は、破損しているけれども、こちらで修理させて使っている。本が、数多く入用であるので、お願い申し上げる。

語訳
止観の五
 止観とは、天台大師が講述した摩訶止観の略称。止観の五とは、摩訶止観の巻五のこと。この巻五には正説の第七・正修章が入っている。後述するように、この正修章に正しく止観修行が明かされ、理の一念三千が説き明かされていることから、大聖人は、摩訶止観の巻五を特に重要視された。摩訶止観は全十巻(各巻に上下あるため二十巻ともする)。天台大師智顗(ちぎ)が荊州(けいしゅう)玉泉寺で講述したのを、弟子の章安大師灌頂(かんじょう)が筆録したもの。法華玄義、法華文句とあわせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂(そうしょう)して法華経の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方規を明かしている。摩訶とは梵語マハー(mahā)の音写で、大を意味し、止とは邪念・邪想を離れて心を一境に止住(しじゅう)する義で、観とは正見(しょうけん)・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華玄義と法華文句が法華経の教相の法門であるのに対して、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書とされる。章安大師はその序に「止観明静(みょうじょう)、前代未だ聞かず」と称賛している。

現世安穏後生善処(げんせあんのんごしょうぜんしょ)
 法華経薬草喩品第五に「是(こ)の諸(もろもろ)の衆生は、是の法を聞き已(おわ)って、現世安穏にして、後(のち)に善処に生じ」(『妙法蓮華経並開結』二四三㌻ 創価学会刊)とある。法華経を信受する衆生の三世にわたる福徳を述べた文。

講義
 本抄は、御書全集では文永七年(一二七〇年)十一月二十八日に、大田左衛門尉乗明(おおたさえもんのじょうじょうみょう)にあてて認(したた)められた御手紙とされている。御真筆は中山法華経寺に存している。
 ただし、本抄冒頭の「止観の五・正月(むつき)一日より」から「多く本(ほん)入るべきに申し候」の部分と、末尾の「いたづらに曠野(こうや)にすてん身を」から最後までは御真筆が現存していない。
 まず御執筆年次であるが、現存している御真筆からだけでは、御執筆の年も、月日もわからない。寂仙房日澄の写本と照合して「十一月二十八日」と日付だけが記載されている。
 文永七年の年次は、古来、いわれているものであるが、御真筆を拝すると、「此の法門の事・勘文(かんもん)の有無に依つて弘まるべきか弘まらざるか・去年方方(こぞかたがた)に申して候いし」(九九九㌻)との記述がある。この「方方に申して候いし」は、文永五年(一二六八年)十月十一日に、北条時宗をはじめ十一か所に出された御状のことを指しておられることは疑いない。それを「去年」といわれているとすれば、本抄御執筆は文永六年(一二六九年)ということになる。そこで本講義録では文永六年の御執筆ということにしておく。
 次に「十一月二十八日」の日付であるが、この部分の御真筆も残っていないので、断定はできないが、御真筆部分の冒頭に「大師講に鵝目(がもく)五連給(たび)候い了(おわ)んぬ」とある。大師講は天台大師への報恩の意をこめて行われる法会で、天台大師の命日である十一月二十四日を中心に行われるものである。他に伝教大師の大師講があるが、大聖人の場合、建治二年(一二七六年)十一月二十九日の富木殿御返事の「鵞目一結(がもくひとゆい)天台大師の御宝前を荘厳し候い了んぬ」(九七八㌻)等の記述から、天台大師のものと推量される。そのほか文永六年六月七日の富木殿御消息に「大師講の事今月明性房にて候が」(九四九㌻)とあり、文永十年(一二七三年)九月十九日の弁殿尼御前御書に「辧殿に申す大師講を・をこなうべし」(一二二四㌻)とあるところから、毎月二十四日に大師講が行われていたと思われる。本抄の大師講は「此の大師講・三四年に始めて候が今年は第一にて候いつるに候」(九九九㌻)と仰せられているところから、毎月のものではなく、年単位のものであることが分かる。また、大師講への御供養に触れられているところからも、十一月二十八日の日付は妥当性がある。
 ただ、前年の十一通の御状に続いて「今年十一月の比(ころ)方方(かたがた)へ」(九九九㌻)と再び書状を出されたことに触れられている。これについては、文永五年に蒙古から初めて国書が到来し、このことから文永五年十月に十一通の御状をもって諌暁(かんぎょう)されたのであったが、立正安国論奥書に「又同六年重ねて牒状(ちょうじょう)之を渡す」(三三㌻)とあるように、再度の国使到来があり、このため、文永六年にも「方方へ申」されたと推察される。ただ、「二十八日」という月末であろうと、十一月の御手紙のなかで、その月に出された書状について「比(ころ)」と、あいまいな表現をされているのは奇異な感がする。しかし、これがたとえ十二月の御執筆としても、あまり事情は変わらないだろうから、「比(ころ)」という表現には他の原因を考えたほうがよい。推測ではあるが、十一通の御状のように同じ日に一斉に出されたのではなく、十月の終わりごろから十一月にかけて、幾度かに分けて少しずつ出されたのではないかと考えられる。
 なお、本抄の終わりのほうに「すでに年五十に及びぬ」(九九九㌻)と仰せられている。本抄御真筆が文永六年とすると四十八歳であられるはずである。たとえ本抄が文永七年の御抄であっても、四十九歳である。文永八年になると大聖人は五十歳になられるが、もし、この「年五十」にこだわって、本抄御執筆を文永八年とすると、十一通の御状に関する表現や、この年には竜の口法難、佐渡流罪が起こっているから、本抄の「いままでなにと申す事も候はぬは不思議とをぼへ候」(九九九㌻)などの御記述と大きく食い違うことになる。したがって「すでに年五十に及びぬ」との御言葉は、五十歳になったといわれているのではなく、「既に五十に近い年になった」の意でいわれているのであろう。そう考えると、そのすぐあとで「余命いくばくならず」(九九九㌻)といわれているのと符節を合するのである。
 本抄御執筆の年次については、以上のような推測から、文永六年十一月二十八日ということにしておきたい。
 次に本抄をいただいた人であるが、末尾に「御返事」(一〇〇〇㌻)とあるだけで、だれという記述はないが、古来、大田左衛門尉乗明であるとされ、これに特別の疑義がさしはさまれたことはない。むしろ、大田乗明とする説は、大師講に際しての御供養の額等からも首肯できるし、冒頭の部分が本抄のものであるとすると、資料の収集について言及されていることも、乗明あてであることを補強するものといえる。

 さて、この端書(はしが)きの御文をどう解するかについては、幾つか説がある。本文のこの部分を、文体等を重視して解すると、次のように解することができる。
「摩訶止観の巻五を、今年の初めの正月一日(元日)から読み始めて、『現世安穏にして、後に善処に生じ』(現世では安穏な境涯となり、未来世においては必ず善処に生まれる)との福徳があるように、と(仏に)祈り請(こ)わせていただいている。お便りのついでにお送りいただいた本末(摩訶止観の巻五と、その注釈書である止観輔行伝弘決)は少々破損してしまったが、こちらで修理させた。本が、数多く入用であるので、お願い申し上げる」
 しかしこのように解すると、「止観の五」以降の文と、「多く本入るべきに申し候」との文との関連が、漠然としてしまう。また、十一か月も前の事柄を記されたことになる。そこで、文意の理解に重点を置いて、「止観の五」から「祈請仕り候」までを未来形と解する考え方がある。この場合、「正月(むつき)一日」を、本抄の御執筆時より約一月後の未来のことと解することになる。また、「便宜(びんぎ)に給わり候」の部分については「便宣に給べく候」とし、後の「多く本入るべきに申し候」の文につなげ、「本」の一つに「止観の五」が含まれると理解するものである。そうすると、この部分は次のような意味になる。
「摩訶止観の巻五を、来年の初めの正月一日(元日)から読み始めて、『現世安穏にして、後に善処に生じ』との福徳があるように、と(仏に)祈り請(こ)わせていただこうと思う。ついては、都合のよい時に本末(摩訶止観の巻五と、その注釈書である止観輔行伝弘決)をお送りいただきたい。本末とも破損していても、それはこちらで修理させよう。本が、数多く入用であるので、お願い申し上げる」
「今年の一月から止観の五を読んできた」というように過去のことをいわれていると拝するか、「明年の一月から止観の五を読もうと思う」というように未来のことをいわれていると拝するかの二つがありうるということである。しかし、過去のこととして拝すると、止観の五を十一か月も前から拝してきたといわれていることになる。もとより大聖人は止観については既に掌中(しょうちゅう)のものとされていたが、翌文永七年から九年にかけて真言宗、禅宗を破折する御抄を集中的に著(あらわ)されていることから拝して、天台摩訶止観の真意を再度確認し、止観の本意を歪めている、これら諸宗の誤りを明確にしようとされたとも考えられる。
 ただ、ここに興味ある別の御文がある。それは建治元年(一二七五年)十二月二十二日の御抄とされる上野殿母尼御前御返事中の御文である。この御抄は御真筆が存している。ここにその御文を引用しておこう。
「止観第五の事・正月一日辰(たつ)の時此れを・よ(読)みはじめ候、明年は世間怱怱(そうそう)なるべきよし・皆人申すあひだ・一向(いっこう)後生のために十五日まで止観を談ぜんとし候が、文(ふみ)あまた候はず候御計(はか)らい候べきか」(一五一五㌻)
 本抄とほとんど軌を一(いつ)にする御文である。時期的にも、十二月二十二日で、同じく年末である。しかも、この御文は、未来のことをいわれていることが明確に見てとれる。「止観第五を正月の辰の刻から読み始めようと思う。明年は世間が騒然とするであろうと皆がいうので、後生のために十五日まで止観を談じようと思うが、文(止観)が多くないので、(収集の)手配をしていただきたい」との意である。
 止観五を読み始める時刻(元日辰の刻)も、日限(一月十五日まで)も明示されている。しかも、本抄に「多く本入るべきに申し候」とあり、上野殿母尼御前御返事には「止観を談ぜんとし候が、文あまた候はず」(一五一五㌻)との御記述があり、止観を講ずるのに、門下もそれらを手にしつつ学べるように、できるだけ多くそろえようとの御配慮と拝される。
 このように、両抄が関連する御手紙だとすると、上野殿母尼御前御返事も建治元年の御抄ではなく、文永六年の御執筆ということになる。その場合、上野殿母尼御前に資料の収集方を依頼されているのは奇異であるが、御真筆を拝すると最後の「上野殿母尼御前御返事」というあて名は本文と字体の年代が異なっており、別々のものが一緒にされたものとする説があって、富木常忍にあてられたものといわれている。同抄中の「母尼ごぜん」は富木殿の母尼御前というわけである。資料の収集は大田乗明や富木常忍、さらには曾谷教信、四条金吾らに依頼されることが多く、もしかすると同様の御手紙が他にも出されていたかもしれない。
 これらのことを勘案して、通解では、本抄冒頭の「止観の五」の部分は、一往、未来のことを仰せられているとして拝しておいた。
 本文に入り、止観の五について述べられている。止観の五は、摩訶止観のうちでも、天台大師智顗(ちぎ)が法華経の諸法実相の文をもって一念三千の法門を打ち立てた重要な個所である。これを正月から大聖人が読まれるということは、もちろん、改めて読まれるとの意であり、そこに説かれる一念三千の法門に心をいたし、それをもって自らの成仏は当然のこと、一切衆生の現世安穏後生善処を祈っていくとの御心が吐露されている。特に上野殿母尼御前御返事を拝すると「世間怱怱(そうそう)なるべきよし・皆人申すあひだ・一向(いっこう)後生のために十五日まで止観を談ぜんとし候」(一五一五㌻)といわれており、他国侵逼難・自界叛逆難の渦巻くであろう世相のなかで、止観を講じて門下が一致団結して自行化他に励み、自身の後生を祈念するのはもちろん、国土全体を救おうとされているのである。本抄で「現世安穏後生善処と祈請(きしょう)仕(つかまつ)り候」と仰せられているのと同じである。

「便宜(びんぎ)に給(たま)わり候本(ほん)・末(まつ)は失(うせ)て候いしかどもこれにすり(修理)させて候」の御文も、すこぶる難解である。これを一つながりの文として解釈すると「お便りのついでにお送りいただいた本と末は破損したけれども、こちらで修理させた」という意味になる。
 本と末は通常、最初と終わりということであるが、大聖人の御在世当時は、天台大師智顗(ちぎ)の法華玄義、法華文句、摩訶止観を本とし、その注釈書である妙楽大師湛然(たんねん)の法華玄義釈籤(しゃくせん)・法華文句記(き)・止観輔行伝弘決(ぐけつ)を末と呼称していたので、三大部の本末か止観の本末であろう。前の御文からの関連を考えて「止観の五を読んでいこうと思う。前に送ってもらった止観の本末は破損したが修理させた。止観が多く入り用なのでよろしくお願いしたい」との意にとるのが自然であろう。
 なお「本・末は失(うせ)て候いしかども」との御記述も、紛失したとの意ではなく、〝破損したが修理させた〟か〝失ったが補わせた〟の意であろう。
 いずれにしても、ここは短文の添え書きであるが、諸宗との対決や、種々の災いが頻発する緊迫した世情のなかで、多くの書を取り寄せ、それらを門下とともに読みながら、またそれらを駆使して民衆救済の戦いを展開されていた大聖人の御様子が拝察される。
            大田乗明について

一、呼び名

 まず、大田氏の呼び名であるが、御書ではさまざまな呼称を用いられている。「太田殿」(九六三㌻)、「太田入道殿」(九九五㌻)、「大田左衛門尉殿」(一〇〇一㌻)、「大田金吾入道殿」(一〇〇五㌻)、「乗明聖人」(一〇一二㌻)、「乗明法師妙日」(一〇一二㌻)、「大田金吾殿」(一〇四〇㌻)などが主なところであろう。このうち、大田、あるいは太田(ここでは大田で統一する)が姓であることは明らかである。
 次に、左衛門尉(さえもんのじょう)、金吾(きんご)という呼称であるが、これは本来は、武士としの職務に関する呼称である。
 まず、左衛門は左衛門府の略で、六衛府の一つ。六衛府は、律令制度の成立と変遷を経て、弘仁二年(八一一年)に成立したもので、近衛府、兵衛府、衛門府のそれぞれに左右が設けられ、六衛府となったものである。その名の示すとおり、朝廷の門の警備や護衛、人や物の通行に際して、検査するなどの任務を主とするものであるが、守護する門の違いによって、三府が立てられた。
 しかし、鎌倉時代には、武士はその棟梁である将軍の本拠である鎌倉に中心を移し、実際には朝廷守護の任務を負わなくなるのであるが、建て前のうえで天皇のもとにあるとの意義から、すべての武士に旧来の職務上の呼称が与えられたのである。
 また、尉は令制における職務の位階の名称で、督(かみ)、佐(すけ)、尉(じょう)、志(さかん)の四等のうちの一つである。さらに、金吾は左・右衛門府の中国・唐の令制における呼び名である。
 以上が左衛門尉の呼称の意味であるが、乗明は名で、大田乗明で姓名となる。ここで、乗明の読み方が「ノリアキ」か「ジョウミョウ」かのいずれであるかは不明である。
 妙日(みょうにち)は入道に際し、日蓮大聖人からいただいた法名と考えられる。乗明聖人、乗明法師、妙日などの呼び名は、いずれも入道になってからのものであることは明らかである。

二、生年について

「弘安元年(一二七八年)戊寅(つちのえとら)四月廿三日」の日付のある太田左衛門尉御返事に「御状に云(いわ)く某(それがし)今年は五十七に罷(まか)り成り候へば大厄(たいやく)の年かと覚(おぼ)え候」(一〇一四㌻)とあることから、大田乗明の出生の年は、貞応元年(一二二二年)と考えられる。本化別頭仏祖統紀によると、没年については弘安六年(一二八三年)四月二十六日とある(なお、九月二十六日とする所伝もある)。
 出身地や父母などの出自については諸説があるが、いずれも確たる根拠はなく、確かなことはいえない。
 そこで、以下、乗明が大聖人から賜った御書の記述から、推定される事柄を予想しつつ、その人物像に迫っていくこととしたい。

三、その人物像と周辺について
(一)居住地、交友関係など

 まず、大田氏の居住地を推定するうえで手掛かりになるのが、交友関係について触れられた幾つかの御文であろう。
 転重軽受法門に「修利槃特(すりはんどく)と申すは兄弟二人なり、一人もありしかば・すりはんどくと申すなり、各各三人は又かくのごとし一人も来(きた)らせ給へば三人と存じ候なり」(一〇〇〇㌻)とあり、この御書は「大田左衛門尉殿 蘇谷入道殿 金原法橋御房」となっている。ここで「蘇谷入道」とは曾谷入道(教信)を指すと考えられる。
 また、土木殿御返事に「太田殿と其(そ)れと二人の御心喜び候」(九六三㌻)とあり、ここで「其れ」は土木氏、すなわち富木常忍であることはいうまでもない。
 さらに、後にも触れることになる問注得意抄では「土木入道殿」(一七八㌻)で始まりながら、「三人御中」(同㌻)とあて名されている。この「三人」を富木常忍・四条金吾・大田乗明とする説と富木常忍・大田乗明・曾谷教信とする説などがあり、定かではないが、以上の三編の御書から、ともかく、大田乗明と富木常忍、曾谷教信、金原法橋は密接な交友関係にあったと見ることができる。
 富木常忍が下総国葛飾郡(かつしかごおり)八幡荘(やわたのしょう)若宮(現在の千葉県市川市若宮)に居住していたことは確かであり、現在の中山法華寺の奥の院の寺域がその館跡とされている。現在も中山、曾谷、八幡、若宮の地名が残っていることから、少なくとも富木常忍と曾谷教信とは近くに居住していたことは間違いない。
 しかし大田乗明の住居については、現存する資料からは場所を特定できないが、数々の伝承から、大田乗明と富木常忍の屋敷はすぐ隣接していて、両方を併せたものが中山法華寺(八幡荘中山郷)の現在の境内地になっていると考えられる。
 すなわち、乗明亡きあと、大田乗明の子息の帥阿闍梨(そつのあじゃり)・日高がその屋敷跡を本妙寺とした(なお、乗明自身が本妙寺としたとする説もある)。さらにその後、富木常忍がその邸内に建立していた法華堂を法華経寺と改めたうえで、両寺を併せて、中山法華経寺としたとする伝承がある。
 大田乗明と富木常忍の親近関係を物語る説として、富木常忍の最初の妻は大田乗明の姉であるとするものもある。
 なお、乗明聖人御返事に「相州の鎌倉より青鳧(せいふ)二結(ゆい)甲州身延の嶺に送り遣わされ候い了んぬ」(一〇一二㌻)とあり、大田乗明が鎌倉から使者を通じて身延の大聖人に御供養を送っていることを示す一節であるが、ここから、大田乗明の居住地が鎌倉にあったとする推測も可能であろう。
 だが、この一節は居住地もさることながら、大田乗明が鎌倉幕府の問注所(現在の裁判所)の役人であったとする推測と大いにつながりがあると考えられるので、項を改めて触れることとしたい。

(二)問注所、真言宗、所領など

 大田乗明が鎌倉幕府の機構のなかの問注所の役人を務めていたとする伝承が有力である。といっても、それを客観的に裏づける史料があるわけではないので、断定はできないが、大聖人から与えられた諸御書を拝しても、問注所にかかわる立場にいたことを推測させるものがある。
 その一つが問注得意抄(一七八㌻)である。前述したように、この御書のあて名は、初めに「土木入道殿」とあり、末尾に「三人御中」とあって、大田乗明が含まれているかどうかは定かではない。この問注得意抄は、文永六年(一二六九年)五月の御書であるが、翌年(あるいは文永六年)の十一月、大田金吾あてにこれと関連すると思われる御抄を送られており、おそらく三人のなかに大田乗明も入っていたと想像される。
 問注所とは、訴訟の受理などを扱った役所で、問注得意抄は、十一通御状であわてた諸寺の僧たちが大聖人を陥(おとしい)れるべく訴え出たのをいち早く知った富木・大田両氏らが大聖人にお知らせしたことに対する御返事である。
 さらに、ある伝承では、大田乗明を問注所執事・三善康連(みよしやすつら)の子とする説がある。この説を有力な仮説として容認すると、問注所との関連のみならず、大田乗明あての御抄に、真言宗に多く言及されている理由が明らかになってくる。
 例えば、大田殿許御書(一〇〇二㌻)、太田入道殿御返事(一〇〇九㌻)、慈覚大師事(一〇一九㌻)などがそれで、これ以外にも、大田乗明自身が日蓮大聖人に帰依するまでは、真言宗の熱心な信者であったことをうかがわせる御文もある。太田入道殿御返事の一節に「抑(そもそも)貴辺は嫡嫡(ちゃくちゃく)の末流の一分に非ずと雖(いえど)も将(は)た又檀那の所従なり身は邪家(じゃけ)に処して年久しく心は邪師に染みて月重なる設(たと)い大山は頽(くず)れ設い大海は乾くとも此の罪は消え難きか」(一〇一一㌻)とある。これは厳しく真言宗を破折された直後に、「貴辺は……」として大田乗明自身に言及されたところである。この文意は、大田乗明が真言宗を支える直系中の直系の末流ではないものの、その周辺に位置する立場にあったということである。
 この仰せと、三善家から代々の問注所の役人が輩出されてきたという史実、また、同家が真言宗の大檀那であったという経歴とが、奇妙に結びついてくる。
 三善康連の父(先の説が正しいとすると、大田乗明の祖父ということになる)である三善康信(やすのぶ)は鎌倉時代の初代問注所執事として活躍するとともに、備後国(広島県東部)の地頭職に補任され、大夫属(たゆうさかん)入道善信(よしのぶ)とも称したとされる。
 真言宗との深い関係を示す資料としては吾妻鏡を挙げることができる。まず、「廿四日、己亥(つちのとい)、仙洞(せんとう)、御願(ごがん)を為し、平家の怨霊を宥(なだ)めさせる為、高野山に於いて大塔を建立せらる。去る五月一日より厳密に御仏事を行わせらる。而(しか)して供料所は備後国大田庄を以て、御手印を加え、今日寄せ奉らせらる所なり」(吾妻鏡巻五、文永二年〔一一八六年〕七月の項)とある。
 ここに、仙洞とは上皇の御所を指す。文治年間のことであるから後鳥羽上皇を指している。つまり、平家の怨霊を鎮(しず)めるために、上皇が願主となって真言宗の総本山・高野山に大塔を建立したということである。その際の供養料は備後国の大田庄が年貢として納める旨、上皇の手印(自筆、押印)による承認があったことを記している。備後国の大田庄といえば、ここの地頭職にあった三善康信が供養料を納めることと同じである。ちなみに、大田の姓がこの「大田庄」からきていることは、容易に推測される。
 さらに、吾妻鏡巻十八の承元三年(一二〇九年)三月の項には「一日、甲午(きのえうま)、今日、高野山大塔料所備後国大田庄の乃貢対捍(なうぐたいかん)するの由、寺家(じけ)これを訴へ申す。よってその沙汰あるのところ、かの使者の僧と地頭大夫属(たゆうさかん)入道の代官と口論に及ぶ」とある。ここでは備後国大田庄が高野山大塔の供養料としての乃貢(年貢)を納めることを拒否してトラブルのあったことを示しているが、ここに大夫属入道という地頭の名があがっている。全訳吾妻鏡第三巻(新人物往来社)では、大夫属入道の名の横に「三善善信」との注記が入っていることからも、三善康信(善信)の管轄する備後国大田庄がかなり長期にわたって高野山大塔を供養しつづけたことが分かる。
 この三善康連が太田民部大夫と名乗り、康連の二人の兄弟である三善康俊(やすとし)は町野を、三善行倫(の子孫)は矢野を、それぞれ名乗っていることが記録に明らかである(御家人制研究会編・吾妻鏡人名索引)。
 また、康連の子息にあたる三善康宗(やすむね)は太田太郎兵衛尉(ひょうえのじょう)とも太田民部大夫とも称しており、三善康有(やすあり)は大田七郎と名乗っていることも同索引からも明らかである。
 さらに、同索引によると、この他に大田(太田)姓を名乗っているもののなかで、大聖人とほぼ同年代に生きた人物を探ってみると、大田四郎左衛門尉、大田次郎、などの名が見える。仮にこの二人を康連の他の子息と考えると、太郎(康宗)、次郎、四郎、七郎(康有)となる。
 しかるに、大田乗明を三善康連の子息とする説では多くが「大田五郎左衛門」としていて、康連の五番目の子として位置づけている。
 また、康宗(太田太郎)も康有(大田七郎)もともに、問注所執事となっているが、大田乗明の立場に関しては、確たる資料はない。しかし、兄弟の中に問注所執事がいるとなると、大田乗明が何らかの形で問注所と関わりを持っていたことは、十分に考えられるところである。
 なお、真言宗との関連であるが、三善康信がいわば供養料を納める大檀那であることは明らかであるが、その系統はおそらく大田姓を名乗る康連に引き継がれ、さらに、その長男である康宗(太田太郎)へと引き継がれたものとすれば、その兄弟筋にあたる大田乗明は「嫡嫡の末流の一分に非ず」(一〇一一㌻)ということになるが、同時に「檀那の所従」(同㌻)にはあたり、身心ともに真言の邪義に染まっているとの仰せの意味もより明瞭になるのではなかろうか。といって、御書には大田乗明に兄弟があったとする記述はまったく見られないので、確定的なことはいえず、あくまでも仮説にすぎない。
 さらに、大田乗明の所領であるが、曾谷入道殿許御書で「而(しか)るに風聞(ふうぶん)の如くんば貴辺並びに大田金吾殿・越中の御所領の内並びに近辺の寺寺に数多(あまた)の聖教(しょうぎょう)あり等云云、両人共に大檀那為(な)り所願を成ぜしめたまえ」(一〇三八㌻)とあるところからも明白なように、曾谷教信と大田乗明は越中(現在の富山県)に所領があったことが分かる。
 所領については、吾妻鏡には「(建長二年)三月一日、丁卯(ひのとう)、造閑院殿雑掌(ぞうかんいんどのざつしょう)の事」の中で「押小路面二十本……二本 越中大田次郎左衛門尉」(吾妻鏡巻卅八、建長二年〔一二五〇年〕三月の項)とある。つまり、閑院の内裏(だいり)を造営するさいの雑掌(寺社などの修理や造営の時に、臨時に定められる担当者のこと)の一人として「越中大田次郎左衛門尉」となっている。ここで「越中の御所領」との御書の御記述と符合するが、果たして大田乗明は「五郎」なのか「次郎」なのか、確かなことは分からない。
 以上、さまざまな観点から大田乗明の人物像とその周辺をさぐってきたが、大田乗明への呼び名や賜った御書の内容からいって、問注所と関わりが深く、かなりの学識、教養、社会的地位もある武士で大聖人の大檀那の一人であったということが浮かび上がってくる。また、大田乗明の妻も大聖人から建治元年(一二七五年)七月二日に賜った「太田殿女房御返事(即身成仏抄)」(一〇〇五㌻)の内容からいって、信心においても仏法教理の理解という点でも優れた婦人であったと推察される。

出典『日蓮大聖人御書講義』第十八巻上(編著者 御書講義録刊行会 発行所 聖教新聞社)

                   大田乗明について ―了―
 

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