真言天台勝劣事

       第十三章 事理倶密の邪説を破折する

本文(一三七㌻一三行~一三七㌻一六行)
 次に事理倶密(じりくみつ)の事・法華は理秘密・真言は事理倶密なれば勝るとは何(いず)れの経に説けるや抑(そもそも)法華の理秘密とは何様の事ぞや、法華の理とは迹門・開権顕実の理か其の理は真言には分絶えて知らざる理なり、法華の事(じ)とは又久遠実成(くおんじつじょう)の事なり此の事又真言になし真言に云う所の事理は未開会(みかいえ)の権教の事理なり何ぞ法華に勝る可きや。

通解
 次に、事も理もともに秘密であるということについていえば、法華経は理が秘密であり、真言経は事も理もともに秘密であるので勝れるというのは、どの経に説いてあるのか。そもそも法華経の理が秘密であるというのは、どのようなことをいうのか。法華経の理とは法華経迹門で説く開権顕実の理のことか。もし、そうであれば、その理は真言経には領分を超えていて知ることのない理である。法華経の事とはまた、久遠実成の事(じ)である。この事(じ)もまた、真言経には説かれていない。真言経に説くところの事と理は未開会の権教の事と理である。どうして法華経に勝ることができようか。

語訳
理秘密
 天台密教では一切経を顕示教(三乗教)と秘密教(一乗教)の二種に分け、更に秘密教を理秘密のみ説く理秘密教と事秘密・理秘密の両方を説く事理倶密教に分ける。そして華厳・般若・維摩・法華・涅槃経等が理秘密教であるのに対して、大日・金剛頂経などが事理倶密経であって勝れているとする。

迹門
 法華経迹門をさす。妙法蓮華経の中で、釈尊が垂迹の仏の立場で説いた前半十四品の法門のこと。久遠実成という本地を明かさず、始成正覚という垂迹の姿で説いたので迹門という。迹門は本門に対する語。

開権顕実
「権を開いて実を顕す」と読む。方便権教を開いて真実の教えを説き顕したこと。「権」は権教である四十余年の爾前経、「実」は実教である法華経をさす。法華経迹門では、三乗(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)の法を開いて一仏乗を説き顕した開三顕一の法門をいう。法華経法師品第十には「此の経は方便の門を開いて、真実の相を示す」(『妙法蓮華経並開結』三六五㌻ 創価学会刊)とある。

久遠実成(くおんじつじょう)
 インドに生まれ今世で成仏したと説いてきた釈尊が、実は五百塵点劫という非常に遠い過去(久遠)に成仏していたということ。法華経如来寿量品第十六で説かれる。同品には「我れは実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由他劫なり」(『妙法蓮華経並開結』四七八㌻ 創価学会刊)、「我れは仏を得て自(よ)り来(このかた) 経(へ)たる所の諸の劫数(こうしゅ)は 無量百千万 億載阿僧祇なり」(同・四八九㌻)とある。さらに釈尊は、自らが久遠の昔から娑婆世界で多くの衆生を説法教化し、下種結縁してきたことを明かした。五百塵点劫の久遠における説法による下種結縁を久遠下種という。

未開会(みかいえ)
「未だ開会せず」と読む。まだ開会の法門を説いていないということ。「開会」とは、低い教えにおける隔別・差異を除き、高い教えにおいて融合・平等化することをいう。開会には法開会と人開会とがあり、真実究竟の開会が説かれているのは法華経である。

講義
 第五問答の答えが続いているところである。ここでは四点の難詰のうち②「法華は理秘密・真言は事理倶密なれば勝(まさ)る」すなわち、法華経は理のみ秘密であるのに対し真言経典は理も事も俱に秘密であるので真言経は法華経に勝るという邪説を破られているところである。
 この考え方は、理については法華・真言両経は同じで、印・真言などの事については真言経が勝れるという「理同事勝」として中国の善無畏らが唱えていたのと共通しており、弘法の真言宗(東密という)ではなく、慈覚や智証といった比叡山天台宗の密教(台密という)の説である。
 しかしながら、本来、法華経を根本とした天台宗である慈覚たちが、このような「亊理俱密の故に真言の方が勝れる」と言ったことは、もともとの真言宗側からの見解以上に、真言の邪義を助ける力となっていたのである。
 まず、大聖人は、亊理俱密であるから真言が法華に勝るというのはどの経に説かれているのか、と追及されている。確かな文証のないまま立てられたこの邪説の虚妄性を指摘されているのである。
 次に、いったい法華経の理が秘密であるといっているが、その内容は何をさしているかと述べられ、法華経の理といえば迹門には開権顕実の理があるが、この理は真言が全く知らない理であると指摘されている。更に、事についても法華の事は仏が実は久遠において成仏していたという事であると仰せられ、これもまた真言には全くないことであると述べられている。台密の言う「事」は印や真言のことであるが、大聖人は、法華経には、そのような小手先の小さな「事」などよりずっと大きく根本的な「事」がある、という意味を込めて仰せられたのであろう。結論として、真言がいうところの事や理は未だ真実を開顕していない権教の事や理にすぎないのであるから、それがどうして法華に勝っているということができようか、と破られている。

 法華は理秘密・真言は事理倶密なれば勝る

 この台密の立てる邪説の出典とその意味が撰時抄に明確に説かれているので、引用しておきたい。すなわち「此の疏(しょ)の肝心の釈に云く『教に二種有り一は顕示教謂(おもえら)く三乗教なり世俗と勝義と未だ円融せざる故に、二は秘密教謂く一乗教なり世俗と勝義と一体にして融する故に、秘密教の中に亦(また)二種有り一には理秘密の教諸の華厳般若維摩法華涅槃等なり但だ世俗と勝義との不二を説いて未だ真言密印の事を説かざる故に、二には事理倶密教謂く大日教金剛頂経蘇悉地経等なり亦世俗と勝義との不二を説き亦真言密印の事を説く故に』等云云、釈の心は法華経と真言の三部との勝劣を定めさせ給うに真言の三部経と法華とは所詮の理は同じく一念三千の法門なり、しかれども密印と真言等の事法は法華経か(闕)けてをはせず法華経は理秘密・真言の三部経は事理倶密なれば天地雲泥なりとかかれたり」(二八〇㌻)と。
 ここに「此の疏」とあるのは台密の慈覚の蘇悉地経疏のことである。この疏では、一代聖教には顕示教と秘密教との二種があるとし、そのうち顕示教とは阿含経・深密経などの三乗教で、その特色は世俗諦(世間一般の道理)と勝義諦(出世間の仏法における真理)とが別々で円融一体になっていないところにあるとし、秘密教は一乗教で、その特色は世俗諦と勝義諦とが円融不二と教えるところにあるとしている。
 更に、その秘密教にまた二種あって、一つが理秘密、すなわち世俗諦と勝義諦との円融不二であることを説くだけで真言、密印等の事相を説かない教えで、これには華厳経、般若経、維摩経、法華経、涅槃経等が入るのに対し、いま一つは事理俱密教で、世俗諦と勝義諦とが円融不二であるとする理秘密だけでなく、真言、密印等の事法をも説いているもので、これに当たるのが大日・金剛頂・蘇悉地の真言三部経であるとしている。
 これを受けて大聖人は「釈の心は」以下の御文で、その内容を簡潔にまとめられている。
 法華経と真言三部経とに共通するという「理」を一念三千の法門とされている。「事」を「密印と真言等」とすることは同じである。

 真言に云う所の事理は未開会の権教の事理なり何ぞ法華に勝る可きや

 真言でいう事と理は、未だ開会されていない権教の事・理であるゆえに法華経のそれに劣ると仰せられている。
 開会とは、言葉、名称だけでなく実体を明らかにすること、部分だけ示すのでなく全体を明らかにすること等と考えてよい。
 言葉だけで実体を知らないのは観念でしかない。部分だけで全体を知らないのは、部分にすぎないものを全体であるかのように思い込んでしまうので、偏見にとらわれてしまう。
 真言の経典など、いわゆる権教は、言葉だけ見ると深遠そうな説法が含まれていても、例えば「成仏」という言葉はあっても成仏の法が明かされていないから実義がなく「真理」といった言葉はあっても生命の全体が示されていないので偏頗(へんぱ)なものでしかない。すなわち「未開会」の「権教」であるゆえに、さまざまな「事」「理」が説かれていたとしても、実体と全体像を余すところなく説いた法華経にははるかに及ばないのである。
            真言天台勝劣事

      第十二章 印・尊形等の事相につき答う

本文(一三七㌻一〇行~一三七㌻一三行)
 答う凡(およ)そ印相(いんぞう)尊形は是れ権経の説にして実教の談に非ず設(たと)い之を説くとも権実大小の差別浅深有るべし、所以(ゆえ)に阿含経等にも印相有るが故に必ず法華に印相尊形を説くことを得ずして之を説かざるに非ず説くまじければ是を説かぬにこそ有れ法華は只三世十方(さんぜじっぽう)の仏の本意を説いて其形がと(左)あるかう(右)あるとは云う可からず、例せば世界建立(こんりゅう)の相を説かねばとて法華は倶舎(くしゃ)より劣るとは云う可からざるが如し。

通解
 答える。そもそも印相や尊形は権経の説くところであって実教の述べるところではない。たとえこれを説いていたとしても、権教・実教、大乗・小乗の差別や浅深があるべきである。ゆえに阿含経等にも印相が説かれているのであるから、必ずしも法華経に印相や尊形を説くことができなくて説かなかったのではなく、説く必要がないので説かなかったのである。法華経はただ三世十方の仏の本意を説いているのであり、その形(印の形)がどうであるとかこうであるとかはいっていないのである。
 例えば、世界建立の様相を説かないからといって、法華経は倶舎論よりも劣るなどとはいうことができないようなものである。

語訳
印相(いんぞう)尊形
 諸仏菩薩等の、手を結ぶ印の形や所持する器物によって仏菩薩の厳かさや特質をあらわしたこと。密教では、それが諸尊の本誓(ほんぜい)等を標示しているとする。

阿含経
 阿含は梵語アーガマ(āgama)の音写で、「伝承された聖典」の意。各部派が伝承した釈尊の教説のこと。大きく五つの部、ニカーヤ(nikāya)に分類される。歴史上の釈尊に比較的近い時代の伝承を伝えている。漢訳では長阿含・中阿含・増一阿含・雑阿含の四つがある。中国や日本では、大乗との対比で、小乗の経典として位置づけられた。

三世十方(さんぜじっぽう)の仏
 時間・空間にわたるすべての仏のこと。過去から未来にかけての全宇宙の仏をいう。三世は過去世・現在世・未来世のこと。十方とは東・西・南・北の四方と、東南・東北・西南・西北の四維(しい)に上・下の二方を加えたもの。

世界建立
 阿毘達磨倶舎論分別世品(世間品)第三に、器世間や有情などの成立の姿が説かれている。また、長阿含経第四分の世記経世本縁品第十二には、国土や人間社会が、いかにして形成されてきたかという世界成立の姿と因縁が明かされている。

倶舎
 阿毘達磨倶舎論のこと。三十巻。世親著。中国・唐代の玄奘訳。梵名アビダルマ・コーシャ(Abhidharma-kośa)の音写。対法蔵論と訳す。四諦の理を対観し、知識として含蔵する論との意。九品からなり、当時の広範な知識が駆使されて、迷いや悟り、その因果、また無我の理が説かれている、百科全書的著作。説一切有部(せついっさいうぶ)の教理の集大成である大毘婆沙論(だいびばしゃろん)の綱要を記したもので、処々に経量部(きょうりょうぶ)または自己の立場から有部の主張を批判している。玄奘訳の他に、真諦(しんだい)が訳した「阿毘達磨倶舎釈論」二十二巻があり、これを旧倶舎ともいう。

講義
 第五問答の答えに入る。ここでは、先の四点にわたる難詰のうち①印・真言・三摩耶尊形が法華経にはほとんど説かれていないから、法華は真言に劣るという言い分を破られている。
 まず、印とは印相とも印契(いんげい)ともいう。諸仏や諸菩薩の悟りや誓願等を形として表したものであるが、これに二つある。
 一つは悟りや誓願等を指を特別な形に結んで表示したものを手印といい、いま一つは所持する刀剣などの器具でもって表すものを契印という。
 真言は呪、神呪、陀羅尼ともいい、仏の悟りや誓願を示す秘密の言葉で一種の呪文である。三摩耶尊形とは〝三摩耶〟が真言宗では誓願や本願を意味し〝尊形〟が象徴する物を意味することから、諸仏、諸菩薩が心に懐(いだ)いている衆生救済の誓いと願いを形の上で象徴する弓、箭(や)、剣、卒塔婆(そとば)などの器物や印をいう。この意味で、印(相)と三摩耶尊形とは重なり合うが、主として手の指によるのを印、持つ器物を三摩耶と考えてよい。
 さて、これら印・真言・三摩耶尊形という外に表れた具体的な形が法華経にはほとんど説かれていないとの難詰に対して、大聖人はまず、印相、尊形といった外面的な問題に力を入れて説いたのは権経であって、実教の法華経では枝葉のことであるから、あまり説かなかったのであると述べられている。そして、実教の法華経でも印相等の事相を説いてあったにしても、あくまで教えの権実、大小、浅深の区別を重視すべきであって、事相を説いているかいないかは大した問題ではないと一蹴されている。
 したがって、阿含経等の小乗教にも印相が説かれているので、法華経では詳しく説く必要がないゆえに説かないのであると述べられている。
 更に、法華経は最も重要な三世十方の諸仏の本意を説き明かすことを目的としたのであって印の形の問題などには触れていないのであると言われ、印・真言が詳しくないことをもって法華経を劣ると考えるのは大なる誤りであると破折されている。

 凡そ印相尊形は是れ権経の説にして実教の談に非ず

 印・真言・三摩耶尊形など外面的な形にあらわれたものを重視するのは、見えざる内面よりは見える形を求める衆生の機根に応じている点において、随他意の方便、権経の特徴を示しているのである。
 これに対して、実教の法華経においては、仏の真実の教えを衆生の機根の如何(いかん)にかかわらず、仏の意のままに説きあらわす随自意の立場であるから、本来的に、印相や尊形などは実教が説く必要のないものとなるのである。

 法華は只三世十方の仏の本意を説いて其形がと(左)あるかう(右)あるとは云う可からず

 法華経はただ三世十方の仏の本意を真実に説いているから実教なのであり、したがって、衆生の機根を調え導くために形にあらわす印、尊形などについては、こだわっていないのであると法華経の立場を明確にされている。
 さて、三世十方の諸仏の本意とは先の本文で「只仏出世の本意は仏に成り難き二乗の仏に成るを一大事とし給へり」(一三六㌻)とあるとおり、仏に成りがたい二乗を仏にする妙法を説き顕すことにある。
 まさに、この一切衆生の成仏の根本である妙法を明かすことに法華経説法の目的があったのであり、この立場からすれば印や真言は枝葉末節にすぎない。したがって印・真言が大日経のように詳しくないから法華経は大日経に劣るなどというのは、本末転倒の愚かな考え方といわなければならないのである。
            真言天台勝劣事

      第十一章 事相を根拠に真言が勝ると難ず

本文(一三七㌻七行~一三七㌻一〇行)
 猶難じて云く如何に云うとも印真言・三摩耶尊形(さんまやそんぎょう)を説く事は大日経程法華経には之無く事理倶密(じりくみつ)の談は真言ひとりすぐれたり、其の上真言の三部経は釈迦一代五時の摂属(しょうぞく)に非ずされば弘法大師の宝鑰(ほうやく)には釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)を証拠として法華は無明(むみょう)の辺域・戯論(けろん)の法と釈し給へり・爰(ここ)を以て法華劣り真言勝(すぐ)ると申すなり。

通解
 なおも難詰していう。何といおうとも、印・真言と三摩耶尊形を説くことにおいては、大日経ほど法華経にはこれを説いていない。そして事も理もともに秘密である点では真言の経だけが勝れているのである。
 そのうえ真言の三部経は釈迦一代五時に属するものではない。それゆえ、弘法大師の秘蔵宝鑰には釈摩訶衍論を証拠として「法華経は無明の領域にある仏の教えであり、戯れの論を説いた法である」と釈しているのである。これらのことから、法華経は劣り真言経は勝れているというのである。

語訳

 梵語ムドラー(Mudrā)の訳。印相(いんぞう)とも訳す。手指を種々に組み合わせて特別な形を結び、諸仏や菩薩の悟りや誓いをあらわしたものを手印といい、刀剣など諸仏が所持する器具であらわすのを契印と呼ぶ。真言の三密(意密・身密・語密)の中の身密にあたる。善無畏三蔵は、印・真言があるから真言宗が天台法華宗に勝れているとの説を立てた。

真言(しんごん)
 梵語マントラ(Mantra)の訳。仏の真実の言葉の意。密呪・密語とも訳す。諸仏の本誓(ほんぜい)・徳・梵名などを示す秘密語。真言の三密の中の語密にあたる。

三摩耶尊形(さんまやそんぎょう)
 三摩耶は梵語サマヤ(samaya)の音写。三昧耶とも書く。真言密教で、平等・本誓(ほんぜい)・除障・驚覚の意。仏・菩薩が心に懐く衆生救済の誓願(本誓)を形の上で象徴する器物のこと。大日如来の卒塔婆、薬師如来の薬壺、観音菩薩の蓮華、不動明王の剣などをいう。

事理倶密(じりくみつ)
 事密・理密が俱(とも)にそなわっていること。天台密教では、身語意の三密の事相(印・真言など)を事密、世俗諦(世法の真理)と勝義諦(仏法の真理)が円融不二であるという法理を理密とし、この二つが究め尽くされているのが大日経や金剛頂経等であるとしている。

宝鑰(ほうやく)
 三巻。弘法の著。秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)のこと。「秘密曼荼羅十住心論」十巻を要約して三巻にまとめたもの。法華経は真言・華厳に劣る戯論(けろん)であると下し、更に法華経の教主は顕教のなかでは究竟の理智法身ではあるが、真言門に望めば初門にすぎず、悟りには遠い「無明の辺域」にすぎない、と法華経の教主である釈尊を卑しめている。

釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)
 十巻。竜樹著、中国・姚秦代の筏提摩多(ばつだいまた)訳とされる。略して釈論ともいう。馬鳴著と伝えられる大乗起信論の注釈書。摩訶衍は梵語マハーヤーナ(Mahāyāna)の音写で、大乗と訳し、菩薩の教法のこと。内容は大乗起信論で説く一心・二門(生滅・真如)・三大(体・相・用)の法を三十二の法門に分かち、その上に不二摩訶衍の法を設けて極妙甚深にして独尊であるとする[※1]。戒明(かいみょう)が宝亀十年(七七九年)に日本に本論を伝えて以来、真偽の論争があったが、伝教大師は守護国界章で七つの理由を挙げて偽論と断じている。ところが弘法は本論を竜樹の真作となして弁顕密二教論や秘蔵宝鑰に引用しており、真言密教では不二摩訶衍が密教を説示したものとして重要視している。本論は、その記載の事項から竜樹の著作でないことは明らかで、訳者名も僧伝に一切なく、書名は貞元釈教録に至るまでの諸経録になく、またその内容などから八世紀中頃の偽作であることが知られている[※2]。
〈追記〉
[※1]三十二法門とは機根に応じて説かれる因分の法門であり、不二摩訶衍とは機根を離れた絶対果分の法であると説く。弘法は、果分の不二摩訶衍を密教に、因分の三十二法門を顕教に配し、密教の優位性を立てた。
[※2]「竜樹著と伝えられるが、真偽未詳」(大辞林 第三版の解説)、「龍樹の著作と伝えられるが、著作者については古来疑問視されており、結論は出ていない。おそらく七~八世紀の頃、中国か朝鮮で成立したものであろうと考えられている」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)、以上いずれも「釈摩訶衍論」の項目より一部抜粋。そもそも馬鳴(めみょう)(一、二世紀ごろの人)の著と伝えられる大乗起信論は、実際には五~六世紀に成立したものと考えられている。二~三世紀の人である竜樹が、どうして自分の死後にその注釈書を書けようか。

無明(むみょう)の辺域
 弘法がその著「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」のなかでいっている言葉。「法身真如一道無為の真理を明かす乃至諸の顕教においてはこれ究竟(くきょう)の理智法身なり、真言門に望むれば是れ即ち初門なり……此の理を証する仏をまた、常寂光土毘盧遮那と名づく、大隋天台山国清寺智者禅師、此の門によって止観を修し法華三昧を得……かくの如き一心は無明の辺域にして、明の分位にあらず」と。要約すると、顕教諸説の法身真如の理は、真言門に対すれば、なお、仏道の初門であって、このような初門すなわち因門は明の分位たる果門に対すれば、無明の辺域にほかならない、という邪義を述べている。

戯論(けろん)の法
 児戯に類した無益な論議・言論である法のこと。

講義
 ここからは最後の第五問答となる。ここは問いの部分で、問者の言い分は四点にわたっている。
 まず、①印・真言・三摩耶尊形といった事相について詳しいのは大日経であり、これに対し、法華経にはほとんど説かれていない、次に②事も理も俱(とも)に秘密であるのは真言のみであり、真言が勝れている所以(ゆえん)がここにある、更に③真言三部経は釈尊一代五時の中に属さない教えであること、最後に④弘法の秘蔵宝鑰という著書には竜樹の釈摩訶衍論の文を証拠に、法華経を無明の領域の教えであり、したがって真実を説かない戯れの論であると貶(おとし)めている、という以上の四点を挙げて、真言が勝れ法華経は劣ると主張している。
            真言天台勝劣事

       第十章 大日を釈尊の師とする説を破る

本文(一三七㌻二行~一三七㌻七行)
 次に釈迦は大日の化身唵(おん)字を教えられてこそ仏には成りたれと云う事此は偏(ひとえ)に六波羅蜜経の説なり、彼の経一部十巻は是れ釈迦の説なり大日の説には非ず是れ未顕真実の権教なり随つて成道の相も三蔵教の教主の相なり六年苦行の後の儀式なるをや。
 彼の経説の五味を天台は盗み取つて己が宗に立つると云う無実を云い付けらるるは弘法大師の大なる僻事(ひがごと)なり、所以に天台は涅槃経に依つて立て給へり全く六波羅蜜経には依らず況んや天台死去の後百九十年あつて貞元四年に渡る経なり何として天台は見給うべき不実の過(とが)弘法大師にあり、凡(およ)そ彼の経説は皆未顕真実なり之を以て法華経を下さん事甚だ荒量なり。

通解
 次に釈迦は大日の化身であるとか、大日に唵(おん)字を教えられたからこそ仏に成ったのであるということは、ひとえに六波羅蜜経の説である。その六波羅蜜経一部十巻は釈迦が説いたものであり、大日の説いたものではない。これは未顕真実の権教である。したがって、成道の姿も三蔵教の教主の姿であり、六年の苦行の後の儀式である。
 六波羅蜜経で説くところの五味を天台大師は盗み取って自宗の教えと立てたのである、という無実の言いがかりをつけたのは弘法大師の大なる心得違いである。なぜなら、天台大師は五味を涅槃経によって立てたのであり、全く六波羅蜜経にはよっていないからである。ましてや(六波羅蜜経は)天台大師死去の後、百九十年経った貞元四年に渡ってきた経である。どうして天台大師が見ることができようか。事実に反した過ちは弘法大師にあるのである。
 総じて六波羅蜜経の説くところはみな未顕真実である。これをもって法華経を下すことは、はなはだいいかげんな考えである。

語訳
六波羅蜜経
 十巻。中国・唐代の般若訳。大乗理趣六波羅蜜多経という。衆生を発心させ修行させる法と不退転心を説き、更に菩薩の修行の要としての布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(智慧)の六波羅蜜多について詳説している。

三蔵教の教主
 小乗教の教主のこと。過去、三阿僧祇劫のあいだ六度を行じ、百大劫のあいだ広く福徳を積んで相好を得、最後にインドに応誕し、菩提樹下で見思の惑を断尽して正覚を成じ、八十歳で無余涅槃に入った仏をいう。これを劣応身の仏とも、丈六(一丈六尺)の仏ともいう。
〈追記〉
 上記に六度とあるのは、大乗の菩薩が実践し獲得すべき六つの徳目で、六波羅蜜のこと。また相好とは、仏身に備わっている優れた身体的特質で、三十二相を指す。

五味
 牛乳を精製していく過程における五段階の味のこと。乳味・酪味・生酥味・熟酥味・醍醐味をいう。なお、六波羅蜜経では一切経を素怛纜(そたらん)蔵(経蔵)・毘奈耶(びなや)蔵(律蔵)・阿毘達磨(あびだるま)蔵(論蔵)・般若波羅蜜多蔵(仏の智慧を説いたもの)・陀羅尼蔵(呪)の五蔵に分類し、これを順次に乳・酪・生酥・熟酥・醍醐の五味に譬えている。

天台
(五三八年~五九七年)。中国・南北朝から隋代にかけての人で中国天台宗の開祖。諱(いみな)は智顗(ちぎ)。字(あざな)は徳安。姓は陳氏。天台大師・智者大師ともいう。荊(けい)州華容県(湖南省)に生まれる。十八歳の時、湘州果願寺の法緒(ほうちょ)について出家し、ついで慧曠(えこう)に仕えて律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉(てんか)元年(五六〇年)大蘇山に南岳大師(慧思(えし))を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、大いに法華経の深義を照了し、「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の法華三大部を完成した。

荒量
 荒い量見のこと。いいかげんな思慮・見解をいう。

講義
 第四問答の答えが続いているところである。ここでは、四点にわたる難詰のうち、④釈尊は大日如来の化身であるとするもの、釈尊は大日から唵字の観法を教えられて仏に成ることができたという邪説を破られているところである。
 まず、この邪説はただただ六波羅蜜経一経の説のみによって立てられた偏頗(へんぱ)なものにすぎないと指摘されている。しかも、同経一部十巻は釈尊の説法として記されたものである。とすればこれは釈尊の説の中でも未だ真実を顕していない権教ということになる。したがって、この経に説かれている釈尊成道の時の姿も三蔵教(小乗・四阿含経)を説法する教主、すなわち劣応身である丈六(一丈六尺)の釈尊であり、それはまた「六年苦行の後の儀式」、つまり、苦行六年の後に成道した釈尊が展開した説法の儀式になっている、と仰せられている。
 このように、釈尊が大日から唵字を教えてもらって成道できたとする説の根拠である六波羅蜜経そのものが方便権教の、しかも小乗の釈尊に関するもので、これをもって法華経の教主としての釈尊に当てはめるのは誤りであると打ち破られている。
 次に、弘法が顕密二教論の中で、天台大師は六波羅蜜経に説かれている五味(乳味・酪味・生酥味・熟酥味・醍醐味)を盗み取って、この五味に当てはめて法華経を最高の醍醐味に配したのであるといって天台大師を誹謗していることを取り上げられ、それが全く事実に反する言い分であり、弘法の大きな謬見(びゅうけん)であると断言されている。その理由として、まず第一に、天台大師の五味説は涅槃経によって立てられたものであること、第二には、六波羅蜜経は天台大師が亡くなった後百九十年も経って中国に渡ってきた経典であるとの歴史的な事実を指摘され、天台大師が自分の死後に渡来した経を見て盗み取ることができるわけがないと、弘法のいい加減な言い分を糺(ただ)されている。
 結論として、弘法が取り上げる経々の説はことごとく未顕真実であり、それらの経々によって真実を顕した法華経を下すことは非常に荒っぽい量見であると破折されている。

 釈迦は大日の化身唵字を教えられてこそ仏には成りたれと云う事此は偏に六波羅蜜経の説なり

 真言宗では「釈迦は大日の化身なりとも云へり、成道の時は大日の印可を蒙(こうむり)て唵(おん)字の観を教えられ後夜(ごや)に仏になるなり大日如来だにもましまさずば争(いかで)か釈迦仏も仏に成り給うべき」(一三五㌻)などといって、大日のほうが釈尊より偉大な仏であるとしているのであるが、この邪説のもとになっている経として、本文では六波羅蜜経となっているが、実際は守護国界主陀羅尼経巻九の次の一節である。
「三世諸仏は皆此の字を観じて、菩提を得る。故に一切陀羅尼母と為す。一切菩薩此れに従って生じ、一切諸仏此れに従って出現す」と。ここで〝此の字〟とあるのは唵字のことである。この文の前では、唵字に法身・報身・応身の三身の意義があるとの説明があって、それを受けて、三世諸仏は皆この唵字を観じて菩提の悟りを得て成道すると述べ、一切の菩薩は唵字に従って生じ、一切の諸仏もまた唵字に従って出現する、と説いているのである。
 この経文を根拠に、真言宗では、釈尊の成道について、好き勝手に粉飾して先の邪説を述べていたのである。すなわち、釈尊の成道に対しては、大日如来が認可を与え、更に、唵字の観法を教えた結果、後夜(夜半過ぎから明け方まで)の間に仏に成ることができたのだ、などという虚構の物語を作ったのである。この物語をもとに、釈尊は大日如来の弟子であるととなえたのである。
 大聖人はこれについて、未顕真実の権教を依りどころにしたものに過ぎないと一蹴され(権教であることについては六波羅蜜経も守護国界主陀羅尼経も同じである)、そこに述べられている釈尊成道の相は小乗三蔵教の教主としての釈尊にすぎないから、これをもって法華経の教主としての釈尊を大日の弟子とする論拠にはなしえないとされている。
            真言天台勝劣事

       第九章 説処、対告衆への邪難を破す

本文(一三六㌻一二行~一三七㌻一行)
 次に法界宮とは色究竟天(しきくきょうてん)か又何(いず)れの処ぞや色究竟天或は他化自在天(たけじざいてん)は法華宗には別教の仏の説処と云うていみじからぬ事に申すなり。
 又菩薩の為に説くとも高名(こうみょう)もなし例せば華厳経は一向菩薩の為なれども尚法華の方便とこそ云はるれ、只仏出世の本意は仏に成り難き二乗の仏に成るを一大事とし給へりされば大論には二乗の仏に成るを密教と云ひ二乗作仏を説かざるを顕教と云へり、此の趣ならば真言の三部経は二乗作仏の旨(むね)無きが故に還つて顕教と云ひ法華は二乗作仏を旨とする故に密教と云う可きなり、随つて諸仏秘密の蔵と説けば子細なし世間の人密教勝ると云うはいかやうに意得(こころえ)たるや。
 但し「若(も)し顕教に於て修行する者は久く三大無数劫(むしゅこう)を経(ふ)」等と云えるは既に三大無数劫と云う故に是三蔵四阿含経を指して顕教と云いて権大乗までは云わず況(いわん)や法華実大乗までは都(すべ)て云わざるなり。

通解
 次に法界宮とは色究竟天にあるのか、またはいずれの所にあるのか。色究竟天あるいは他化自在天は、法華宗では別教の仏が説法した場所といって、大したことではないとしている。
 また、菩薩のために説くといっても功名でもない。例えば、華厳経はひとえに菩薩のために説かれたものであるけれども、それでも法華経の方便といわれるのである。仏が世に出現する本意は、仏に成りがたい二乗が仏になるのを一大事とされている。それゆえ、大智度論には二乗が仏に成る教法を密教といい、二乗の成仏を説かないのを顕教というとしている。この教旨からすれば、真言の三部経は二乗の成仏を説いていないからかえって顕教といい、法華経は二乗の成仏を説くがゆえに密教というべきである。したがって、法華経には諸仏の秘密の蔵と説いているのである。世間の人はどのように心得て、密教が勝れているといっているのであろうか。
 ただし、金剛頂瑜伽金剛薩埵五秘密修行念誦儀軌に「もし顕教を修行する者は永く三大無数劫を経る」等といっているのをみてみると、既に三大無数劫といっているのであるから、これは三蔵経や四阿含経をさして顕教といっているのであって、権大乗教までをいうのではない。ましてや法華経の実大乗教までは全くいわないのである。

語訳
法華宗
 法華経を依経とする宗派のこと。もとは天台宗の異名(「天台法華宗」)であったが、日蓮大聖人が法華経の正義を宣揚され、自らの立場を法華宗と称されてから、大聖人が開いた宗をさすようになった。ここでは天台宗をさす。

別教
 二乗を除いて菩薩のためのみに説いた教えのこと。天台大師が四教義で立てた化法の四教(釈尊の一代聖教を内容の面から蔵・通・別・円の四教に分別したもの)の一つ。界外の惑を断ずる教であるゆえに蔵・通とも異なり、隔歴(きゃくりゃく)の三諦(空仮中の三諦が別々に説かれていて、円融相即していない)を説くゆえに円教とも別なので別教という。
〈追記〉
 上記に別教の謂いで「界外の惑を断ずる教」とある。界とは三界(欲界・色界・無色界。六道の迷いの世界)の意。惑は塵沙惑(事物に対する無知)を指す。世間の事物は無数にあり、それに対して無知があるが、自己の修行のためには障害とならないので二乗はこれを断じない。しかし他を教化するためには塵沙惑が障害となり、菩薩はこれを断じなければならない。塵沙惑には界内の塵沙と界外の塵沙とがある。界外の塵沙(惑)とは三界の外の塵沙惑のこと。極楽浄土の水鳥樹林などの様子がわからないのは界外の惑である。界外の事である菩薩の歴劫修行の様相を明かし、五十二位を明らかにするのが別教である。

大論
 大智度論の略称。百巻。竜樹造と伝えられる。姚秦(ようしん)の鳩摩羅什(くまらじゅう)訳。摩訶般若波羅蜜経釈論ともいう。内容は摩訶般若波羅蜜経(大品般若経)を注釈したもので、序品を第一巻から第三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。大品般若経の注釈にとどまらず、法華経などの諸大乗教の思想を取り入れて般若空観を解釈し、大乗の菩薩思想や六波羅蜜などの実践法を解明しており、単に般若思想のみならず仏教思想全体を知るための重要な文献であるとともに、後の一切の大乗思想の母体となった。

二乗作仏
 二乗(声聞・縁覚の衆生)が成仏すること。爾前の諸経では、自己の解脱のみに執着し利他に欠ける二乗は永久に成仏できないと仏から弾呵されたが、法華経迹門では、一念三千の法門(あらゆる衆生が成仏できるという法理)が説かれて二乗に成仏の記別が与えられた。

三大無数劫(むしゅこう)
 小乗の菩薩が修行して仏果を得るまでの数えきれないほど長遠の期間のこと。三大阿僧祇劫・三阿僧祇劫・三僧祇劫ともいう。「無数」は梵語アサンキャ(asaṃkhya)の訳で、阿僧祇はその音写。

四阿含経
 長阿含(じようあごん)・中阿含・増一阿含(ぞういちあごん)・雑阿含(ぞうあごん)の四部の阿含経のこと。長阿含経二十二巻(長文の経典を集めたもので、種々の法門を説く)、中阿含経六十巻(不長不短の経文を集めたもので、因縁・譬喩などを説く)、増一阿含経五十一巻(三業・四諦・五陰などの法数〔数でまとめられた教義上の術語〕にしたがい、一法から十一法に至るまで配列された教説・禁律など)、雑阿含経五十巻(前三者の残りを集めたもの)、合わせて百八十三巻に、雑阿含経十六巻(訳者不明)を加え、阿含部として百九十九巻となる。

権大乗
 仏の真実の教えである実大乗教に衆生を誘引するため、方便として権(仮)に説かれた大乗教をいう。大乗義章巻九には「大に二あり、一には実大、二には権大なり」とある。

実大乗
 仏の真実究竟の悟りをそのまま説き顕した大乗教のこと。一切衆生の成仏を説き明かした法華経の教えをさす。権大乗に対する語。

講義
 第四問答の答えが続いているところである。ここでは四つの難詰のうち、大日経等の説処が③法界宮あるいは色究竟天、他化自在天などであるのに対し、法華経は地上の霊鷲山で説かれているにすぎないとの難詰と、大日経等の対告衆が菩薩という高位の衆生であるのに対し、法華経のそれは二乗というより低い衆生にすぎない。という難詰に答えられるところである。
 まず、説処については大日如来が説いた処とされる法界宮とは色究竟天にあるのか、あるいはまた、どこにあるのか、と反問された後、いずれにしても色究竟天とか他化自在天とかいうのは天台法華宗の立場では別教の仏の説処となっており、真言宗が言うほど立派な処ではない、と破られている。別教とは華厳・梵網等の権教の経々で、実教の法華経に劣ることはいうまでもないからである。
 色究竟天や他化自在天などというのは人間世界を離れた世界であり、結局は架空の世界に他ならない。そのような処で説かれたとされていること自体、要するに観念の中で想定されたものであることを物語っているのである。
 次に、対告衆の問題については、問者は大日経等が菩薩という高位の衆生を対告衆としていることを、経の内容の高度さの証拠のようにいっているが、大聖人は「菩薩の為に説くとも高名もなし」と一言で破され、成仏しがたい二乗を成仏させてこそ密教といえるのであると述べられている。
〝高名〟ということは、どれだけ多くの救いがたい衆生を救うか、による。菩薩は自身ですでに修行を積んできている衆生であるから、菩薩を成仏させた教えであるといっても、誇れる功績にはならない。最も成仏しがたい二乗を成仏させれば、それより成仏しやすい他の一切衆生も成仏させられるし、最も功徳は大きいといえるのである。
 したがって、竜樹の大智度論には、二乗作仏を説く教えこそ密教であり、これを説かない教えは顕教であるとしており、この立て分けによれば、二乗作仏を説かない真言の三部経は顕教であり、二乗作仏を説く法華経こそ密教となると結論されている。

 大論には二乗の仏に成るを密教と云ひ二乗作仏を説かざるを顕教と云へり

 この文は竜樹の大智度論巻百の一節を取意されて、正しい意味での顕教と密教との立て分けの基準を明確にされたところである。
 その一節とは「問うて曰く、更に何の法か甚深にして般若に勝るもの有って、而して般若を以って阿難に嘱累し、而して余の経をば菩薩に嘱累せしや。答えて曰く、般若波羅蜜は秘密の法に非ず、而して法華等の諸経には阿羅漢の受決作仏を説き、大菩薩は能(よ)く受持し用う。譬えば大薬師の能く毒を以って薬と為すが如し」という文である。
 ここは一つの問答になっていて、まず、般若波羅蜜(般若経)を声聞の阿難に付嘱し、他の経を菩薩に付嘱したのは、他の経の中には般若波羅蜜より勝る深い法が説かれているからか、と問うている。
 その答えとして、般若波羅蜜はまだ秘密の法ではないのに対し、法華経等の諸経には阿羅漢(二乗)の作仏が説かれていて(秘密の法であるから)、大菩薩のみがこの法をよく受けたもち、用いることができるのである、と述べている。
 この文の意をとって、大聖人は二乗の作仏を説いた教えこそが〝秘密の法〟すなわち、密教であり、これを説かない教えは秘密の法ではないから顕教になるとされているのである。
 もともと、顕教と密教の教判は大智度論巻四に「仏法に二種有り、一には秘密、二には現(ある本では顕)示」とあるのを、弘法が自宗の優位性を示すために利用したにすぎないのである。
 弘法がこの教判を展開したのが前述のように弁顕密二教論等である。それによれば、顕教は報身・応身の釈迦仏が衆生の機根に応じて顕(あらわ)に分かりやすく説いた教えのことであり、密教は法身の大日如来が自ら悟りの法を享受し楽しみつつ示した三密(身密・語密・意密)の法門で、菩薩の智慧をもってしても知りがたい深遠秘奥の教えであるから密教というとしている。そして、この密教に当たるのが大日経等の真言三部経であり、真言三部経以外の釈尊が説いた法華経等の教えは顕教であるとしたのである。
 この弘法の説を受けついでいる真言宗の主張に対し、大聖人は真言経は法身・大日如来の説法であるということの愚昧ぶりを指摘される。とともに、秘密ということの本来の意義は二乗作仏を可能にするか否かにあることを大智度論の真義に立ち返って明らかにされ、弘法が立てた真言経と法華経の勝劣を逆転されているのである。
 なお、真言見聞には「顕密の事」という項目を設けられて次のように破折されているので引用しておきたい。
「抑(そもそも)大日の三部を密教と云ひ法華経を顕教と云う事金言の所出を知らず、所詮真言を密と云うは是の密は隠密の密なるか微密(みみつ)の密なるか、物を秘するに二種有り一には金銀等を蔵に籠(こ)むるは微密なり、二には疵(きず)・片輪等を隠すは隠密なり、然れば則ち真言を密と云うは隠密なり其の故は始成と説く故に長寿を隠し二乗を隔つる故に記小無し、此の二は教法の心髄・文義の綱骨なり、微密の密は法華なり、然れば則ち文に云く四の巻法師品に云く『薬王此の経は是れ諸仏秘要の蔵なり』云云、五の巻安楽行品に云く『文殊師利・此の法華経は諸仏如来秘密の蔵なり諸経の中に於て最も其の上(かみ)に在り』云云、寿量品に云く『如来秘密神通之力』云云、如来神力品に云く『如来一切秘要之蔵』云云。しかのみならず真言の高祖・竜樹菩薩・法華経を秘密と名づく二乗作仏有るが故にと釈せり、次に二乗作仏無きを秘密とせずば真言は即ち秘密の法に非ず(中略)此等の経論釈は分明に法華経を諸仏は最第一と説き秘密教と定め給へるを経論に文証も無き妄語を吐き法華を顕教と名づけて之を下し之を謗ず豈大謗法に非ずや」(一四四㌻~一四五㌻)と。
 ここでは、秘密の密に二種類あり、金銀等の宝物が蔵に収まっていて見えないがいつでも取り出せるような微密と、疵などの欠陥を隠す隠密とがあるとされ、法華の密が微密であるのに対し、真言のそれは隠密であると断じられている。すぐれた真理が含まれているが、それが深いため凡夫・衆生には捉えがたいのが「微密」であり、欠陥があるので隠さなければならないのが「隠密」である。真言経典は、大日如来がどこかの時点で〝始めて成った〟仏にすぎず、また二乗作仏も説かないなど欠点だらけの経であるのに、それを隠しているのであると指摘されている。 

 随って諸仏秘密の蔵を説けば子細なし

 法華経こそが密教であることの文証を挙げておられるところである。法華経法師品第十に「此の経は是(こ)れ諸仏の秘要の蔵(ぞう)なり」(『妙法蓮華経並開結』三六二㌻ 創価学会刊)とあり、安楽行品第十四には「此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵にして」(同・四四三㌻)とあり、如来神力品第二十一には「如来の一切の秘要の蔵……皆な此の経に於いて宣示顕説す」(同・五七二㌻)とある。これらの文を要約して「諸仏秘密の蔵」とされている。「子細なし」とは、異議を挟む余地はないとの意で、この言葉に法華経が密教であることが文句なく明白であるとされ、にもかかわらず、世間の人が真言密教は法華経に勝ると言っているのは「いかやうに意得たるや」と嘆かれている。

 但し「若し顕教に於て修行する者は久く三大無数劫を経」等と云えるは……法華実大乗までは都て云わざるなり」

 ここで引用された文は金剛頂瑜伽金剛薩埵五秘密修行念誦儀軌一巻からのものである。「顕教に於いて修行する者は、久しく三大無数劫を経、然る後に無上菩提を証得す。……若し毘盧遮那仏自受用身所説の内証自覚聖智の法、及び大普賢金剛薩埵他受用身の智に依らずば、則ち現生に於いて曼荼羅阿闍梨に遇逢し、曼荼羅に得入し……加持威神の力に由る故に須臾の頃に於いて、当に無量三昧耶、無量陀羅尼門を証すべし」とある。
 これは、顕教を修行すると三大無数劫という非常に長い時を経過して後にやっと無上菩提を達成するのに対して、毘盧遮那仏(大日如来)の密教の修行をすると、現生において須臾という短い時間で無量三昧耶、無量陀羅尼門を達成すると述べたものである。
 この文によって、密教が顕教に勝っているとする言い分に対し、大聖人は、三大無数劫というのは小乗教に説かれた修行期間であることから、この文中の「顕教」とはあくまで三蔵(経蔵・律蔵・論蔵)すなわち、増一・中・長・雑の四阿含経の小乗教をさしているのであり、権大乗までは含まれておらず。ましてや実大乗の法華経を含むものではないと仰せられているのである。
 

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