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            十法界明因果抄

       第三章 謗法こそ堕地獄の業因と明かす

本文(四二七㌻九行~四二八㌻一七行)
 問うて云く十悪五逆等を造りて地獄に堕するは世間の道俗皆之を知れり謗法に依つて地獄に堕するは未だ其の相貌(そうみょう)を知らざる如何(いかん)。
 答えて云く堅慧菩薩(けんねぼさつ)の造・勒那摩提(ろくなまだい)の訳・究竟一乗宝性論(くきょういちじょうほうしょうろん)に云く「楽(ねがっ)て小法を行じて法及び法師を謗じ○如来の教を識らずして説くこと・修多羅(しゅたら)に背いて是(これ)真実義と言う」文、此の文の如くんば小乗を信じて真実義と云い大乗を知らざるは是れ謗法なり、天親菩薩の説・真諦三蔵の訳・仏性論に云く「若(も)し大乗に憎背(ぞうはい)するは此は是一闡提(いっせんだい)の因なり衆生をして此の法を捨てしむるを為(もっ)ての故に」文、此の文の如くんば大小流布の世に一向に小乗を弘め自身も大乗に背き人に於ても大乗を捨てしむる是を謗法と云うなり、天台大師の梵網経の疏(しょ)に云く「謗は是れ乖背(けはい)の名・絓(すべ)て是れ解(げ)・理に称(かな)わず言(ことば)実に当らず異解(いげ)して説く者を皆名(なづ)けて謗と為すなり己が宗に背くが故に罪を得」文。
 法華経の譬喩品に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば則ち一切世間の仏種を断ぜん乃至其の人命終(みょうじゅう)して阿鼻獄に入らん」文、此の文の意(こころ)は小乗の三賢已前・大乗の十信已前・末代の凡夫の十悪・五逆・不孝父母・女人等を嫌わず此等法華経の名字(みょうじ)を聞いて或は題名(だいみょう)を唱え一字・一句・四句・一品・一巻・八巻等を受持し読誦し乃至亦(また)上の如く行ぜん人を随喜し讃歎する人は法華経よりの外、一代の聖教を深く習い義理に達し堅く大小乗の戒を持てる大菩薩の如き者より勝れて往生成仏を遂ぐ可(べ)しと説くを信ぜずして還つて法華経は地住(じじゅう)已上の菩薩の為・或は上根・上智の凡夫の為にして愚人・悪人・女人・末代の凡夫等の為には非(あら)ずと言わん者は即ち一切衆生の成仏の種を断じて阿鼻獄に入る可しと説ける文なり。
 涅槃経に云く「仏の正法に於て永く護惜建立(ごしゃくこんりゅう)の心無し」文、此の文の意は此の大涅槃経の大法世間に滅尽せんを惜まざる者は即ち是れ誹謗の者なり、天台大師法華経の怨敵を定めて云く「聞く事を喜ばざる者を怨(おん)と為す」文、謗法は多種なり大小流布の国に生れて一向に小乗の法を学して身を治め大乗に遷(うつ)らざるは是れ謗法なり、亦華厳・方等・般若等の諸大乗経を習える人も諸経と法華経と等同の思(おもい)を作(な)し人をして等同の義を学ばしめ法華経に遷らざるは是れ謗法なり、亦偶(たまたま)円機有る人の法華経を学ぶをも我が法に付けて世利を貪るが為に汝が機は法華経に当らざる由を称して此の経を捨て権経に遷らしむるは是れ大謗法なり、此(か)くの如き等は皆地獄の業なり人間に生ずること過去の五戒は強く三悪道の業因は弱きが故に人間に生ずるなり、亦当世の人も五逆を作る者は少く十悪は盛に之を犯す亦偶(たまたま)後世を願う人の十悪を犯さずして善人の如くなるも自然に愚癡(ぐち)の失(とが)に依つて身口(しんく)は善く意は悪しき師を信ず、但我のみ此の邪法を信ずるに非ず国を知行(ちぎょう)する人・人民を聳(すすめ)て我が邪法に同ぜしめ妻子・眷属(けんぞく)・所従の人を以て亦聳め従え我が行を行ぜしむ、故に正法を行ぜしむる人に於て結縁(けちえん)を作(な)さず亦民・所従等に於ても随喜の心を至さしめず、故に自他共に謗法の者と成りて修善・止悪の如き人も自然に阿鼻地獄の業を招くこと末法に於て多分之れ有るか。

通解
 問うて言う。十悪や五逆罪等を犯して地獄へ堕ちることは、世間の僧俗も皆知っているが、謗法によって地獄へ堕ちるということは、未だその相貌(そうみょう)を知らないがどうか。
 答えて言う。堅慧菩薩(けんねぼさつ)の造で、勒那摩提(ろくなまだい)の訳の究竟一乗宝性論(くきょういちじょうほうしょうろん)には「願って小乗の法を修行して、大乗の法及び法師を謗り……如来の教えを識らないで、法を説くことは修多羅(しゅたら)に背き、しかもこれが真実義であると言う」とある。この文のとおりならば、小乗教を信じて真実義であると言い、大乗教を知らないことは、これ謗法である。天親菩薩が説き、真諦三蔵が訳した仏性論には「大乗教を憎み背くは、これ一闡提の因である。衆生にこの法を捨てさせてしまうからである」とある。この文のとおりであるならば、大乗教と小乗教の流布の世に、ただ小乗教を弘め、自身も大乗教に背き、人にも大乗教を捨てさせることを謗法というのである。天台大師の梵網経の疏には「謗はこれ乖背(けはい)の名である。解釈が道理にかなわず、言うことが真実ではなく、異なった解釈をして説く者を、皆名づけて謗というのである。自分の宗に背くために罪を得るのである」とある。
 法華経の譬喩品第三には「若(も)し人が法華経を信じないで毀謗(きぼう)するならば、一切世間の仏になる種を断つことになる(中略)その人は命終えて阿鼻地獄に入るであろう」とある。この文の意は〝小乗教の三賢位以前の者、大乗教の十信位以前の者、末代の凡夫の十悪や五逆罪を犯した者、父母に対して不孝の者、女人等を嫌うことなく、これらの者が法華経の名字(みょうじ)を聞いて、あるいは題名(だいみょう)を唱え、一字・一句・四句・一品・一巻・八巻等を受持し、読誦し……また上のように修行する人を随喜し讃歎する人は、法華経より外の一代の聖教を深く習って、その義理に通達し、堅く大乗・小乗の戒律を持つ大菩薩のような者よりも勝れて、往生成仏を遂げることができる〟と説くのを信じないで、かえって法華経は十地・十住以上の菩薩のためや、上根・上智の凡夫のための経であり、愚人・悪人・女人・末代の凡夫等のための経ではないという者は、一切衆生の成仏の種を断って、阿鼻地獄に入るのであると説かれた文である。
 涅槃経には「仏の正法を永く護惜建立(ごしゃくこんりゅう)する心がない」とある。この文の意は、この大涅槃経でいう大法が世間に滅し尽くそうとしているのを惜しまない者は、すなわちこれ誹謗の者である。天台大師は法華経の怨敵を定めて「法を聞くことを喜ばない者を怨(おん)というのである」と言われている。謗法は多種がある。大乗教・小乗教が流布している国に生まれて、ひたすら小乗教の法ばかりを学び、身を治め、大乗教に遷(うつ)らないのは、謗法である。また華厳経・方等経・般若経等の諸大乗経を習学する人も、諸経と法華経とは同等であると思い、人にも同等であるとの義を学ばせ、法華経に遷らないのは、謗法である。また、たまたま円教を受け入れる機根の者が法華経を学ぶのを、自分の法に引きつけて世法の利益を貪(むさぼ)るために、汝の機根は法華経に適しないといって、法華経を捨てさせ権経に遷らせるのは、これ大謗法である。これらのことは、皆地獄へ堕ちる業因である。人間に生まれることは、過去に持った五戒の力が強く、三悪道に堕ちる業因が弱いから人間に生まれるのである。また、今の世の人も、五逆罪を犯す者は少なく、十悪は盛んにこれを犯している。たまたま、後世を願う人が十悪を犯さないで、善人のようではあっても、自然に愚癡の失によって、身と口は善いが、意は悪い師を信じている。ただ自分のみこの邪法を信ずるだけではなく、国を治める人が、人民をすすめて邪法に同意させ、また、その妻子や眷属、所従の人もすすめ従わせて、自分と同じ邪法を修行させようとして、正法を修行させようとする人とは縁を結ばず、また民や所従等にも正師に対して随喜の心を起こさせない。このため、自他ともに謗法の者となって、善を修し、悪を止めているようにみえる人も、自然に阿鼻地獄に堕ちる業因を招くことは、末法においては多分にあることなのである。

語訳
十悪
 身口意(しんくい)の三業(さんごう)にわたる、最も甚だしい十種の悪い行為。倶舎論巻十六等に説かれる。身の三種、口の四種、意の三種、合計十種の悪業をいう。十不善業ともいう。①殺生、②偸盗(ちゅうとう)、③邪婬、④妄語(うそをつく)、⑤綺語(お世辞をいう)、⑥悪口、⑦両舌(二枚舌を使う)、⑧貪欲、⑨瞋恚(怒り)、⑩愚癡(癡か)または邪見。

謗法
 誹謗正法(ひぼうしょうほう)の略。正法、すなわち釈尊の教えの真意を説いた法華経を信じず、かえって反発し、悪口を言うこと。これには、正法を護持し広める人を誹謗する、謗人も含まれる。護法に対する語。日蓮大聖人は、文字通り正法を謗ることを謗法とするだけでなく、たとえ法華経を信じていても、法華経を爾前経より劣る、あるいは同等であると位置づけて受容することも、釈尊が法華経をあらゆる経に対して第一とした教判に背くので謗法とされている。そして、諸宗が犯しているこの謗法こそが、万人成仏という仏の根本の願いに背き人々を不幸に陥れるものであるので、仏法上、最も重い罪であると人々や社会に対して明示し、その誤りを呵責された。

堅慧菩薩(けんねぼさつ)
 生没年不明。梵名サーラマティ(Sāramati)の訳。六世紀頃(四、五世紀頃との説もある)の中インドの学僧。大小乗を学び、とくに大乗教を修め、如来蔵思想を展開した「究竟一乗宝性論(くきょういちじょうほうしょうろん)」の著者とされる。しかし、この宝性論はチベット訳では弥勒、無著の著とされ、疑問が残されている。他に「大乗法界無差別論」一巻などの著がある。

勒那摩提(ろくなまだい)
 生没年不明。梵名ラトナマティ(Ratnamati)の音写。宝意と訳す。 五、六世紀の中インドの訳経僧。博識で経文の一億偈を誦し、禅法にも通じていたといわれる。北魏の正始五年(五〇八年)洛陽に入り、勅命によって菩提流支(ぼだいるし)とともに「十地経論」十二巻を訳出した。他に「妙法蓮華経(論)優波提舍(うばだいしゃ)」一巻、「究竟一乗宝性論」四巻等、合わせて六部二十四巻を翻訳した。

究竟一乗宝性論(くきょういちじょうほうしょうろん)
 四巻。堅慧菩薩(けんねぼさつ)の作といわれる。勒那摩提(ろくなまだい)の訳。単に宝性論ともいう。一切衆生が如来蔵(仏性)を具えているとして、一乗仏性をとなえ、たとえ一闡提の者でも長い間には必ず成仏するとしている。

修多羅
 梵語スートラ(sūtra)の音写で、経と訳される。十二分経の一。散文で教理を説いたもの。契経(かいきょう)ともいう。

天親(てんじん)菩薩 
 生没年不明。四~五世紀ごろのインドの学僧。梵名ヴァスバンドゥ(Vasubandhu)、音写して婆薮槃豆(ばすはんず)と記す。旧訳(くやく)で天親(てんじん)、新訳では世親(せしん)という。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国(けんだらこく)の出身。無著(むじゃく)の弟。はじめ、阿踰闍国(あゆじゃこく)で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論(だいびばしゃろん)を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。その時、小乗に固執してきた非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後、舌をもって大乗を讃して罪を償うようにと諭(さと)され、大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈(しょうだいじょうろんしゃく)」十五巻、「仏性論」四巻など多数あり、千部の論師といわれる。

真諦三蔵
(四九九年~五六九年)。梵名パラマールタ(Paramārtha)の漢訳名。音写して波羅末陀(はらまだ)。西インド優禅尼(うぜんに) 国(ウッジャイニー)の人。中国・南北朝時代の梁・陳代に活躍した訳経僧。訳経三蔵とも呼ばれる。梁の武帝に招聘(しょうへい)されたが侯景の乱にあい、各地を転々としながら訳経と著述に専念した。摂論宗の祖とされる。訳出した経論には「摂大乗論(しょうだいじょうろん)」三巻、「金光明経」「仏性論」等多数ある。

仏性論
 四巻。天親(世親)造、中国・陳代の真諦訳。法華経・勝鬘経などの諸経や瑜伽論(ゆがろん)など多くの文を引用して、仏性の義を詳しく論じている。縁起分・破執分・顕体分・弁相分の四分十六品から成る。最初に仏が一切衆生には本来仏性が具わっていることを説いた旨を明かし、次に外道・小乗・大乗の僻見の徒を斥破して、一切衆生に仏性のあることを論証している。最後に三因・三性・如来蔵及び十相など、仏性の体・相を明かして、仏性の本性を論じている。

天台大師
(五三八年~五九七年)。中国・南北朝から隋代にかけての人で、中国天台宗の開祖。智者大師ともいう。諱(いみな)は智顗(ちぎ)。字(あざな)は徳安。姓は陳氏。荊州華容県(湖南省)に生まれる。十八歳の時、湘(しょう)州(湖南省長沙市)果願寺の法緒(ほうしょ)について出家し、次いで律を修し、方等(ほうどう)の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(五六〇年)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにした。

梵網経の疏(しょ)
 二卷。中国・隋代の天台大師講述、章安大師記。菩薩戒義疏のこと。梵網経義記ともいう。

三賢
 小乗教で説く声聞の修行の位のこと。①五停心観(ごじょうしんかん)(数息(しゅそく)・不浄・慈悲・因縁・界分別〔界方便〕の五観を修して貪欲や愚癡等の五種の惑障を克服する位)、②別相(想)念処(身・受・心・法の四念処がそれぞれ不浄・不楽〔苦〕・無常・無我であると一々に観じて四顚倒を破す位)、③総相(想)念処(四念処の全体が不浄・不楽〔苦〕・無常・無我であると観ずる位)をいう。これに四善根を合わせたものを七賢といい、その場合、四善根を内凡として三賢を外凡(げぼん)とする。

十信(じっしん)
 菩薩の修行の位である五十二の階位のうち下位から数えて第十位までをいう。菩薩として持つべき心のあり方を身につける位。三惑(見思惑・塵沙惑・無明惑)のうちの見思惑すらまだ断じていない位で、別教の菩薩の位としては外凡、円教の菩薩の位としては内凡と位置づけられる。十信の内容は、①信心(清浄な信を起こす位)②念心(念持して忘れることのない位)③精進心(ただひたすらに善業を修する位)④定心(心を一つの処に定めて動じない位)⑤慧心(諸法が一切空であることを明確に知る位)⑥戒心(菩薩の清浄な戒律を受持して過ちを犯さない位)⑦回向心(身に修めた善根を菩提・覚りに回向する位)⑧護法心(煩悩を起こさないために自分の心を防護して仏法を保持する位)⑨捨心(空理に住して執着のない位)⑩願心(種々の清浄な願いを修行する位)をいう。

地住(じじゅう)
 ①十地と②十住をいう。①十地は「じゅうじ」、「じっち」とも読む。地とは能生・所依の義で、その位に住し、その位の法を持つことによって果を生成するものをいう。経典によってさまざまな十地があるが、ここでは菩薩の十地で、菩薩の修行における五十二の階位のうち下位から数えて第四十一位から第五十位までをいう。下位から歓喜地(かんぎじ)・離垢地(りくじ)・発光地・焔慧地(えんねじ)・難勝地・現前地・遠行地(おんぎょうじ)・不動地・善慧地(ぜんねじ)・法雲地である。②十住(じゅうじゅう)は真実の空の理に安定して住する位である。菩薩の修行における五十二の階位のうち下位から数えて第十一位から第二十位までをいう。下位から発心住(ほっしんじゅう)〔初住〕・治地住・修行住・生貴住(しょうきじゅう)・方便具足住・正心住(しょうしんじゅう)・不退住・童真住・法王子住・灌頂住である。

講義
 無間地獄に堕ちる業因である謗法の内容について、経文と道理を挙げて詳しく明かされている。
 初めに、十悪(殺生・偸盗・邪婬・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・愚癡)や五逆罪を犯せば地獄に堕ちることは世間の僧俗ともに知っているが、謗法によって地獄に堕ちるということは、一般にその様相を知らないがどうなのか、との問いを設けられている。
 日蓮大聖人は、爾前権経に依る諸宗の立てる邪義は正法を誹謗するものであり、堕地獄の業因であると責められたが、世間の僧俗は諸宗の信仰が無間地獄に堕ちる業因であることを知らず、かえって激しく反発し、大聖人に怨嫉した。それに対して大聖人は、文理を挙げて謗法とはどういうものであるかを明かされているのである。
 初めに、堅慧(けんね)作、勒那摩提(ろくなまだい)訳の究竟一乗宝性論にある「願って小乗の法を修行して、大乗の法や法師を誹謗し、仏の教えに権と実があることを知らずに、その説くところは経の意に背きながら、しかもそれが真実だと言う」(取意)との文を引かれている。
 つまり、この文によれば、小乗を信じて仏の真実義(本意)であるといい、大乗を知らない者は謗法である、と断じられている。大乗の法があるのに、小乗の法に執着して、小乗こそ正しいと思って、大乗を知らない(知ろうとしない)ことが、すでに謗法になる、ということである。
 次に、天親作、真諦(しんだい)訳の仏性論にある「大乗教を憎み背くことは、一闡堤(いっせんだい)の因である。それは衆生に大乗を捨てさせるからである」(取意)との文を引かれている。そして、この文によれば、大乗と小乗がともに流布している世において、ただ小乗だけを弘めて自身も大乗に背き、人にも大乗を捨てさせることを謗法というのである、とされている。
 一闡堤とは、略して闡堤ともいい、断善根・信不具足・極悪・大貪と訳し、仏の正法を信ぜず、誹謗し、誹謗の重罪を悔い改めない不信、謗法の者をいい、自身が大悪に背くだけでなく、人をも背かせることが謗法になるのである。
 次に、天台大師の梵網経の疏(しょ)にある「謗とは乖背(けはい)という義で、解釈が道理にかなわず、言う言葉が事実にあたらず、異なった解釈をして人に説く者を皆、謗というのである。我が宗の正義に背くので謗法の罪となるのである」(取意)との文を引かれている。乖も背もそむくという意味であり、実教に背き、正法に背く言葉や教義を述べることが謗法となる、ということである。
 次に、法華経の譬喩品第三の「若(も)し人は信ぜずして 此の経を毀謗(きぼう)せば 則(すなわ)ち一切世間の 仏種を断ぜん。乃至其の人は命終(みょうじゅう)して 阿鼻獄(あびごく)に入(い)らん」(『妙法蓮華経並開結』一九八㌻ 創価学会刊)の文を引かれ、その意を詳しく述べられている。
「若し人は信ぜずして」とは、何を信じないことをさすのかという点について、法華経が小乗教の位でいえば三賢以前、大乗教の位では十信以前、末法の凡夫で十悪や五逆罪を犯した者、父母に不幸の者、女人等のだれ人であれ、法華経の名字を聞いて、題目を唱えるか、あるいは法華経の一字・一句・四句・一品・一巻・八巻等を受持し、読誦したり、または他人がそのように実践するのを見て喜び、ほめたたえる者は往生・成仏をとげるであろうと説かれても、それを信じないことであると仰せになっている。
 要するに法華経が一切衆生の成仏の経であることを信じないで、高位の菩薩や上根の凡夫のための経であるなどということが「此の経を信ぜず」にあたるのであり、そのような人は阿鼻獄に入るであろうという経文であると仰せられているのである。
 このようにいわれているのは背景に念仏宗の邪義があったと考えられる。当時、浄土宗などは「法華経は凡夫の機には合わないので、末法は念仏による以外に往生の法はない」「法華経は道理が深くて衆生の愚鈍な智慧では理解が困難であり、一人も成仏する者はない」等といって法華経を誹謗していたので、その邪義を破折されたのである。念仏無間地獄抄には「念仏者云く我等が機は法華経に及ばざる間信ぜざる計(ばか)りなり毀謗(きぼう)する事はなし……今の念仏門は不信と云い誹謗と云い争(いかで)か入阿鼻獄の句を遁(のが)れんや」(九七㌻)と仰せになっている。
 次に、涅槃経の「仏の正法を永く護惜建立(ごしゃくこんりゅう)する心の無い者」(取意)との文を引かれて、大涅槃経でいう大法が世に滅び尽きようとするのを見て、惜しもうとしない者は誹謗(謗法)の者である、との意であることを示されている。護惜建立の心とは、正法を護り愛惜するとともに、正法を打ち立てて興隆せしめようとする心をいう。正法を誹謗することだけが謗法になるのではなく、正法が滅びようとするときに、それを惜しみ護ろうとする心がないことも謗法になるのである、という厳しい仰せなのである。
 次に、天台大師の言葉として、「法華経を聞くのを喜ばない者が、法華経の怨敵である」(取意)と定めた文を引かれている。正法を聞くことを喜ばないことも、正法に対する怨敵であり、謗法になるという意なのである。なお、この言葉は天台大師には見当たらず、妙楽大師の言葉と思われる。開目抄には「妙楽云く『障り未だ除かざる者を怨と為し聞くことを喜ばざる者を嫉と名く』等云云」(二〇一㌻)とある。

 謗法は多種なり……

 更に、その他の謗法の諸相を挙げられている。
 まず、大乗・小乗がともに弘まっている国に生まれ、小乗のみを学んで自身の身を修め、大乗へ移らないのは謗法である、とされている。低い教えの小乗教に執着して、より高い大乗の法を求めようとしないことが謗法になる、ということである。これは、大聖人当時でいえば、律宗等がこれにあてはまると考えられる。
 また、華厳・方等・般若等の諸大乗教を学ぶ人でも、諸経と法華経に説かれている教義・法理は等しいか同じだと思い、人にも等同だと教え、法華経に移ろうとしないのは謗法である、とされている。法華経を他の諸大乗教と等同と考えて、法華経を信じようとしないことが謗法になる、ということである。華厳宗や真言宗が、華厳経や密教に説かれる法理は法華経と同じ一念三千・久遠実成である、等と説いているのがこれにあたるといえよう。
 更に、たまたま法華経を信ずる機根の人が法華経を学ぼうとするのを、名聞名利を貪るために自分の宗旨に付けようとして、汝の機根は法華経には適しないと言って法華経を捨てさせ、権教に移らせる事は大謗法である、とされている。これは、浄土宗等の邪義をさしている。こうした謗法の行為は、皆、地獄に堕ちる業因となるのである。
 結論として、人間に生まれるということは、過去の世に五戒を持(たも)った果報が強く、三悪道の業因が弱いからであり、当世の人々も五逆罪を犯すものは少ないが、十悪は盛んに犯している。さらに、たまたま後世を願う人がいて十悪を犯さずに善人のようであっても、愚癡の失(とが)によって、身業と口業は善いが、意業において邪法邪師の悪師を信じている。しかもただ自分が邪法を信じるだけでなく、国を治める人や人民を勧めて邪法を信じさせ、妻子・眷属・従者にも勧めて邪法を行じさせ、国主等に正法を弘める正師と縁を結ばせず、また民衆や所従等にも正法を随喜する心を起こさせない。そのために、自他ともに謗法の者となってしまい、善根を修め悪行を止めたような人であっても自然に無間地獄の業を招くことが末法には多分にあるであろう、と仰せになっている。
 末法には、世間的には善人のように見えても、邪法邪義の邪師を信じ、人にも勧めるということによって自他ともに無間地獄に堕ちる者が多いのが実情であると指摘されているのである。
 言い換えると、五逆罪は理解しやすいから犯す人も少ないが、謗法は分かりにくいために、知らずに無間地獄の業因をつくっている場合が多いのであり、謗法こそ恐れなくてはならない、との大聖人のお心と拝されるのである。
            十法界明因果抄

        第二章 地獄界の因縁を明かす

本文(四二七㌻四行~四二七㌻八行)
 第一に地獄界とは観仏三昧経(かんぶつざんまいきょう)に云く「五逆罪を造り因果を撥無(はつむ)し大衆を誹謗し四重禁を犯し虚(むなし)く信施を食するの者此の中に堕す」と阿鼻地獄(あびじごく)なり、正法念経に云く「殺・盗・婬欲・飲酒(おんじゅ)・妄語の者此の中に堕す」と大叫喚地獄なり、正法念経に云く「昔酒を以て人に与えて酔わしめ已(おわ)つて調戯して之を翫(もてあそ)び彼をして羞恥せしむるの者此の中に堕す」と叫喚地獄なり、正法念経に云く「殺生・偸盗(ちゅうとう)・邪婬の者此の中に堕す」と衆合地獄(しゅごうじごく)なり、涅槃経に云く「殺に三種有り謂(いわ)く下中上なり○下とは蟻子(ぎし)乃至一切の畜生乃至下殺(げせつ)の因縁を以て地獄に堕し乃至具(つぶさ)に下の苦を受く」文。

通解
 第一の地獄界とは、観仏三昧経には「五逆罪を犯し、因果の道理を無視し、大乗教を誹謗し、四重禁を犯し、人の布施を無にする者はこの中に堕ちる」とある。これは阿鼻地獄である。正法念経には「殺盗・婬欲・飲酒・妄語の者はこの中に堕ちる」とある。これは大叫喚地獄である。また正法念経には「昔、酒を人にすすめて、酔わせてから、からかいなぶって玩(もてあそ)び、その人を辱(はずかし)めた者はこの中に堕ちる」とある。これは叫喚地獄である。また正法念経には「殺生・偸盗・邪婬の者はこの中に堕ちる」とある。これは衆合地獄である。涅槃経には「殺生に三種がある。下中上である。……下とは蟻(あり)の子ないし一切の畜生である。……下殺(げせつ)の因縁をもって地獄に堕ち、……具(つぶさ)に下の苦を受ける」とある。

語訳
地獄界
 地獄は梵語ナラカ(naraka)の訳で、十界・六道・四悪趣の最下層にあたる境界。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛(けいばく)不自在で、拘束された不自由な状態・境界をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。八熱地獄、八寒地獄、十六小地獄、百三十六地獄など、経典によってさまざまな種類の地獄が説かれている。大乗義章巻八末に「地下の牢獄は是れ其の生処なり。故に地獄という」とある。

観仏三昧経(かんぶつざんまいきょう)
 仏説観仏三昧海経の略。中国・東晋の仏陀跋陀羅(ぶっだばっだら)の訳。十巻。仏が迦毘羅衛城(カピラヴァストゥ)の尼拘楼陀(にくるだ)精舎で、父の浄飯王(シュッドーダナ)や叔母の摩訶波闍波提(マハープラジャーパティー)らのために、観仏三昧(仏を心に観察する瞑想)によって解脱を得ることを教えている。

五逆罪
 理に逆らうことの甚だしい五種類の重罪。無間地獄に堕ちる悪業のゆえに無間業(むけんごう)ともいう。五逆罪には、三乗通相の五逆(五逆の本罪)、大乗別途(べつず)の五逆、同類の五逆(相似(そうじ)の五逆)、提婆の五逆などがある。代表的なものは倶舎論巻十七に説かれる三乗通相の五逆で、一に父を殺し、二に母を殺し、三に阿羅漢を殺し、四に仏身より血を出し、五に和合僧を破る、をいう。

因果を撥無(はつむ)し
 因果応報を否定すること。因果は原因と結果のこと。撥無は排斥して信じないこと。

四重禁
 四重禁戒の略。四波羅夷戒(しはらいかい)ともいう。僧の受持すべき具足戒の一つ。殺生・偸盗・邪婬・妄語の四重罪を犯すことを禁じたもの。以上の重罪を犯すと僧の資格を失い、教団追放となる。

信施
 信者が仏法僧の三宝に供養したもの。

阿鼻地獄(あびじごく)
 阿鼻は梵語アヴィーチ(Avīci)の音写で、訳して無間(むけん)という。苦を受けるのが間断ないことの意。大焦熱地獄の下、欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれているところから阿鼻大城、無間大城ともいわれる。八大地獄の他の七つよりも一千倍も苦が大きいという。五逆罪、正法誹謗の者が堕ちるとされる。

正法念経
 七十巻。正法念処経という。北魏代の般若流支(はんにゃるし)の訳。内容は外道の一人が新しく出家した比丘に身口意の三業について質問したことに端を発し、仏が「正法念処法門」を広説したとされる。三界六道の因果について説かれたもので、七品(十善業道品・生死品・地獄品・餓鬼品・畜生品・観天品・身念処品)からなる。六道のうち、地獄・餓鬼・畜生・天上がその内容であるが、阿修羅は畜生に収められ、人界は全体に関連して述べられている。

大叫喚地獄
 八大地獄(八熱地獄)の第五。等活(とうかつ)・黒縄(こくじょう)・衆合(しゅごう)・叫喚(きょうかん)の四つの大地獄の一切の苦しみの十倍であり、この地獄に堕ちた者はあまりの苦しさに耐えかねて、思わず大きな叫喚(わめきさけぶこと)をあげるので大叫喚地獄という。長阿含経(じょうあごんぎょう)巻十九には「その諸の獄卒、彼の罪人を取って大鉄釜(だいてつふ)中に著(つ)く。熱湯涌沸(ゆふつ)して罪人を煮る。……大叫喚し苦痛辛酸万毒並び至るも、余罪未だ畢(おわ)らざるが故に死せざらしむ。故に大叫喚地獄と名づく」とある。

叫喚地獄
 八大地獄(八熱地獄)の第四。獄卒の過酷な熱による責め苦に耐えられず、罪人が喚(わめ)き叫ぶので叫喚地獄という。

衆合地獄(しゅごうじごく)
 八大地獄(八熱地獄)の第三。数多くの人の苦しみが集合して、罪人の身を責め、害するゆえに衆合といわれる。

涅槃経
 釈尊の入涅槃の様子とその時に説かれた教えを記した経。大・小乗で数種ある。①大乗では、㋑中国・東晋代の法顕訳「大般泥洹経(だいはつないおんぎょう)」六巻、四一八年成立。㋺北涼代の曇無讖(どんむしん)訳「大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)」(北本)四十巻、四二一年成立。㋩劉宋代の慧観(えかん)・慧厳(えごん)・謝霊運(しゃれいうん)訳「大般涅槃経」(南本)三十六巻、四三六年成立で、㋑を参照して㋺の前半を改めたもの。㋥唐代の若那跋陀羅(にゃくなばつだら)訳「大般涅槃経後分」二巻、仏の荼毘(だび)・舎利の分配までの事績を記す。②小乗では、同じく法顕訳「大般涅槃経」三巻、姚秦(後秦)代の鳩摩羅什訳「仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)」等がある。内容について、大乗の涅槃経ではおもに仏身の常住、涅槃の四徳である常楽我浄を説き、一切衆生悉有仏性を明かして、善根を断じた一闡提(いっせんだい)も成仏すると説いている。また小乗の涅槃経は教理を説いたものではなく、釈尊の入涅槃から舎利の分配までの事跡を記している。

講義
 以下、十界のそれぞれの因縁が詳しく明かされていくのであるが、ここはまず地獄界に堕ちる因縁を明かされている。
 地獄とは、罪業の因によって受ける極苦の世界、また境界をいい、地獄の地とは最低という意味であり、獄とは繫縛(けばく)不自在ということで、苦悩に縛られた不自由な状態・境界を意味している。地獄の種類について、爾前の諸経では八大地獄(八熱地獄)、八寒地獄、十六小地獄、百三十六地獄などが説かれている。
 観仏三昧経に挙げられている無間地獄の業因は、①五逆罪を犯す、②因果の道理を否定する、③大乗経を誹謗する、④四重禁を犯す、⑤信施を無にする、の五つである。
 五逆罪とは、五種の最も重い罪のことで、これが業因となって必ず無間地獄の苦果を受けるので無間業とも五無間ともいう。五逆罪にも、小乗の五逆・大乗の五逆・提婆の五逆等の所説があるが、普通は、父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺し、仏身より血を出す、破和合僧の五罪とされている。
 因果を撥無(はつむ)するとは、因果応報の道理を否定することをいう。撥無とは、排斥して信じないこと。仏法は、あらゆる現象は過去・現在・未来の三世にわたる因果律に貫かれていると説いているので、因果の道理を否定して信じないということは、仏法を否定することになるので地獄の業因となるのである。大乗大集地蔵十輪経巻七にも「因果を撥無すれば善根を断滅す」と説かれている。
 大乗経を誹謗することが堕地獄の業因となることは、次章に詳しく述べられている。
 四重禁とは、四重禁戒とも四波羅夷戒(しはらいかい)ともいい、比丘の受持すべき具足戒の一つで、殺生・偸盗・邪淫・妄語の四重戒を犯すことを禁じたものである。
 殺生とは、生きものを殺すことで、仏教では最も重い罪業の一つとされている。華厳経巻三十五には「殺生の罪は能く衆生をして地獄、畜生、餓鬼に堕せしむ。若し人中に生ずれば二種の果報を得、一には短命、二には多病なり」とある。
 偸盗とは、人の物を盗むこと、または盗人、盗賊のこと。邪淫とは、不正な男女関係を結ぶことをいう。妄語とは、偽りの言葉を言うこと。妄言ともいう。いずれも、十悪業の一つとされている。
 虚しく信施を食するとは、在家の信者が仏・法・僧の三宝に捧げた布施を、僧侶が法のためではなく、自己の欲望を満たすために用いることであろう。
 なお、顕謗法抄には、「(無間地獄の)業因を云わば五逆罪を造る人・此の地獄に堕つべし……又謗法の者この地獄に堕つべし」(四四七㌻)とあり、真言見聞には、「阿鼻の業因は経論の掟は五逆・七逆・因果撥無・正法誹謗の者なり」(一四二㌻)と述べられている。
 次に、正法念経には、殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語の者が地獄に堕ちるとあり、それは大叫喚地獄である、とされている。この五つ(不殺生戒・不偸盗戒・不邪婬戒・不妄語戒・不飲酒戒)は、五戒ともいい、小乗教では在家の男女が持つべき五種の戒と説かれている。この五戒を破る者は、大叫喚地獄の苦悩を受ける、とされているのである。
 なお、顕謗法抄には「殺生・偸盗・邪婬・飲酒の重罪の上に妄語とてそらごとせる者・此の地獄(=大叫喚地獄)に堕つべし、当世の諸人は設(たと)い賢人・上人なんどいはるる人人も妄語せざる時はありとも妄語を・せざる日はあるべからず……若(も)ししからば当世の諸人・一人もこの地獄を・まぬがれがたきか」(四四五㌻)と述べられている。
 次に、正法念経には、酒を人に勧めて酔わせ、なぶってその人を辱めた者は地獄に堕ちるとされ、その地獄は叫喚地獄である、とされている。顕謗法抄には「此の地獄(=叫喚地獄)の業因をいはば殺生・偸盗・邪婬の上に飲酒(おんじゅ)とて酒のむもの此の地獄に堕つべし、当世の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆の大酒なる者・此の地獄の苦免れがたきか……況や酒をうりて人にあたえたる者をや・何(いか)に況や酒に水を入れてうるものをや・当世の在家の人人この地獄の苦まぬがれがたし」(四四五㌻)と述べられている。
 次に、正法念経には、殺生・偸盗・邪淫の者が地獄に堕ちるとされ、その地獄は衆合地獄である、とされている。
 顕謗法抄には「殺生・偸盗の罪の上に邪婬とて他人のつま(妻)を犯す者此の地獄の中に堕つべし」(四四四㌻)と述べられている。
 次に、涅槃経には、殺生に上・中・下の三種があり、蟻などをはじめ一切の畜生を殺すのは下殺であり、その罪によって地獄に堕ち、あらゆる苦悩を受ける、とあることが示されている。
 顕謗法抄には、等活地獄の業因を「ものの命をたつもの此の地獄に堕つ螻蟻蚊蝱(ろうぎもんもう)等の小虫を殺せる者も懺悔(さんげ)なければ必ず此の地獄に堕つべし」(四四三㌻)と明かされており、涅槃経の文は等活地獄の業因を明かした文として引かれたものであろう。
 本抄では、八大地獄(八熱地獄)の幾つかを挙げて、そこに堕ちる因を明かされている。八大地獄とは、等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・大阿鼻地獄(無間地獄)の八つで、等活から黒縄、衆合へと順に苦悩が深くなると説かれている。殺生の罪を犯した者が等活地獄に、殺生と偸盗を犯した者が黒縄地獄に、殺生・偸盗・邪淫を犯した者が衆合地獄に、殺生・偸盗・邪淫・飲酒を犯した者が叫喚地獄に、殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語を犯した者が大叫喚地獄に、五戒を犯したうえに邪見(因果を否定する)の者が焦熱地獄に、五戒を犯し邪見をもったうえに浄戒の比丘尼を犯した者は大焦熱地獄に、五逆罪と謗法の者が無間地獄に堕ちる、とされている。犯した罪業が重いものであるほど、それを業因として受ける苦悩も重く深くなっていくのが、因果の道理であることを示しているといえよう。
 主師親御書には「地獄と申すは八寒八熱乃至八大地獄の中に、初め浅き等活地獄を尋ぬれば此の一閻浮提の下一千由旬(ゆじゅん)なり。其の中の罪人は互に常に害心をいだけり、もしたまたま相見れば猟師が鹿にあへるが如し、各各鉄の爪を以て互につかみさく血肉(けつにく)皆尽きて唯残つて骨のみあり。或は獄卒棒を以て頭よりあなうら(跖)に至るまで皆打ちくだく、身も破れくだけて猶沙(いさご)の如し。焦熱なんど申すは譬えんかた(方)なき苦なり、鉄城四方に回(めぐ)つて門を閉じたれば力士も開きがたく、猛火高くのぼつて金翅(こんじ)のつばさもかけるべからず」(三八八㌻)と述べられている。ただし、このように苦悩を受ける特定の場所があって、罪業を造った者がそこに堕ちるという説き方は一つの譬喩であって、その本義はあくまでも身心に受ける苦悩の状態・境界を表しているのである。
            十法界明因果抄

        第一章 十法界の名目を挙げる

本文(御書全集四二七㌻初~四二七㌻三行)
                    沙 門  日 蓮 撰
 八十華厳経六十九に云く「普賢道(ふげんどう)に入ることを得て十法界を了知す」と、法華経第六に云く「地獄声(じごくしょう)・畜生声・餓鬼声・阿修羅声・比丘声比丘尼声人道・天声天道・声聞声・辟支仏声・菩薩声・仏声」と已上十法界名目なり。

通解
 沙門の日蓮が撰した。
 八十華厳経巻六十九に「普賢道に入ることができて、十法界を了知することができる」とあり、法華経巻六法師功徳品第十には「地獄の声・畜生の声・餓鬼の声・阿修羅の声・比丘の声・比丘尼の声(比丘・比丘尼は人間道である)・天の声(天道である)・声聞の声・辟支仏の声・菩薩の声・仏の声」とある。以上は十法界の名目である。

語訳
八十華厳経
 唐代の実叉難陀(じっしゃなんだ)訳の大方広仏華厳経八十巻のこと。新訳華厳経という。内容は、盧舎那仏(るしゃなぶつ)が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界縁起(無尽縁起)、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界(ゆいしんほっかい)の理を説く。また入法界品には、五十三人の善知識を歴訪し最後に悟りを開いた求道物語を展開し、仏道修行の段階(五十二位)とその功徳を示している。

普賢道(ふげんどう)
 普賢菩薩のさとり。普賢菩薩所有の行願を実践し具足して一切無辺の法界に了達すること。

十法界
 十界と同義。凡聖迷悟(ぼんしょうめいご)の一切の世界を十種に分類したもので、。地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界をいう。「十界」の明文は経論にはないが、法華経法師功徳品第十九には「三千大千世界の下(しも)阿鼻地獄に至り、上(かみ)有頂(うちょう)に至る、其の中の内外(ないげ)の種種の所有(あらゆ)る語言(ごごん)」(『妙法蓮華経並開結』五二九㌻ 創価学会刊)として挙げられているなかに、地獄声・餓鬼声・畜生声・阿修羅声・比丘声・比丘尼声・天声・声聞声・辟支仏声・菩薩声・仏声などがある。また大智度論巻二十七には「四種の道あり。声聞道・辟支仏道・菩薩道・仏道なり……復(また)六種の道あり。地獄道・畜生・餓鬼・人・天・阿修羅道なり」と、十界の名称が示されている。これらの経釈を受けて、天台大師の法華玄義巻二上には「気類相似を取って合して四番と為す。初めに四趣、次に人天、次に二乗、次に菩薩・仏なり」とある。十を通じて法界と名づける理由について、法華玄義巻二上には「今権実を明かすとは十如是を以って十法界に約す、謂(いわ)く六道四聖なり。皆法界と称することは其の意三あり。十数皆法界に依る、法界の外に更に復(また)法なし。能所合称するが故に十法界と言うなり。二には此の十種の法は分斉同じからず、因果隔別し凡聖異あるが故に、之に加うるに界を以ってするなり。三には此の十は皆即ち法界にして一切法を摂す。一切法は地獄に趣く、是の趣過ぎず。当体即ち理にして更に所依なきが故に法界と名づく。乃至仏法界も亦復(またまた)是くの如し」と釈している。

講義
 本抄は、文応元年(一二六〇年)四月二十一日、日蓮大聖人が三十九歳の御時に鎌倉で御述作された御書である。
 大聖人は、正嘉元年(一二五七年)八月の鎌倉大地震を機に、翌年の春に駿河国(静岡県)岩本の実相寺で大蔵経を閲覧され、立正安国論を撰述されて文応元年七月十六日に北条時頼へ提出されている。
 この四月の時点で立正安国論は草案を完成されていたと想像されるが、本抄では、十法界の名目と、各界の因果を詳細に明かされ、とくに仏界については、爾前経と法華経の戒の違いを説き、法華経こそが即身成仏の教えであることを論じられており、立正安国論では〝正法〟が何であるかについては明示されていないが、法華経に〝正法〟があることを門下に示すために著されたとも拝される。
 初めに、華厳経・法華経の文を引いて、十法界の名目が明かされている。
 十法界とは、十界ともいい、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の十種類の衆生の境界をいう。爾前経では、善悪の業によって、死後、来世に生じる世界として十界があると説かれたが、法華経では一人の生命が瞬間瞬間に顕す境界の違いであるとされている。摩訶止観では、この十界のおのおのの因果が混乱せずに境界が定まっているので十法界というとも、十界おのおのは皆、法界に属しているので十法界という、とも述べている。
 最初に引かれている八十華厳経とは、中国・唐代の実叉難陀(じっしゃなんだ)訳の大方広仏華厳経八十巻のことで、中国・東晋代の仏駄跋陀羅(ぶっだばっだら)訳の華厳経六十巻を六十華厳経・旧訳(くやく)華厳経と呼ぶのに対して、八十華厳経・新訳華厳経といわれる。
「普賢道に入ることを得て十法界を了知す」との文は、円融相即の法門を悟った者は、地獄界から仏界までの十法界とその因果を悟り知ることができる、という意である。この文を引かれているのは、「十法界」という名目を明かされんがためであろう。
 次に、法華経の巻六・法師功徳品第十九の文を引かれているが、この文は法華経を受持・読・誦・解説(げせつ)・書写することによって六根清浄の功徳が得られることを明かした一節で「若(も)し善男子・善女人は此の経を受持し、若しは読み若しは誦(じゅ)し、若しは解説(げせつ)し、若しは書写せば、千二百の耳の功徳を得ん。是の清浄(しょうじょう)の耳を以て、三千大千世界の下(しも)阿鼻地獄に至り、上(かみ)有頂(うちょう)に至る、其の中の内外(ないげ)の種種の所有(あらゆ)る語言(ごごん)の音声(おんじょう)、象声(ぞうしょう)・馬声(めしょう)・牛声(ごしょう)・車声・啼哭声(たいこくしょう)・愁歎声(しゅうたんしょう)・螺声(らしょう)・鼓声(くしょう)・鐘声(しゅしょう)・鈴声(りょうしょう)・笑声・語声・男声(なんしょう)・女声(にょしょう)・童子声・童女声・法声・非法声・苦声・楽声・凡夫声・聖人声・喜声・不喜声・天声・竜声・夜叉声・乾闥婆声(けんだっぱしょう)・阿修羅声・迦楼羅声(かるらしょう)・緊那羅声(きんならしょう)・摩睺羅伽声(まごらがしょう)・火声・水声・風声・地獄声・畜生声・餓鬼声・比丘声・比丘尼声・声聞声・辟支仏声(びゃくしぶつしょう)・菩薩声・仏声を聞かん。要を以て之(こ)れを言わば、三千大千世界の中の一切内外(ないげ)の所有(あらゆ)る諸の声、未だ天耳(てんに)を得ずと雖(いえど)も、父母(ぶも)の生ずる所の清浄(しょうじょう)の常の耳を以て、皆悉(み)な聞き知らん。是(かく)の如く種種の音声(おんじょう)を分別(ふんべつ)すれども、耳根(にこん)を壊(やぶ)らじ」(『妙法蓮華経並開結』五二九㌻ 創価学会刊)と耳根の功徳を説いた文の一部である。
 大聖人は、引用された文のなかで「比丘声、比丘尼声」に「人道」と注釈をされ、人界であることを示されている。比丘は男の出家(僧)、比丘尼は女の出家(尼)のことで、四衆(四種の衆生)の一つなので、人界とされたものと拝される。
 ここに挙げられたさまざまな声のうち、この十種の声(比丘声と比丘尼声を同じ人界とし、辟支仏声は縁覚をあらわしている)を十法界の名目を示した文証とされているのは、十界のそれぞれについては爾前の諸経にもところどころに説かれているが、十界の名をすべて挙げた経文は他にみられないからであろう。
 十界については、日寛上人は三重秘伝抄に「八大地獄に各々十六の別処あり、故に一百三十六、通じて地獄と号するなり。餓鬼は正法念経に三十六種を明かし、正理論に三種九種を明かす。畜生は魚に六千四百種、鳥に四千五百種、獣に二千四百種、合わせて一万三千三百種、通じて畜生界と名づくるなり。修羅は身長八万四千由旬、四大海の水も膝に過ぎず。人は即ち四大州なり。天は即ち欲界の六天と色界の十八天と無色界の四天となり。二乗は身子・目連の如し。菩薩は本化・迹化の如し。仏界は釈迦・多宝の如し云々」(『六巻抄』一六㌻ 聖教新聞社刊)と述べられている。これは、それぞれ定まった色心、境界、国土を有すると説かれた爾前経の立場での十界観を挙げられたものである。
 それに対して、法華経では一切衆生がことごとく成仏すると説き、天台大師はその法理を基礎に十界のおのおのが他の十界を具えるという十界互具・一念三千の法門を立てたのである。
          爾前二乗菩薩不作仏事

       第三章 菩薩の成仏なき文証を挙ぐ

本文(四二五㌻二行~四二六㌻終)
 問うて云く二乗成仏之無ければ菩薩の成仏も之無き正(まさし)き証文如何、答えて云く涅槃経三十六に云く「仏性は是れ衆生に有りと信ずと雖(いえど)も必ず一切に皆悉(ことごと)く之有らず是の故に名(なづ)けて信不具足と為す」と三十六本三十二、此の文の如くんば先四味の諸菩薩は皆一闡提(いっせんだい)の人なり二乗作仏を許さず二乗の作仏を成ぜざるのみに非ず、将又(はたまた)菩薩の作仏も之を許さざる者なり、之を以て之を思うに四十余年の文二乗作仏を許さずんば菩薩の成仏も又之無きなり、一乗要決の中に云く「涅槃経三十六に云く仏性は是れ衆生に有りと信ずと雖(いえど)も必ず一切皆悉く之有らず是の故に名(なづ)けて信不具足と為すと三十六本三十二、第三十一に説く一切衆生及び一闡提に悉く仏性有りと信ずるを菩薩の十法の中の第一の信心具足と名くと三十六本第三十、一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)を明すは是れ少分に非ず、若(も)し猶(なお)堅く少分の一切なりと執せば唯経に違するのみに非ず亦(また)信不具なり何に因(よ)つてか楽(ねが)つて一闡提と作(な)るや此れに由つて全分の有性(うしょう)を許すべし理亦一切の成仏を許すべし○」
 慈恩の心経玄賛に云く「大悲の辺に約すれば常に闡提(せんだい)と為る大智の辺に約すれば亦当(まさ)に作仏すべし、宝公の云く大悲闡提(だいひせんだい)は是れ前経の所説なり前説を以て後説を難ず可(べ)からざるなり諸師の釈意大途(だいと)之に同じ」文、金錍(こんぺい)の註に云く「境は謂(いわ)く四諦なり百界三千の生死(しょうじ)は即ち苦なり此の生死即ち是れ涅槃なりと達するを衆生無辺誓願度と名く・百界三千に三惑を具足す此の煩悩即ち是れ菩提なりと達するを煩悩無辺誓願断と名く・生死即涅槃と円の仏性を証するは即ち仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)なり、惑即菩提(わくそくぼだい)にして般若に非ざること無ければ即ち法門無尽誓願知(ほうもんむじんせいがんち)なり、惑智無二(わくちむに)なれば生仏(しょうぶつ)体同じ苦集唯心なれば四弘融摂(しぐゆうしょう)す一即一切なりとは斯の言(こと)徴(しるし)有り」文、慈覚大師の速証仏位集に云く「第一に唯今経の力用(りきゆう)仏の下化(げけ)衆生の願を満す故に世に出でて之を説く所謂(いわゆる)諸仏の因位・四弘の願・利生(りしょう)・断惑(だんなく)・知法・作仏なり然るに因円果満なれば後の三の願は満ず、利生の一願甚だ満じ難しと為す彼の華厳の力十界皆仏道を成ずること能(あた)わず阿含・方等・般若も亦爾(しか)なり後番の五味・皆成仏道(かいじょうぶつどう)の本懐なる事能わず、今此の妙経は十界皆成仏道なること分明(ふんみょう)なり彼の達多(だった)無間に堕するに天王仏の記を授(う)け竜女成仏し十羅刹女も仏道を悟り阿修羅も成仏の総記を受け人・天・二乗・三教の菩薩・円妙の仏道に入る、経に云く我が昔の所願の如きは今者(いま)已(すで)に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむと云云、衆生界尽きざるが故に未だ仏道に入らざる衆生有りと雖(いえど)も然れども十界皆成仏すること唯(ただ)今経の力に在り故に利生の本懐なり」と云云。
 又云く「第一に妙経の大意を明さば諸仏は唯(ただ)一大事の因縁を以ての故に世に出現し一切衆生・悉有仏性(しつうぶっしょう)と説き聞法(もんぽう)・観行(かんぎょう)・皆当(まさ)に作仏すべし、抑(そもそも)仏何の因縁を以て十界の衆生悉(ことごと)く三因仏性有りと説きたもうや、天親菩薩の仏性論縁起分の第一に云く如来五種の過失を除き五種の功徳を生ずるが為の故に一切衆生悉有仏性と説きたもう已上謂(いわ)く五種の過失とは一には下劣心・二には高慢心・三には虚妄執(こもうしゅう)・四には真法を謗(ぼう)じ五には我執(がしゅう)を起すなり、五種の功徳とは一には正勤(しょうごん)・二には恭敬(くぎょう)・三には般若・四には闍那(じゃな)・五には大悲なり、生ずること無しと疑うが故に大菩提心を発(おこ)すこと能わざるを下劣心と名け、我に性有つて能く菩提心を発すと謂(おも)えるを高慢と名け、一切の法無我の中に於て有我(うが)の執を作すを虚妄執と名け一切諸法の清浄(しょうじょう)の智慧功徳を違謗するを謗真法(ほうしんぽう)と名け意唯(ただ)己(おのれ)を存して一切衆生を憐むことを欲せざるを起我執(きがしゅう)と名く此の五に翻対(ほんたい)して定めて性有りと知りて菩提心を発(おこ)す」と。
                    日 蓮  花 押

通解
 問うて言う。二乗の成仏がなければ、菩薩の成仏もないという正(まさ)しき証文はあるか。答えて言う。涅槃経の巻三十六には「仏性はこれ衆生に有ると信ずるけれども、必ず一切に悉く有るのではない。このゆえに信不具足と名づける」とある(三十六巻本では巻三十二である)。この文のとおりならば、先の四味の諸菩薩はみな一闡提の人である。二乗作仏を許さないから、二乗が成仏しないだけではなく、更にまた菩薩の成仏も許さないものである。このことから考えると、四十余年の文に二乗作仏を許さないならば、菩薩の成仏もまたないのである。一乗要決のなかには「涅槃経巻三十六には『仏性はこれ衆生に有ると信ずるけれども、必ず一切に悉く有るのではない。このゆえに信不具足と名づける』とある(三十六巻本では巻三十二である)。第三十一の巻には『一切衆生および一闡提に悉く仏性が有ると信ずることを、菩薩の行法である十法のなかの第一の信心具足と名づける』とある(三十六巻本では巻三十である)。『一切衆生に悉く仏性がある』と明かすことは、一部分ではない。もしそれでも一切を一部分と執着するならば、ただ経文に違背するだけではなく、また信不具となる。どうして願って一闡提となるであろうか。これによって、全部に仏性が有ると許すべきである。法理からまた一切の成仏を許さなければならない……」。
 慈恩の心経玄賛には「菩薩は大慈悲の方からいえば、常に一闡提となるが、大智慧の方からいえば、まさに成仏できる。宝公は『大慈悲の方からいえば、一闡提となるというのは、爾前経の所説である。前説をもって後説を非難してはならない。諸師の解釈は概略これと同じである』とある。金錍論(こんぺいろん)の註には「境は四諦である。百界三千の生死は即ち苦である。この生死は即ちこれ涅槃であると通達するのを衆生無辺誓願度と名づける。百界三千に三惑を具えている。この煩悩は即ちこれ菩提であると通達するのを煩悩無辺誓願断と名づける。生死は即ち涅槃であるとして、円教の仏性を証得するのは、即ち仏道無上誓願成である。惑は即ち菩提であって般若であるから、即ち法門無尽誓願知である。惑と智慧とは無二であるから、衆生と仏とはその体は同じであり、苦も集もただ心のあらわれであるから、四弘誓願も一心に摂するのである。一即一切とは、この言は徴(しるし)がある」と。慈覚大師の速証仏位集には「第一にただ法華経の力用は仏の下化衆生の願いを満足させるものであるゆえに、仏は世に出て法華経を説くためである。いわゆる諸仏の因位、四弘の願、利生断惑、知法作仏である。ところが、因行も果徳も円満であるので、後の三つの願いは満足するが、衆生を利益したいとの一願ははなはだ満足しがたいのである。かの華厳経の力用では、十界みな仏道を成ずることはできない。阿含経、方等経、般若経もまた同じである。後に涅槃経で説かれた五味でも、みな仏道を成じさせたいとの仏の本懐を満足することはできなかった。いまこの法華経は、十界みな仏道を成ずることができることは、明らかである。かの提婆達多が無間地獄に堕ちたにもかかわらず、天王如来の記別を受け、竜女は成仏し、十羅刹女も仏道を悟り、阿修羅王もすべて成仏の記別を受け、人界、天界、二乗、三教の菩薩も円妙の仏道に入ることができた。法華経には『自分が昔願ったところは、今は已(すで)に満足した。一切衆生を教化して、みな仏道に入れることができた』とある。衆生界は尽きないから、いまだ仏道に入らない衆生があるといっても、十界みな成仏することは、ただ法華経の力用である。ゆえに衆生を利益したいという本懐は満足したのである」とある。
 また「第一に法華経の大意を明かすならば、諸仏はただ一大事の因縁のために世に出現し、一切衆生に悉く仏性があると説き、法を聞き、修行すれば、みな必ず成仏することができる。ところで、仏はどのような因縁のために、十界の衆生にすべて三因仏性が有ると説かれたのであろうか。天親菩薩の仏性論の縁起分の第一には『如来は五種の過失を除いて五種の功徳を生ずるために、一切衆生に悉く仏性が有ると説かれたのである』とある。その五種の過失とは、一には下劣心、二には高慢心、三には虚妄執、四には真法を謗(そし)る、五には我執を起こす、である。五種の功徳とは、一には正勤(しょうごん)・二には恭敬(くぎょう)・三には般若・四には闍那(じゃな)・五には大悲である。生ずることはないと疑うために、大菩提心を発すことができないのを下劣心と名づけ、自分には仏性が有るから、よく菩提心を発すことができるというのを高慢と名づけ、一切の法は無我であるのに、有我であると執着するのを虚妄執と名づけ、一切諸法の清浄の智慧や功徳に違い謗るのを謗真法と名づけ、意にはただ自分の事のみあって、一切衆生を憐れむことを願わないのを起我執と名づける。この五つを翻して、必ず仏性があると知って菩提心を発すのである」とある。
                    日 蓮  花 押

語訳
涅槃経
 釈尊の入涅槃の様子とその時に説かれた教えを記した経。大・小乗で数種ある。大乗では、中国・北涼代の曇無讖(どんむしん)訳「大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)」四十巻(北本)、それを修訂した中国・劉宋代の慧観(えかん)・慧厳(えごん)・謝霊運訳「大般涅槃経」三十六巻(南本)、異訳に中国・東晋代の法顕訳「大般泥洹経(だいはつないおんぎょう)」六巻がある。小乗では、同じく法顕訳「大般涅槃経」三巻等がある。大乗の涅槃経ではおもに仏身の常住、涅槃の四徳である常楽我浄を説き、一切衆生悉有仏性を明かして、善根を断じた一闡提(いっせんだい)も成仏すると説いている。また小乗の涅槃経では、釈尊の入涅槃から舎利の分配までの事跡を記している。

信不具足
「信具足せず」と読む。衆生に仏性があることは信じるが、必ずしもすべて仏性があるとは信じないことを、信が具足しないとしていること。信じているが、まだ不信を残していること。

一乗要決
 三巻。日本天台宗恵心流の祖である恵心僧都源信(九四二年~一〇一七年)の著。寛弘三年(一〇〇六年)頃の作。天台宗の教義を根本として法華経の一乗思想を強調し、一切衆生に仏性のあることを明かして、法相宗の五性各別説を破折した書。

慈恩(じおん)
(六三二年~六八二年)。中国・唐代の僧。中国法相宗の事実上の開祖(玄奘を開祖と立てる場合は第二祖)。窺基(きき)のこと。陝西省西安府長安県の人。姓は尉遅(うっち)氏、字(あざな)は供道。十七歳のとき玄奘三蔵がインドから帰ると、その弟子として出家。玄奘のもとで多くの翻訳に従事し、経論疏を撰述して中国法相宗を立てた。長安の慈恩寺に住んだので慈恩大師と称された。著書には「成唯識論述記」二十巻、「成唯識論掌中枢要」四巻、「大乗法苑義林章(だいじょうほうおんぎりんじょう)」七巻、「法華玄賛」(妙法蓮華経玄賛)十巻など数多くあり、百本の疏主・百本の論師と称された。三乗真実・一乗方便の説を立て、法相宗の依経・解深密経(げじんみつきょう)を真実の教えとし、方便である法華一乗の教えよりも勝るとしている。

心経玄賛
 般若心経の注釈書。中国・唐代の慈恩著。正しくは般若波羅蜜多心経幽賛(はんにゃはらみったしんぎょうゆうさん)という。性相学(法相宗で諸法の性と相とを研究する学問)の立場から中観般若空を釈したもので、大乗の二大教学である中観・瑜伽の教学を明らかにし、更に瑜伽の立場から中観の教学を判釈している。法相宗の般若空観を説いた唯一の書とされる。

宝公
(四一八年~五一四年)。中国・南北朝時代の僧。宝誌(ほうし)のこと。保誌、誌公ともいい、広済大師、妙覚大師、真密禅師と諡(おくりな)された。姓は朱氏。金城の人。道林寺の僧倹について禅を学んだ。予言や分身など怪異な力を発揮し、人心を惑わす者として斉の武帝に捕らえられたが、許されて東宮後堂に登った。梁の武帝からも優遇され、帝師となった。死後、埋葬された鍾山独龍の阜(おか)に開善寺が建立された。著書に「大乗贊」「十二時頌」等がある。
〈追記〉
 日本では「宇治拾遺物語」巻九の「宝志和尚、影の事」に登場する。帝の命により、三人の絵師が宝誌の姿を描こうとすると、「しばらく。我まことの影(えい)あり。それを見て書きうつすべし」と言い、自ら指の爪で顔を縦に裂くと、中から金色に輝く菩薩の顔が現れた。一人の絵師はそれを十一面観音と見、一人の絵師は聖観音と見た。帝は驚き、使者をよこして問わせると、宝誌はかき消すように姿を消した、とある。なお、宝誌の著とされる「大乗贊」「十二時頌」などは、唐代に宝誌の名に仮託して作られた偈頌といわれる。

大悲闡提(だいひせんだい)
 一切衆生を救う大慈悲のために、自らの成仏の時期が来ない一闡堤となること。一切衆生を救済した後に成仏するという誓願のために、衆生済度の願いの尽きることはなく、そのために永久に成仏することができない。入楞伽経巻二では、断善根と大悲闡提の二種の一闡提を説いている。

金錍(こんぺい)
「金剛錍論(こんごうぺいろん)」の略。一巻。荊溪湛然(妙楽大師)の著。華厳の澄観(ちょうかん)が非情に仏性なしとする説を破折し、仏性は、情非情にわたることを顕わした。天台の法門を金剛の斧にたとえている。

金錍の註
 妙楽大師著の金剛錍論の註疏のこと。古来、多数の註釈書があるが、ここでは伝教大師著の註金剛錍論一巻をいう。

慈覚大師
(七九四年~八六四年)。比叡山延暦寺第三代座主。諱(いみな)は円仁。慈覚は諡号(しごう)。下野(しもつけ)国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生(みぶ)氏。十五歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和五年(八三八年)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同十四年(八四七年)に帰国。仁寿四年(八五四年)、円澄(えんちょう)の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経(そしつじきょう)は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏(しょ)」七巻、「蘇悉地経略疏」七巻等がある。

速証仏位集
 山家祖徳撰述篇目集上に慈覚大師円仁撰として「速証仏位集記一巻或は八巻と云う」とあるが、現存せず、内容も明らかでない。
〈追記※〉
 山家祖徳撰述篇目集は、天台祖師先徳九十四人の著作目録。

利生(りしょう)・断惑(だんなく)
 利生は利益衆生の略。衆生を利益すること。故に「利生の一願」とは四弘誓願の中の衆生無辺誓願度をさす。断惑は惑障を断ずること。衆生の三惑を断じて成仏させることが仏の利生となる。

知法・作仏
 法を知り、仏と作(な)ること。仏法を信じ修行することによって成仏することをいう。

三因仏性
 天台大師智顗が仏性(成仏の因として衆生の生命に元来そなわっている性質)を三つの側面に分析したもの。①正因(しょういん)仏性(衆生の生命に元来そなわる仏の境地、すなわち仏界。仏の境涯を開くための直接的な因)②了因(りょういん)仏性(仏界・法性・真如を覚知し開き現す智慧)③縁因(えんいん)仏性(了因を助け、正因を開発していく縁となるすべての善行)。

天親(てんじん)菩薩
 生没年不明。四~五世紀ごろのインドの学僧。梵名ヴァスバンドゥ(Vasubandhu)、音写して婆薮槃豆(ばすはんず)。旧訳(くやく)で天親(てんじん)、新訳では世親(せしん)という。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国(けんだらこく)の出身。無著(むじゃく)の弟。はじめ、阿踰闍国(あゆじゃこく)で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論(だいびばしゃろん)を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。その時、小乗に固執してきた非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後、舌をもって大乗を讃して罪を償うようにと諭(さと)され、大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈(しょうだいじょうろんしゃく)」十五巻、「仏性論」四巻など多数あり、千部の論師といわれる。

仏性論
 四巻。天親(世親)造、中国・陳代の真諦訳。法華経・勝鬘経などの諸経や瑜伽論など多くの文を引用して、仏性の義を詳しく論じている。縁起分・破執分・顕体分・弁相分の四分十六品から成る。最初に仏が一切衆生には本来仏性が具わっていることを説いた旨を明かし、次に外道・小乗・大乗の僻見の徒を斥破して、一切衆生に仏性があることを論証している。最後に三因・三性・如来蔵及び十相など、仏性の体・相を明かして、仏性の本性を論じている。

闍那(じゃな)
 梵語ジュニャーナ(jñāna)の音写。智と訳す。慧とは必ずしも同意ではない。仏性論にある五種の功徳の第四。

講義
 先の第一の問答で、二乗の作仏がなければ菩薩の成仏もないことが明らかにされたが、この第二の問答ではそれを受けて、二乗の成仏がなければ菩薩の成仏もないことを示す経文上の文証を問うている。
 そしてその答えとして、涅槃経巻三十六、一乗要決、慈恩の心経玄賛、伝教大師の註金剛錍論、慈覚大師の速証仏位集からの引用文が挙げられている。

 涅槃経三十六に云く「仏性は是れ衆生に有りと信ず……菩薩の成仏も又之無きなり

 初めに涅槃経巻三十六迦葉菩薩品第十二の四の文が引用されている。
 ここでは恒河の七種の衆生を説くなか、第二の暫出還没人(ざんしゅつかんぼつにん)(「暫(しばら)く出でて還(かえり)て没す」と読む。一応は信じても心の底では不信である衆生のこと)を説いた文である。仏性が衆生に存在することを信じてはいても、必ず一切の衆生のことごとくに仏性があるとは信じていないことをさして「信不具足」(信具足せず)としている。この経文を受けて、四味(乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味)の爾前諸経に説かれる諸菩薩は皆、一闡提(信不具足)の人であると断じられている。
 涅槃経の引用文のなかの「信不具足」は「断善根」とともに梵語・一闡堤の訳であるが、この経文が菩薩の不作仏の依文とされるのは、爾前経では二乗は成仏できない衆生としており、菩薩も二乗に対し仏性のない存在であるとみるので、「信不具足」にあたるからである。四十余年未顕真実の爾前教においては二乗作仏を許さないかぎり菩薩の成仏もまたない、と断じられてる。

 一乗要決の中に云く「涅槃経三十六に云く仏性は……理亦一切の成仏を許すべし」

 次の、慧心僧都源信の著・一乗要決巻の中の文は、先の涅槃経巻三十六の文を挙げて、一切衆生と一闡堤にことごとく仏性があると信じることを菩薩の十法のなかの第一信心具足と名づける、という同巻三十一の「信心具足」に違背する菩薩ということになると指摘している。
 ちなみに菩薩の十法とは、菩薩の修行すべき十種の法のことで、①信心具足、②浄戒具足、③親近善知識、④楽寂静、⑤精進、⑥念具足、⑦軟語、⑧護法、⑨供給同学、⑩具足智慧、の十である。その第一の信心具足とは、一切衆生と一闡堤にことごとく仏性があると信じる、ということである。この涅槃経巻三十一の経文を受けて、源信は〝一切衆生にことごとく仏性があるということは「少分」、つまり一部分の衆生のみに仏性がある、ということを示すのではない。もし、一部分の衆生の一切に仏性があるということに固執すると、仏の経に違背するだけではなく、信不具足の一闡堤になってしまう。しかしどのような理由で願って一闡堤になっていくであろうか、そんな人はいないであろう。ゆえに一切衆生がことごとく仏性を有するということは「少分」ではなく「全分の有性」、つまりすべての衆生に仏性があるということとして理解すべきであるし、「理」においては一切が成仏できると理解すべきである〟と述べている。

 慈恩の心経玄賛に云く「大悲の辺に約すれば……諸師の釈意大途之に同じ」文

 慈恩は中国・唐時代の法相宗の僧で窺基(きき)という。慈恩寺に住んだので慈恩大師と呼ばれ、法相宗の事実上の開祖でもある。その慈恩の心経玄賛の一節が引用されている。心経玄賛は正確には般若波羅蜜多心経幽賛ともいい、唯識法相の立場から般若心経を注釈した書である。
 引用文の内容は、菩薩の衆生救済という「大悲」の立場から捉えるならば、菩薩は常に一闡堤となる。なぜなら、菩薩は衆生無辺誓願度の誓いを立てているように、一切衆生をことごとく救済した後に自ら成仏するという誓願があるため、どこまでいっても衆生救済の願いが尽きてしまうことがないので菩薩は成仏できないことになり、結果的には、成仏できないということにおいては信不具足や断善根と同じ一闡堤となるのである。これを「大悲闡堤」という。これに対して、「大智」の立場からとらえるならば、つまり衆生救済という化他の側面ではなく、自行の修行によって到達した智慧においては作仏することができるとしている。

 金錍(こんぺい)の註に云く「境は謂(いわ)く四諦なり百界三千の生死(しょうじ)……斯の言(こと)徴(しるし)有り」文

 伝教大師の註金剛錍論巻四からの引用である。内容は次のとおりである。
 ――修行の拠り所としての境は苦・集・滅・道の四諦である。まず、百界三千の衆生の生死を「苦」とする。そして、この衆生の生死をそのまま涅槃(生死即涅槃)と通達することを「衆生無辺誓願度」と名づけ、次に、百界三千の衆生が生死の苦を受ける原因(集)は三惑の煩悩を具えていることにあるが、この三惑の煩悩をそのまま菩提(煩悩即菩提)と通達することを「煩悩無辺誓願断」とするのである。次いで、生死即涅槃と通達して法華円教の仏性を証得することが「仏道無上誓願成」となり、また、三惑の煩悩即菩提であるゆえに一切が般若の智慧に非ざることなしと知ることが「法門無尽誓願知」である。惑(煩悩)も智も別のものではなく一体(惑智無二)であり、衆生も仏も一体(生仏一体)であり、苦も集もただ一心のあらわれであるから、四弘誓願も〝融摂〟、つまり一念にことごとく円融・相即して一即一切となる――。
 以上が引用された註金剛錍論の内容であるが、二乗を永不成仏とする爾前経の立場では、衆生無辺誓願度は達成できないから、菩薩の成仏もありえないことを示すために引かれたのである。

 慈覚大師の速証仏位集に云く「第一に唯今経の……故に利生(りしょう)の本懐なり」と云云

 慈覚の速証仏位集は現存せず、内容も全く不明であるが、右の四弘誓願についての慈恩の文を受けて、最初の利生の請願(衆生無辺誓願度)を満たしているのは法華経のみであることを示すために引かれている。
 内容は次のとおりである。
 ――第一に今経・法華経の力用は仏の「下化衆生の願」(衆生を教化する願い、衆生無辺誓願度のこと)を満足させる教えであるゆえに仏は世間に出て説法するのである。
 法華経の力用とは、諸仏の因位における四弘誓願・利生断惑(生を利し惑を断ずること、つまり衆生の三惑を断じて成仏させること)、自らの知法作仏(法を知り仏と作(な)ること)にある。
 しかし、因円果満(因位の修行が具わって結果としての悟りの徳が満足すること)であるから、四弘誓願のうち第一の衆生無辺誓願度がかなってこそ、後の三つの願い、すなわち煩悩無辺誓願断、法門無尽誓願知、仏道無上誓願成は満たされていくのである。だが、利生すなわち衆生を利益するという衆生無辺誓願度の願いはなかなか満足させがたいのである。華厳の力では十界の衆生が皆、仏道を成じて成仏させることはできない。次いで阿含、方等、般若も同様である。この〝前番の五味〟に対して、涅槃経における〝後番の五味〟もまた、すべての衆生を皆、成道させるという仏の本懐に合致したものではなかった。
 今、法華経によってこそ、十界の衆生が皆成仏することは明らかである。その証拠に、かの無間地獄に堕ちていた提婆達多に天王如来の記別を授け、竜女は成仏し、十羅刹女も仏道を悟り、すべての阿修羅が成仏の記別を受け、人界の衆生、天界の衆生、二乗、蔵・通・別三教の菩薩、皆ことごとく法華円教の妙理の仏道に入ることができたのである。このことを法華経方便品第二では「我が昔の願いし所の如きは 今者已(いますで)に満足しぬ 一切衆生を化(け)して 皆な仏道に入(い)らしむ」(『妙法蓮華経並開結』一三一㌻ 創価学会刊)と説かれたのである。
 したがって、無辺の衆生が存在して尽きることがないゆえに未だ仏道に入ることができない衆生がいたとしても、法華経の力によって十界の衆生ことごとくが成仏することができるのである。ここに利生、つまり衆生無辺誓願度の請願はその本懐を遂げることができるのである――。
 この文証は、十界衆生皆成仏道の法華経の力によって菩薩の成仏も可能になったことを述べ、二乗作仏がなければ菩薩の成仏もないことを示す文証を求める問いに、別の角度から答えようとしたものである。

 又云く「第一に妙経の大意を明さば……定めて性有りと知りて菩提心を発(おこ)す」と

 慈覚の速証仏位集の続きである。内容は次のとおりである。
 ――第一に法華経の大意を明かすと、諸仏は唯一大事の因縁(唯一つの重大な任務)のゆえに世に出現するのである。そこにおいては一切衆生にことごとく仏性があることを説き示し、仏の教え(法)を聞いてそのとおりに観行し仏道修行するならば皆、成仏することができるのである。ところで、一体、仏はどのような因縁(いわれ、理由)をもって十界の衆生ことごとくに三因仏性があると説かれたのであろうか。天親菩薩の仏性論縁起分の第一には次のようにある。すなわち、如来は衆生から五種の過失を除いて、衆生に五種の功徳を生じさせようとして、そのために一切衆生にことごとく仏性あり、と説かれたのである。では、その五種の過失は何かといえば、一に下劣心、二に高慢心、三に虚妄執、四に真法を謗じ、五には我執を起こす、という五つである。逆に、五種の功徳とは何かといえば、一に正勤(正しい精進の行を勤めること)、二に恭敬(仏・菩薩が衆生を救うためになす振る舞い・説法などを慎み敬うこと)、三に般若(プラジュニャー。悟りを得る真実の智慧)、四に闍那(ジュニャーナ。世俗智より仏智に至る智)、五に大悲(一切衆生の苦を救う慈悲心)の五つである。下劣心とは仏性が生ずることはありえないと疑うゆえに大菩提心(悟りを得ようとの心)を起こさないことであり、高慢心とは自分に仏性があるからよく菩提心を起こすことができたと慢心することであり、虚妄執とは一切法が無我であるというのが真理であるにもかかわらず、そのなかで虚妄なる我に執着することであり、真法を謗ずるとは一切諸法の清浄なる智慧と功徳とを謗ることをいい、最後に我執を起こすとはただ我のみに執着して一切衆生を憐れむことを望まない無慈悲な心をさしていう。
 以上の五種の過失をくつがえして、必ず仏性が有る(一切衆生悉有仏性)との仏の説法を聞いて知り、悟りを得ようとの菩提心を起こして修行していく過程で、仏性が開かれていくとき、五種の功徳が生じて五種の過失を除き、ついには菩提、悟りを証得して成仏することができるのである――。
 この文証は、一切衆生が必ず成仏可能であると説いた法華経のみが二乗も菩薩も成仏できる経であることを示すために引かれたものである。

出典『日蓮大聖人御書講義』第五巻下(編著者 御書講義録刊行会 発行所 聖教新聞社)

                 爾前二乗菩薩不作仏事 ―了―
           爾前二乗菩薩不作仏事

        第二章 爾前の菩薩不作仏を明かす

本文(四二四㌻一三行~四二五㌻一行)
 前四味の諸経に二乗作仏を許さず之を以て之を思うに四味諸経の四教の菩薩も作仏(さぶつ)有り難きか、華厳経に云く「衆生界尽きざれば我が願も亦(また)尽きず」等と云云、一切の菩薩必ず四弘誓願(しぐせいがん)を発(おこ)す可し其の中の衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)の願之を満(みた)せざれば無上菩提誓願証(むじょうぼだいせいがんしょう)の願又成じ難し、之を以て之を案ずるに四十余年の文二乗に限らば菩薩の願又成じ難きか。

通解
 法華経以前の四味の諸経には、二乗の成仏を許されていない。このことから考えると、四味の諸経である四教の菩薩も成仏できないのである。華厳経には「衆生界がことごとく成仏しなければ、自分の願いもまたかなわない」とある。一切の菩薩は必ず四弘誓願を発すのである。そのなかの衆生無辺誓願度の願いが満たされなければ、無上菩提誓願証の願いもまた成就し難いのである。このことから考えると、四十余年の経文は二乗に限るならば、菩薩の願いもまた成就しがたいのである。

語訳
前四味
 五味のうち最後の醍醐味を除く四味のこと。乳味、酪味(らくみ)、生蘇味(しょうそみ)、熟蘇味(じゅくそみ)をいう。法華経以前の四十余年の経教、すなわち爾前経のこと。天台大師は釈尊一代の聖教を判釈して化導の意に約して五時を立て、涅槃経の五味の譬を引いて華厳は乳味、阿含は酪味、方等は生蘇味、般若は熟蘇味、法華と涅槃は醍醐味とした。そのなかの前四味とは醍醐味の法華経を除く、華厳より般若までの爾前経をさす。

二乗作仏(にじょうさぶつ)
 法華経迹門において二乗(声聞・縁覚)の成仏が釈尊から保証されたこと。法華経以外の大乗経では、二乗は自身が覚りを得ることに専念することから利他行に欠けるとして、成仏の因である仏種が断じられて成仏することはないとされていた。このことを日蓮大聖人は「開目抄」(一九一㌻以下)で、華厳経・維摩経などの爾前経を引かれ、詳しく論じられている。それに対し法華経迹門では、二乗にも本来、仏知見(仏の智慧)がそなわっていて、本来、成仏を目指す菩薩であり、未来に菩薩道を成就して成仏することが、具体的な時代や国土や如来としての名などを挙げて保証された。さらに法華経迹門では、この二乗作仏、また提婆達多品第十二で説かれる女人成仏・悪人成仏によって、あらゆる衆生の成仏が保証され、十界互具・一念三千の法門が理の上で完成した。

華厳経
 大方広仏華厳経の略。旧訳(くやく)の内容は、盧舎那仏(るしゃなぶつ)が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界縁起(無尽縁起)、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界(ゆいしんほっかい)の理を説く。また入法界品には、五十三人の善知識を歴訪し、最後に悟りを開いた求道物語を展開し、仏道修行の段階(五十二位)とその功徳を示している。華厳経の漢訳に三種ある。①六十華厳(六十巻)。東晋代の仏駄跋陀羅(ぶっだばつだら)訳(旧訳)。②八十華厳(八十巻)。唐代の実叉難陀(じっしゃなんだ)訳(新訳)。③四十華厳(四十巻)。唐代の般若(はんにゃ)訳。

四弘誓願(しぐせいがん)
「しぐぜいがん」とも読む。あらゆる菩薩が初めて発心した時に起こす四種の誓願。金剛経纂要刊定記(さんようかんじょうき) 巻二などに説かれる。①衆生無辺誓願度(一切衆生をすべて覚りの彼岸に渡すと誓うこと)②煩悩無数誓願断(一切の煩悩を断つと誓うこと)③法門無尽誓願知(仏の教えをすべて学び知ると誓うこと)④仏道無上誓願成(仏道において無上の覚りを成就すると誓うこと)。

無上菩提誓願証(むじょうぼだいせいがんしょう)
「無上の菩提を証せんと誓願す」と読む。金剛経纂要刊定記巻二等に説かれている四弘誓願の第四・仏道無上誓願成のこと。仏道において最高の悟りを証得しようと誓願すること。
〈追記〉
 金剛経纂要刊定記巻二等に説かれている四弘誓願の第四・仏道無上誓願成のことを、天台宗・浄土宗では無上菩提誓願証という。真言宗では菩提無上誓願証とする。

講義
 先の入楞伽経の引用文を受けて、ここでは爾前の四味(乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味)、四教(蔵・通・別・円)の諸経においては、二乗が不作仏であることは当然として、菩薩の作仏も難いと述べられている。
 まず、はじめに入楞伽経の経文のなかの「若し諸の衆生涅槃に入らざれば我も亦涅槃に入らじ」という菩薩の誓願の文を取り上げられている。この文は、衆生のうち、一部の衆生でも涅槃に入らない人々がいれば菩薩としての自分も涅槃に入らない、すなわち作仏しないという誓いであって、ここに菩薩の不作仏が説かれているとの指摘である。次いで、華厳経の「衆生界尽きざれば我が願も亦尽きず」と経文を引用され、この文を釈されている。すなわち、一切の菩薩は必ず四弘誓願(衆生無辺誓願度・煩悩無量誓願断・法門無尽誓願知・無上菩提誓願証)を発して菩薩の修行を始めるのである。だが、最初の衆生無辺誓願度、つまり無辺ともいうべき一切衆生を生死の苦しみの彼岸から悟りの彼岸へ度し、救うという願いを第一に立てる。したがって、救うべき衆生界が尽きてしまわないかぎり、四弘誓願の第一・衆生無辺誓願度という願いが満足しないので、結局第四の無上菩提誓願証、すなわち作仏の願いも成就しがたいと仰せられている。
 結論として「四十余年の文二乗に限らば菩薩の願又成じ難きか」と説かれている。「四十余年」の爾前経の文が、二乗に限って永不成仏としていても、二乗が永不成仏であるかぎり、菩薩が立てた衆生無辺誓願度は成就しないからである。二乗を除く衆生の救済が成立しても、二乗のみは救済されず、一切衆生のすべてをことごとく救済しきるという願いが、永久に叶えられなくなるからである。
 

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