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         曾谷入道許御書(五網抄)

      第十二章 末法に地涌出現の理由を示す 

本文(一〇三二㌻三行~一〇三二㌻一八行)
 此の四大菩薩は釈尊成道の始、寂滅道場の砌(みぎり)にも来らず如来入滅の終りに抜提河(ばつだいが)の辺(ほとり)にも至らずしかのみならず霊山八年の間に進んでは迹門序正(じょしょう)の儀式に文殊・弥勒等の発起影向(ほっきようごう)の諸聖衆にも列(つら)ならず、退(しりぞ)いては本門流通(るつう)の座席に観音・妙音等の発誓弘経(ほっせいぐきょう)の諸大士にも交わらず、但此の一大秘法を持して本処に隠居するの後・仏の滅後正像二千年の間に於て未だ一度も出現せず、所詮・仏専ら末法の時に限つて此等の大士に付属せし故なり、法華経の分別功徳品に云く「悪世末法の時能(よ)く是の経を持(たも)つ者」云云、涅槃経に云く「譬えば七子の父母平等ならざるに非ず然も病者に於て心則ち偏(ひとえ)に重きが如し」云云、法華経の薬王品に云く「此の経は則ち為(こ)れ閻浮提の人の病の良薬なり」云云、七子の中に上の六子は且(しば)らく之を置く第七の病子は一闡提(いっせんだい)の人・五逆謗法の者・末代悪世の日本国の一切衆生なり、正法一千年の前五百年には一切の声聞涅槃し了(おわ)んぬ、後の五百年には他方来の菩薩・大体本土に還り向い了んぬ、像法に入つての一千年には文殊・観音・薬王・弥勒等・南岳・天台と誕生し傅大士(ふだいし)・行基・伝教等と示現して衆生を利益す。
 今末法に入つて此等の諸大士も皆本処に隠居しぬ、其の外・閻浮守護の天神・地祇も或は他方に去り或は此の土に住すれども悪国を守護せず或は法味を嘗(な)めざれば守護の力無し、例せば法身の大士に非ざれば三悪道に入られざるが如し大苦忍び難きが故なり、而るに地涌千界の大菩薩・一には娑婆世界に住すること多塵劫(たじんこう)なり二には釈尊に随つて久遠より已来(このかた)初発心の弟子なり三には娑婆世界の衆生の最初下種の菩薩なり、是くの如き等の宿縁の方便・諸大菩薩に超過せり。

通解
 この四大菩薩は釈尊の成道のはじめである寂滅道場のみぎりにも来ず、如来の入滅の抜提河(ばつだいが)の辺(ほとり)にも来ず、のみならず霊山八年の間、進んでは迹門の序分・正宗分の儀式に文殊・弥勒等の発起衆・影響衆(ようごうしゅ)等にも列ならず、退いては本門流通分の座席に観音・妙音等が滅後の弘経を誓う諸菩薩にも交わらなかったのである。ひたすらこの一大秘法を持って本処に隠居したばかりでなく、釈尊滅後正像二千年間において、いまだ一度も出現していない。結局、それは仏がもっぱら末法の時に限ってこの法を弘めるように、これらの大菩薩に付嘱したからである。
 法華経の分別功徳品第十七に「悪世末法の時、能く是の経を持たん者」と説き、涅槃経に「譬えば七子の父母平等ならざるに非ず、然も病者に於いて心則ち偏に重きが如し」と説き、法華経薬王菩薩本事品第二十三には「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり」と説かれている。七子のなかの上の六子はしばらくこれをおく。第七の病子は一闡提の人であり、五逆・謗法の者であり、これは末代悪世の日本国の一切衆生のことなのである。
 正法時代千年の間、前半の五百年間に一切の声聞は涅槃してしまった。後半の五百年間に他方から来た菩薩がおおかたその本土に帰っていってしまった。像法時代に入っての千年に、文殊、観音、薬王、弥勒等の菩薩が、南岳大師、天台大師として誕生し、あるいは傅大士、行基菩薩、伝教大師として現れて衆生を利益したのである。
 今、末法に入って、これらの諸菩薩も本処に帰ってしまった。そのほかの閻浮提を守護する天神・地祇もあるいは他方に去り、あるいは此の土に住しても悪国を守護せず、あるいは法味を嘗(な)めないので守護する力がないのである。例えば、法身の大士でなければ大苦を忍びがたいので三悪道に入ることができないようなものである。
 しかるに、地涌千界の大菩薩は、一には娑婆世界に住することが多塵劫であり、二には釈尊の久遠の初発心以来、釈尊に随従してきた弟子であり、三には釈尊がこの娑婆世界において初めて成仏の種を下した菩薩である。 
 このような、過去世からの因縁の深さは余の諸大菩薩に超過している。

語訳
抜提河(ばつだいが)
 跋提河とも書く。中インド拘尸那掲羅(くしながら)国を流れる河。釈尊はこの河の辺(ほとり)で入滅した。

発起影向(ほっきようごう)
 説会の四衆(発起衆・影響衆・当機衆・結縁衆)の中の発起衆と影響(向)衆のこと。発起衆は、仏に対して説法を請い、仏の化導を促す衆生。影響衆は、仏に随侍して法を賛嘆する衆生をいう。

傅大士(ふだいし)
(四九七年~五六九年)。中国・南北朝時代の僧。姓は傅(ふ)、名は翕(きゅう)、字(あざな)は玄風。善慧大士と号した。傅大士は通り名。烏傷(うしょう)(浙江省義烏市)の人。梁・普通元年(五二〇年)西域僧・嵩頭陀に会って発心し、妻・妙光とともに昼は農業に夜は仏法の弘教に励み、多くの人々を教化した。大蔵経を閲覧する便をはかって、転輪蔵を創始したことで知られる。入滅の時に、「われ兜率宮(とそつぐう)より来る。無上菩提を説かんが為なり。昔はこの事を隠し、今は覆蔵せず」と述べ、兜率宮は弥勒菩薩の住処であることから、人々から弥勒菩薩の下生といわれた。

行基
(六六八年~七四九年)。奈良時代の薬師寺の僧。和泉国(大阪府)大鳥郡の百済系渡来人の豪族・高志(こし)氏の出身。十五歳で出家し法相宗を学んだ。のち、諸国を遊歴して衆生を教化し、千余の帰依者を得たという。朝廷は、その動きに不安を感じ、民心を惑わす者として弾圧したが、後に政策転換によって公認されるようになった。天平十五年(七四三年)の大仏建立誓願には全国的に勧進を行い、同十七年(七四五年)大僧正に任じられた。諸国遊歴の折、要害の地に橋をかけ、堤(つつみ)を築き、路(みち)を修し、開墾や水利に力を尽くして民利をはかったので、民衆から行基菩薩と崇められた。
〈追記〉
 本朝法華験記には行基菩薩が日本第一の法華の持者であり、過去二万億日月燈明仏の時に妙光法師(文殊師利菩薩)として法華経を受持していたとの記述がある。

文殊……行基
 ある伝によると、行基菩薩の時代に中国の五台山にインドから来た菩提(ぼだい)が修行をしている時に、ある高僧から「インドで入滅された文殊菩薩は今、日本の国に生まれておられる」という話を聞いた。そこで菩提は「それならば日本に行って、ぜひ文殊菩薩に会いたい」と念願し、はるばる船に乗って日本にやってきた。そして、難波の津に着いたときに、不思議にも行基菩薩が大衆を従えて菩提を迎えに来ていた。それを見た菩提は、合掌して「南無文殊師利菩薩」と礼拝したという。このことから、後世、行基を文殊の再誕とする説が起こったという。
〈追記〉
 菩提とは、菩提僊那(ぼだいせんな)(七〇四年~七六〇年)のこと。梵名ボディセーナ(Bodhisena)の音写。奈良時代に渡来したインド僧。文殊菩薩を慕って中国に渡り、五台山に滞在した。天平八年(七三六年)遣唐使の要請で来日、行基などの出迎えをうけた。大安寺に入り、子弟を指導し、東大寺大仏開眼供養で導師を務めた。世に婆羅門僧正、菩提僧正という。

観音……南岳
 天台家の相伝では、南岳大師は法華経観世音菩薩普門品第二十五の句によって解悟したと伝えられることから、後世、南岳大師は観音菩薩の再誕といわれるようになった。

薬王……天台
 章安大師の隋天台智者大師伝によると、天台大師は法華経薬王菩薩本事品第二十三の「是(こ)れ真(しん)の精進なり。是れを真の法もて如来を供養すと名づく」(『妙法蓮華経並開結』五八五㌻ 創価学会刊)の文によって、「此に到りて一向に身心豁然(かつねん)、寂として定に入る」と、法華三昧の前方便である初旋陀羅尼を得たという。薬王品によって解悟したことから天台大師を薬王菩薩の再誕という。
〈追記〉
 南岳と観音、また天台と薬王の因縁につき、法華伝記巻二の智顗(ちぎ)伝に「宣(道宣)律師、天に問うて曰く、陳の国の思(し)(南岳大師慧思)、隋の国の顗(ぎ)(天台大師智顗)は、神の徳、倫を超えたり。昔、霊山に在(あ)って同じく法華を聴(き)く。昔、誰なるか審(つまびら)かならず……答えて云く、倶(とも)に是れ遊方の大士、本(もと)是(こ)れ古仏なり。思(し)は是れ観音。普門一品の其の利を説く。顗は是れ薬王。日月浄明徳(仏)の世に興(おこ)し、頓(ぬかずい)て一身を捨て、法に供養す」等とある。

法身の大士
 煩悩を断じて一分の法性を顕現した菩薩のこと。大智度論巻三十八には六神通を得たものとある。生身の菩薩に対する語で、初地以上の菩薩(円教では初住以上)がこれにあたる。大士とは菩薩のこと。

講義
 本化地涌の菩薩が出現したのは、法華経涌出品第十五から嘱累品第二十二までの八品の間のみで、爾前経の四十余年間はもとより、迹門の間も、また本門でも、神力・嘱累の付嘱が終わると〝本処〟に還り、釈尊滅後の正法・像法の二千年間にも、姿を現すことはなかった。それは、ただ末法に出現して法を弘めるべき使命を託されたからである、と仰せられている。
 このように、本化の菩薩は末法にのみ出現して妙法を弘めることを裏付ける文として、分別功徳品の「悪世末法の時 能く是の経を持(たも)たば 則ち為(こ)れ已(すで)に上(かみ)の如く 諸の供養を具足す」(『妙法蓮華経並開結』五一三㌻ 創価学会刊)と、涅槃経の「譬えば七子の……」の文、また法華経薬王品の「此の経は……閻浮提の人の病の良薬」(同六〇二㌻)を挙げられている。
 すなわち、正法時代の前半五百年間は声聞の小乗の法で十分だったのであり、正法後半の五百年は、他方の菩薩の権大乗の教えで衆生を救うことができた。像法時代になると、文殊・観音・薬王・弥勒などの菩薩が、南岳大師・天台大師・傅大士・行基・伝教大師等として示現して人々を救ったのである。
 それに対し、末法は、そうした声聞や菩薩達には手に負えない、天神地祇も守りえない五逆・謗法の重病に侵された衆生の充満する時代であって、これを救うことのできるのは唯一、本化地涌の菩薩のみなのである。
 本化地涌の菩薩のみが、末法の娑婆世界の衆生を救いうる力をもっている理由として、
 一、娑婆世界に住すること多塵劫なり
 二、釈尊に随つて久遠より已来(このかた)初発心の弟子なり
 三、娑婆世界の衆生の最初下種の菩薩なり
の三つを示されている。
 第一の「娑婆世界に住すること多塵劫」とは、地涌の菩薩は娑婆世界の衆生との宿縁が深厚であるということである。宿縁が深ければこそ、娑婆世界の衆生に注ぐ慈悲の心も強いし、衆生の心をとらえることができる。
 第二の「久遠より已来初発心」ということは、妙法を長く受持し修行してきているので習熟しており、自在に説けることを意味する。
 第三の「最初下種の菩薩」とは、仏の初めて下種した菩薩ということである。しかし、大聖人の仏法の立場からみれば、地涌の菩薩こそ、末法の衆生に初めて下種する菩薩であるとの意を含んでいるのである。すなわち、地涌の菩薩は、その身は外用の辺では釈尊の弟子であるが、その御内証は久遠元初の自受用身であり、御本仏であられるゆえである。
 百六箇抄に「久遠元始の天上天下・唯我独尊は日蓮是なり」(八六三㌻)と明かされ、また「自受用身は本・上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり」(同㌻)と示されており、更に日寛上人が文底秘沈抄に「外用の浅近(せんごん)に據(よ)れば上行の再誕日蓮なり。若し内証の深秘に據れば本地自受用の再誕日蓮なり。故に知りぬ、本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり……佐州以後は連祖即ち是れ久遠元初の自受用身なり」(『六巻抄』八七㌻ 創価学会刊)と述べられているように、久遠元初以来、この娑婆世界に最も縁が深く、娑婆世界の衆生に下種してこられたのが日蓮大聖人なのである。
 したがって「是くの如き等の宿縁の方便・諸大菩薩に超過せり」と述べられているように、外用は地涌の菩薩の上首・上行菩薩の再誕であり、その本地は久遠元初の御本仏である日蓮大聖人が娑婆世界に最も宿縁が深いのは当然であり、迹化他方の諸大菩薩とは全く比較にならないのである。
         曾谷入道許御書(五網抄)

      第十一章 末法への付嘱の人法を明かす

本文(一〇三〇㌻一三行~一〇三二㌻三行)
 今親(まのあた)り此の国を見聞するに人毎に此の二の悪有り此等の大悪の輩は何(いか)なる秘術を以て之を扶救(ふきゅう)せん、大覚世尊仏眼を以つて末法を鑒知(かんち)し此の逆(ぎゃく)・謗(ぼう)の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたもう、所謂法華経本門久成の釈尊・宝浄世界の多宝仏・高さ五百由旬広さ二百五十由旬の大宝塔の中に於て二仏座を並べしこと宛(あたか)も日月の如く十方分身の諸仏は高さ五百由旬の宝樹の下に五由旬の師子の座を並べ敷き衆星(しゅしょう)の如く列坐したもう、四百万億那由佗の大地に三仏二会に充満したもうの儀式は華厳寂場の華蔵(けぞう)世界にも勝れ真言両界の千二百余尊にも超えたり一切世間の眼なり、此の大会に於て六難九易を挙げて法華経を流通(るつう)せんと諸の大菩薩に諌暁(かんぎょう)せしむ、金色世界の文殊師利・兜史多(とした)宮の弥勒菩薩・宝浄世界の智積菩薩・補陀落山(ふだらくせん)の観世音菩薩等・頭陀(ずだ)第一の大迦葉・智慧第一の舎利弗等・三千世界を統領する無量の梵天・須弥(しゅみ)の頂に居住する無辺の帝釈・一四天下を照耀せる阿僧祇の日月・十方の仏法を護持する恒沙(ごうじゃ)の四天王・大地微塵の諸の竜王等我にも我にも此の経を付属せられよと競い望みしかども世尊都(すべ)て之を許したまわず、爾の時に下方の大地より未見・今見の四大菩薩を召し出したもう、所謂上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩なり、此の大菩薩各各六万恒河沙の眷属を具足す形貌威儀(ぎょうみょういぎ)言(ことば)を以て宣べ難く心を以て量るべからず、初成道の法慧・功徳林・金剛幢(こんごうどう)・金剛蔵等の四菩薩各各十恒河沙の眷属を具足し仏会(ぶつえ)を荘厳せしも大集経の欲・色二界の中間(ちゅうげん)大宝坊に於て来臨せし十方の諸大菩薩乃至大日経の八葉の中の四大菩薩も金剛頂経の三十七尊の中の十六大菩薩等も此の四大菩薩に比挍(ひきょう)すれば猶帝釈と猿猴(えんこう)と華山と妙高との如し、弥勒菩薩・衆の疑を挙げて云く「乃(いまし)一人をも識らず」等云云、天台大師云く「寂場より已降(このかた)今座より已往(さき)十方の大士来会絶えず限る可からずと雖(いえど)も我れ補処(ふしょ)の智力を以て悉く見・悉く知る而も此の衆に於ては一人をも識らず」等云云、妙楽云く「今見るに皆識らざる所以は乃至智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云、天台又云く「雨の猛(たけ)きを見て竜の大なるを知り華の盛(さかん)なるを見て池の深きを知る」云云、例せば漢王の四将の張良(ちょうりょう)・樊噲(はんかい)・陳平(ちんぺい)・周勃(しゅうぼつ)の四人を商山(しょうざん)の四皓(しこう)・綺里枳(きりき)・甪里(ろくり)先生・東園公(とうえんこう)・夏黄公(かこうこう)等の四賢に比するが如し天地雲泥なり、四皓が為体(ていたらく)頭には白雪(はくせつ)を頂き額には四海の波を畳み眉には半月を移し腰には多羅枝(たらし)を張り恵帝の左右に侍して世を治められたる事・堯舜(ぎょうしゅん)の古を移し一天安穏なりし事・神農の昔にも異ならず、此の四大菩薩も亦復(また)是くの如し法華の会に出現し三仏を荘厳し謗人の慢幢(まんどう)を倒すこと大風の小樹の枝を吹くが如く衆会の敬心を致すこと諸天の帝釈に従うが如く提婆が仏を打ちしも舌を出して掌(たなごころ)を合せ瞿伽梨(くぎゃり)が無実を構えしも地に臥して失(とが)を悔ゆ、文殊等の大聖は身を慙(は)ぢて言を出さず舎利弗等の小聖は智を失して頭(こうべ)を低(た)る、爾の時に大覚世尊寿量品を演説し然して後に十神力を示現して四大菩薩に付属したもう、其の所属の法は何物ぞや、法華経の中にも広を捨て略を取り略を捨てて要を取る所謂妙法蓮華経の五字・名(みょう)・体(たい)・宗(しゅう)・用(ゆう)・教(きょう)の五重玄なり、例せば九苞淵(きゅうほうえん)が相馬の法には玄黄(げんこう)を略して駿逸(しゅんいつ)を取り史陶林(しとうりん)が講経の法には細科を捨て元意を取るが如し等。

通解
 今、まのあたりにこの国を見聞するに、人ごとに五逆と謗法の二罪を犯している。このような大悪人はどのような秘術をもって救済したらよいのであろうか。
 大覚世尊は仏眼をもって末法を見通され、この五逆と謗法の二罪を対治されるために一大秘法を留め置かれたのである。いわゆる法華経本門久遠実成の釈尊と宝浄世界の多宝仏が、高さ五百由旬、広さ二百五十由旬の大宝塔の中において並座したことは、ちょうど日と月のようなものであり、十方分身の諸仏は高さ五百由旬の宝樹の下に五由旬の師子の座を並べ敷き、多くの星のように列座されたのである。四百万億那由佗の大地に釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏の三仏が虚空と霊鷲山の二つの会座に充満された儀式は、華厳経の寂滅道場の華蔵世界にも勝れ、真言の胎蔵・金剛両部の千二百余尊にも超えており、一切世間の眼というべき姿であった。
 この大会において六難九易を拳げて法華経を弘通せよと、もろもろ大菩薩に諌暁されたのである。金色世界の文殊師利菩薩、兜史多天宮の弥勒菩薩、宝浄世界の智積菩薩、補陀落山の観世音菩薩等、頭陀第一の大迦葉、智慧第一の舎利弗等、三千世界を統領する無量の梵天、須弥山の頂に居住する無辺の帝釈、四天下を照らす阿僧祇の日月、十方の仏法を護持する恒河沙の四天王、大地微塵のもろもろの竜王等が我にも我にもと競ってこの法華経の付嘱を競い願ったが、世尊はすべてこれを許さなかったのである。
 その時に下方の大地から今まで見たこともなかった、この会座で初めて見る四大菩薩を召し出されたのである。いわゆる上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩である。これらの大菩薩はそれぞれ六万恒河沙の眷属を連れている。その姿と威儀は言葉に述べがたく、心で推し量ることもできない。釈尊の初成道の華厳経説法の時に出現した法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵等の四菩薩がそれぞれ十恒河沙の眷属を率いて仏会を荘厳したことも、大集経の欲界・色界の中間の大宝坊に来た十方の諸大菩薩ないし大日経の八葉の蓮華の中の四大菩薩も、金剛頂経の三十七尊の中の十六大菩薩等も、この本化の四大菩薩に比べるならば、なお帝釈と猿猴、華山と妙高とのように比較することもできないほどの違いがあった。
 この時、弥勒菩薩は会座の大衆の疑いを挙げて「乃(いま)し一人をも識らず」等と述べた。天台大師は法華文句で「寂場より已降(このかた)、今座已往(いおう)は、十方の大士の来会絶えず、限る可からずと雖(いえど)も、我は補処の智力を以って悉く見、悉く知る、而も此の衆に於いては一人をも識らず」と釈している。また、妙楽大師は「今見るに皆識らざる所以は乃至智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等と、天台大師は「雨の猛きを見て竜の大なることを知り、華の盛んなるを見て池の深きを知る」と述べている。例えば、漢王の四将である張良(ちょうりょう)・樊噲(はんかい)・陳平(ちんぺい)・周勃(しゅうぼつ)の四人を、商山の四皓(しこう)・綺里枳(きりき)(綺里季)、甪里(ろくり)先生、東園公、夏黄公等の四賢人に比べるようなものである。そこには天地雲泥の差がある。四皓の姿は頭には白雪をいただき、額には四海の波を畳み、眉には半月を描き、腰には梓の弓を張ったようであり、恵帝の左右に侍して世を治めたさまは、堯舜の昔を今に移し、天下安穏であったことは神農の昔にも異ならなかった。この四大菩薩もまたこのようなものである。法華経の会座に出現し、釈迦仏・多宝仏・十方分身諸仏の三仏を荘厳し、謗法の人の慢心を倒すことは、ちょうど大風が小樹の枝を吹き飛ばすように、会座の大衆が尊敬することは、諸天の帝釈に従うようなものであって、その時こそ釈尊に大石を落とした提婆達多でさえ舌相を現じて合掌し、虚偽を構えて舎利弗を陥れようとした瞿伽梨(くぎゃり)も大地に伏してその失を悔い、文殊等の大菩薩も自身を恥じて何も言わず、舎利弗等の小乗の聖者は智を失って頭を垂れるのみであった。
 その時に大覚世尊は如来寿量品を説法して、その後に如来神力品第二十一に十神力を示現して妙法を四大菩薩に付嘱したのである。 
 その付嘱した法とはどのようなものであるのか。その法は法華経のなかでも広を捨てて略を取り、略を捨てて要を取るところの、いわゆる妙法蓮華経の五字、すなわち名体宗用教の五重玄なのである。例えば、九苞淵(きゅうほうえん)が馬を鑑定する時に玄(黒)と黄等の色にかかわらず駿馬を選び、史陶林が経書を講義する時に細科を捨てて元意を取るようなものである。

語訳
鑒知(かんち)
 真偽・勝劣などを照らし、見分けて知ること。鑒は鑑と同字義で、見分ける、考察する、照らしみる等の意。

華蔵(けぞう)世界
 蓮華蔵世界ともいう。華厳経巻八に説かれる世界観。盧舎那仏が微塵数の修行をして厳浄した世界のこと。世界の最下に風輪があり、その上に香水海があって、その中から一大蓮華が生じており、この大蓮華に含蔵された世界をいう。その世界は、二十重に重なる中央世界を中心に、百十一個の世界が網のようにめぐらされ、そのおのおのに仏が出現し、衆生が充満しているという。

兜史多(とした)宮
 六欲天の第四天。梵語トゥシタ(Tuṣita)の音写で、兜率(とそつ)・都率・兜率陀などとも書き、知足・妙足・喜足・喜楽などと訳す。立世阿毘曇論(りつせあびどんろん)などに説かれ、歓楽飽満し自ら満足を知るゆえにこの名がある。菩薩の最後の住処とされ、後に人間として生じて成仏するとされる。また内院と外院(げいん)に分かれ、内院には兜史多宮(都率天宮)があって、釈尊に先立って入滅した弥勒菩薩が天人のため説法しているという。外院は天の衆生の欲楽処とされる。

法慧・功徳林・金剛幢(こんごうどう)・金剛蔵等の四菩薩
 釈尊が成道して最初に説いた華厳経の会座に来集した諸菩薩の上首の四菩薩のこと。法慧菩薩は第三会(忉利(とうり)天会)で十住の法門を説き、功徳林菩薩は第四会(夜摩(やま)天会)で十行を説き、金剛幢菩薩は第五会(兜率(とそつ)天宮会)で十回向(えこう)を、金剛蔵菩薩は第六会(他化自在天宮会)で十地の法門を、それぞれ説いた。この四菩薩は、それぞれ十恒河沙の眷属を率いている。

欲・色二界の中間(ちゅうげん)大宝坊
 大集部の経教が説かれた所で欲界と色界の中間にある大庭とされる。

華山と妙高
 華山は中国の五岳(泰山・華山・衡山・恒山・嵩山)の一つ。妙高は須弥山のこと。華山を迹化の菩薩、妙高を本化の菩薩にたとえ、それらは比較できないほどの差があるとされている。

張良(ちょうりょう)
(~前一六八年)。中国・前漢代の建国の功臣。字(あざな)は子房。韓の出身。韓を滅ぼした秦の始皇帝を恨み、刺客を集めて始皇帝を殺そうとしたが果たせず、下邳(かひ)に隠れた。そこで黄石(こうせき)老人から兵法を学んだといわれ、劉邦(漢の高祖)の挙兵に呼応して軍師となって活躍した。のち、秦を滅ぼし、鴻門(こうもん)の会において劉邦の危機を救い、漢の建国に貢献した。漢朝成立後は留侯に任ぜられた。
〈追記〉
 張良は高祖(劉邦)に「三傑」(張良、蕭何、韓信)の一人と言わしめた人物である。論功行賞の際、三万戸の領地を提示されたが、これを辞退して留の地を望み、留侯となった。体制が確立されて以後は病気と称して家に籠り、神仙を学んでいる。建国の功臣の晩年にしては淋しい姿であるが、結果として賢明な選択であったと言えよう。人の妬みを買うことなく、将来の粛清の嵐をも避けたのである。こうして世の交わりを断ち、静かな余生を送った張良であったが、それにひきかえ、楚王となって得意絶頂であった韓信は高祖の不興をこうむり、また異例の出世に嫉妬した者の讒言もあって降格され、反乱を企てたが露見して斬られた。守成の世となれば、軍師(張良)や将帥(韓信)はその役目を終え、以後は政治(蕭何・陳平等)が中心の世界である。隠棲した張良に比べ、軍略にも政治にも長けた陳平は、三傑亡き後の漢王室を周勃と共に支えた。

樊噲(はんかい)
(~前一八九年)。中国・前漢代の建国の功臣。沛(はい)(江蘇省沛県)の出身。史記巻九十五によると、低い身分の出身で、早くから沛公(漢の高祖・劉邦)に仕え、沛公の漢朝建国を助けた。とくに鴻門(こうもん)の会では、范増(はんぞう)の計略から沛公の危機を救っている。沛公が皇帝即位後も韓信、盧綰(ろわん)等の内乱を平定し、武功をあげて舞陽侯に封ぜられた。
〈追記〉
 樊噲は高祖(劉邦)が微賤(びせん)のときから仕え、天下統一に貢献し、大業が成ってのちも諸王の反乱鎮定に功があった。しかし高祖は晩年、部下や諸侯に猜疑の目を向けるようになり、樊噲も讒言により罪を得て斬刑を言いわたされたが、高祖の逝去により危うく死罪を免れている。御書に「将門はつはものの名をとり、兵法の大事をきはめたり。されども王命にはまけぬ。はんくゎひ(樊噲)・ちゃうりゃう(張良)もよしなし。ただ心こそ大切なれ」(四条金吾殿御返事・一一九二㌻)と仰せである。本抄の講義には「樊噲、張良の場合は、それぞれ戦争についての武力・智謀という力をもっていたが、それだけにとどまっていたことが、人生の敗北の因であったのである」とある(『日蓮大聖人御書講義』第二十四巻より一部抜粋)。

陳平(ちんぺい)
(~前一七八年)。中国・前漢代の建国の功臣。陽武(河南省)の人。はじめ項羽に従ったが、後に劉邦(漢の高祖)に仕えた。智略にたけており漢の建国に功績があった。恵帝の代に左丞相、恵帝崩御の後に右丞相となった。呂氏一族の乱を平定し、文帝を迎えた。
〈追記〉
 高祖(劉邦)は逝去の際、後事を恃む人物としてまず「蕭何」、次に「曹参」、その次は「王陵」と指名し、王陵の補佐に「陳平」を当てるとし、最後に「周勃」の名を挙げた。その遺言通り、蕭何の次は曹参が相国を任じ、恵帝六年、曹参の死を受けて王陵が右丞相(正宰相格)、陳平が左丞相(副宰相格)となった。しかし、王陵は直言居士の性格から呂后に疎んじられ、失脚した。替わりに右丞相となった陳平は、呂后の専権時代には面従腹背の姿勢を保ち、粛清の嵐を避け、反攻の機を伺った。そして謀計を以て呂氏一族から兵権を奪い、周勃とともにこれを討ち、文帝を推戴した。

周勃(しゅうぼつ)
(~前一六九年)。中国・前漢代の建国の功臣。江蘇省沛(はい)県出身。漢の高祖・劉邦と同郷で、劉邦に従って兵を挙げ、秦を討って漢の建国に功績があった。将軍として高祖劉邦を助け、燕王臧荼(ぞうと)を討って絳(こう)侯に封ぜられ、韓王信らの乱を平定した。呂后死後は右丞相の陳平と謀り、呂氏一族の専横を斥(しりぞ)け、文帝に仕え共に丞相となった。
〈追記〉
 文帝の推戴とともに陳平が右丞相、周勃が左丞相に任ぜられたが、周勃は辞任し、陳平が単独で丞相を勤めた。陳平没後、周勃が再び丞相となった。高祖(劉邦)が挙げた〝後事を恃む人物〟の最後が周勃であり、劉邦の死期の予言はすべて適中したのである。

商山(しょうざん)の四皓(しこう)
 商山とは商洛山のこと。四皓は中国秦代の末、国乱を避けて陝西(せんせい)省商山に入った隠士で、綺里季(きりき)(綺里枳)、甪里(ろくり)先生、東園公(とうえんこう)、夏黄公(かこうこう)の四人。みな鬚眉皓白(しゅうびこうはく)の老人であったところからこの名がある。漢の高祖のとき、性格の柔弱な盈(えい)太子を廃して、戚(せき)夫人の子・隠王如意を立てようとした。この時、盈太子の母・呂(りょ)皇后は高祖の功臣・張良(ちょうりょう)と謀り、四皓を盈太子の補佐役とした。高祖は自ら招聘しても応じなかった商山の四君子が盈太子の後ろに師としていることに驚き、盈太子を改めて認め、廃嫡の決意を翻したという。この盈太子が高祖の没後に即位し、第二代恵帝となった。

多羅枝(たらし)
 多羅樹(ヤシ科の常緑喬木)の枝のことであるが、この樹枝を截って弓を作ることから、弓のことを多羅枝という。

九苞淵(きゅうほうえん)
 九方堙、九方皐(きゅうほうこう)とも書く。生没年不明。中国・春秋時代の馬の鑑定家。秦の穆公(ぼくこう)に名馬を求められ、三か月後に黄色い牝(めす)の良馬を得たと報告した。しかし実際は黒い牡(おす)馬であったため、公は伯楽に真偽をたずねた。伯楽は、九苞淵の見たのは馬の天性の気質であり、内に在るものを見て外を忘れた結果であると答えた。後日、九苞淵の選んだ馬は天下の名馬になったという。高僧伝巻四には「此れ乃ち九方堙の馬を相するなり。其の玄黄(げんこう)を略して、其の駿逸(しゅんいつ)を取る」とある。

相馬の法
 馬の良否を見分ける法。中国古代では伯楽、九苞淵がこの術をよくしたという。
〈追記〉
 伯楽とは天馬の守護星の意で、馬の鑑定の名人であった周の孫陽を称した。列子の説符篇第八によれば、老境にあった孫陽が秦の穆公(在位前六五九年~前六二一年)から後継者を問われ、薪と野菜の呼び売りを生業とする九方皐(九苞淵)を推薦した。九方皐が馬を探して三か月後、王に呼び出された伯楽は、九方皐が黄色い牝馬を見つけたと報告したのに対し、実際は黒い牡馬であったと聞かされ、大きなため息をついて言うには「一(いつ)に(=なんと)此に至れるか。是れ乃ち其の臣に千万にして数無き所以(ゆえん)の者なり。皐の観る所の若(ごと)きは天機(=天性の才)なり。其の精を得て其の麤(そ)(=粗)を忘れ、其の內に在って其の外を忘れ、其の見る所を見て其の見ざる所を見ず、其の視る所を視て其の視ざる所を遺(のこ)す。皋の馬を相するが若きは、乃ち馬よりも貴ぶ者有るなり」と。馬が到着したところ、果たして天下の名馬であった。

玄黄(げんこう)
 玄(くろ)(黒)と黄のこと。ここでは馬の毛色をいう。

史陶林(しとうりん)
(三一四年~三六六年)。支遁(しとん)のこと。姓は関、字は道林。法華取要抄には「支道林」(三三六㌻)と記される。中国・東晋代、陳留(河南省東北部)の学僧。幼い時から聡明で、二十五歳で出家。各地で名声を得、棲光寺(せいこうじ)等多くの寺を建てた。詩人の孫綽(そんしゃく)、書家の王羲之(おうぎし)等とともに交わりをもち、老子・荘子の思想にも通じていた。般若経や維摩経の解説者として名声を博し、四禅の経を注釈し、「即色遊玄論」「学道誡」等を著した。
〈追記〉
 史陶林すなわち支遁は、格義仏教の代表的人物である。格義仏教とは、仏教経典を中国固有の思想、とりわけ老荘思想の概念や用語によって解釈しようとしたもの。西晋に流行した竹林の七賢に代表される清談(老荘思想に基づき俗世から超越した談論)の風もあり、西晋末から東晋(三一七年~四二〇年)にかけて盛行し、老荘の〝無〟の思想によって般若経典の〝空〟の思想を解釈した。しかし仏教の理解には仏教本来の解釈によらなければならない、という主張が釈道安によって為され、四〇一年、長安に来朝した鳩摩羅什による訳経と相まって、格義仏教は影をひそめた。

講義
 五濁強盛で五逆・謗法の衆生が充満する末法の世を救うために、釈尊は法華経で寿量品の肝要、妙法蓮華経の五字を説き、これを本化地涌の菩薩に付嘱したことを述べられている。
 前章に述べられたように、末法は法滅尽の時代であるが、釈尊は、ただ白法が穏没すると予言して入滅してしまったのではない。法華経には、その末法を救うべき法と人とが、明確に定められ、予言がなされているのである。もし、法華経がなければ、釈尊が、末法の衆生にとっては、まことに無責任な仏であるということになったであろう。

 大覚世尊仏眼を以つて末法を鑒知(かんち)し此の逆(ぎゃく)・謗(ぼう)の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたもう

 釈尊が「逆・謗の二罪」を対治する一大秘法を留めたことを具体的にあらわしているのは、法華経の提婆達多品と不軽菩薩品である。
 すなわち、提婆達多品では、五逆罪のうち、破和合僧、出仏身血、殺阿羅漢の三逆罪まで犯し生きながら無間地獄に堕ちた提婆達多について、その過去の因縁を明かすとともに、未来に天王如来となる、との成仏の記別を説いたのである。
 また、不軽菩薩品では、釈尊が遠い過去世に不軽菩薩として二十四文字の法華経を弘めた際、これを誹謗した衆生が、その後、無間地獄に堕ち、罪障消滅の後、逆縁の功徳で再び不軽(釈尊)に会い、この法華経の会座に跋陀婆羅等として列なっていることを明かしている。これは、謗法の衆生を救うことのできる妙法の功力を明かしているのである。
 つまり、こうした提婆達多品や不軽品の説法は、法華経に説く法体(一大秘法)が、五逆と謗法の衆生の充満する末法をも救うことができることをあらわしているのである。

 所謂法華経本門久成の釈尊……一切世間の眼なり

 末法の弘通のための付嘱の儀式に列なった仏が、いかに素晴らしい仏達であったかを示されている。
 この付嘱の儀式は宝搭品第十一から始まり、嘱累品第二十二で終わるが、いうまでもなく、釈尊の久遠実成が明かされるのは如来寿量品第十六においてである。
 それにもかかわらず、この御文で「法華経本門久成の釈尊」と仰せられているのは、この宝搭品で釈尊が宝搭の中に入り、多宝如来と並座した時から釈尊の本地が久成にあることがすでに暗示されているという意味でこう述べられていると拝される。
 すなわち、宝搭品の初めに多宝の搭が現れ、衆生が搭中の如来を拝みたいと求めたのに応えて、釈尊は宝搭を開こうとする。そのためには十方分身の諸仏を集めなければならないので、三変土田して四百万億那由陀の国土を浄化して仏土とする。そこに十方諸仏が来集して、釈尊は立って宝搭を開き、多宝如来の招きにより入って並坐するのである。この経過のなかで、十方世界に、かくも大勢の分身仏がいること自体、釈尊がインドで始めて成道した、いわゆる始成正覚の仏ではなく、久遠の昔に成道した仏であることが暗示されているのである。
 こうして釈迦・多宝・十方諸仏の三仏が列なった荘厳な儀式は、嘱累品第二十二で一切の付嘱の儀が終わり十方諸仏が各々の本土に還るまで続く。
 ゆえに、前霊山、虚空、後霊山の二処三会の法華経の全経過のうち、前霊山会の終わりごろと虚空会の期間中までが三仏が列座している儀式となっているので「三仏二会に充満したもうの儀式」と仰せられたのであろう。
 そして、このような荘厳な姿は、他のどの経にもなく、法華経が最勝であること、なかんずく、そこで行われる末法弘通のための付嘱の重要性、付嘱される法(一大秘法)の偉大さをあらわしているのである。

 此の大会に於て六難九易を拳げて……爾の時に大覚世尊寿量品を演説し然して後に十神力を示現して四大菩薩に付属したもう

 法華経宝搭品で、釈尊が滅後の弘通を菩薩達に勧め、それに応えて、勧持品第十三、涌出品第十五の冒頭で、迹化・他方の諸菩薩が弘教を誓い、付嘱を願い出たこと。しかし、釈尊はそれを許さず、大地の下から上行を上首とする本化の菩薩を召し出し、寿量品を説法した後、神力品第二十一で、この本化の菩薩に妙法を付嘱したことを示されている。
 すなわち、宝搭品から神力品に至る、本化地涌の菩薩への付嘱の次第が、法華経の流れに沿って、要約して明らかにされているのである。
 そのなかで、本化地涌の導師である上行・無辺行・浄行・安立行の四大菩薩の「形貌威儀(ぎょうみょういぎ)」がいかに立派であったか、また、この四大菩薩は弥勒をはじめとする迹化の衆にとって未知の存在であったこと、この四大菩薩の前には、小智の者は自身を恥じ、悪逆の衆生も屈伏せざるをえないことを述べられている。
 本化地涌の菩薩が弥勒など迹化の菩薩にとって、いまだかつて見たことのない未知の存在であったということは、本化の菩薩の境智の深さをあらわしている。
 そして、本化の菩薩の前には、悪逆の提婆や瞿伽利(くぎゃり)も「掌(たなごころ)を合せ」「失を悔ゆ」と述べられているのは、末法の五逆・謗法の衆生を善心に立ち返らせ、正法に帰依せしめる本化地涌の菩薩、末法の法華経の行者の力を表現されたと拝される。
 また「文殊等の大聖は身を慙(は)ぢ」「舎利弗等の小聖は智を失して頭(こうべ)を低(た)る」とは、小乗・権大乗のあらゆる既存の仏教を屈服せしめる妙法の偉大さと、この妙法を信受した末法の法華経の行者は、一切の人々から師と仰がれていくであろうとの仰せである。

 其の所属の法は何物ぞや、法華経の中にも広を捨て略を取り略を捨てて要を取る所謂妙法蓮華経の五字・名(みょう)・体(たい)・宗(しゅう)・用(ゆう)・教(きょう)の五重玄なり

 末法弘通のために、本化地涌の菩薩の上首上行菩薩に付嘱された法について述べられている。それは法華経の肝要たる妙法蓮華経であり、名体宗用教の五重玄であると示されている。妙法蓮華経は、単に法華経の題名であるのではなく、法華経の体であり、五重玄を具えた法である。これを日蓮大聖人は、外用の辺では上行の再誕、内証深秘の辺では久遠元初自受用報身の再誕として末法に出現され、本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目の三大秘法として御建立になった。
〈追記〉
 本講義録では、上記文言の直後に次下の文章が続く。「この三大秘法は本門戒壇の大御本尊に帰着するので、前記のように『一大秘法』と称されるのである」と。この「一大秘法」の語は、かつて「本門戒壇の大御本尊」と認識されていたが、大御本尊は日顕によって本門戒壇である正本堂の座から引き下ろされ、正本堂は破壊されたがゆえに、大御本尊はもはや「本門戒壇の大御本尊」ではなくなったのである。よって以後、大御本尊は「弘安2年の御本尊」と呼称されるに至った。また「一大秘法」の語については、創価学会教学部により「御書に『一大秘法』と教示されているのは、『曽谷入道殿許御書』のみである。そこでは、『妙法蓮華経の五字』(御書1032頁)を一大秘法として明かされている」(「会則の教義条項改正に関する解説」2015年1月29・30日 聖教新聞掲載)と明示されている。(追記了)

 ともあれ、広略を捨て要を取ることを述べられている御文は、本抄の前年にあたる文永十一年(一二七四年)五月に執筆され、富木常忍に与えられた法華取要抄にも「日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり、九包淵が馬を相するの法は玄黄を略して駿逸を取る支道林が経を講ずるには細科を捨てて元意を取る」(三三六㌻)とのほぼ同じ内容の一節がある。
 そして、それは「仏既に宝塔に入つて二仏座を並べ分身来集し地涌を召し出し肝要を取つて末代に当てて五字を授与」(同㌻)されたからであると述べられている。
 釈尊自身が肝要を取って授与されたといわれているのは、神力品の「要を以て之(こ)れを言わば、如来の一切の有(たも)つ所の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵(ぞう)、如来の一切の甚深(じんじん)の事(じ)は、皆な此の経に於いて宣示顕説(せんじけんぜつ)す」(『妙法蓮華経並開結』五七二㌻ 創価学会刊)を承けてであることは明らかである。
         曾谷入道許御書(五網抄)

        第十章 末法の濁悪の相を示す

本文(一〇三〇㌻六行~一〇三〇㌻一三行)
 今末法に入つて二百二十余年五濁強盛にして三災頻(しき)りに起り衆見の二濁(じょく)国中に充満し逆謗の二輩四海に散在す、専ら一闡提(いっせんだい)の輩を仰いで棟梁と恃怙(たのみ)謗法の者を尊重して国師と為す、孔丘(こうきゅう)の孝経之を提げて父母の頭(こうべ)を打ち釈尊の法華経を口に誦しながら教主に違背す不孝国は此の国なり勝母の閭(さと)他境に求めじ、故に青天眼(まなこ)を瞋(いか)らして此の国を睨(にら)み黄地(こうち)は憤(いきどお)りを含んで大地を震う、去(いぬ)る正嘉元年の大地動・文永元年の大彗星・此等の夭災(ようさい)は仏滅後二千二百二十余年の間・月氏・漢土・日本の内に未だ出現せざる所の大難なり、彼の弗舎密多羅(ほつしゃみつたら)王の五天の寺塔を焼失し漢土の会昌(かいしょう)天子の九国の僧尼を還俗せしめしに超過すること百千倍なり大謗法の輩国中に充満し一天に弥(はびこ)るに依つて起る所の夭災なり、大般涅槃経に云く「末法に入つて不孝謗法の者大地微塵の如し」取意、法滅尽経に「法滅尽の時は狗犬(くけん)の僧尼・恒河沙(ごうがしゃ)の如し」等云云取意。

通解
 今、末法に入って二百二十余年、五濁が強盛となって三災が頻繁に起こり、衆生濁と見濁の二濁が日本国中に充満し、五逆罪と謗法を犯した二輩が四海に散在している。人々はもっぱら一闡提の輩を仰いで棟梁とたのみ、謗法の者を尊重して国師としている。孔子の孝経を持って父母の頭を打ち、口では釈尊の法華経を読みながら教主の教えに背いているのである。まさに、不孝国とはこの日本国のことである。勝母の閭(さと)を他に尋ねるに及ばない。ゆえに、天は眼を瞋(いか)らせてこの国をにらみ、地は憤(いきどお)りを含んで大地を震わすのである。
 正嘉元年(一二五七年)の大地震や文永元年(一二六四年)の大彗星等の災難は、釈尊滅後二千二百二十余年の間、インド、中国、日本にいまだ出現したことのなかった大難である。かの弗舎密多羅王が全インドの寺塔を焼失し、中国・唐の武宗皇帝が国中の僧尼を還俗させたのに超えること百千倍である。まさに大謗法が国中に充満し、天下にはびこっていることから起こるところの災難なのである。涅槃経には「末法に入って不孝謗法の者は大地微塵の如し」(取意)と説かれ、法滅尽経には「法滅の時は狗犬の僧尼、恒河沙の如し」(取意)と説かれている。

語訳
衆見の二濁(じょく)
 五濁の中の衆生濁と見濁をさす。衆生濁とは有情濁ともいい、衆生の生命が濁り身心ともに資質が低下すること。見濁とは思考の濁りで、見惑のうちの身見・辺見・邪見・見取見(けんじゅけん)・戒禁取見(かいごんじゅけん)の五利使をいう。

孔丘(こうきゅう)
(前五五二年/前五五一年~前四七九年)。中国・春秋時代の思想家。孔子のこと。儒教の祖。氏は孔、名は丘(きゅう)、字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。魯(ろ)国の昌平郷陬邑(しょうへいきょうすうゆう)(山東省曲阜付近)の人。魯国に仕え、理想政治の実現をめざして政治改革を行ったが失脚して、諸国を遍歴した。堯・舜、文王・周公旦等を尊敬し、仁を理想の道徳とし、忠孝の道を教えた。晩年は魯国に帰り、著述と弟子の育成に務め、六経を編纂したといわれる。死後、弟子が孔子の言行等を記録したものが論語である。

勝母の閭(さと)
 中国の故事。勝母は里(閭)の名称。史記などによると孔子の弟子の曾子は孝養の心が厚く、勝母(母に勝つ)という名称が不孝であるとして、勝母の閭の門に入らなかったという。
〈追記〉
 諺に「孔子は盗泉の流を飲まず、曽子は勝母の閭に入らず」という。盗泉とは、中国山東省泗水(しすい)県の東北にある泉。孔子はその泉の名が悪いとして飲まなかったという。同様に「悪木盗泉」という諺がある。晋の陸機が「渇しても盗泉の水を飲まず、熱しても悪木の陰に息(いこ)わず」と詠んだ詩を元とし、「喉が渇いても盗泉という名の水は飲まず、暑くとも悪い木の陰(下)では休まない」との意である。悪木とは人を傷つけたり悪臭のする木、また果実を盗んでいると疑われかねない木のこと(「李下に冠を正さず、瓜田に履を入れず」と同義)。これらの諺の主旨は、悪事に染まるのを戒め、わずかな悪事にも身を近づけないこと。

弗舎密多羅(ほつしゃみつたら)王
 梵名プシャミトラ(Puṣyamitra)の音写。紀元前二世紀ごろのインドの王。阿育王の末孫(ばっそん)にあたる。雑阿含経巻二十五によると、「王はその名徳を世に令(し)こうとして群臣にこれを諮ったところ、賢善の臣は阿育王のように仏塔を建て三宝を供養すべきことを勧めたが、王はこれを喜ばず、かえって悪臣の言をいれて、仏塔を破壊し多くの僧侶を殺害した」(取意)とある。
(追記)
 弗舎密多羅王、すなわちプシャミトラ・シュンガ(Puṣyamitra Śuṅga、在位紀元前一八〇年頃~紀元前一四四年頃)の出自について明らかではないが、仏典に記すような阿育王の末孫ではない。マウリヤ朝最後の王に仕える将軍であったが、閲兵式の際に王を殺害してマウリヤ朝を滅ぼし、シュンガ朝を建国した。プシャミトラの姓であるシュンガはバラモン姓であり、バラモン教の復興に努め、仏教を弾圧した。

会昌(かいしょう)天子
(八一四年~八四六年)。中国・唐王朝第十五代皇帝。武宗のこと。ここでは、会昌年間に仏教弾圧をしたことを指す。即位後、念仏を重んじていたが、道教を尊崇するようになり、会昌五年(八四五年)に大規模な仏教弾圧を断行し、多くの寺院を破壊し僧尼を還俗させた。これを会昌の廃仏といい、三武一宗の法難(※)の一つにあたる。
〈追記〉
 三武一宗の法難とは、北魏の太武帝、北周の武帝、唐の武宗(以上三武)と後周の世宗(一宗)によって断行された仏教弾圧をいう。なお、唐の武宗は仏教弾圧の翌年、道教で不老不死の薬とされた丹薬の中毒のために死亡した。

法滅尽経
 仏説法滅尽経。一巻。訳者不明。仏の涅槃が近づき、説法せず、威光も現われず光明を現じなかった。そこで阿難が三回たずね、仏はそれに対し、末法法滅の時、魔が比丘となって生ずることを説いている。

「法滅尽の時は……」
「吾涅槃の後、法の滅せんとする時、五逆濁世に魔道興隆す。魔、沙門と作(な)って吾が道を壊乱(えらん)す……悪人転(うた) た多くして海中の沙(いさご)の如く、善者は甚だ少なく、若(も)しは一若しは二」等の取意。

狗犬(くけん)
 犬のこと。狗は子犬の意。
〈追記〉
 狗はつまらないものや、いやしいもののたとえ。

講義
 本抄御述作の当時は、仏滅後二千二百二十余年にあたり、大集経に「闘諍言訟(とうじょうごんしょう)・白法隠没(びゃくほうおんもつ)」と説かれたように、五濁が強盛で人々は正法に背いて邪法を崇重しているため、三災が頻発していることを指摘されている。
 五濁とは劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁をいい、劫濁とは時代の濁り、煩悩濁とは貪・瞋・癡などに支配されること、衆生濁とは人の心身がともに衰えること、見濁とは思想の濁り、命濁とは生命自体の濁りをいう。衆生が煩悩と誤った思想にとりつかれると、生命それ自体や衆生社会が濁り、この四濁が長く続くと時代の濁りを生むことになる。
 末法の現在にはこれらの五濁が盛んとなり、穀貴・兵革・疫病の三災が頻発するのであるが、当時の日本は、とくに衆生濁・見濁が国中に充満して、五逆罪と謗法の衆生があらゆるところに散在している、と述べられている。
 日蓮大聖人は立正安国論に「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼(き)来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず」(一七㌻)と述べられ、日本中の人が正法に背き悪法に帰依していることが災難を招き寄せている根本原因であることを明らかにし諌められた。
 本抄でも「逆謗の二輩……専ら一闡提の輩を仰いで棟梁と恃怙(たのみ)謗法の者を尊重して国師と為す」と、その歪みを指摘されている。
 一闡提とは、断善根・信不具足などと訳し、本来は正法を信ぜず、悟りを求める心がなく、成仏する機縁を持たない衆生をいうが、ここにいわれている「一闡提の輩」とは弘法・慈覚・智証・法然など、法華経を誹謗して権教権宗を立てた諸宗の祖をさしている。
 また「謗法の者を尊重して国師と為す」と述べられているのは、大聖人御在世当時、幕府の権力者が禅宗の建長寺道隆や真言律宗の極楽寺良観を尊重していたことをさしていわれていると拝される。
 こうした一国謗法の状態を、孔子の説いた孝経をもって父母の頭を打ち、釈尊の正説である法華経を口に唱えながら教主の教えに背くものであり、日本こそ不孝の国であり、賢人がきらった勝母の里というべきであると断じられている。
 そのように一国が謗法となった結果、天変地夭を招き、さまざまな災難が競い起こっているのであり、その最たるものが正嘉元年(一二五七年)八月二十三日に鎌倉地方に起きた大地震であり、文永元年(一二六四年)七月に現れた大彗星である、と述べられている。
 そして、この天変地夭は、仏滅後二千二百二十余年の間、インド・中国・日本で現れたことがない、規模の大きなもので、その原因は、かつてない大謗法が日本中を覆っていることにあると断じられているのである。
 すなわち、インドで弗沙弥(密)多羅王が仏教を迫害して多くの寺塔を焼いた謗法や、中国の唐の会昌天子(武宗皇帝)が道教を重んじ、廃仏令を出して仏教を弾圧し、僧尼をすべて還俗させたという謗法に百千倍超えた大謗法の者が国中に充満し、一国にはびこったことによる、と述べられている。
 そして、末法に謗法の者が数多く出現するのは釈尊の予見どおりであることを、大般涅槃経、法滅尽経を引いて示されている。
 大般涅槃経の文とは、涅槃経の迦葉菩薩品第二十四に「戒を毀(こぼ)ち懈怠にして四重禁を犯し、五逆罪を作り、僧鬘物(まんぶつ)を用い、一闡提と作(な)り、諸善根を断ち、是の経を信ぜず。十方界所有の地土の如し」とある文の取意とされる。
 また法滅尽経の文とは「我が涅槃の後、法滅せんと欲する時、五逆濁世魔道興盛(こうじょう)にして、魔沙門(しゃもん)と作(な)って、吾が道を壊乱(えらん)し、俗の衣装を著、好(よ)き袈裟、五色の服を楽(よろこ)び、酒を飲み肉を噉(くら)い、生を殺し、味を貪り、慈心有ること無く、更に相憎嫉(ぞうしつ)せん」とある文の取意とされる。
 まさに、末法の僧俗はこの経文の予言のように身は仏道にありながら仏法に背き、仏法を破壊する魔の存在となっていたのである。
          曾谷入道許御書(五網抄)

      第九章 像法末の伝教大師の弘教を明かす

本文(一〇三〇㌻一行~一〇三〇㌻五行)
 像法の末八百年に相当つて伝教大師和国(わこく)に託生(たくしょう)して華厳宗等の六宗の邪義を糾明するのみに非ずしかのみならず南岳・天台も未だ弘めたまわざる円頓戒壇を叡山に建立す、日本一州の学者一人も残らず大師の門弟と為(な)る、但天台と真言との勝劣に於ては誑惑(おうわく)と知つて而(しか)も分明ならず、所詮末法に贈りたもうか此等は傍論(ぼうろん)為(た)るの故に且(しば)らく之を置く、吾が師伝教大師三国に未だ弘まらざるの円頓の大戒壇を叡山に建立したもう此れ偏(ひとえ)に上薬を持ち用いて衆生の重病を治せんと為る是なり。

通解
 像法時代の末、八百年にあたって、伝教大師が日本国に生まれて華厳宗等の六宗を糾し明らかにしただけでなく、南岳大師、天台大師もいまだ弘めなかった円頓戒壇を比叡山に建立した。それゆえ、日本一国の学者は一人も残らず伝教大師の弟子となったのである。ただ天台宗と真言宗との勝劣においては真言が人をたぶらかす邪法であることは知っていたが、しかし、そのことは明らかにされなかった。それは、結局、末法の導師にそれらを譲られたのであろうか。ただ、このことは傍論なのでしばらくおく。
 我が師・伝教大師がインド、中国、日本の三国にいまだ弘まらなかった円頓の大戒壇を比叡山に建立されたのは、ひとえに上薬を用いて衆生の重病を治そうとされたためである。

語訳
伝教大師
(七六七年~八二二年)。平安時代初期の人で、日本天台宗の開祖。諱(いみな)は最澄。諡号(しごう)は伝教大師。叡山大師・根本大師・山家(さんげ)大師ともいう。俗姓は三津首(みつのおびと)。幼名は広野(ひろの)。近江国(滋賀県)滋賀郡の生まれ。先祖は後漢の孝献帝の末裔で、応神天皇の時代に日本に帰化したといわれる。十二歳で近江国分寺の行表(ぎょうひょう)について出家。延暦四年(七八五年)東大寺で具足戒を受け、その後、比叡山に登り、諸経論を究めた。延暦二十一年(八〇二年)和気弘世(ひろよ)・真綱(まつな)の招請を受けて下山し、京都高雄山寺(のちの神護寺)で天台三大部を講じた。延暦二十三年(八〇四年)還学生(げんがくしょう)(短期留学生)として義真を連れて入唐し、道邃(どうずい)・行満(ぎょうまん)(以上天台学)・翛然(しゅくねん)(禅)・順暁(じゅんぎょう)(密教)等について学び、翌年帰国して延暦二十五年(八〇六年)日本天台宗を開いた。その後、嵯峨天皇の護持僧となり、大乗戒壇実現に努力した。没後、勅許を得て大乗戒壇が建立された。貞観八年(八六六年)伝教大師の諡号(しごう)が贈られた。おもな著書に「山家学生式」一巻、「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「守護国界章」九巻等がある。

和国(わこく)
 漢代以降、中国が日本を呼んだ名称で、倭国と書いた。日本では同音好字の「和」が用いられるようになり、和国と表記した。

託生(たくしょう)
 他のものに身を寄せて生き永らえることをいうが、この場合は、本来菩薩でありながら凡夫の世界に生まれてきたという意味でいわれている。

日本一州の……大師の門弟と為(な)る
 延暦二十一年(八〇二年)正月十九日の和気広世の請いによって、伝教大師は南都六宗の碩学の前で天台法門を講説した。この法莚を嘉(よろこ)んだ桓武天皇の勅によって六宗の学匠等は天台法門が六宗の義より勝れていることを認め、謝表を製して「七箇の大寺、六宗の学生、昔より未だ聞かざる所、かつて未だ見ざる所なり。三論法相の久年の諍いも渙焉として冰の如くに釈(と)け、昭然として既に明らかなり。猶、雲霧を披(ひら)いて三光を見るがごとし。聖徳の弘化より以降(このかた)、今二百余年の間、講ずる所の経論、其の数多し。彼此、理を争つて其の疑い未だ解けず。而も此の最妙の円宗、猶、未だ闡揚(せんよう)せず。蓋し、以(おもんみ)れば此の間の群生未だ円味に応ぜざるか。伏して惟(おもんみ)れば聖朝久しく如来の付を受けて深く純円の機を結べり。一妙の義理、始めて乃ち興顕し、六宗の学衆、初めて至極を悟る」(伝教大師全集五巻付録一〇㌻)と述べている。すなわち、南都六宗の学匠等が伝教大師に謝表を出したことをさしている。

但天台と真言との勝劣……分明ならず
 伝教大師は山家学生式で修学に止観業、遮那業の両業を定め(伝教た師全集一巻一二㌻)、牛頭決(ごずけつ)では「天台所立の十界互具の文は秘密最大の三十七尊住心城の文と大道異なりと雖(いえど)も不思議一なり」(同五巻五十四㌻)と一往、天台、真言の二宗斉等を述べ、勝劣は内心に留められている。日寛上人は勝劣について報恩抄文段で「一には真言宗の名を削り、唯(ただ)天台法華宗と号する故に。二には守護章に、大日経を傍依(ぼうえ)の経と為(す)るが故に。三には依憑集(えびょうしゅう)に、真言宗を破する故に。四にはまた記の十を引き、真言の元祖を魯人(ろひと)と云う故に。五には含光(がんこう)の物語を引載する故なり」と、伝教大師が天台を勝としたことを挙げられている。
〈追記〉
 一、伝教大師が真言を一宗として認めることはせず、天台の一分科としたことは、聖密房御書に「伝教より慈覚たまはらせ給いし誓戒の文には天台法華宗の止観・真言と正(まさし)くのせられて真言宗の名をけづ(削)られたり」(八九九㌻)と仰せである。
 二、「大日経を傍依の経と為る」とは、日寛上人の撰時抄愚記に「守護章の上の中二十九に云く『今、山家所伝の円教宗の依経は正には法華及び無量義に依り、傍には大涅槃・華厳・般若・方等・遮那、一切の円を説く等の諸経緒論に依る』等云云。既に法華を以て正依の経と為し、大日経等を以て傍依の経と為す。豈勝劣皓然(こうねん)なるに非ずや」と述べられている。
 三、依憑集は、詳しくは、大唐新羅諸宗義匠依憑天台義集といい、伝教大師の弘仁四年(八一三年)の著になる。そのなかで「新来の真言家は則ち筆受の相承を泯(みん)ず」(泯す=ほろぼす、すたれさせる)と、真言を破折している。「筆受の相承」とは、中国・唐代の真言宗の一行阿闍梨が、善無畏三蔵より筆受した真言の相承をいう。一行阿闍梨は嵩山(すうざん)の普寂(ふじゃく)について禅を学び、更に諸方で律蔵ならびに諸経論を研鑽し、また天台の教義にも通じていたといわれる。善無畏述・一行記の「大日経疏(しょ)」は、天台法華宗の立場で大日経を解釈して、大日経と法華経の理は同じとしたゆえに、日本の真言宗が大日経第一・華厳経第二・法華経第三と立て、天台法華を大日の三部より劣ると下すことは、この筆授の相承を無視し、背いていることとなり、面授を重んじる真言授受法に悖(もと)るものである。もとより大日経疏も誤りだが、弘法はそれに輪をかけて誤りを広げたわけである。
 四、魯人および五、含光の物語とは、妙楽大師が不空三蔵の嗣法六大弟子の一人、含光(がんこう)と会見した折、西域における仏法弘伝の様子が語られたときのことである。法華文句記巻十には「適(たまたま)、江淮(こうわい)の四十余僧と往きて台山に礼す。因って不空三蔵の門人・含光の勅を奉じ山に在って修造するを見る。云く『不空三蔵と天竺に親しく遊ぶ、彼に僧有って問うて曰く〝大唐に天台の教迹(きょうしゃく)有り、最も邪正(じゃしょう)を簡(えら)び偏円を暁(あきら)むるに湛(た)えたりと。能(よ)く之を訳して将(まさ)に此の土に至らしむ可(べ)けんや〟と』、豈(あに)、中国に法を失い之を四維(しい)に求むるに非ずや。而も此の方に識(し)ること有る者は少なし、魯人(ろひと)の如きのみ。故に、徳に厚く道に向かう者は之を仰がざる莫(な)かれ。敬(つつし)んで願(ねがわ)くは学者・行者は力に随って称讃せよ」とある。この文は、不空の門人・含光が台山(五台山)で修行中に妙楽大師と会見した。その折に含光が、妙楽大師の問いに応じて、西域における仏法弘伝の様子を語った。それによると「(不空と含光が)天竺(インド)を訪問した折、ある天竺の僧が、大唐(中国)には仏法の正邪と偏円を正しく判別した天台大師の教迹(論釈)があるから、それを翻訳して此の土(インド)に伝えてほしい」と頼んだ、という。この含光の話を受けて妙楽大師は、唐の時代においては中国(仏教発祥の中心地・インド)では既に仏教が廃(すた)れ、そのために逆に四維(天地の四隅の意。ここでは唐代の中国)に求めようとしていたのである、と記しているのである。この含光の話は、含光及び不空が、天台大師の法門が真言宗より勝れていることをわきまえていたことを意味する。「魯人の如きのみ」とは、すなわち孔子の故国・魯の国の人々は、彼の偉大さを知らず、尊重しなかった。今、唐において天台大師の偉大さを識(し)る人は少なく、魯人と同じになってしまった、と嘆いたのである。「真言の元祖を魯人と云う」とあるのは、天台大師の偉大さを識(し)らないことについては、唐の人々も真言の元祖等も、同じく魯人である、との意か。(『日蓮大聖人御書講義』第十八巻上(編著者 御書講義録刊行会 発行所 聖教新聞社)大田殿許御書(天台真言勝劣事)第八章講義その他より一部抜粋)

講義
 天台大師が定慧のみで戒を立てなかったのに対し、日本の伝教大師によって法華円頓の戒壇が建立されたことが明かされている。
 本抄では伝教大師に至るまでの日本への仏教伝来の歴史は省略されているが、欽明天皇の時代に百済から釈尊の像・経典・僧尼が日本へ伝えられてから、観勒(かんろく)によって三論宗・成実宗が、道昭によって法相宗・俱舎宗が、審祥によって華厳宗が、鑒真(がんじん)によって律宗がそれぞれ伝えられて、奈良(南都)を中心に弘通されたので南都六宗と呼ばれていた。
 伝教大師は、これら六宗の邪義を打ち破って法華経最勝の正義を宣揚したのみでなく、中国の南岳大師や天台大師も顕さなかった円頓の戒壇を比叡山に建立したのである。
 伝教大師は、法華経の実義によって六宗の邪義を破しただけではなく、法華経の経旨によって梵網経の十重禁戒・四十八軽戒を円頓戒として立て、この大乗戒を授ける場所である円頓戒壇(一乗戒壇)を比叡山に建立したのである。したがって、伝教大師の仏教流布のうえにおける功績は天台大師にも超えるとされている。
 ただし、伝教大師による戒壇の建立も、決して容易にできたのではなかった。伝教大師は延暦二十一年(八〇二年)、高雄山寺において南都六宗・七か寺の諸僧十四人の学匠を相手に、法華経を講じて法華最勝の義を明かし、それに対して善議・勤操をはじめとする諸僧は桓武天皇の命によって謝表を捧げている。
 しかし、伝教大師が法華円頓の大乗戒壇の建立を奏上すると、南都の諸宗は反対を唱えて論争が始まった。護命僧都等七人の反対に対して伝教大師は「顕戒論」三巻をもって破折を加えている。
 結局、伝教大師入滅の七日後にあたる弘仁十三年(八二二年)六月十一日、戒壇建立の勅許が下り、翌十四年四月から授戒が行われ、天長四年(八二七年)に弟子義真によって延暦寺戒壇院が建立されたのである。
 伝教大師が真言の誑惑を知っていたことは、その著・依馮集のなかで「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯し」と述べて、新しく中国から渡ってきた真言宗は善無畏の相承を筆授した一行の大日経疏にも背いていると指摘していることからうかがえる。しかし、それ以上は具体的に真言宗を破折していないので「分明ならず」と仰せられている。
 なお、報恩抄には伝教大師が法華経と大日経との勝劣を明らかにしなかったのは、戒壇建立を第一の目的としていたためだったことなどが明かされている。また、像法の人師では、真言の邪義を破折することは、まことに難解であり、そのゆえに「所詮末法に贈りたもうか」と、それを末法に譲られたのであろうと仰せられている。
         曾谷入道許御書(五網抄)

      第八章 像法時代の中国の弘教を明かす

本文(一〇二九㌻一〇行~一〇二九㌻一八行)
 像法に入つて一千年・月氏の仏法・漢土に渡来するの間・前(さき)四百年には南北の諸師異義蘭菊(らんぎく)にして東西の仏法未だ定まらず、四百年の後五百年の前其の中間一百年の間に南岳(なんがく)天台等漢土に出現して粗(ほぼ)法華の実義を弘宣(ぐせん)したまう然而(されど)円慧(えんね)・円定(えんじょう)に於ては国師たりと雖(いえど)も円頓の戒場未だ之を建立せず故に国を挙(こぞ)つて戒師と仰がず、六百年の已後・法相宗西天より来れり太宗皇帝之を用ゆる故に天台法華宗に帰依するの人漸(ようや)く薄し、茲(ここ)に就いて隙(すき)を得て則天皇后の御宇(ぎょう)に先に破られし華厳亦(また)起つて天台宗に勝れたるの由之を称す、太宗より第八代玄宗皇帝の御宇に真言始めて月氏より来れり所謂(いわゆる)開元四年には善無畏三蔵の大日経・蘇悉地経・開元八年には金剛智・不空の両三蔵の金剛頂経此くの如く三経を天竺より漢土に持ち来り、天台の釈を見聞して智発して釈を作つて大日経と法華経とを一経と為し其の上印・真言を加えて密教と号し之に勝るの由、結句権経を以て実経を下(くだ)す漢土の学者此の事を知らず。

通解
 さて像法に入って千年間、インドの仏法は中国に渡来したが、そのうちはじめの四百年間に、江南江北の諸師のさまざまな義が乱れ、仏法の正邪が定まらなかった。像法に入って四百年から五百年までの百年間に、南岳大師、天台大師が中国に出現され、ほぼ法華経の実義を弘められたのである。しかし、法華円教の智慧と禅定については、国師であったが、法華円頓の戒壇にいたってはいまだこれを建立されず、それゆえに一国を挙げて天台大師を戒師と仰ぐことはなかったのである。
 六百年以後、法相宗がインドから渡来した。太宗皇帝がこれを信じたので、天台法華宗に帰依する人がだんだん少なくなっていった。この隙をついて則天皇后の治世に、先に天台大師に破折されていた華厳宗が再び興隆して、天台宗に勝れている、と言い出したのである。太宗皇帝から第八代の玄宗皇帝の治世に真言宗が初めてインドから渡ってきた。いわゆる開元四年(七一六年)に善無畏三蔵が大日経、蘇悉地経を、開元八年(七二〇年)には金剛智、不空の二人の三蔵が金剛頂経をもたらした。
 こうして彼らは真言三部経をインドから中国にもたらしたのであるが、中国で天台大師の論釈を見て思いつき、大日経は法華経と同じ経であるといい、そのうえに印と真言を加えて密教と呼び、大日経のほうが法華経より勝れているなどという釈をつくって権経をもって実経を下したのである。だが、中国の学者はこのことを知らず信じてしまったのである。

語訳
蘭菊(らんぎく)
 段菊の別称。クマツヅラ科の多年草。夏に小さな花が葉の付け根ごとに密生して段々状になるのでこの名がある。漢名は蘭香草。転じて、ものが群がり並立するさまを譬える。

南岳(なんがく)
(五一五年-五七七年)。南岳大師のこと。中国南北朝時代の僧。天台大師の師。字(あざな)は慧思。姓は李。河南に生まれる。十五歳で出家し、法華経を学んだ。二十歳の時に妙勝定経を読んで感じ、修禅に努め、後に法華三昧を得たという。三十四歳の時、対論した僧に毒を盛られて死に瀕したが、命はとりとめた。その後、多くの禅師を訪ねたり、刺史(しし)に法を説いたりしたが、その間にも悪論師によって毒を盛られた。四十一歳の時に光州の大蘇山に入り、ここで立誓願文の著作や般若経・法華経の書写を行い、また集まり来たった智顗(ちぎ)(天台大師)等の弟子の育成にあたった。陳の光大二年(五六八年)戦乱を避けて南岳に移り、ここに晩年を過ごして大建九年(五七七年)に没した。
〈追記〉
 妙勝定経は最妙勝定経の略称で、禅定のすぐれた功徳、特に滅罪の功について説く。慧思(南岳)は北斉の慧文(えもん)に会見して法華三昧を会得したといわれ、中国天台宗では慧文を初祖、南岳大師慧思を二祖、天台大師智顗を三祖と立てる(竜樹を初祖とし慧文を二祖とする場合もある)。慧思が晩年に拠った南岳は衡山(こうざん)といい五岳の一つとされ、湖南省にある。

天台
(五三八年~五九七年)。天台大師のこと。智者大師ともいう。中国・南北朝から隋代にかけての人で、中国天台宗の事実上の開祖。諱(いみな)は智顗(ちぎ)。字(あざな)は徳安。姓は陳氏。荊州華容県(湖南省)に生まれる。十八歳の時、湘州果願寺の法緒(ほうしょ)について出家し、慧曠(えこう)律師から方等・律蔵を学び、大賢山に入って法華三部経を修学した。陳の天嘉元年(五六〇年)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の法華三大部を完成した。
〈追記〉
 南岳は初めて天台と会った時、「昔日(しゃくにち)、霊山(りょうぜん)に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復(また)来る」(隋天台智者大師別伝)と、その邂逅(かいこう)を喜んだ。南岳は天台に普賢道場を示し、四安楽行を説いた。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏(ごちゅうしょぶつ)、同時讃言(どうじさんごん)、善哉善哉(ぜんざいぜんざい)。善男子(ぜんなんし)。是真精進(ぜしんしょうじん)。是名真法供養如来(ぜみょうしんほうくようにょらい)」(『妙法蓮華経並開結』五八五㌻ 創価学会刊)の句に至って身心豁然(しんじんかつねん)、寂として定に入り、法華三昧を感得したといわれる。これを大蘇開悟(だいそかいご)といい、後に薬王菩薩の後身と称される所以となった。南岳から付属を受け「最後断種の人となるなかれ」との忠告を得て大蘇山を下り、三十二歳(あるいは三十一歳)の時、陳都金陵の瓦官寺に住んで法華経を講説した。宣帝の勅を受け、役人や大衆の前で八年間、法華経、大智度論、次第禅門を講じ名声を得たが、開悟する者が年々減少するのを嘆いて天台山に隠遁を決意した。太建七年(五七五年)天台山(浙江省)に入り、翌年仏隴峰(ぶつろうほう)に修禅寺を創建し、華頂峰で頭陀を行じた。至徳三年(五八五年)陳主の再三の要請で金陵の光宅寺に入り仁王経等を講じ、禎明元年(五八七年)法華文句を講説した。開皇十一年(五九一年)隋の晋王であった楊広(のちの煬帝)に菩薩戒を授け、智者大師の号を受けた。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じたが、間もなく晋王広の請いで揚州に下り、ついで天台山に再入し六十歳で没した。彼の講説は弟子の章安灌頂(かんじょう)によって筆記され、法華三大部などにまとめられた。

円慧(えんね)・円定(えんじょう)
 円教(法華経)において修学すべき三学(戒・定・慧)のうちの定と慧。三学は蔵・通・別・円の各教にあるが、そのうち円教の慧学を円慧といい、定学を円定という。

講義
 像法時代に天台大師出現のあと、真言がいかにして広まったかを明かされている。
 中国に仏教が伝来したのは西暦一世紀半ばからであるが、ふつう、この中国仏教の時代を像法時とされている。
 数百年間に次々と招来されたさまざまな教典を拠りどころにして、南三北七といわれたように、揚子江の南(江南)に三師、北(江北)に七師の仏教家が現れて、それぞれ異なった宗旨を立てていた。
 とくに、仏教の教法のなかで中心となる経典は何かを明かそうとして、それぞれの流派が教相判釈を立てていた。
 しかし、撰時抄に「南三・北七と申して仏法十流にわかれぬ所謂(いわゆる)南には三時・四時・五時・北には五時・半満・四宗・五宗・六宗・二宗の大乗・一音等・各各義を立て辺執(へんしゅう)水火なり、しかれども大綱は一同なり所謂一代聖教の中には華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三なり」(二六一㌻)と述べられているように、南三北七の十流が立てた教判の大綱は華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三というものだった。
 そうした義を破って、法華経第一との釈尊の本意を明らかにしたのが、南岳大師と天台大師だったのである。
 南岳大師慧思(えし)は、慧文(えもん)から観心の大法を伝授され、法華三昧を証得したとされる。天台大師智顗(ちぎ)は大蘇山の南岳大師のもとで修行の末、法華三昧を感得したといわれる。そして南三北七の教判を破って五時八教の教判を立て、法華最勝の義を明らかにした。
 その講説は弟子の灌頂(かんじょう)(章安大師)によって筆記され、法華三大部(法華玄義・法華文句・摩訶止観)などにまとめられている。
 天台大師は、法華経こそ一切経の根本であり、釈尊は法華経を説くために一代の仏教を説いたのであって、一代仏教は法華経から出たものであり、法華経に帰するものであることを悟り、五時八教の教判を立て、法華経の究極の理である一念三千の法門を弘通したのである。
 ただし「然而(されど)円慧(えんね)・円定(えんじょう)に於ては国師たりと雖(いえど)も円頓の戒場未だ之を建立せず故に国を挙(こぞ)つて戒師と仰がず」と述べられているように、天台大師は戒定慧の三学のうち、法華経による「円慧・円定」は摩訶止観で示したが、円戒にあたる「円頓の戒場」は建立しなかった。
 したがって、国主から師と仰がれつつも、国をあげて戒師(得度のときに戒を授ける師)として仰がれることはなかったのである。
 戒定慧の三学は、仏道を修行する者が必ず修学しなければならないもので、戒は禁戒で身口意の三業の悪を止め非を防いで善を修すること、定は禅定で心を一所に定め雑念をはらって安定した境地に立つこと、慧は智慧で煩悩を断じて真理を照らし顕すことをいう。
 天台大師の説いた「摩訶止観」の「止」とは心の散乱を止めることで定にあたり、「観」とは心があらゆる事物の実相を照らして透徹するところの智慧ということで慧にあたり、摩訶止観に説かれる一念三千の法門とそれを悟るための観念観法の修行法が法華経を根本とした慧と定、すなわち「円慧・円定」にあたるのである。
 しかし、法華経を根本とした戒法は打ち立てず、また法華経迹門円頓の戒壇を建立することはなかったのである。
 その後、法相宗が玄奘によって伝えられ、唐の太宗皇帝がこの法相宗を重んじたために天台宗に帰依する者が少なくなり、則天皇后のときには法蔵法師が出て華厳経が法華経に勝れると主張して用いられたため、天台宗は更に衰えた。
 更に、玄宗皇帝の代には真言宗がインドから伝えられ、開元四年に善無畏が大日経と蘇悉地経を伝え、開元八年に金剛智・不空によって金剛頂経が伝えられ、漢訳された。
 そして、天台の一念三千の法門を知って一行に大日経疏を作らせ、大日経と法華経を、元は一経であり一念三千の理は同じであるとし、そのうえに大日経には印と真言があるので勝れるとして、法華経を顕教として下し、真言を密教と号して宣揚したのである。そうしたことを中国の学者は知らないためにだまされて、密教を尊んで法華経を卑しみ、権実雑乱となったのである。
 このように、像法の末には、天台大師の立てた法華経最勝の義が失われて、法相・華厳・真言などの権経・権宗が流布したため、仏教は混乱して中国が乱れたのである。
 

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